『 ヒッタイト道中記 』

41
ルカの報告を満足そうに受けた後王子はルカに向き直り、声を落として言った。
「ルカよ・・・」
ルカが顔を上げる。
「メンフィス王は姫を一度たりとも、ものにできなかったのか?」
「王子・・・。
このような事を王子に申し上げてよいのか・・・。
メンフィス王はそれはひどいご執着で、実は何度か・・・王の意に沿わぬ姫を力ずくで得ようとされた事もございました」
「なに?!」
王子は思わずカッとなり怒鳴りつけるような声を発した。
ルカは首を横に振って話を続ける。
「しかし姫はその度に奪った短刀でご自身を刺そうとされたり、舌を噛み切ろうとされたり・・・。
さすがのメンフィス王も自害されては大事と随分手を焼かれていたようでございます」
「ふむ・・・・・」
そう言ったきり、王子は腕を組んで黙り込んでしまった。
(なるほど、沿わぬ相手ならばエジプトの王であれ絶対に拒絶すると言うのか。
しかし私の前では・・・そのような事は一度たりとも無かったぞ)

42
「王子・・・、ナイルの姫をお疑いですか?
ならば私は申し上げます。姫君は命をかけてご自身の純潔を守られました。決して・・・」
「わかっておる。
なにせ・・・姫はいまだ生娘ぞ!」
「・・・王子?」
ルカは正直なところかなり驚きながら、苦々しい笑みを浮かべる主君の顔を見上げた。
「ふふ・・・そなたは私を笑うか?
この私とて、いまだあの姫に手をつけられず指を咥えて見ているのだ!」
杏の木の幹に拳を叩きつけ、自虐気味に王子は言い捨てる。
「信じられぬといった目だな?
・・・そうだろう、私も初めてなのだ。私に靡かぬ女など・・・!
あの姫はな・・・私がヒッタイトの王子である事にも、煌びやかな宝玉にもさして興味はないらしい。
・・・まったく手に負えぬ娘よ。
そなたには引き続き、姫の警護を命ずる。
手強い姫ゆえ、心してかかるように」
「・・・かしこまりました」
再びキャロルの身辺警護ができる喜びを胸に、ルカは深々と頭を下げた。

43
キャロルは今日の夜営地へと向かうため、再び王子と馬上にあった。
王子は鞍の前にキャロルを乗せ、揺れから守るように身体を抱いてはくれたが、甘い瞳で見つめたりからかいの言葉をかけたりする事はなかった。
いつもと勝手の違う王子の様子にキャロルは戸惑いを隠せない。
王子の胸の内にいるというのに、妙な居心地の悪さを感じてキャロルは話を切り出した。
「王子・・・あの、さっきはごめんなさい。
わたし上手く言えないんだけれど・・・」
キャロルが言い終わらぬうちに王子の言葉が遮った。
「そなたが謝る事など何もなかろう。
それよりも明日はいよいよハットウシャ入りするゆえ、ゆっくりと休むが良い。
そなたも長旅に疲れておろうからな。
何ならここで寝入ってもかまわぬぞ、着いたら起こしてやろう。」
せっかく自分の方から糸口を引き出したつもりだったのに、あっさりと手折られてしまった。
王子の態度はあくまでも冷静で大人、そして紳士的だった。
(王子・・・、もう私に興味なんて無くなったの?)
見知らぬ土地へ投げ出された子供のように、キャロルは突然心細くて泣きたい気持ちになった。
キャロルは仕方なく王子の胸で寝たふりをしてみたが、目じりからじわりと涙が伝い落ちるのだった。

44
荒野に陽が落ちて、夜のとばりが幕を下ろす。
雲のない夜の空には黄金色の満月が地を照らすように輝いている。
兵士達は篝火を焚き、天幕を張りめぐらせ荒野で夜を過ごす準備を手際よくすすめていた。
王子は明日にハットウシャ入りを控えて、兵士達の報告を受けたり指示を出すのに慌しい。
しかし忙しいという理由だけでなく、王子が自分に不自然な距離を保っている事がキャロルには気がかりで仕方がない。
今までならば、どれほど忙しく立ち回ろうとも隙を見つけてはキャロルに構おうとする王子であった。
馴れ馴れしく恋の戯れを仕掛けてくる素振りは今の王子からは全く感じられない。
上辺は物言いも優しく穏やかであるのだが、まるで客人をもてなすかのごとく扱い、何かにつけ他人行儀なのだ。
どこなく寂しげなキャロルを察したルカが、さり気なく気遣ってくれるのがキャロルには嬉しかった。
他愛もない話に興じてキャロルの気を紛らわしてくれる。
しかしそれでも、王子の関心が自分に向けられていないと、キャロルには何もかもが色を失くしたように感じられるのだった。
王子が側にいるだけで心が舞い上がり、見つめられるだけで痛いほど胸が高鳴ったのに・・・。
ずっと王子から逃れようとしていたのは、ずっと王子を恐れていたのは、実は恋の息苦しさから逃れようとしていたのかもしれないとキャロルは思った。

