『 ホルスの翼 』


31
「メンフィス王といえば、つい即位したばかりの現ファラオの名ではないか。
確か私と同じ年齢…18歳の若きファラオ」
レイアスの言葉に、キャロルは昨夜マイアが自分を宥めるために説明してくれたことを思い出し、改めてその罪の重さに苛まれる。
「そう言えばマイアが言っていたわね。取り乱してしまっていたから忘れていたけど…じゃあ、あばいてしまったお墓の本人の時代に来てしまったのね。
なにか…どうにか罪を償う方法はないかしら」

 罪を償う。キャロルの発した言葉に、ラバルドの頭に新しい考えがひらめく。
(罪を償う…おお、そうか。大神官がすべてをかけて念じる呪詛の力は、もしかすると墓をあばいた者の力を借りて、現世において降りかかる凶事を避けるよう償わせることなのでは?)
 それは今まで考えもしなかった小さな希望であったが、未来から来たという娘の数奇な運命で何かが変えられるかしれぬという閃き。そして昨夜の星の流れ・・・娘の言葉によると、いずれにしろこのままではメンフィス王の命は短い。
ラバルドは小さく芽生えた可能性に、レイアスとメンフィスの未来を託してみようと思った。
 そのためには、この娘にいてもらわねばならぬ。

「残念ながら私には呪いを解く方法はわかりませぬ」
「・・・そうですか」
落胆の表情を浮かべるキャロルを見て、ラバルドは続ける。
「ですが、これから文献などあたって呪詛を解く方法を探してみましょう。
きっと…何か見つかるでしょう」
 (呪詛ならば私が解くことが出来る。しかし、それはいつでも出来ることだ。
何かが起こるまで…そして事の終わりを見定めることが出来れば、そう、その時には私の神力を使い果たしてもよい。それまで時を稼ごう)


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小さな顔に悲しげな表情を浮かべるキャロルを心底哀れに思いながら、レイアスはラバルドの答えに安堵している自分を知った。
 キャロルの不安は誰よりもよくわかる。
 だが・・・もっとキャロルと話してみたい。もっとキャロルのことが知りたい説明のつかない想いが、自分の思考を支配してしまう。

「キャロル…残念だったな」
キャロルは慌てて笑顔をつくって、横に座っていたレイアスを見上げる。
「ううん、覚悟していたことだもの。罪の報いだわ」
「だが、ラバルドも呪いを解く方法を探すと言ってくれているし、私がついている。
昨夜言っただろう?共に考えようと」
いたわりの込められたレイアスの言葉、そして瞳がキャロルの痛んだ心に優しい光を投げかける。
力づけるように肩に置かれた大きな手の熱さ…
「ありがとう。私・・・」
(私・・・。その後に何と続けるつもりだったの?)
思わず口をついて出そうになった思いにキャロルは息を飲む。

「ところでラバルド、方法がわかるまでキャロルをこの家に置いておきたい。いいだろう?」
そう言ってレイアスはキャロルを安心させるように言葉をかける。
「ここでその日を待とう。いいな?」
「そうですな。もうレイアス様の顔を見られてしまったわけですし、キャロル様、あなたの姿もこのエジプトでは目立って仕方がない。幸いこの家は町外れにあります。
レイアス様と同じ生活を送っていれば安全でしょう。私も賛成しますよ」

 2人の言葉にようやくキャロルの顔に本物の笑顔が浮かんだ。
ゆっくりと口の端から笑みが広がり、花が開くように満開となる笑顔。
「本当にこの家においてくださるの!ここを追い出されてしまったら私どうしようかと思って…レイアス、ラバルド神官様、ありがとうございます!」


33
 ラバルドは2人の姿を、そうとは悟られないように注意深く観察していた。
花咲くようなゆっくりとした笑顔を見せるキャロル、そしてその顔がまるで眩しいもののように見ているレイアス。
(これは…もしやレイアス様はこの娘を?)
 レイアスが好意を持っているのはその態度からも明らかに感じられたが、キャロルが見せた物事を冷静に説明する明晰さや、自分を迎え入れた時の優雅な物腰、物怖じしない態度にラバルドも好意をもった。
 
