『 ホルスの翼 』 1 テーベの都、絢爛を誇る王宮の奥まった一角にある王妃の部屋。 時は真夜中。しかし、普段は静かに守られているこの部屋には驚愕の声が響きわたっていた。 「おお、何と言うことだ!」 「まさか、このような・・・」 「これは・・・我がエジプトの運命をも左右する出来事ぞ」 王家の慣習として王妃の出産に立ち会っていたネフェルマアト王、宰相イムホテップ、大神官ラバルドは王妃メディナの寝台を取り囲み、この事態を収めるべく知恵を絞る。 戦に明け暮れ重税で国民を苦しめた前王亡き後、ネフェルマアト王は即位し、新しく宰相となったイムホテップと共に新しい国造りを進めていた。 ナイルの恵みでエジプトの地は十分に潤い、農作物は近年豊作が続いている。国民の評判は芳しくなかったが前王の侵略政策により属国も多くあり、毎年欠かさず献上される多大な貢物でエジプトはかつてないほど潤っていた。 今しばらくは領土を増やす必要はない。これがネフェルマアトとイムホテップとの一致した考えである。 それよりは戦で荒んだ国民の心と生活を豊かにし、エジプトと王家を愛する忠誠心を育てて内からも強国にする。 この考えの元に巧みに内政を進め、見事その政策は成功していた。いまや国民の王家に対する信頼は絶大で、神殿には王家の繁栄を願って国民が連日祈りを捧げに訪れるほどである。 2 その王家の人気の一旦を担うのが王妃メディナの存在でもあった。 古くから続くエジプト貴族の娘で、王妃になる以前からその美しさはつとに評判になっていた。 漆黒の黒髪はさざなみのように腰の辺りまで伸び、冴えたオリーブ色の肌はなめらかで艶やかな輝きを帯びている。 しかし何といっても人の目を引きつけずにおかないのは瞳であった。 まるで鏡のように辺りの光を映し込み、そして放つ黒い黒い瞳。 ネフェルマアト王も一目でこの瞳に捕らわれ、近隣国の王女との縁談を断りメディナを王妃に据えたのだった。 「黒曜石の瞳の王妃」というのがエジプト国民の好む王妃の呼び名となっている。 「この様な例はこのエジプト王家の歴史には起きたことがありませぬ」 その卓越した知識、博学によって広く世界に名を轟かすイムホテップが絞り出すように言う。 (まこと、このようなことは例がない・・・如何にするべきか) 「イムホテップ、そなたでさえ知らぬというか」 ネフェルマアト王は疲れきった王妃の顔を苦渋に満ちた顔で見つめ、 (メディナよ、本来ならばそなたを心から称えねばならぬを・・・許せ) 言葉にならない思いを目に込めて王妃と視線を交わすしかない。 人々の敬愛がやまない黒曜石の瞳も、いまは涙に潤んで弱々しげな光が揺らいでいるだけである。 3 「ラバルドよ、急ぎ星を読め。吉凶いずれかの印は出ておらぬか。この赤子の運命は読めぬか」 さすがの知恵を持ってしても妙案が浮かばないイムホテップが問う。もはや天に頼るしかない。 その権力ゆえに私利私欲に走りがちな歴代の大神官の中にあって、ラバルドは心から国を思い、神官としての偉大な神秘の力を持って国民の信奉を得ていた。 大神官の祈りは太陽神ラーをはじめエジプトを守る神々にあまねく届くと信じられ、実際病に倒れ侍医の手にも負えなかった王妃をその祈りで助けたこともあった。 もちろんネフェルマアト王の信頼もこの上なく篤く、待ちわびられていた王子の誕生の祈祷も叶ったのだった・・・ ネフェルマアト王は内政に力を入れ国を豊かにしたということで内外の評判が高かったが、実際はメディナをすぐに王妃にしたことでもわかるように早計で愛情に流されるところもあり、イムホテップの知恵とラバルドの神力がなくては今のエジプトはなかったと言えた。 