45
「さぁナイルの姫、夕食のご用意が整いました。
どうぞ、こちらの天幕へ・・・」
ルカに促されるがまま、キャロルはしずしずと王子の天幕に足を踏み入れる。
「じきに王子はお見えになると思います・・・しばらくお待ちを」
キャロルは天幕の中でひとり残され、落ちつかずそわそわしながら王子が来るのを待った。
何気に天幕の奥を覗き込んだキャロルの目は、整えられた寝台に釘づけになる。
王子に愛された夜の幻影がまぶたに色濃くよぎる。

・・・片肘ついて側に横たわる王子・・・逞しい裸の胸に艶やかな薄茶色の髪をさらりと流し、その手はいとも優しくキャロルを愛撫する。
・・・耳もとで囁く低くかすれた王子の声、甘い吐息。
・・・王子の熱っぽい肌が触れ、その唇が身体を這う。
・・・妖しいまでの色香と魅惑に満ちた琥珀色の瞳。

身体の芯が甘く疼いて、ぶるっと身震いする。
もう少しで声が漏れそうになり、思わず自分の身体を腕で抱きしめた。
ドキドキ強く脈打つ鼓動を感じる。
王子が現われるのを緊張しながら、今か今かと待っている自分にキャロルは今更ながら驚いた。
(やだ・・・わたしってば何考えてるの!!)
キャロルは自分自身に赤面し、頬を両手で押さえたまま立ち尽くす。

46
「・・・何をしておるのだ」
不意に響く声にキャロルは飛び上がらんばかりに驚いた。
振り返ると、天幕の入り口には長身の人影。
「きゃぁ!!おっ・・・王子っ!!」
天幕の柱に背を持たせ、腕を組みながら斜めに構えてこちらを見つめる王子がいた。
王子は体躯を起こすと、つかつかとキャロルに歩み寄る。
「・・・見ておれば、ひとり赤くなったり驚いたり」
無表情にそう言ってキャロルの横に座り込んだ。
王子に促され、キャロルはその大きな身体の隣に腰を下ろした。
無言のまま琥珀色の瞳はキャロルの火照った顔をじっと見下ろしている。
「お・・・王子?」
キャロルは口づけの予感に胸を高鳴らせながらゆっくりと瞳を閉じた。
しかし・・・王子はキャロルを抱きしめることも唇を重ねることもなく視線を脇に逸らすと、優雅な手つきで杯に葡萄酒を満たした。
「首都ハットウシャへの道のりもあとわずか。
この地はすでに我がヒッタイト王国の領地内であるからな。
明日の夕刻には王宮へ着くであろう」
もの憂げで寡黙に語る王子には一種の近寄りがたさがあった。
楽しげに色めいた軽口をとばす王子とは全く異なる冷ややかな威厳ある空気を纏っている。
何を話せばよいのかさえわからず、キャロルは口にする物もろくに喉を通らぬ気がした。
(王子・・・、今何を思っているの・・・?)
しなやかな長い指が杯を口もとへ運び、葡萄酒が王子の唇と喉を経て飲み下される様をキャロルは見つめる。
しかし端正な横顔からその心情を読み取る事はできなかった。

47
食事を終え他愛無い話を言葉少なにキャロルと交わした後、王子は天幕の外に控えるルカを呼んだ。
「ルカ、食事は済んだ。姫を向いの天幕へ案内いたせ。
明日は朝陽と共にここを出立する。
姫、そなたも今宵は早く休息いたすよう。
頼んだぞ、ルカ」
「はい」
ルカの返事も終わらぬうちに王子は踵を返し、葡萄酒の杯を持ったまま天幕の奥の寝台に身を横たえる。
杯を傾けたままキャロルを振り返りもしない。
自然とわだかまりは解消されると思っていたキャロルには、王子の素気なさは冷水を浴びせられたように感じられた。

