『 ヒッタイト道中記 』

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「王子――!姫――!ご無事でおられるか?!」
ルカや衛兵が息を切らせて駆けつけた時、王子の天幕を襲った男達は一人残らず無残に斬りつけられ、床をおびただしい血で濡らしていた。もはや微動だにしない。
「これは、お・・・王子お一人で・・・」
「もっ・・・申し訳ございませぬ!!不意を討たれ、王子の護衛ままならず・・・!」
返り血を浴びた端整な顔は何も答えず、忌々しげに剣を地面に投げつけた。
王子の腕の中には、肩から流血し苦しげな呼吸を繰り返すキャロルがいた。
「ルカ、医師を呼べい!湯を沸かし、薬湯の用意をいたせ!」
「そっ・・・それが、医師はこの騒ぎで斬られ、重態にございます」
「なにぃ・・・?!」
やり場の無い怒りに王子の瞳が鈍く光る。
「ならば!!姫の手当ては私がいたす、医薬具をすべて私によこせ!」
「はっ・・・!」
キャロルの身体を慎重に抱き上げた。
王子は振り返り、衛兵を睨みつける。
「そちらは残党どもを捕らえよ!・・・一人とて逃さず私の前に引っ立てい!よいな?!」

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王子は向かいの天幕にキャロルを運び込み、寝台にそっと寝かせた。
キャロルの受けた刀傷は大きなものでこそなかったが、深く達して肩を裂き鮮血を白い肌に滲ませる。
(早く止血をせねば、出血に耐えられまい!)
止血の為に腕を押さえ、強く布で縛るものの、なかなか出血は止まらない。
「お・・・王子・・・」
王子を見上げるキャロルの顔が細かに震える。
「姫、姫・・・どうした? 痛むのか? しっかりいたせ!私がすぐに手当てをしてやろうぞ・・・案ずるな」
「王子・・・怪我をしたの・・・?顔に・・血が・・・こんなに」
キャロルの白い指が力なく王子の頬を撫でる。
王子はその手をきつく握り締め、自分の頬に押し当てた。
「このような時にさえ・・・私の、この私の身を案じるのか・・・おお、姫よ!そなたの為なら命も惜しまぬ私を・・・そなたが身をもって庇うとは・・・。私の為にそなたが傷つこうとは・・・!!何としても・・・何としてもそなたを救おうぞ!」
王子の大きな手が震える。

背後にルカの足音を聞きつけ、王子は振り返る。
「王子、あの者ども、この辺りを荒らしまわる金品目当ての賊のようにございます。我々をヒッタイト王子の一軍とは知らず、通りがかりに襲った様子。残党40名余り全員取り押えましたが・・・いかがいたしますか」
指示を仰ぐルカの頭上で王子の瞳が鋭く冷酷に光る。
「・・・殺せ」
引き攣った口許を怒りに歪め、静かに言い放つ。
「・・・一人残らず皆殺しにいたせ!」

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医療・薬草にも幅広く深い知識を持つ王子は医師のように手際よく処置を行う。
キャロルの身体を優しく起こし、背中に腕を添えて支えた。
「姫、傷口を消毒する。 我慢いたせ・・・少し痛むぞ」
薬湯を浸した布をそっとキャロルの肩に押し当てる。
たちまち苦痛にみちた痛々しい悲鳴が上がり、キャロルの身体が激しく痙攣した。
そのまま意識が遠のき、王子の腕の中に崩れ落ちる。
「おおお・・・変われるものならば私が変わってやろうものを!・・・そなたが苦しむは見るに耐えぬ!!私のために・・・そなたが苦しむのは・・・!」
王子は血が滲むほどに唇を噛みしめた。

キャロルの応急処置を終えると、一軍は日の出を待たずしてこの地を発った。
一刻も早く設備の整った王宮で侍医に診せ、キャロルを静かに療養させねばならない。
ここからハットウシャへの道のりは、身も心も我が物にしたばかりの愛しい姫を胸に抱き、愛の言葉を交しながらの道中になるはずであった。
流れる景色や町並みの様子にキャロルが歓喜するのを、目を細めて見守るはずだった。
しかし、今キャロルは朦朧として王子に抱かれたまま動かない。
キャロルの身体の熱さが、苦しげな呼吸が、王子の心を苛立たせる。
「おお・・・姫よ、何としても・・・何としても持ちこたえよ!そなたに危機あらば、我が命さえ投げ出すも厭わぬというに・・・今、そなたをどうしてやる事もできぬとは!!愛の女神イシュタルよ・・・我に・・・姫にご加護を! 我が愛する妃を守りたまえ!」
王子は腕の中の小さな命がこのまま消えてしまいそうな不安に駆られて、心急くまま馬を激しく打ち、疾風のように走らせるのだった。

