『 ホルスの翼 』 21 キャロルの青い瞳に吸い込まれそうになりながらも、レイアスは彼女の話を理解しようとラバルド神官をも驚かす知力をもって聞いていた。 何もかも俄かには理解しがたい話ばかりだったが、キャロルの言葉から感じられる真剣な響きは全面的に信じさせるだけの力を持っていた。 見ればキャロルは唇を噛みしめ、小さく震えている。 たった一人ここに来たことにとてつもない不安を感じて、必死にその恐怖と戦っているのだろう。 (信じるということを伝えてやらねば。おそらくそれが救いにもなるのだ) 天性ともいえる、人の心を掴んでやまない繊細な感性がそう告げる。 そして、同時に自分の身の上とも重ね合わせる。 自分がここにいる理由。ここで課せられた生活。 少女の言葉で目の前に茫洋とあらわれた悠久の時の流れ・・・。 「そなたの話、すべて信じよう」 真剣なレイアスの声がキャロルを驚かす。 「こんなことを信じてくれるの?理解してくれたの?」 縋りつくようなキャロルの瞳に、ますますレイアスの声と表情は真剣さを増した。 「完全に理解したとは…残念ながら言えない」 正直なレイアスの答えにキャロルの顔にわずかな落胆の色が浮かぶ。 「だが理解できなくともよいのではないか」 キャロルにとって思いがけない言葉が続いた。 22 「この世には理解できぬことが他にも多くある。 問うても問うても、手に出来ぬ答えもある。 だが、その事実を受け止めて生きていくことも一つの道なのではないか… 大切なのは今を生きることだ。 自分が確かに生きている場所で精一杯の力を尽くすことが、運命に流されずに、いや運命をも乗り越えて行く力を得る唯一の方法なのだ。 そのためにも、わからぬことならわかるまで共に考えよう。 それでも得られぬ答えなら、代わりにここで生きていく力を得ればいい。 キャロル、私はそなたを信じよう」 そう、わからぬことは多くある。 しかし、マイア、ラバルド、アリフから注がれている愛情は疑うべくもない。 彼らが考えて決めたことならば、今は敬意をもってその言葉に従うことが正しいに違いない。 そして、いつか時が来るだろう。 死後の世界で魂は甦っても、この世での命は永遠ではない。 キャロルの言うように、時は未来へ向かって流れている。 時が来れば真実が私を自由にし、自分が何者なのかを告げるのだ。 長い内省を経て辿り着いた晴れ晴れとした結論。 レイアスはようやく自らの道の上にしっかりと立った思いがするのだった。 23 (自分自身でさえ信じられないのに、私を信じると言ってくれる人がいる!) キャロルは思わずレイアスの手を握り締めた。 「ありがとう!ありがとう・・・嬉しいわ・・・」 それまでの不安と緊張がレイアスの言葉に溶かされて、我慢していた涙が再び溢れ出る。 (私もこの人を信じよう。共に考えると、生きよと言ってくれたレイアスを信じるわ。 たとえ現代に帰る方法が見つからないとしても…私には生きる勇気があるもの!) 話した時間はまだわずかだが、その言葉のひとつひとつの重みに彼は心から信じられる人なのだとキャロルは確信できた。 「私も…あなたを信じるわ。どうしたらいいのかわからなくて混乱してしまったけど、 ちゃんと現実を受け入れてみます。本当にありがとう」 青い瞳を覆っていた不安な光が消えて、今や全幅の信頼を込めてレイアスを見つめるキャロル。 (そんな目で見られては、もう口づけ出来ぬではないか) ふと心に浮かんだ思いにレイアスは苦笑した。 (これが物語に読む恋という感情なのか…? いや、キャロルはマイア以外に初めて接した女性だからこのような気持ちにもなるのだろう。 たとえ恋だったとして、時が来るまでは想いを伝えられぬ身の上ではないか) 未来から来たという少女。その存在で、自分を長い内省から目覚めさせてくれたキャロル… 24 「昨夜は混乱して迷惑をかけてしまったけど、朝になったらマイアとアリフにもちゃんとお礼を言わなくてはね」 キャロルの言葉にレイアスは物思いから覚めて空を見上げる。 (東の空が濃い紫に変わり始めている。そろそろ時間だ) 「もう間もなく夜が明ける。朝まで少しでも眠った方がいい。 様々なことがあって…疲れているだろう?」 「ええ、ありがとう。私の寝台の傍にね、マイアがついてくれているの。 眠っていたからこっそり外に出てきてしまったけど、気づかれないうちに戻らなくちゃ」 生来の茶目っ気をのぞかせて、キャロルは悪戯っぽく笑う。 「レイアス、あなたも眠らなくていいの?こんな夜中まで起きていて大丈夫?」 「私もそろそろ家へ入る。それに今日はラバルドが来る日だし・・・」 (そうだ、ラバルド神官なら何か手立てを知っているかもしれぬ) 「ラバルドって?」 