『 ヒッタイト道中記 』

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王子は若い女の好みそうな煌びやかに光る宝飾品や見るからに豪華な美しい絹布などをキャロルにすすめてみたが、彼女の興味はそちらにはあらず、商人が商いをする様や活気溢れる市場そのものにあった。
先ほどの不機嫌もどこへやら、まるで初めて市に連れてこられた子供のように並べられた品を手に取り、王子に様々な質問を問いかける。
王子の親切な応答と広い知識にキャロルは深く感心するようで、キャロルは王子と連れ立ちありとあらゆる店を回った。
新鮮な果物が並ぶ露店を通り過ぎようとした時、店先の籠を指差してキャロルが問うた。
「王子、あれは・・・杏かしら?」
橙色の小さな果実が艶やかに芳香を漂わせながら籠に盛られている。
キャロルはなぜかその果実の前から離れようとしない。
「そうだな・・・珍しいものでもないが、今が旬であろうな。
杏を食べたいのか?」
珍しく嬉しそうに素直に頷くキャロルに、王子は半ば呆れたように片手を額に当てると片目だけを細めて苦笑した。
「まったく・・・この私に何をねだるのかと思えば・・・。
宝玉でも絹でもなく、ただの杏とはな!
ふふ・・・まったくそなたは・・・
まぁ、よい。美味そうではないか。」
王子は杏を一山を買い求め、キャロルに与えた。
少し歩き疲れた二人は、人ごみから離れた木陰に腰を下ろした。

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白く細い指で杏を取り上げると目の前にかざし、その甘酸っぱい果実を見つめる。
「杏・・・懐かしい」
キャロルはアメリカの生まれ育った家の庭に杏の木があったのを思い出していた。
「・・・・わたしの生まれた家で、それはたくさんの杏が採れたのよ。
ママとばぁやが二人で作ってくれるジャムは最高においしかったわ・・・甘いものが苦手な兄さん達もそれだけは好きだったの」
カリッとその果実を噛むと、懐かしい甘さが口中に広がった。
不意に幼い頃の記憶が色鮮やかに脳裏によみがえり、キャロルは時のかなたにある家族を偲んだ。
距離ではない遠さの先にある母や兄達の顔を。
「でも・・・
もう・・・私、ママや兄さん達に会えないかもしれない。
どうやったら戻れるのか・・・わからないもの。」
遥か遠くを見つめる碧い瞳がじわりと濡れてくるのを見守っていた王子は、大きな手でキャロルの頭をそっと優しく撫でた。
「・・・寂しいのか?」
その慈愛に満ちた声に目を上げると、王子は心配そうにじっとキャロルのベールの奥の瞳を見つめていた。
いつもの傲慢さや威圧感、キャロルを惑わせる甘い色香はそこには無かった。
王子の少し翳りのある瞳もキャロルと同様に寂しい色を宿しているように見える。
「そなたには私がついておろうが・・・」
キャロルは精一杯に涙を止めようとしていた。
しかし王子が泣く子をあやすかのようにそっと抱きしめた時、その広い胸の暖かさは例えようもなくキャロルを安堵させ、堰を切ったように涙が溢れた。
「たまには気をゆるめて存分に泣くがよい・・・そなたの涙が止まるまでこうしていよう」
小さく震える背中を王子の手はいたわるように優しく撫でた。
キャロルは溢れて止まらぬ涙でベールや王子の衣装を濡らした。
王子はキャロルに何を言うでもなく、何をするでもなく、ただ腕の中にキャロルを抱きしめた。
この世のすべてのものから庇うかのように・・・。

