『 ホルスの翼 』


11
 先に茂みに着いたレイアスが馬を降りて近づいてみると、確かに人らしき影が倒れている。
旅の途中で行き倒れた老人だろうかと駆け寄って抱き起こすと、黄金の髪がふわりと手にかかった。
「これは・・・」息を飲むアリフ。
「髪が黄金・・・黄金だ。アリフ、町にはこのような髪をした人がいるのか?」
「いや、見たことも聞いたこともない…」
顔を見ると年の頃は16、7の少女で目も唇も固く閉じ、顔色は月光のせいか妙に白い。
軽く揺すっても目を開ける気配はなく、ぐったりとレイアスの胸にもたれかかっている。

「生きているのか?」
「ああ、体は温かい。それにしてもなぜこんな所に少女が・・・。放ってはおけぬ、連れて帰るぞ」
少女を抱き上げてレイアスがすっくと立ち上がる。
「レイアス!」
「おまえはこのまま捨てておけるのか。朝には盗賊か獣の餌食だ」
「ぐっ」
「急ぎ家へ戻るぞ!」
 いつもレイアスの振る舞いは正しく、物事を決めた時の人を圧するような空気にアリフは逆らえない。
 
 馬をアリフに託し、レイアスは少女を抱き上げて家へと向かう。
少女へ目を向けると真っ先に自分の目を引いた黄金の髪は月光を浴びてますます輝き、ふんわりと手にかかるその感触がかつて知らぬ感情で心をくすぐる。
目は固く閉じられたままだったが、唇は軽く開いてその柔らかさで誘うようにも見えた。
(マイアやアリフ、ラバルド神官とはまるで違う。こっそりと遠くに垣間見る町の人々との姿とも、パピルスに見る絵姿ともまったく違う・・・。美しい・・・)
生まれて初めて触れる少女の柔らかさ、そして想像だにしなかった美しさ。
いつまでもこのまま抱いていたいような誘惑に、レイアスはかられるのだった。


12
「一体この少女はどうされたのです!」
あまりに早い帰りに驚いて出迎えたマイアは、レイアスの胸に抱かれた少女を見てなおさら驚いた。
「それに黄金の髪に白い肌…このような娘は見たことがありませぬ」
(白い肌?おお、なんと白い肌なのだ。月光の下では血の気がないのかと思っていたが、手燭の炎で見れば透き通るように白い)

「ナイルの岸辺の茂みの中に倒れていたのだ。見れば若い娘、放ってはおけぬ」
「それはそうですが…ですが、このような身元も知れぬ娘にお姿を見られるようなことでもあれば」
「あればどうだと言うのだ。マイアのその言葉は聞き飽きた!」
たちまちマイアの目の中に悲しみと苦しみの色が浮かぶ。
「レイアス様、何ということを…何ということを申されます」

 レイアスはいつも自分の中にある苛立ちをマイアに問うて後悔する。
もっと幼い頃、声にならない涙に咽んでいたマイア・・・・
「すまなかった。だが手当てをしてやってはくれぬか。せっかく助けた命だ」
助けた命、という言葉にマイアはびくっとした。助けた命…
「…わかりました。とりあえず水を飲ませてみましょう。アリフ、水を」
「へいへい」
「アリフ、私に貸せ」
 レイアスは水の入った素焼きの杯を受け取り、少女の背中に手を回してわずかに上半身を起こす。
唇に水をあてると、コクッと小さな音が漏れた。
「飲んだぞ」少女の顔から目を離さず声を上げる。
「レイアス様、もう少し飲ませてみてはいかがでしょう」
「そうだな。さあ、娘、もう少し飲んでみるんだ」
再び唇に水をあてると少女はコクリと飲み込み、うっすらと目を開いた。


13
「ようやく気付いたか。そなた・・・」
レイアスはそう言い始めたものの言葉が続かない。
マイアもアリフも同じく目を見開いて少女の姿を見つめている。

「・・・ここは・・・ここはどこ?」
少女の声に我に返ったレイアスだが、その瞳から目を離せない。
「ここはナスルの町外れにある家だ」
「ナスル?ナスルなんて聞いたことがないわ・・・それにあなた達の服装・・・」
「ナスルはテーベの都から下エジプトに向かってかなり離れた場所だ。もしテーベへ旅をしているのならば女の足では何日かかるかわからぬぞ」
少女の小さな白い顔、そして3人の目を吸い込んでいた青い瞳が驚愕が歪む。