「ラバルドは私に勉学を始め様々なことを教えてくれる博識の神官だ。 今日はちょうど家へ来る日なのだ。そなたのことをラバルドに相談してみよう」 ぱっとキャロルの顔が輝く。 「本当?神官なら何か教えてくれるかも知れないわね。絶対会わせて、お願い、レイアス!」 「約束しよう。さあ、家へ入ろう」 希望を見つけ明るい表情になったキャロルを見て、レイアスは小さな痛みを感じる自分に戸惑う。 (アメリカという世界に戻ることができれば、二度と会うことはないのだろうか・・・) そんな気持ちを振り切るように言葉をかける。 「よく眠れ、キャロル」 再び自分に向けられた鮮やかな眼差しに囚われて、キャロルも戸惑う。 (この美しい眼差しを忘れることが出来るかしら・・・) 「おやすみなさい、レイアス」 25 ラバルド神官は数日おきにナスルの神殿からマイアの家へ通っていた。 (早いものだ…。あれからもう18年。ついにメンフィス様の治世が訪れたとは) 共にエジプトの一時代を過ごしたネフェルマアト王は、宰相イムホテップと共に内政に力を注ぎ続けた。 その甲斐あってこの18年で更にエジプトは富み、今や名実共に世界一の強国となっている。 卑劣な暗殺者の手に堕ち毒酒に倒れたと聞いた時には大きな悲しみを感じたものだが、星々はファラオが満足して永遠の旅出をしたことを告げていた。 メンフィスという嫡出の王子を得て、思い残すことはなかったのだろう。 ただ一つのことを除いて… つい先日、そのメンフィス王の盛大な即位式が華々しく執り行われた。 テーベから離れたこの小さな村でもその祝賀の興奮は十分に届き、老いも若きも新しいファラオの即位を祝っている。 神官として人々の願いを聞き入れ、小さな神殿で新しい治世の繁栄を祈りながらラバルドはどうしてもあの日を思い出さずにはいられなかった。 自らが分けた2人の運命。今も忘れられぬ自らの言葉。 ―このままでは国が乱れましょう。ファラオよ、王妃よ、ご決断を・・・ 受け入れられたその決断は、ラバルド本人の運命をも変えた。 我が子を手放さなければならない衝撃に耐えていたファラオと王妃に告げることは出来なかったが、 その直後にもう1つの大きな星が流れたのをラバルドは見逃さなかったのだ。 かつて見たことのない大きさの星に、必ずや何事かが起こるとの予感が走る。 26 いつ、どのような事が降りかかるのかまでは大神官の力を持ってしてもわからなかった。 この赤子の命に関わる事なのか、それともエジプトの運命にも関わる事なのか・・・事が起こるときには再び星は流れるであろう。 しかし、流れてから駆けつけてみても遅い。間に合わぬ。 それならば・・・傍で見守っていこうではないか。 使命感と共に自らが運命を告げた赤子への呵責もあったのかもしれない。 大神官の職を辞してナスルへ行きたいとファラオに願い出た時、形ばかりの反対がなされたもののすぐに許しがあった。 それどころか手厚い年金やナスルの古びて荒れていた神殿をすぐさま整え、「私の力が必要になった時に開けよ」と見事に彩色の施された箱をも下賜された。 あの赤子は初めから存在亡き者との約束ゆえ何も言葉はなかったが、出立の挨拶に行った時のファラオの安堵されたような顔…この決断は間違ってはいなかったのだと、ラバルドは安心してナスルへ来ることができたのだった。 その日以来、マイアと共に赤子を…レイアスを見守りながら、ラバルドは星が流れるのを待っていた。 恐れながら、半ばなにかを期待しながら・・・ そして、昨夜ついに星が流れた! (何かが起こる、このエジプトで!) 27 「ラバルド、待っていたぞ」 レイアスは戸口までラバルドを迎え出て、急かすように部屋へと案内する。 「そのように急がれて何かありましたかな」 普段のレイアスには見られない性急さにラバルドの胸は激しく騒ぐ。 「ああ、大ありなんだ。知りたいこと、相談したいことが山ほどある」 「実は昨晩の遠乗りの途中で一人の少女を助けたのだ」 「レイアス様!まさか顔をお見せになったのではありますまいな」 「私が助けたのだ、もちろん見せたとも」 ラバルドの狼狽をよそにレイアスは平然と言う。 「何ということを!あれほど固く・・・」 「説教なら後で聞こう。それに彼女はエジプト人ではない。それどころか…まあ、会えばわかる」 いつもの勉強部屋に2人が入ると、そこにはキャロルが緊張した面持ちで座っていた。 「この方は…」 大神官という立場柄、テーベ時代には多くのエジプト人、そして外国からの賓客に会っているラバルドだが、黄金の髪に白い肌、青い瞳…このような姿の人を見たことはなかった。 (これが、この娘が星を流したのであろうか?) 「キャロルという者だ。キャロル、こちらが昨夜話したラバルド神官だ」 キャロルは立ち上がって優雅に一礼をし、緊張しながらも微笑を見せる。 「はじめてお目にかかります、ラバルド神官様。キャロル・リードと申します」 28 キャロルを凝視するラバルドを見て、レイアスはさもあらんと思う。 自分もまた明るい朝の光でキャロルを見て再び驚いたのだった。 太陽の光を浴びて黄金の髪は命あるもののように輝き、白い肌も青い瞳もその光の中に溶けてしまうように眩しい。 (これほどに美しいとは…) 触れなければ消えていきそうなその姿に、昨夜の戸惑いが再び胸に疼く。 「まずはキャロルの話を聞いてやってくれ。その後ですべてについての判断を仰ぎたい」 レイアスの言葉にラバルドは深く頷き、キャロルの正面に腰掛けた。 「わかりました。私で力になれることならお聞きしましょう。キャロル様、どうぞ」 (さて、どのような話が飛び出すか・・・) ラバルドの落ち着いた態度、深く刻まれたしわの奥に見える理知の潜んだ目に安心したキャロルは、昨夜レイアスに話したことを繰り返し伝えた。 「信じていただけないかも知れませんが、本当に私の身の上に起こったことなんです」 祈るように胸の前で両手を組み合わせて話すキャロル。 (ああ、どうしてラバルド神官様は何も言ってくださらないのかしら。 やっぱり作り話だと笑われてしまうのかしら) 黙して話を聞いていたラバルドは、なにもキャロルの話が信じられないわけではなかった。 レイアスと同様、言葉に潜む真剣な響きにそれが事実であることを感じていた。 それに少女がここへ来た理由として推測した王家の呪い。 呪いによって何が起きても不思議ではない・・・ ここにラバルドがキャロルの話を信じるだけの根拠があった。 29 瞑想していたかのように見えたラバルドがようやく口を開く。 「よくわかりました。あなたの話、私も信じましょう」 思いがけなかった言葉にレイアスとキャロルは顔を見合せる。 「本当に信じていただけるのですか!」 喜びを含んだキャロルを諌めるように、ラバルドはわずかに手を上げて制した。 「信じましょう。なぜなら王家の呪い、それは確かにあるからなのです」 ラバルドは静かに続ける。 「王家…特にファラオの墓を封印する時、時の大神官は死者の眠りを妨げる者がないようにと必ず祈祷をします。同時に神力のほとんどをかけて呪詛をするのです。 この眠りを妨げし者に報いを、と。 それがどのような形で現れるのかはわかりませんが、 おそらく…未来においてファラオの墓を発見したというあなた方の上にその呪いが降りかかったに違いありません」 予期していたとはいえ神官の口から改めて聞かされた呪いの事実に、キャロルは声も出ない。 (呪い・・・本当にあったんだわ・・・なんて罪深いことをしてしまったのかしら。 古代に連れ込まれてしまったのも、この罪の当然の報い・・・) 顔色を失い、言葉もないキャロル。 俯いた横顔は今にも泣きそうにも見える。 その姿があまりに痛々しく、レイアスは黙っていられずに言葉を挟んだ。 「なんとかその呪いを解く方法はないのか?」 「呪いを解く方法ですか・・・」 30 呪いを解く方法はあった。 ファラオの墓にかける呪詛は代々大神官のみに口述で伝えられ、その呪詛を解く方法もまた大神官だけに口述で伝えられていた。 ただ、神力のほとんどをかけて行う呪詛の力は強大で、解くためにはそれ以上の神力が必要とされる。 ラバルドはネフェルマアト王の死に立ち会っていないため解けるだけの力はまだ残っていたが、それを使ってしまえばもう星のお告げを知ることが出来なくなってしまう。 星が流れた今、神力を失うのはあまりにも危険だった。 それにしても、一体どのファラオの墓をあばいたのか興味をひかれてラバルドはキャロルに問う。 「ファラオの墓をあばいたと言われましたな。何という名のファラオなのか知っていますか」 キャロルは俯いたまま、か細い声で答える。 「はい。確か…メンフィス王とカルトゥーシュにありました。まだ18歳ほどの若いファラオで、 暗殺か毒殺によって命を落としたのではないかと言われていました…」 メンフィス王! その言葉にラバルドは確信する。流れた星はやはりこの娘、キャロルを示していたのだ。 メンフィス王の墓をあばいて彼の治世へと迷い込み、そして誰よりも縁の深いレイアスの手によって助けられた・・・間違いはない。 (それではこの娘がレイアス様の、ひいてはメンフィス様の運命も左右するというのか) 事の始まりを肌で感じて、ラバルドは膝の上で拳に力を込めずにはいられなかった。 |