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どのくらいの時間そうしていたのだろうか。
気がつけば涙も嗚咽も消え去り、キャロルは王子の腕と胸の心地よさにただ身を任せていた。
そこは陽だまりのように暖かく、深い海の底のように静かで安らかな場所だった。
今キャロルの心は穏やかに落ち着き、なぜ突然あんなに激しく泣いてしまったのか自分でも首を傾げる思いだった。
キャロルは不意に、王子の様子が気になり顔を上げた。
王子の手はまだ背中にそっと置かれていたが、瞳はキャロルの肩を越えてもっと遠くを見つめている。
彫りの深い顔立ちがまぶたに翳りを落とし琥珀の瞳を冷たく暗く彩る。
神々しささえ感じさせる憂いを帯びたその横顔は、キャロルに気安く声をかけるのを躊躇させた。
王子の手が二度ほど軽く背中を叩いた。
「・・・落ち着いたようだな」
キャロルに視線を戻しながら王子は言葉を漏らす。
「そなたのように・・・誰かを想いそのように泣けるとは、あるいは幸せな事かもしれぬと考えていたのだ」
王子の腕がキャロルの背中を引き寄せた。
物寂しげに深く響く声に、キャロルは孤高な王子の心の中をかいま見たような気がした。
「王子にも愛する家族がいるでしょう?」
キャロルは他愛なく聞いたつもりだったが、王子は口許だけで自嘲的に笑った。
「そうだな、もちろん私なりに愛してはいるが・・・
だが、王族にとって血の繋がりは時として何よりも汚いものになり得る。
血を分けた者同士であるがゆえに対峙せねばならぬ事もな」

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キャロルは親兄弟であれ王座を奪い合い血で血を洗う殺戮の中、長い歴史が重ねられてきた事実を思い出しゾッとした。
目の前の男は生まれ出でてよりそのような陰謀の渦中で生きてきたのだと悟った。
家族に溺愛され育ったキャロルにはとうてい理解できない暗い業を胸に秘め、重い宿命をその背に背負って生きている。
王子はキャロルの髪に顔を埋めると、さらに強くキャロルを抱きしめた。
「私が無償で愛することができるのは・・・天にも地にもそなたひとり・・・そなただけだ」
痛い程にきつく抱きしめる腕よりも、王子の心にある孤独さがキャロルの胸を締め付ける。
気がつくと涙が頬を流れていた。
王子は雫を指でぬぐうと、少し訝しげにキャロルを見つめる。
「・・・なぜに泣く?
そなたの心が読めぬ」
キャロルはなぜ泣いているのか自分でも分からない。
悲しいわけでも辛いわけでもない。
「何だか・・・王子がとても孤独に思えたの」
ただとりとめなく自分のために流されるその涙を、王子はいかにも愛しげに唇で吸い取った。
王子の指がキャロルのベールをそっと脇へ払い、頬に手を添えキャロルの顔を自分に向ける。
ふっと微笑む王子の琥珀の瞳に再び穏やかで暖かい光が宿りはじめる。
「私は孤独ではない」
力強くそう言った後、王子の唇は自然に引き合うようにキャロルの唇に重なった。
キャロルは初めて王子の口づけを心のままに受け入れた。

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王子は大きな身体で覆いかぶさるとゆっくりとキャロルを押し倒し、ほんのり上気したキャロルの顔をはさみ込むようにして地に両肘をつく。
通りから少し外れた人気のない小道の木陰。
王子の肩越しに高く晴れ渡った空が見える。
音といえば、風が小枝を揺らす音と遠くに聞こえる市のざわめき。
薄茶色の長い髪がはらりと落ちて、キャロルの頬をくすぐった。
逆光の陰になって王子の表情はよく見えないが、苦しげな息遣いをすぐそこに感じる。
切なく「愛している」と囁いては幾度もキャロルの唇を求めた。
唇を拒まずなすがままのキャロルに、王子の接吻は熱を帯びてくる。
キャロルは身体だけでなく心まで蕩けさせ、反抗してみせてももっと大きな懐で包み込んでしまうこの男にどうしても抗うことができない。
大きな波にさらわれた小船のようにキャロルは小さく無力だった。
(わたし、もう・・・!)
背すじを走る甘い痺れに耐えられるよう、キャロルは震える指で王子の厚みのある肩をぎゅっと掴む。
キャロルは無意識のうちに王子に応えて唇を吸っていた。
「・・・姫?!」
王子は嬉しい驚きを隠せずにキャロルを見下ろしたのも束の間、その拙しくも自分を求める仕草に激しく煽り立てられ、逆上したかのように唇を貪る。
キャロルの頭をかき抱くと、雄々しく強張る男のそれをキャロルの腿に押し当てた。
血が沸騰し、全身を鼓動と共に駆け巡る。

