『 ヒッタイト道中記 』

21
「・・・姫」
耳もとで良く通る低い男の声がささやく。
「うん・・・」
キャロルは夢うつつで寝返りを打とうとしたが、身体を動かせないことに気づき目を覚ました。
「お・・・王子!」
寝返りをうてないはずだ。
キャロルは王子のたくましい腕を枕に、その厚い胸板に顔をうずめるように眠っていた。
王子の腕はキャロルの頭と背中を優しく抱き、大きな体躯ですっぽりと包み込んでいる。
「うらやましい程によく眠るな。
私はそなたのお陰ですっかり寝不足だというのに」
少し動けば触れそうなくらい間近に王子の憂いのある美しい顔があった。
王子はゆっくりと深い琥珀の瞳を閉じ、キャロルに優しく口づける。
さらさらと流れ落ちる王子の艶やかな薄茶色の髪とキャロルの黄金の柔らかな巻き毛が美しい絵織物のように重なり合った。
キャロルは眠りから覚めきらぬままに口づけの甘美さにほだされ、しばらくの間この事態をのみこめずにいた。
しかし今現実に、王子も自分も一糸まとわぬ裸体でこのように抱き合って朝を迎えている。
昨日の夜の出来事も、早朝の出来事もぼんやりした記憶が残るだけ。
不安そうに混乱するキャロルに王子は微笑みかけた。
「安心するがよい、まだそなたを女にはしておらぬ。
そなたは未だ乙女のままだ。
・・・私は女の悦びを少し、愛しいそなたに教えたまで」

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頬を優しく撫でるこの指や額に口づけられるこの唇がキャロルの身体中を愛した感覚を思い出しキャロルは頬を真っ赤に染めた。
「恥ずかしい・・・!」
キャロルはこの上ない恥ずかしさに両手で顔を隠すようにして打ち震えていた。
その様子が少し可愛そうに思えた王子は、床に落とされたままのキャロルの衣装を拾い上げ枕元に置いた。
そっとキャロルの肩に手を置いて優しい口調で言う。
「そのように・・・痛々しいほど恥ずかしがるでない。
私の心が痛むではないか」
相変わらずキャロルは顔を伏せたままだ。
王子は仕方がないな、という風にため息を着くと寝台から降りた。
「さぁ、我々はもうすぐこの地を発たねばならぬ。
そなたを一刻も早くハットウシャへ連れ帰りたいゆえ、ぐずぐずしてはおれぬのだ。
私は外の様子を見回って参る、そなたはその間に身支度を済ませるように」
王子はそう言うと、手際よく身なりを整え天幕から出て行った。
もう少しキャロルの側で睦言でも言いながら戯れていたかったが、しばらく一人にさせ落ち着かせてやろうという配慮であった。

(どんな顔をしてこれから王子に接したらいいの・・・?
私、王子を・・・好きになり始めている?)
一人残された天幕の中、キャロルは衣装を身にまといながら、身体のあちこちに残る王子に愛された跡を指でなぞった。
エジプトにいた頃、強引に求愛してくるメンフィスに無理やり唇を奪われた事は何度かあったが、王子に口づけされた時のように切ない高まりを感じる事は無かった。
ただそこには引き攣るような恐怖を感じただけで、死に物狂いで抵抗したものだった。
男から口づけを受けることがあのように甘く魅惑に満ち五感をとろけさせるものだと、キャロルに教えたのはイズミル王子だけであった。

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エジプトで王子にさらわれた当初は、王子はメンフィスよりも数段恐ろしい存在に感じられた。
メンフィスよりも冷酷で鋭利に光る瞳、何人もあらがう事をゆるさぬ口調、彫像のように冷たく美しい貌や鍛え上げられた鋼の身体、それらのすべてがキャロルを威圧し萎縮させた。
しかし、王子に抱かれ眠る時の心地よさはどうだろう。
王子が身体に触れる時の胸の高鳴りはどうだろう。
あの恐ろしく冷たい翳りのある瞳がキャロルを見つめる時、どれほど甘く優しい光を宿すことか。
ふとキャロルは王子という人間が多くの二面性を持つ事に気づいた。
冷酷さと優しさ、穏やかさの中にある激しさ、そしてキャロルを畏怖させながらも魅惑し惹きつける不思議な何か。
キャロルは混乱した。
(・・・しっかりしなくっちゃ。
自分でしっかり考えなくちゃ。
私は古代の人間じゃないのよ・・・流されちゃだめ。
あぁ、でも・・・王子に触れられたら・・・私、どうしたらいいの?)