「マイアには私から話しておきましょう」
「ああ、よろしく頼む。私が話したのでは納得してくれそうにないからな」
(納得してくれないって…やっぱり私がいることは迷惑なのかしら)
レイアスの言葉にキャロルは一瞬小さな不安を感じたが、
「ではレイアス様、今日の勉強を始めましょうか」
とのラバルドの言葉に、我を忘れて叫ぶ。
(古代エジプトの神官の知識!私も聞きたい!)
「あのっ、私にも教えて下さい!すごいわ、すごいわ、神官様のお話なんて貴重だわ!」

 今までの態度から一変、子供のように目を輝かして興奮するキャロルに、レイアスもラバルドも思わず笑い声をあげた。
「急にどうしたんだ」
笑いながら話しかけるレイアスに、キャロルは頬を赤く染める。
「ご、ごめんなさい。私、20世紀では古代エジプトのことが大好きで勉強していたから、どんなことでも知りたくて夢中になってしまって…」

 頬を赤らめるキャロルは愛らしく、新しく見せたあけっぴろげで素直な態度もレイアスをさらに魅きつけるものだった。
(なんと愛らしい。光に透けてしまいそうかと思えば、このように生き生きとした表情を見せて)


34
一方、ラバルドもこれは好機だと喜んでいた。
キャロルがもたらすかも知れない運命の力を思えば、少しでも話を聞いておく価値がある。

「かまいませんとも。レイアス様と一緒にここでお教えしましょう」
恥らって俯いていたキャロルは再び興奮して
「本当ですか?ありがとうございます、神官様!」
またもや子供のように他愛無く喜ぶ。
その様子を見てラバルドは探るように続ける。
「…そうそう、代わりといっては何ですが、未来で学んだというエジプトの歴史をご教授願えないものですかな」

「エジプトの歴史…」
ラバルドの言葉に、キャロルは古代に迷い込んできた時からの漠然とした恐れを再び強く感じずにはいられなかった。
(私がここにいるだけで古代の歴史に何らかの変化が起きてしまうのではないかしら。
その上に歴史などを話してしまっては…なんだか怖い)

「ラバルド神官様、私はここへ来てから一つの恐れを抱いています」
キャロルは意を決して話し始めた。
「未来の人間である私が、ここにいることはエジプトの歴史を変えてしまうことにはならないでしょうか?
私は古代エジプトの歴史や文化を素晴らしいと思い、何よりも大切に感じて勉強を続けてきました。
だから…怖いのです。私のせいでもし歴史の流れを変えるようなことがあったら…」

(ほお、この娘はなかなかに思慮深い。歴史を変えるか…)
キャロルのその言葉にラバルドは自分が密かに望んできたことを突きつけられた気がした。
星の流れる時を恐れ、同時に期待しながら待っていたのだ。
自分が大神官の名の下に動かした歴史の流れを、再び変えてくれる何かを。


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「変えて…くれないか」
その時、静かで、それでいて思いつめたようなレイアスの声が響いた。

 ラバルドは自分の思いを見透かされたかと思い、息を詰めてレイアスを見る。
(なぜレイアス様が…いや、レイアス様には何もお教えしていない。
なぜこのようなことをおっしゃられるのか)
キャロルもまた、今まで優しさを響かせていた声の変化に驚いていた。

2人のその表情に気付いたレイアスは、はっと我に返って笑顔を作った。
「いや、なんでもない。ふとそんな気がしただけだ。気にしないでくれ」
人を捉えて放さない、そのしみいるような美しい微笑みに2人はほっとする。

(どうした、レイアス。時を待つと決めたんじゃなかったのか。
なのに思わず口をついて出てしまった。変えてくれ、変えたいと)
 自分の中にまだ潜んでいる葛藤が苦しかった。

「心配するな、キャロル。そなたの存在で変わるほどの歴史なら、元々変わるべきものだったのだ」
気を取り直すようなレイアスの言葉に力を得たラバルドが先を続ける。
「私もそう感じます。呪いの力であなたがここへ来たのだとしたら、それはファラオが呼び寄せたも同じこと。どうぞ、運命のままに」