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しかし突然、王子は唇をキャロルから離し身体を起こした。
荒い呼吸を沈めるかのように深く息を吸い込み、長い指で乱れた薄茶の髪を荒っぽく掻きあげる。
「くっ・・・、ここが寝所であらば・・・このままそなたのすべてを奪うものを!!」
苦々しく吐き捨てるように唇を歪ませる。
(このような場所でさえ、この私を狂わせおって・・・!
ここまで熱くさせておきながら、何度溜飲を飲ませれば気が済むのか!この姫は・・・!!)
王子は瞳を閉じて額にうっすらにじむ汗を拭いながら、苦笑まじりの長い吐息を漏らした。
「ふふ・・・まったくしてこの身がもたぬ・・・そなた、私を殺す気か」
「王子・・・」
キャロルはまだ甘い抱擁の名残から覚めきらず側に横たわったまま、熱っぽい潤んだ瞳で王子を見上げた。
頬はまだ桜色に染まり、しどけなく濡れた唇からは乱れた吐息が漏れる。
唇はわずかに開き小さな舌先が口づけの続きをねだるかのように見え隠れする。
清純な中に妖艶さを見せるキャロルを見るうちに、静かになりかけた欲望にまた火がつく。
「よさぬか・・・姫。そのような目で見られると・・・もはや自制が効かぬ。
場所もはばからず・・・良いのか?」
キャロルは真っ赤になって慌てて首を横に振った。
王子はふらふらと正気でない様子のキャロルの身体を抱き起こすと、息も止まらんばかりにきつく胸に抱きしめた。
「私はそなたが憎い・・・!これほどまでにこの私に愛させるそなたの罪は重い。
そなたの生涯かけて償わそうぞ!」
「王子・・・」
「わかっておるな・・・そなたは一生涯をかけて私に償うのだ」

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キャロルは切なく愛を求める王子の言葉に大きく頷きたかった。
いつの間にか、恐れていたはずの王子に強く心惹かれている自分に素直になりたかった。
このままこの胸に縋れればどれほど幸せかわからない。
誰よりも深く愛し、甘えさせ、何もかも包んでくれる・・・そして王子が与える甘い快楽。
けれども、王子を選ぶ事はその他のすべてを捨てる事。
キャロルを育て愛してくれた母や兄達は今でも必死の捜索を続けているに違いない。
なのにどうして家族を忘れて恋におぼれる事ができよう。
どちらを選択する事も、捨てる事も今のキャロルにはできない。
キャロルはうつむいたまま、うなだれてと首を横に振った。
「だめ・・・ごめんなさい、王子・・・わたしは・・・」
固まったように反応を返さない王子をキャロルは恐々見上げる。
王子は信じられぬと言いたげな、怒りとも嘆きともつかぬ目でキャロルを見据えていた。
その厳しい表情にキャロルは気持ちが竦むのを覚えた。
複雑で深い痛みが胸を刺す。
(あぁどうしよう、王子を傷つけて怒らせてしまった・・・!
ちがうのに・・・本当はわたし王子が好き、だけど・・・)
乱暴にキャロルを抱き上げると、王子は荒っぽい足取りで来た道へと足を向けた。
いつも甘い口づけと口説を与える唇は、今は頑なに結ばれ何も言葉を紡がない。
キャロルはこんなに王子が側にいるのに、彼の存在をはるか遠く感じられてひたすら不安に駆られた。
そして初めて、どれほど自分も王子を恋しく思っていたのかを思い知るのである。