王子の一行はハットウシャへと向かう。
馬の上でキャロルを庇うように腕に抱きながら王子は手綱を取る。
さきほどから王子は物思いに耽っているのか、あまりキャロルに話しかけてこない。
妙な沈黙が続くと、キャロルの腰に回されている力強い腕や背後に密着する広い胸の存在を一層に意識させ、昨夜の王子との秘め事を嫌でも思い出させる。
(王子ったらずっと黙ったままだわ。
・・・何か言って、王子。何だか気まずいんだもの)

24
王子は腕の中に小さな身体を抱きながら、キャロルがエジプトで過ごした日々を思い馳せていた。
イズミルはエジプトの王であるメンフィスがいたくキャロルを気に入り、妃にしようとしていた事は良く知っていた。それは諸外国の民でさえ周知の有名すぎる噂であった。
しかしそのような熱愛ぶりにも関わらずメンフィスがこの少女に手をつけずにいた事を、王子はキャロルの身体を改めた時に初めてはっきりと確信を持ったのである。
メンフィスがキャロルを・・・と想像する度に煮えくり返る思いをかき消し、愛する少女を穢れない乙女と信じて疑わぬ王子であったが、キャロルの秘所に乙女の証を見つけた時にすべての杞憂が嘘のように晴れたのだ。
しかしながら、メンフィスが何故キャロルを我が物にしてしまわなかったのかイズミルには不可解でならなかった。
(メンフィスとてこの私と同様、姫を強く欲していたはず。
このかよわい身体で命がけの抵抗をしたのだろうか・・・?
よくぞ・・・あのメンフィスから乙女のまま身を守れたものだ。
奇跡としか思えぬ・・・神がそなたを護りたもうたのか)
王子は心の中で神々に感謝の祈りを一心に捧げていた。
そして腕の中の清らかなる少女を、もっと大切に愛してしてやろうと自分自身に誓うのだった。

「どうした、姫? 疲れたのか?」
王子は腕に抱かれたまま大人しいキャロルを心配そうに覗き込み、優しく問うた。
突然話しかけられ、ドキリとして王子を振り返り見上げる。
「い・・・いいえ、大丈夫。
王子こそ、昨日眠れなかったって言っていたわ。大丈夫なの?」
そう言ってしまった後に王子が眠れなかった原因を思い出し、恥ずかしい事を言ってしまったと後悔した。

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「私を心配するのか?
ならば、眠れぬ事などより私の想いが報われぬ不幸を心配して欲しいものだな。
なぁ・・・愛しい姫よ」
王子は瞳を半ば伏せて、流れるような悩ましい視線でキャロルを見射る。
熱っぽく色香がただようその表情で見つめられるとキャロルはとたんに恥ずかしくなって、身の振り方に困惑した。
視線を脇にそらすのが精一杯だ。
「私がこうして口説いているというのに、私の方を見ようともせぬとは・・・何とつれない娘」
キャロルが恥らう姿はかくも愛らしく、王子は少しからかってやりたい悪戯心をおこす。
キャロルの顔を強引に自分に向き合せ頬を寄せると、少女の頬は火がついたように更に熱くなった。
「おお、真っ赤になりおって・・・可愛いやつ」
「何よっ!・・・王子ってば私が困っているのを見て楽しんで!離してよ、ばかっ、嫌いよ!」
王子の胸を手で叩いて反抗してみせても王子は動じない。
片手だけでいとも簡単にキャロルの両腕を優しく制してしまう。
「まったく・・・この私に向かって嫌いだ馬鹿だとほざく無礼な娘は後にも先にもそなただけぞ!
二度と私にそのような口がきけぬ様、今宵はそなたにきつく仕置きをしてやろう。
眠らせてなどやらぬからな、覚悟をいたせ!」
わざと怒りを帯びた低い声色を作りながら、楽しげに王子は言いつけた。
しかし瞬時に意味を悟ったキャロルは狼狽する。