キャロルは戸惑い、しばし考えた後に頷いた。
古代エジプトを愛し、ファラオに導かれた運命…そのままに。


36
「アメリカへ帰る方法がわからなかったのは残念だが…この家にいられることになってよかった」
マイアへの説明を終えてナスルの神殿へ戻るラバルド後姿を見送りながら、レイアスが話しかける。

「ええ、本当に。あなたには感謝してもしきれないわ。あの・・・私のこと気味が悪くない?」
キャロルはさっきのレイアスの言葉を思い出していた。
 マイアが納得してくれない…それほどに自分は厭わしい存在なのだろうかと。
「なぜそんなこと言う?」
「だって、ラバルド神官様もおっしゃっていたでしょう。
私にはファラオの呪いがかかっているのよ」
レイアスは少し瞼を伏せ、端正な唇を開いた。
「人はその背に何かしら負って生きているものだ。そなたの場合、それが呪詛であっただけのこと」
そう言って日差しを受けて鮮やかに輝く黒曜石の瞳をキャロルに向ける。
「いつか、荷を降ろす時がくる。それまで共に頑張ろう」

 レイアスの瞳と言葉にキャロルは自分の心のすべてが絡め取られそうになり、心臓が激しく鼓動するのを止められない。
(どうしてこんなにドキドキするの。変に思われてしまうわ)
 それでもまだ注がれているレイアスの視線を感じて、息苦しくなってくる。
「ありがとう・・・そ、そう言えば、どうして神官様はこの家までわざわざお越しになるの?」
動揺が声に出ないように平静を装いながら話題を変える。
「もうお年だもの、神殿まで教えていただきに行く方がいいんじゃないかしらと思って…」

レイアスの瞳にほんの少しの翳りが差す。
「それが私の背負っているものなのだ。マイアの耳に入ると悲しませる。夜…庭で話そう」

 キャロルは自分の問いに後悔した。それほどに寂しい声だった。


37
 その夜、マイア達が眠った頃を見計らってキャロルが庭へ出て行くと、すでにレイアスは月を見上げながら立っていた。
 ほぼ満月に近い明るい月光は、レイアスのしなやかで逞しい体の線をくっきりと浮かび上がらせている。
 端正な横顔の中に夜の世界にたった一人だけで生きているような孤高さがあって、キャロルは胸が締めつけられるような気がした。
 この人は寂しいのだろうか・・・そう思わせるほどに一人きりの姿だった。

「レイアス…遅くなってごめんなさい」
その静寂を破るのが怖いような気がして小さな声でおずおずと声をかけると、神の手で作られた彫像が命を吹き込まれたようにゆっくりと振り向く。
「いや、大丈夫だ。私は夜…空が白む頃まで外で過ごすから」
「夜を外で?」
不思議そうに言葉を返すキャロルを見て、レイアスはすべてを話さねばならならいことを改めて感じる。
未だ自分にも説明のつかない不可解な約束を、どう話すことが出来るのか。
だが、ここで一緒に暮らす限りは知っておいてもらわなければならないことだった。

「それを話すために来てもらったのだ。聞いてくれるか」
昼間と同じ寂しげな声音が再びレイアスの口から漏れる。
キャロルは頷きながらレイアスに近寄り、優しくその腕に触れて石のベンチに座るように勧めた。
「ええ。私でよければ・・・あなたのことを聞かせて」

何から話そうかと考えているのか、レイアスは黙したまま高い外壁を見ている。
キャロルもまた口をつぐみ、砂漠を渡る風の音だけがしばらく二人を包んでいた。


38
「私には血を分けた家族がいない」
ようやく切り出された言葉に、キャロルは驚いてレイアスの端正な横顔を見上げる。
「えっ…じゃあ…マイアやアリフは?」
そう言いながら、キャロルはマイアの言葉遣いを思い出した。
(レイアス様…そう、レイアス様って呼んでいたわ)

「マイアは乳母なのだ。アリフはその息子、私にとっては乳兄弟にあたる。
ここはマイアの実家なのだそうだ。
私の両親という人達はテーベにいた貴族で、マイアは侍女として仕えていた。
そして私が生まれたばかりの頃に両親は亡くなり、ちょうどアリフを産んで間もなかったマイアが引き取って育ててくれたのだと聞いている」