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王子とキャロルが戻ると、兵士達はすでに食料を調達し終え今日の夜営の地へと向かう準備を整えていた。
しかしその兵士達にまぎれて亜麻色の髪の少年がいるのをキャロルは視界の端に見つけた。
少し寂しげで優しい眼差しのつぶらな茶色の瞳。
まだ少年の名残を残す敏捷そうな細身の身体。
エジプトで王子が起こした混乱のさなか、別れたきりになっていた召使の少年の名をキャロルは叫んだ。
「・・・ルカ!!」
少年が振り返る。
「ナイルの姫!!」
いつもキャロルを案じ、窮地にはその身を投げ出し庇ってくれた少年。
キャロルは駆け寄りその手を両手で握った。
「ルカ!ルカ!あなた無事だったのね!
どれほど心配したか・・・今までどこにいたのよ?!」
言い終えぬうちに、背後の王子の気配に気づきキャロルは身構える。
キャロルは華奢なその背で少年を庇うと、王子をじっと見据えて言った。
「王子、お願い・・・ルカを殺さないで!
ずっとずっとエジプトではこのルカが護ってくれたの!
いつも命がけで私を守って戦ってくれたの・・お願い・・・お願い・・・どうかルカを助けて!!」
必死で懇願するキャロルに王子は伏目がちに苦笑する。

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しかしキャロルが驚いた事に、ルカは胸の前に手を当てると恭しく王子の前に跪いた。
「イズミル王子、遅ればせながらただ今戻りました。
・・・連絡もままならぬ事多く、誠に申し訳ございませんでした」
瞬きする事すら忘れて立ちつくすキャロルに王子は静かな声で言った。
「ルカはな・・・私がそなたを護衛させるためエジプトに忍ばせておったのだ」
ルカは申し訳なさそうに頭を下げたまま王子の言葉を受け止める。
「すみません、ナイルの姫。
今まで貴女を騙していたような形になってしまって・・・。
私の真の主君はこのイズミル王子にあられます」
キャロルは頭を振って、ルカの肩を抱きしめた。
「いいのよ・・・良かった、良かったわ・・・とても心配したのよ」
キャロルにとってエジプト王宮に仕える者の中でもルカだけは特別だった。
メンフィスとの婚儀を皆のように勧めたりもせず、常にキャロルの心に耳を傾け忠実で誠実でいてくれる信頼できる存在。
そして20世紀の現代からやって来たというキャロルの身の上を、笑いもせずにまともに聞き入れてくれたのもこのルカだけだった。
しかし王子はルカとの再会を喜ぶ暇も充分に与えぬうちに、聞きたい事があると言ってルカと連れ立って去ってしまった。
微笑む事すらせずに行ってしまった王子によそよそしさを感じ、キャロルは胸に隙間風が吹くような不快感を覚えた。
(王子・・・、王子・・・やっぱり怒ってるの・・・?)

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「ご苦労であったな、ルカ。
その後エジプトの情勢はいかに?
メンフィス王は烈火のごとく怒り狂ったのであろうな?」
低頭にものを述べるルカに背を向けたまま、王子は小気味よさげに高らかに笑う。
見上げれば側の大木には杏が実っており、王子はその果実を一つ戯れにもぎ取った。
先ほどのキャロルの涙を思い浮かべながら。
「はい、それはもう・・・。
ヒッタイトに戦を仕掛けると息巻いて軍備を整えている様子にございましたので、軍需品や軍馬などの大部分を王子のご指示のとおり焼き払って参りました。
あれだけの被害を受けた後のこと、しばらくは復旧できぬかと思われます」
「ふふ・・・その間に私は姫との婚儀を完了させる。
ヒッタイトの王子たるこの私の妃となった後は、いかにメンフィス王といえど姫に手出しはさせぬ!
エジプトが戦を仕掛けると言うならば、それもまた良し。
こちらも軍備ぬかりなくして応戦いたそうではないか!
私はナイルの姫もエジプトをも手に入れようぞ!」
「はっ・・・」

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