「なんですって!テーベってどういうこと、メンフィスという地名じゃないの!?」
「まあまあ、そのように興奮してはなりませぬ」
少女の青い瞳を見た驚きから覚めたマイアは、2人の子供を育てた母親らしい優しさでレイアスに代わって少女の肩を抱いて続ける。
「メンフィスは即位されたばかりの若きファラオの御名ですわ。この服装もエジプトではごく普通のもの。あなたの服装こそ異国のものに見えます」
みるみるうちに少女の瞳に涙が溢れ、
「あああ、どうしよう!私はアメリカ人よ、20世紀の人間なの!ここにいるべき人間じゃないわ!」
両手で顔を覆って泣き叫ぶ。


14
「ア・メ・リ・カ?そんな国は聞いたことがないぞ。20セイキっていうのも意味がわからないな」
アリフの呟きが3人の気持ちを代弁していた。
まるで少女の話が理解出来ず途方に暮れていた3人だったが、とりあえずは嘆き悲しむこの少女の体を休ませてやらねば…

 レイアスは台所へ向かい、棚から美しく彩色された瓶を取ってその中身を少し杯に移した。
「娘よ、これを飲んで落ち着け」
少女は手で顔を覆ったまま泣き続けてマイアの慰めも受け付けず、レイアスの言葉を聞こうともしない。

「これはマイア手製の葡萄酒だ。悲しみには…落ち着きたい時にはよく効く」
マイアもアリフもその言葉に胸を打たれる。レイアスの孤独と悲しみはもしかしたら自分達の想像を越えた痛みをもたらしているのかもしれない。
事情を知らないアリフは横目で母親の顔を見やり、すべてを知るマイアは固く手を握り締める。
(ラバルド大神官様に一度ご相談しなくては・・・)

「そんなに嘆くと体に障る。そなたは道端に倒れていたのだ」
いくら言い募っても泣きやまない少女にレイアスは優しく語りかける。
 自分がいる場所がわからない、少女はそう言った。その気持ちがわかるのだ。
なにゆえ自分はここにいるのか。
それさえわからぬ自分と同じ不安をこの少女もまた感じているに違いない。

「仕方あるまい。マイア、もう1度場所を代われ。私が飲ませよう」
レイアスは少女の肩を抱いていたマイアと入れ代わり、その傍に腰掛けた。


15
 レイアスの優しい声音に少しは不安が和らいだのか、少女の悲しみの表情はいまだ濃いものの涙はおさまりつつある。
「さあ、気持ちがラクになるぞ。一口飲んでみよ」
 強情にも下を向いたまま首を横に振る少女の髪がきらきらと光を反射する。
(なんと強情な。これが私だったらマイアに叱りとばされているぞ、いや、泣かれているな)

 顔を上げない少女を下から覗き込むようにして見ると、少女は驚いて顔を上に向けた。
レイアスはそのタイミングを捉えて青い瞳をしっかりと見つめ、いつもマイア達を丸め込む微笑を投げかける。
 少女は青年の微笑のあまりの美しさに、一瞬自分の置かれた立場を忘れて見とれてしまう。
(女の人?いいえ、違うわ。だけど・・・なんて美しい人・・・)

 少女が自分を見ていること気付いたレイアスは、もう1度軽く微笑んで言った。
「そなたのためだ。許せ」
手に持っていた杯の中の葡萄酒を口に含み、少女の顔の上にかがみこんで柔らかそうな唇に口づける。
(なんと柔らかい…女の唇とはこのように甘いものなのか)
葡萄酒の効果も手伝ってかあまりのその甘さにレイアスは陶然とし、わずかに開いている少女の唇に沿って自分の唇を少し動かす。
まとわりつくようなその柔らかさを感じながら、ようやく少女の口の中に葡萄酒を流し込んだ。
 離れがたい思いで少女から唇を上げると、青い瞳を大きく開いて自分を見ている。
「怒ったか。しかし仕方なかったのだ、そなたが聞き入れぬものだから・・・」