 淡々と語るレイアスの表情も声も寂し気ではあるが、渦巻くような感情の波は感じられず、これまでにいかに深く考えてきたかを思わせる。
痛ましい事実にはもちろん、この静かさにこそキャロルは胸を打たれた。
 自分には遠い数千年先の未来とはいえ、このうえなく愛してくれる家族がいる。
 たとえもう会えないとしても、家族の顔やこれまでの思い出は決して消えることなく、また忘れることもない大切なもの。
 けれど、レイアスにはそんな記憶さえないのだ。
 親の顔を知らないとは、なんて寂しいことだろう…
この静かで美しい横顔の下にある悲しみを思って、キャロルは心にしみいるような痛みを感じた。

「私はマイアから十分に愛情を注いでもらった。物心ついた頃にはこの事実を話されたが、アリフと何ら区別のない母親の愛で育ててくれたのだ。
マイアにもアリフにも心から感謝している」
しかしここでレイアスは言いよどみ、鮮やかな瞳に影が落ちる。
「ただ…不可思議な約束を固く守らされている。
私は人に顔を見られるなと言われて育ったのだ」


39
レイアスにかける言葉が見出せず、その横顔をひたすら見つめながら聞いていた
キャロルだったが、思わず問い返さずにはいられなくなる。
「顔を見られてはいけないなんて…そんなこと出来ないわ!無理よ」

レイアスは立ち上がり、すぐ前にそそり立つ外壁を確かめるように叩いた。
「そうだな・・・それゆえ日中、太陽のある間は外出を禁じられている。
家の外へ出られるのは夜だけ、顔を見せても許されるのはマイアとアリフ、ラバルド神官の3人。
夜に遠乗りをするのも、庭に夜出ているのも…つまりそういうことだ。
生まれてから18年、それが私の生活のすべてなのだ」

「そんな…」
先刻の胸を締め付けた寂しげな立ち姿が脳裏に浮かぶ。
レイアスの生い立ちと束縛された生活に怒りにも似た感情がキャロルの胸に突き上げ、
ぽろぽろとこぼれ落ちる涙を止めようがない。
「どうして、どうしてなの?」
外壁にもたれるように立っているレイアスの元へと駆け寄って、その逞しい腕を揺すぶる。
「理由は何なの?あなたはそれに納得して生活しているの?」
レイアスはキャロルの心を安めるように、腕を掴んでいる白い手を優しく自分の手で包んだ。
「理由は何度も聞いたさ…。だが私の問いは皆を苦しめてしまうのだ」
 
 かつて、レイアスはマイアを厳しく問いつめたことがあった。
外出できないことへの不満はもとより、自分が何者であるのかを知りたくて仕方なかった。
しかし、マイアは押し黙ったままでレイアスの顔を見ようとはしない。
今日こそは何が何でも問いただそうと更に追及を続けると、ついには声を殺して咽び泣き始めてしまったのだった。


40
アリフと同様に、いやそれ以上に心を砕き愛情を注いでくれたマイア。
元は貴族仕えの侍女の身であったのに、いまや水汲みなど下女がするような仕事までして育ててくれている彼女が初めて見せた涙・・・
 それを見た時、レイアスは激しい自己嫌悪にかられて自分の幼さを強く後悔し、もう二度とこのことについて聞くまいと心に決めたのだった。

「自分が何者なのか、何故外出さえできないのか・・・納得のいく答えは見つかっていない。
深く悩んだこともあるし、焦りを感じてもいた。
だが、ようやく気がついたのだ。
覚えているか?昨夜私が言ったことを」
そう問われて、キャロルは昨夜同じ場所で聞いたレイアスの言葉を思い返した。
「・・・理解できないこと、得られない答え・・・でも、その事実を受け止めて、精一杯生きていくこと・・・」
不安に脅えていた自分を救った言葉をキャロルは呟く。

「そうだ。それが私の見つけた答えなのだ。そして、キャロル」
レイアスはキャロルの手に重ねた自らの手の力を強める。
「教えてくれたのはそなただ」
思いがけない言葉に驚いて、キャロルはいかにも信じられないといった風に青い目を見開いて首を振る。
「私は何も・・・」
「そなたは数千年先から来たと言った。
私はそのあまり時の流れの大きさに圧倒されて・・・そして気付いたのだ」

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