ラバルドならば何か救う道を星から読み取ってくれるかも知れぬ。 その場にいる全ての人々は祈るようにラバルドの姿を見つめた。 4 「・・・星が流れておりまする」 中庭に面した露台から夜空を見上げてラバルドが告げる。 「おおお、して、この赤子の運命は!?」 不安におののいて震える王妃の手を、出産の手伝いをしていた女官長ナフテラと女官次長マイアがしっかりと握り締める。 「ここのままで国が乱れましょう。争いが起き、ようやく得た国民の信頼も消えるやもしれませぬ」 絶望にもにた溜息がその場を満たす。 「ならば、やはり決断せねばならぬか・・・」 イムホテップの呟きにネフェルマアトは全てを悟って後ろを向き肩を震わせ、それを見た王妃がたまりかねて叫んだ。 「この子を・・・この子をどうしようというのです!陛下、何とかおっしゃってくださいませ! あああああっ・・・」 「王妃様、そのように嘆かれましてはお体に触ります。どうぞ、どうぞ泣きやまれませ」 疲れ果てた体を折り曲げて号泣する王妃をマイアは懸命になだめながら、 (なんと、なんと非常な運命でございましょう。私も二ヶ月前に我が子を産んだばかり。 王妃様のお気持ちが痛いほどにわかりまする・・・) どうにもならない運命の悪戯に涙を流すしかなかった。 5 「女官次長マイア」 しばらく涙に咽んでいたマイアは、ラバルドから突然に名を呼ばれて顔を上げた。 見れば先ほどまでの驚愕や迷いは消えて、いつもの大神官らしい表情で自分をしっかりと見据えている。 「おまえは最近赤子を生んだと聞いたが」 「は、はい。二ヶ月前に男子を産みましてございます。生まれる前に事故で父親を亡くしましたが、幸い王宮に連れてまいりますと多くの女官達が可愛がってくれますので・・・」 「名は?」 「アリフと名付けました」 この大事に大神官どのはなにゆえ私の子のことなど聞くのだろう。マイアは訳もわからず問われたまま答え続ける。 「乳の出はどうか」 「それはもう、十分に足りておりますが・・・」 「確かおまえはナスルの町の出身であったな」 「はい。テーベの都よりラクダで7日ほどの距離にございます、ナイル河畔の町の出身にございます。とは申しましても地方貴族でございました両親はすでに亡くなり、身寄りとてございませぬ」 「実家はまだ残っているのか」 「私にとりましては思い出の家でありますれば、町の者に管理を頼んでおります。なにぶん、偏屈だった父の好みで町の外れに建っており、管理せねばすぐに荒れ果ててしまいますので・・・」 一瞬、ラバルドの顔が輝く。町の外れ、なんと好都合であろう。 「貴族の家といえば外壁に囲まれているのが常だが、いくら町外れとはいえお前の家も囲んでおろうな」 「それはもう。先程も申し上げましたように父が町の人々と交流を好まない偏屈者でございましたから、並みの貴族の家の外壁よりずっと高くなっております」 ますます好都合である。この命を救うには、他に方法はあるまい。 国民が騒ぎ始めよう。もう時間がない… 「ファラオ、王妃様、お聞きください」 ラバルドはネフェルマアト王と臥せるメディナ王妃に向かって話はじめた。 6 全ての話が終わり、誰もがラバルドの言葉に賛成した。 確かにこれ以上の方法は見当たらず、別の策を練るにはもはや時間がなかった。 「さあ、マイア、早く出立の用意を!」 イムホテップに急かされて立ち上がったマイアの胸に、柔らかく温かなものが託される。 この世に生を受けたばかりの、目も開かぬ小さな命。 