(私、怒らなくちゃいけないのに怒れない。それどころか胸が熱くなったわ・・・なぜ?)
少女は正直に自分の気持ちを伝えようとするが、途端に瞼が重くのしかかって青年の輪郭がぼやけていく。
「わたし・・・お酒・・・飲めないの」
それだけをようやく言うと、眠りの底に沈んでいった。


16
 少女が目を覚ますと家の中はまだ暗かったが、窓から差し込む月の光はとても明るく室内の物陰をはっきりと浮かび上がらせていた。
 自分は寝台に寝かされており、ずっと横についてくれていたのであろうマイアと呼ばれていた女性が同じ部屋の隅で椅子に座ったまま眠っている。

(それでは夢じゃなかったのね。眠って…目覚めてもここは古代エジプト。いくら泣いてもどうすることも出来ないんだわ・・・)
にわかには信じられない現実に耐え切れるかどうか自信はなく、胸には重い痛みがのしかかる。
 それでもこの古代で、見知らぬ自分を心配してそばについていてくれる人がいることに安らぎと救いを覚えた。

(それに、さっきの美しい男の人…)
思い出した途端に頬が赤くなるのが自分でもわかる。
(私ったらなんてことを考えたのかしら。初めて会う、それも古代の人に口づけされて胸が熱くなるなんて)
先ほどの口づけの感触はいまだ生々しく、考えまいと思っても頬に感じた男の息さえ思い出してしまう。
 涙で目が霞みはっきりとは見えなかったが、差し込む光のようだった微笑。
 艶やかな眼差しがしっかりと心に焼きついている。
 肩を抱いてくれた手の力強さ、口づけする時に頬に添えられたなめらかな指・・・
 その瞬間、それまでのどうしようもない悲しみがすっと抜けたのを感じた。
 代わりに胸に流れ込んできた、苦しいほどの熱さ。
(いけないわ、今はこんなこと考えている場合じゃない。何とかして現代に戻る方法を見つけなくちゃ)
火照った頭を夜の外気で冷やそうと、こっそりと寝台を抜けて扉の方へ歩いていった。


17 
その頃、レイアスもまた家の敷地内の庭にある石造りの長椅子に腰掛けて明けていく夜空を仰いでいた。
 レイアスはこの時間を愛している。夜しか外に出ることが許されない身には、外の空気を吸い一人で物思いに耽ることの出来る貴重な時間なのだ。
 いつもならラバルドから学んだ方法で夜空の星を読んだり、自分の生まれやこの先の人生など考えても答えの出ない疑問に身を焦がす。

 しかし今夜は違った。
ナイルの岸辺で見つけたあの少女。誰も見たことがないという黄金の髪、白い肌、青い瞳。
そして今なお唇のうえにまとわりつく、かの少女の柔らかく甘い唇の感触・・・
(もっとも、少女が眠ったあとにアリフにさんざんからかわれたがな)
レイアスは苦笑を漏らす。
 確かに我ながら大胆な行為だった。少女に引っ叩かれても仕方なかったかもしれない。
(だが、あの悲しみを見捨てておけなかったのだ。
それに・・・そう、あの唇に引き寄せられ、触れてみたかった)
 ほんのわずかな時間だった口づけを思い出すと、まだ体が熱くなる。こんな思いは初めてだった。

―ギーッ
扉の開く音にレイアスはさっと体を固くする。
(こんな時間に扉を開けるなんて誰だ?もしや夜盗か?)
身を低くしてそっと扉の方へ近づくと、小さな白い影が辺りをうかがうように顔を出している。
辺りに誰もいないのを見極めたのか、自分のいる庭のほうへ足を向けてきた。
(あの少女ではないか。目覚めたのだな…。)

 レイアスはゆっくりと立ち上がって少女を見つめた。


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「きゃあっ」
突如浮き上がった長い人影に少女は声をあげる。
「驚かなくてもいい、私だ」
そう言いながら安心させるように微笑んで優しい眼差しを投げかけ、
「目覚めたのか?気分はどうだ?」
と、立ちすくんでいる少女のもとへと歩み寄る。