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日差しが少し西に傾きかけた頃、城壁に囲まれた王宮へ続く道に轟々しい土煙が舞い上がった。
目指す王宮はもはや遠からずというのに、その一軍は怒涛のように馬を走らせ押し寄せる。
「おお!あれに見えるはイルミズ王子か?」
城門の衛兵が城内に響き渡る大声で叫んだ。
「皆の者―――!!王子のお帰りじゃ!王子が戻られたぞ―――!!」
軋む音を立てて堅牢な門戸が開放される。
轟くような馬蹄の音と土埃をあげ、王子は城門を駆け抜けた。
一斉に衛兵や武官が駆け寄り、王子のエジプト戦での勝利とナイルの姫君奪取の功績を声高に賛嘆した。
しかし美姫を胸に抱き凱旋する英雄の表情はあまりに固く強張り、歓喜して出迎える臣下の者にひと目もくれず、ただ前方を厳しく睨み据える。
人群の中にムーラの姿をいち早く見つけるなり、王子は強引に手綱を引いて馬を停めた。
馬の嘶きと共に、馬上から叩きつけるように怒鳴る。
「ムーラ!私の部屋へ侍医を呼べいっ!!急ぐのだ、一刻も早く!!」
ムーラを始め居並ぶ家臣たちは、王子のただならぬ様子に水を打ったように静かになった。
「お、王子・・・一体どうされたのです?」
「姫が危篤にある!!早う医師をっ!!急がぬかっ!!」
「・・・はっ・・・はい!ただ今!」
冷静沈着な王子らしからぬ荒々しい怒声に驚きながらも、ムーラはすぐさま侍女達に指示を与えて機敏に動く。
ナイルの姫の容態を案じる不安なざわめきが起こるなか、王子は馬上からキャロルを慎重に抱き降ろし、宮殿の中の自分の部屋へと向かった。

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王子は自室の寝台の上にキャロルをそっと寝かせ、血の気が失せた頬を撫でてやる。
もはや王子が触れても、何の反応も返ってはこない。
「姫よ・・・私がわからぬのか?そなたは今、ハットウシャの我が王宮に着いたのだぞ・・・!」
王子はキャロルの衣装の胸元をそっと開いた。
青白いまでの肌の白さが、鮮血の滲む傷跡をいっそう痛々しく見せる。
キャロルの胸元には王子の接吻の跡が所々にまだ色濃く残っていた。
それは否応なしにキャロルとの初夜を王子の胸によみがえらせる。
唇に、指に、腕に、身体中にキャロルの温もりが今も生々しく残っているというのに、キャロルの身体は熱っぽさにも関わらず何と冷たく感じられる事か。
王子はいたたまれぬ思いに目を堅く瞑った。
慌しく侍医達が招致され、息も弱々しく、ぐったりと横たわるキャロルの診察に当たった。

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「応急処置がよろしかったゆえ敗血の心配はございますまい。・・・しかし出血のせいでかなり衰弱しておられます。本来が強壮なお身体ではあられませぬゆえ、絶対安静が必要ですぞ。これから暫くは熱が上がりましょうが・・・ともかく、今宵が峠ですな」
キャロルの肩に包帯を巻き終えた医師が王子を振り返りながら言った。
「姫を失う訳には行かぬ・・・!この姫だけが私の妃だ」
「これほどに王子のお心を奪われたお方、姫君には何とか持ちこたえて頂かねばなりませぬな。私も手を尽くしますゆえ・・・どうか王子、あまりに心労なされますな。王子もさぞお疲れでございましょう、お顔色が優れませぬ。姫君は私どもに任されて、少しお休みになられた方がよろしいぞ」
王子は医師の言葉を厳しい面差しで聞いていたが、静かに首を振った。
「かまわぬ・・・。休んだところで眠れる訳もあるまい。今は姫の側に付いていてやりたい」
キャロルの手を両手で包み込むように握った。
それに応えるかのようにキャロルの唇がかすかに動く。
「お・・・王子・・・おう・・・」
一瞬驚きと喜びが王子の顔に浮かんだが、それは正気無いうわ言とすぐに悟る。
「・・・意識の底で私を呼ぶのか。何としても・・・何に代えても・・・そなたを救ってやろうぞ」

(何という事でしょう・・・積年の想い叶って、今やっと我がヒッタイトへ姫君をお連れになったというのに。王子の胸の内のお喜びはいかばかりかと・・・お戻りを心待ちにしておりましたのに。このように憔悴された王子を見るような事になろうとは・・・)
ムーラは寝台の後ろに侍して目頭を袖で押さえつつ、悲嘆にくれる王子の背中を見守った。

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侍医の所見のとおり、その夜キャロルはの熱は徐々に上がり、苦しげな呼吸を繰り返した。
王子は休息も取らず、キャロルの側に付き添い額に滲む寝汗を拭ってやった。
重たく押し潰されそうに沈んだ空気の中、途切れがちにキャロルの唇は何度も王子の名を呼んだ。
王子も医師もムーラを始めとする侍女達も、固唾を飲んでキャロルの様子を見守る。
誰もが口を固く結び、言葉も交さず、時の経過をひたすらに待っていた。
常夜灯の炎だけがパチパチと乾いた音を立てる。