硬く握り締められた手にどんな運命を握っているのだろう・・・ 「マイア、ここへ」 寄り添うネフェルマアト王とメディナ王妃がマイアを呼ぶ。 これが最後の別れになると予感しながら。 「これしか方法がないのだ。我が愛しき子よ・・・許せ」 すやすやと眠る赤子の額に手をあて、父親として精一杯の愛情を流し込む王。 「可哀想な私の子・・・どうか許して。母は一生をかけてあなたの幸せを祈っているわ・・・ どうか…どうか幸せに…」 メディナは黒曜石と謳われる瞳からぽろぽろと涙をこばし、それが赤子の頬伝ってマイアの手に流れ落ちる。 (王妃様の涙・・・なんと熱いことでしょう・・・。このマイア、生涯をかけてお守りいたします) 決意を込めて王妃の目を見つめたマイアに、王妃はやはり目で伝え返す。 頼みますよ、と。両親のいないこの子を守ってやってと。 一国の王妃とそれに仕える使用人としてではなく、一人の女と女として交わされた生涯の約束。 それは神に仕える者とて入り込むことの出来ない聖なる瞬間だった。 7 「これを…」 そう言ってメディナは肌身離さず身につけていた黄金の首飾りをはずす。 「これは陛下…ネフェルマアト王から賜ったものです。親のいないこの子に、これが親の形見だと伝えてやって」 見事な輝きを放つ首飾りを赤子の首にかけながら、 「ホルス神の強さとハトホル女神の愛があなたのうえにありますように・・・」と呟いた。 「マイア、早く!もうすぐ祝福の客たちがなだれこんでくる。その前に!」 イムホテップの声に耳をすませば、確かにざわざわと大勢の人々の声が聞こえはじめている。 「では、ファラオ、王妃様、失礼いたします!」 王夫妻を振り返る間もなく、赤子を胸に抱いてマイアは駆け出した・・・ 暗闇にまぎれるように中庭を抜けた頃、奥の宮殿からは祝福の声が上がった。 「ファラオ、おめでとうございます!」 「黒曜石の瞳の王妃に心からの祝福を!」 「王子メンフィス様のご誕生、おめでとうございます!」 どんどん宮殿から離れていくマイアの耳にもはっきりと聞こえる、王子メンフィス誕生を祝う声。 城を抜けると王子誕生の布告が出されたばかりのテーベの都も沸き立っていた。 「これでエジプトも安泰だ」「いやー、めでたいのなんのって」 「メンフィス様、ばんざーい!!」「未来のファラオ、おめでとうございます!」 (これほどに民達が王子の誕生に沸き立っているというのに…。いいえ、いいえ、この命は私が守ってみせる。健やかに、強く、誰よりも愛をそそいで) マイアは立ち止まり、しっかりと胸にかき抱いた赤子の柔らかな頬に口づけた。 これだけの激しい振動にも動じず寝息を立てる赤子にほんの少し微笑みをもらし、暗闇をぬって再び走りはじめた・・・ 8 −ナイル河畔、ナスル− 「おい、アリフ、遠乗りに行くぞ!」 笑いをふくんだ清々しい声が家に響く。 「冗談はよしてくれよ。俺は仕事して帰ってきたばかりなんだぜ」 やはりアリフも笑いながら答えるが、言葉に反して遠乗りの準備を始めていた。 「仕方ないではないか。私は夜しか外出が許されていないんだからな」 責めるとも諦めるともつかぬ口調に、 「レイアス様・・・」とマイアは悲しげに声をかける。 「すまぬ、マイア。冗談だ」 輝くような微笑を作ってマイアの肩を抱いたレイアスだったが、心はいつもの疑問にとらわれていた。 思えば幼い頃から外出することは許されず、時々家に来る物売りの応対をすることさえ出来なかった。 アリフが書記になるための学校に通い始めても自分は家にいたまま。 