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「いやよ、そんなの!」
「ならぬ、生意気なそなたには仕置きが必要」
「いやだったら・・・ああん、ごめんなさい王子。もう言わないわ、ね?」
「ふん、詫びるつもりならば・・・私を愛していると申してみよ」
キャロルは王子の突飛な要求にしばし言葉を失う。
(そんなの・・・言えないわ!)
「さぁ、どうなのだ?」
キャロルは恨めしそうに王子を上目遣いで見上げる。
「・・・言ったら許してくれるの?」
王子はそうだな、とでも言うように口端だけで微笑した。
そのような言葉を一度でも口に出せば、心のうちを鋭い王子にすべて読み取られてしまいそうだ。
ためらいながらも胸が痛いほど高鳴り、震える声で呟く。
「じゃぁ・・・あの・・・あ、愛してるわ」
その一瞬、時が止まったかのように王子はその言葉を発するキャロルの愛らしい唇を見つめた。
単に許しを乞うための言葉とは言え、何と甘やかに響くことか。
愛する少女の声で語られるその言葉は王子の心を激しく揺さぶった。
王子の瞳が哀しいほど切なげに揺らぐ。
キャロルの身体を王子の腕は痛いほどに抱きしめた。
「おお・・・そなたを・・・そなたを愛している!」
揺れる馬上で王子に抱かれたまま、キャロルは唇を奪われた。
王子の引き締まった唇の意外な柔らかさに、うっとりと目を閉じるより他になす術がなかった。

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商人が交易し、人々が行きかい賑わう市街地の市場の近くで王子の軍は一旦足を止めた。
食料や需要品の調達のためである。
新鮮な食料や様々な古代の装飾品や雑貨が店先に並ぶ様は、キャロルの好奇心を激しく駆り立てた。
「まぁ、なんて活気に溢れているの!
これが・・・これが古代の市なのね!
ああ、あれは何かしら・・・
ねぇ、王子、私も見に行きたいわ!」
王子は大きな碧い瞳が興奮してクルクルと動く様を少し驚きながら見つめた。
可憐な声で多弁に語りかけ、王子の袖許をしきりと引っ張っている。
子供のようにはしゃぐキャロルの様子は王子を嬉しくさせた。
「・・・ふむ、ならば少し歩いてみるか?
ありとあらゆる物が行き交う場ゆえ、何ぞそなたの気を引くめずらしいものがあるやもしれぬな。
おお、その前に・・・少し待っておれ」
王子は側の兵士に何やら指示を出し、荷駄の中から薄い布のベールを持って来させるとキャロルの元へ戻ってきた。
「黄金の髪はこの人ごみの中で目立ちすぎる・・・
これで覆ってやろう」
そう言って王子は優雅な仕草でキャロルの前に片膝をつくと、キャロルより少し低い目線の高さになった。
まるで王子にかしずかれているようで、面はゆいような妙な気分にさせる。
王子はそんな事は少しも構わぬ様子で、優しい手つきでキャロルの髪を束ねゆるく編んでゆく。
長身である王子の顔はいつも見下ろすようにキャロルの頭上にあるので、このように王子よりも高い位置から王子を見るのは初めてだった。
そしてこのように王子の姿をただ見つめることも。