東の空が明るみ、早朝を告げる小鳥の囀りが聞こえ始めた頃、キャロルの頬にも唇にも紅をさしたような赤味が戻り、小康を得た事を知らせていた。
寝息も安らかで、柔らかく閉じられた瞼にはもう苦しげな表情は見受けられない。
キャロルの熱を計っていた医師の顔に安堵の色が浮かぶ。
「王子、神はあなた様の祈りを聞き入れられたようですぞ。
このご様子なら、後は滋養を取られ、安静にご養生なさればじきにお元気になられましょう。
疲れが色濃く影をおとす琥珀色の瞳が揺れて、わずかに潤んだ。
喉元に熱い塊がこみ上げ、痛い程に胸を締め付ける。
「・・・よくぞ!・・・姫よ・・・!!」
キャロルの頬にかすかに触れる程度に口づける。
(おお・・・我が女神イシュタルよ!御名を讃え、全霊をあげて感謝を捧げん!!)
堅く目を閉じて王子は心からの祈りを唱えた。

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「王子・・・少しご休息下さいませ。姫君にはわたくしが付き添っておりますゆえ・・・」
ムーラがそう進言したが、王子はキャロルの額に手を置いたまま口許だけで微笑した。
「構うな。私ならば大丈夫だ。そちらこそ、お疲れであったな。もう下がっても構わぬぞ、休むがよい」

しかし王子は部屋を下がろうとしたムーラを呼び止めた。
「・・・ムーラ。私は・・・まこと驚いたのだ」
「・・・はい?」
憔悴してもなお凛々しい端整な面差しを、ムーラはまじまじと見つめていた。
あまり感情を外に出すことを好まぬ王子の顔に、押さえきれぬ無量の感慨が溢れて流れているではないか。
「武術も知らぬ・・・剣など持ったためしもないようなこの姫が、だ。荒くれた山賊に・・・刃の前に立ちはだかったのだぞ。女ならば、見ただけで足がすくみ震え上がでるであろうものを。すぐに涙を見せるか弱い姫かと思えば・・・驚く程に強情で・・・時に何をも恐れぬ勇気を見せる。ふふ・・・恐れ入るではないか」
胸に昂ぶる激情に、王子は切なく眉根を寄せる。
「この姫のなすこと全てが私の心を捉えて離さぬのだ。私は・・・姫の為ならば何でもしてやりたいと思う。愛しくて堪らぬ。我が身を持て余す程に・・・な。愛に溺れる愚かな己を止める事もできぬ。ムーラ・・・こんな私はおかしいか?」

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「いいえ!!・・・いいえ、王子!」
毅然と強く答えるムーラから厳しい表情がすっと消え、母親のような慈しみに満ちた微笑が柔らかく覆った。
ムーラは姿勢を正して跪き、合わせた手を床に着けると低頭に申し述べた。
「王家におきましては、ご婚儀さえも政(まつりごと)のひとつというのが常でございます。されど、心より望み望まれ、愛し合って添いとげることが、どの殿方どの女人にとりましても・・・この上なき幸せにございましょう。王子が姫君を何にもまして愛しまれ、姫君もお命賭して王子を愛されるのであれば・・・これ以上のお幸せはございますまい。わたくしは・・・わたくしは、王子、心より嬉しゅうございます!!どうぞ・・・どうぞこの姫君とお幸せにおなりあそばせまし・・・王子」
王子の足許に深く頭を下げるムーラの頬に涙が伝う。
無言のままに王子は頷いた。

隣に控えております、と言い残しムーラや侍医が続きになっている隣の間へ下がった。
二人きりになった爽やかな朝の光さす室内で、王子は椅子に掛けたままキャロルの寝顔を愛しげに眺めていたが、いつしかキャロルの安らかな寝息に誘われ、柔らかな黄金の髪のうねりに顔を伏せるように眠り込んだ。

70
キャロルは夢を見ていた。
心地よい風と光に包まれながら、穏やかな波に抱かれ揺れる不思議な夢。
引いては寄せる小さな波の、柔らかな暖かさが耳元をくすぐる。
キャロルは眩しい光に細く目を開けた。
光を反射して明るくきらめく薄茶色の髪。
長く流れる髪に半ば埋もれるように、愛しい男性の顔はそこにあった。
椅子に腰掛けたままの不自然な姿勢であるというのに、疲れてぐっすりと寝入っているようだ。
ともすれば冷徹に見える整った容貌も、寝顔は案外に子供のように邪気なく無防備であった。
王子の暖かな寝息がキャロルの耳たぶにかかる。
キャロルは心地よいくすぐったさに、思わずクスクスと笑いを漏らした。
長い睫毛が瞬いて、琥珀色の瞳がキャロルを捉えた。
触れんばかりの距離にキャロルの白い顔を感じて、王子は慌てて顔を上げた。
「姫・・・!!気づいたか!」
キャロルは身体を起こそうと肘をついたが、肩にするどい痛みが走って思わず声をあげた。
「あっ・・・痛っ・・・!」
「おお、まだ起き上がってはならぬ!
やっと熱が下がったばかり、無理はできぬぞ。
まだ痛むであろうが?」
諌めるような厳しい口調ではあったが、キャロルを寝かしつける王子の手はこの上なく優しかった。
王子は言葉を失ったかのように何も言わず、ただキャロルを見つめた。

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