外に出られなくてもいい、せめて学ばせてくれと懇願すると、町の小さな神殿に住むラバルド老親官が教師として家を訪ねてくるようになったのだった。 アリフが書記官として町の監督官舎で仕事を始めた今になっても、レイアスは家の中でラバルドから学ぶ日々が続いている。 もちろん、博学のラバルドから学ぶ知識は興味深く、広範囲にわたるものだ。 神々の系譜、エジプトの歴史、王宮や神殿などの建築方法、異国の歴史とエジプトとの関係、夜空の星を読む方法・・・こんな片田舎に住む神官がどうしてこれほどの知識をと思うほどだ。 ラバルドが舌を巻くほどの速さでこれらの知識を吸収しながらも、心の片隅にある空虚さは如何かんともし難い。 自身の中にみなぎる力に焦がされるような気さえする。 9 「ほら、レイアス、何考えこんでるんだ。用意が出来だぞ」 物思いから覚めるとアリフが2頭の馬をひいて戸口で待っている。 この馬も疑問のひとつだった。首都テーベならいざしらず、遠く離れた片田舎の町でなぜこんな駿馬が手に入ったのか。 15になったばかりの3年前のある日、ラバルドに習った歴代のファラオの雄々しき姿。 その中にあった馬を駆って敵を攻めるという戦術に興味を引かれた。 「ラバルド神官、都では普通に人々が馬に乗っているのですか?」 「そうですな…昔に比べると交易が進み、また貢物としてエジプトへも多くの馬が入ってきました。兵士たちは乗ることもありますが一般の民にはまだまだ・・・」 ラバルドは何か遠くを見るように目を細めて語る。 「レイアス様は馬に興味がおありかな」 「ああ、乗ってみたい。太陽神ラーが空を軍行されている間は体がなまってならないんだ。夜にでも馬に乗って駆ければ気持ちよいだろうな」 それから数日後、家にはこの馬たちが届けられた・・・ レイアスたちの住む家は元から町の外れに位置するとはいえ、夜中に馬が駆ける蹄の音が響いては大騒ぎになってしまう。 そこで遠乗りする時には、必ず町から離れたナイル河畔の道まで馬をひいて歩いていくのだった。 10 「よし、ここまでくれば大丈夫だろう」 そういい終わらない内にひらりと身軽く馬に飛び乗ったレイアスを見て、アリフは笑いを隠せない。 「レイアス、おまえ相当力が余ってるな」 笑いながらも目はレイアスに釘付けになっている。 すらりと伸びた長い足。長い黒髪は風になびいてしなやかな体にまといつき、影のようにも見える。 日中外に出ないため自分の褐色の肌とは違うオリーブ色の肌が気品を感じさせた。 そして目だ。こんな夜でも月や星の幽かな光をとらえて輝く漆黒の瞳。その目が自分を見て答える。 「当たり前だ。早くしないと置いていくぞ!」 「おいおい、待ってくれよ」 (仕方ないよな。昼間ずっと家の中に居ろだなんて息がつまってしまうだろうに。いったい母さんもラバルド神官様もなぜそんな約束をさせてるんだか) 町に出ればさぞかし人気を集めるだろうレイアスの能力と容姿…もったいない気がしてならない。 「レイアス、準備できだぞ。あの先のシュルムのオアシスまで競走しようか」 「待て」 「今度は何なんだ。急げと言ったり待てと言ったり・・・」 「アリフ、あの茂みに何かいないか?」 馬の背に跨ったレイアスはアリフの準備が整うあいだに何気なくナイルの岸辺を眺めていた。 ナイルの流れに月光が反射して輝くさまは美しく心奪われるものだったが、どうにもその輝きとは違う光が茂みにあるのに気付いたのだった。 「本当だ…。人じゃないか?」 「行くぞ!」 「おい、待てよ。盗賊だったらどうするんだ…って、聞きゃあしないな」 ぶつぶつ言いながらアリフはレイアスの後に続いて茂みに向かった。 |