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明るい茶色の長い髪が風になびいて少し乱れて額や頬にかかる。
美しい線を描く眉に続く、すっと筋の通った上品な鼻梁。
王子の瞳に翳りを落とす睫毛はその髪と同じ艶やかな茶色で、王子が瞬きをする度にゆるやかに揺れる。
まっすぐ見据えられると戸惑ってしまう程に美しいその瞳は、今はキャロルの腰まで届く長い髪に向けられて伏し目がちに下を向いている。
キャロルはそっと盗み見るような気持ちで、睫毛の下に宿る深い琥珀色の宝玉の瞳に見入った。
突然、王子の視線がキャロルを見つめ返した。
「うん・・・どうかしたか?」
キャロルは眩しいほどの力強さを持つ視線にぶつかるとドキリとして慌てて首を横にふった。
「なんだ、おかしな姫だな」
王子はクスッと笑うと、器用な指先で編んだ髪の端を紐で結んだ。
「・・・よし、あとはこのベールを纏えば良い」
立ち上がり羽のように軽やかなベールでキャロルの顔や髪を包んだ。
淡い色のベールの間から碧い瞳だけがのぞき、何やらキャロルを神秘的に見せる。
「ふん・・・まぁまぁの出来ばえだな」
自分の手際にとりあえず満足したように頷いて王子は微笑する。
「では、姫と買い物に参るとするか。」
言い終わらぬうちに、王子の手がキャロルの手を握った。
「王子?!」
その骨ばった大きく温かい手の感触はキャロルを安堵とも高揚ともいえぬ複雑な気分にさせる。
「手を繋いでいてやろう。
そなたが迷子にならぬように・・・な。
そなたの欲しいものは何でも買ってやろう・・・遠慮なく申すがよい」

29
王子に手をひかれ市場に並ぶ品を見に行くなんて、まるで睦まじい恋人同士のようだ。
さきほど馬上でかりそめにも「愛している」などと言ってしまったせいか、いつになく穏やかな笑みを浮かべる王子のせいか、ついつい夢見心地になってしまう。
(だめだめ、王子のペースに乗せられてるわよ!)
キャロルは王子を睨み上げながら、手を振り払おうとした。
「王子、手を離してちょうだい! 私子供じゃないわ」
王子は少し訝しげに強い語調で言い放つキャロルを振り返ったが、精一杯に威勢を張るキャロルを見るとすぐにおどけたように笑った。
「おお、すまぬな。 そなたを子ども扱いしたつもりは無い」
キャロルの手はすぐに開放され、キャロルがほっと安堵の吐息を漏らしたのも束の間。
今度は王子の力強い腕が腰に巻きつくように回された。
「・・・・!!」
その腕がキャロルの身体をグッと引きつけたかと思うと、耳元に王子の唇が寄せられ、吐息まじりに甘く低い声がささやく。
「そうだとも、そなたは私の愛を一身に受ける恋しい姫。
子のように手をひくよりは、このように腕に抱くのがふさわしかろう」
優位に満ちたはしばみ色の瞳がからかう様にベール奥の碧い瞳を一瞥する。
「なっ・・・! ち・・・違うわっ! そういう意味じゃ・・・!」
「これでも不満だと申すのならば、そなたを胸に抱き上げて連れて参ろうぞ」
毅然とした態度で抵抗したつもりだったが、声高らかに笑う王子にキャロルはうなだれた。
王子はいつも言葉巧みにキャロルの防御を封じてしまい、結局は逆に王子の思うつぼである。

30
ただでさえ王子の長身と美貌は人ごみの中でも目立つ。
その王子が、ベールで顔を覆っていても隠す事のできぬたおやかで高貴なただずまいを持つキャロルを連れてこのように身を寄り添わせ歩くのだから、道行く人達の中にはすれ違いざまに仲睦まじすぎる二人に口笛を飛ばすものも数知れずいた。
男女の睦みを盗み見するような好奇の目が痛いほど突き刺ささりキャロルを羞恥させるが、王子は何食わぬ涼しい顔をしている。
時おり魅惑的な瞳で微笑みかけてくるのも、また気に障る。
「もう・・・もうっ!ひどいわ、どこまで私をからかったら気がすむのよ」
まぶたの淵まで真っ赤に紅潮させてキャロルが悔しがると、王子は可笑しくて仕方がないというようにクックッと笑った。

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