(この人はさっきの…!)
目覚めてから自分を火照らせていた原因の張本人に出会ってしまい、上手く言葉が出ない。
「あ、あの…」
(そうだわ、お礼言わなくちゃ)
「あ、ありがとうございましたっ!」
それまでの戸惑った態度から一転、大きな声で礼を言って深いお辞儀をする少女を見てレイアスは笑い出した。
「ふっ、ははははは」
「うふふふふ」
少女もつられて笑い出し、2人はしばし顔を見合わせて笑う。

一気に打ち解けた雰囲気を互いに感じ、レイアスの
「ここに座って少し話さぬか」
の誘いに素直に応じて2人は石造りの長椅子に並んで座った。
「そう言えばまだ名も聞いていなかったな。私はレイアスだ。そなたは?」
「キャロル。キャロル・リードといいます」
「キャロルか、珍しい響きの名だ」


19 
 力強く清々しさを含んだレイアスの声に自分の名を呼ばれて、キャロルはさっきまでの熱さがまた甦ってくるような気がする。
 どうしても隣に座るレイアスを盗み見ずにはいられず、伏せ気味だった瞼を上げてその姿をそっとうかがった。 

 斜め上から仄かに照らす月に浮かびあがった秀でた額、引き締まった頬は精悍な線を描き、首と筋肉質だがなめらかな肩へと続く。
口元は形良く結ばれ、あの口づけを思い出させ…慌ててキャロルは他に目を向けた。
額から流れて肩に軽くもたれ、そのまま座った腰の辺りまで真っ直ぐに伸びた黒髪。
すらっと伸びた腕も長い足も、鍛えられているのかうっすらと筋肉の形がわかった。
胸には夜でも豪奢な光を放つ黄金の首飾りがきらめいている

そして…1度見ただけで焼きついたレイアスの瞳。もう1度あの眼差しを受けたい。
「レイアス…」
ためらいがちに呼びかけた声に、レイアスは痛いほどまっすぐな視線を向ける。
(こんな美しい瞳をみたことがないわ。宝石のよう・・・)
 鮮やかなその眼差しを受けて、キャロルの心は一瞬甘く揺れる・・・

「アメリカと言ったな」
キャロルははっとして現実、それもいまだ信じられぬ現実を思い出す。
「ええ、私はアメリカ人よ。そこで生まれてそこで育ったの」
どうしたらわかってもらえるだろうと、次に続ける言葉を考えながら答える。
「20セイキの人間だとも言っていたが」
「20世紀は、きっとこの場所から数千年先の世界だわ」

 数千年…その時間の想像もつかない開きにキャロルは気が遠くなる思いがし、レイアスは考えたこともなかったはるか未来に圧倒される気がした。


20
「数千年の先・・・」
 ナイルの増水が始まる日と次に始まる日の間を1年とした古代エジプトにあって、それが数千回も起こった後のこと、いや、はたしてこの先数千回も起こるのかどうかさえ容易に想像できるものではない。
 わずか先の自分の未来さえ見通しのつかない、明日一日をどうして生きるかと自らに問うていたレイアスにとっては尚更である。
「信じられないと思うけど…だって、私だってまだ信じられないことだけど、今わかっていることをすべて話すわ。聞いて」

 キャロルは懸命になって説明した。
今のエジプトでは知られていない遥か遠くの地にあるアメリカ。その間に横たわる遥かな時間。
20世紀ではすでに遺跡となったエジプトが知りたくて、その勉強をしていたこと。
父親が進めていた調査でファラオの墓が発見され、王家の呪いが噂されたこと…

「その呪いで私は古代に連れ込まれたんだわ。そうとしか考えられない…」
 言葉にしたことでますます自分の身に起こった不可思議な出来事がのしかかる。
(泣いてはいけない。泣いたってどうにもならないのよ)
唇を噛みしめて我慢してみても、その震えは隠しようもない。
 (現代に戻る方法といっても、どこから探したらいいのか見当がつかない。これからどうしたらいいの?きっと誰もわかってくれないわ)

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