48
キャロルの去った天幕の中、王子は寝台に伏しながら苦い思いを噛みしめていた。
杯を持った腕を床に投げ出し、気だるそうに苦悩に満ちた溜め息をつく。
めったな酒量では酔わぬ王子であったが、苛立ちと脳裏に焼きつくキャロルの姿がやけに酒の回りを早くさせる。
しかしどれほどに酒を浴びようと、キャロルの面影は胸中から消えることは無い。

愛しくてたまらぬ姫。
何に代えても手に入れたいと願った姫。

人一倍自尊心の強い王子が自らの誇りを打ち捨ててまで愛を乞うたその娘は、
王子を受け入れるかのように甘やかに口づけを返しておきながら最後の最後に首を横に振ったのだ。
(解せぬ・・・私を愚弄しておるのか?
もはや落城しかけておるくせに・・・なんと・・・なんと強情な)
愛しさあり余るゆえに口惜しく、許しがたく、憎らしい。
この上ない屈辱を味わされたというのに、なおもキャロルを愛しく思ってしまう自分自身に王子は甚だ嫌気をさしていた。
(力づくで奪うことや身体をたぶらかし我が物にすることならば、私にはいとも容易い。
だが、私は姫の心が欲しい・・・!
メンフィス王には死をもって抗おうとしたそなたを、私のために純粋な涙を流したそなたを、どうして私に踏みにじることができようか)
道中の馬上で戯れてキャロルに強要して言わせた愛の言葉は、何度思い出しても胸を焦がし締め付ける。
何よりもキャロルからあの言葉が欲しいのだ。
(そなたとて私を求めておるくせに・・・私がそれを知らぬとでも思うのか?
しかし、私にも男の意地があるというもの。
そなたが私を心から欲するその時まで、私はそなたに触れはせぬぞ!!
おお・・・まこと罪深い姫よ!)
恋の業火かあるいは酒のせいか、身体が熱を帯びている。
冷水でも浴びて身体の火照りを冷まさねば、とても寝付けるはずもない。
王子は程なく離れた場所に泉があるのを思い出すと、熱く重い身体を引きずるように起こし天幕を後にした。

49
キャロルの天幕の外でルカは刀を足元に置きながら空を見上げていた。
天幕の中の物音にハッと振り向くと、そこには肩を震わせ白い頬を涙で濡らしたキャロルがいた。
「姫・・・どうされというのです?」
ルカは心配そうに、ただならぬ状況のキャロルを覗き込んだ。
キャロルはただ首を横に振るだけだ。
そんなキャロルをルカは何も聞こうともせず側で見守る。
キャロルはゆっくりと顔を上げ、ルカの誠実そうな茶色の瞳を見た。
「・・・眠れないの・・・目を瞑っても眠れないわ」
「姫・・・」
「ルカ・・・、わたし・・・わたしこんなに王子が好きだったなんて知らなかったの」
ルカの顔に思わず満面の喜びの色が浮かぶ。
「姫! そのお言葉を・・・イズミル王子がどれほどお心待ちにされているか!!
おお・・・なのに、なぜそのように泣かれるのですか?」
「わたし・・・ママや兄さんと王子と・・・どちらも選べないって思ってたの。
どうしていいかわからなくて王子に素直になれなかった・・・。
だけど・・・王子と少し離れてるだけで・・・王子が離れていきそうで・・・苦しい。」
キャロルは涙をぽたぽたと膝元に落とす。
「わたし気づかないうちに王子にとても我がままになってたの・・・。
何があっても側にいてくれるって・・・どこかで思ってた。
でも・・・今日の王子は・・・何だか遠くて・・・よそよそしくて
寂しい・・・胸が痛いわ・・・!!」

50
ルカは優しく頭を振った。
「姫・・・王子のもとへ行かれますか?」
キャロルは真っ赤になってうろたえながらルカを見上げた。
「王子はもっと苦しんでおられます。
随分と長い間、心悩まされておいでだったのですよ。
・・・ふふ、王子ならさきほどお一人で泉のほうへ歩いて行かれました。
行ってみますか?」
「えっ・・・」
キャロルは動揺して返答できずにいる。
優しく微笑むとルカはキャロルに手を差し伸べた。
そしてそっとキャロルを立ち上がらせると先導するように歩き始めた。

真夜中だというのにこうこうとした月明かりに照らされ、夜道は青白く輝いている。
ルカに手を引かれ、キャロルは足元の悪い道を歩んだ。
足がふわふわと浮くようで夢の中を歩いているような感じがする。
この先に王子がいるのだと思うと嬉しいはずなのに何だか少し怖い。

「さぁ、ここから先は姫、あなた様おひとりで・・・」
ルカはそっとキャロルの手を離し、恭しく跪き頭を深く下げた。

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