『 初恋物語 』

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天幕の中にしつらえた小さな寝所とはいえ、二人で眠るには充分な広さであった。
だが、キャロルは仔猫のように身体を丸めてイズミルに寄り添って眠る。
旅の途中からイズミルの腕の中で眠るようになって数日…ヒッタイトへの旅は、キャロルが誰かの体温を感じて安心しなければ眠れない、そんな過酷な日々だったのだ。

「私はアイシスに嫌われてしまったのかしら?足手まといになったから。」
眠っていると思っていたキャロルが突然口を開いた。
「起きておられたのですか?明日も早いのですからお休みにならなければ…」
「わかっている…でも、アイシスは今まで誰よりも私を可愛がってくれたわ。自分の愛するメンフィスの妃に一緒になろう、って言ってくれたのよ。それなのに…今のアイシスは違う。もしかして…私がメンフィスの妃になりたくない、って言った事を本当は怒っていたのかしら?アイシスの気持ちがわからないわ、イミル。」
小さな肩を震わせてキャロルは嗚咽を漏らした。
「メンフィスの妃になる、と言えばアイシスは私を嫌いにならなかったのかも…」

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(それは違う!アイシスは私に姫を託したのだ!今更あのメンフィスになど…!)
だが、イズミルはそれを口にするわけにはいかない。
「姫、アイシス様は姫の幸せのみ願っております。いえ…私にはそう見えまする。」
「私の幸せ…?」
「姫はアイシス様とそのようなお話をなさったことがございませぬか?」
イズミルの言葉にキャロルはエジプトでの日々を回想した。

(恋をして結ばれたい、という話なら…)

「ねぇ、イミル。この古代では、恋と結婚は違うものなのかしら?」
「は…?」
「誰かに恋をして、愛し合うようになり、いつも一緒にいたいと願って結婚するんだと思っていたし、私もそうしたいとアイシスに言ったの。アイシスはメンフィスを愛しているはずだし、だから結婚を待ち望んでいたわ。でも、古代エジプト王の婚姻は政略のための道具でもあったのよ。アイシスだけは違うと思っていたんだけど。」

イズミルは黙ってキャロルの言葉を聞いていた。
(姫はアイシスの一面しか知らぬ。エジプトの繁栄のためならば、その身すら政略のために使い、相手を拐すような怖ろしき女子よ。確かにメンフィス王を愛しておろうが、先日の砂漠の民を装った男といい、まだまだ謎の多き女王。)
イズミルもまたアイシスの行動や本心を量りかねていた。
(姫を私に嫁がせたい、というその気持ちに嘘はなさそうだが…)

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「聞いているの?イミル。」
キャロルは肘をついて起き上がり、仰向けになっているイズミルの顔を覗き込んだ。
「イミルは恋をしたことがあるの?って何度も聞いているのに、ぼんやりして。」
今、まさに婚姻について思い巡らしていた相手の小さな白い顔が目の前に突然現れ、黄金の髪がハラリとこぼれ、イズミルの心を擽る。

イズミルはこぼれ落ちたキャロルの髪を梳きすかし、耳にかけてやりながら言った。
「私は不粋者ゆえ…ただ、女神イシュタルの祝福を受け、愛しき者をいつも腕に抱き、我が手で守り幸せにしてやりたい、と願っております。」
イズミルはキャロルを自分の胸に引き寄せ、なおも髪をなでながら続ける。
「それが姫のおっしゃる恋というものであるならば…このイミルは…。」

今まではただ心地よく安心できるだけのイズミルの腕や手が、まるで別の生き物に変わってしまったようで、キャロルは戸惑っていた。
(やだ、私ったら、なぜこんなにドキドキしているの。)
「姫…」
イズミルは身体を横向きに起こしキャロルの耳元に口を近づけて囁く。
初めての体験にキャロルは声を出すことすらできない。
(イミル…一体何を…?)

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「ナイルの姫…」
もう一度耳に囁かれてキャロルは身体をピクリと震わせた。
その反応がイズミルを悦ばせもし、また不安にもさせる。

(姫は震えておるのか?姫一人を覆う厚衣を…そして姫の身体を包む衣装をすべて剥ぎ取って、我が肌で直に姫を温めたい…!)
(いや…しかし、姫がここで逃れようとすれば…私は。ああ、なんと切なきこの想いよ!)

「姫…」
イズミルの呼びかけにキャロルが身を震わせる。
「明日の朝も早い…夜は冷えます。
私の厚衣を上からおかけいたしますので、どうか今宵はこのまま…」

声を出せば、身体を動かせば何かが起こってしまいそうな予感に震えながら、キャロルはただじっと、目を堅く瞑り眠る努力を重ねていた。

どのくらい時間が過ぎたのか。
キャロルは浅い眠りを繰り返していた。
ふと、自分を守る温かなぬくもりがなくなったことに気が付きあたりを見回した。
天幕のどこにもイズミルの気配がない。
(イミル…?どこにいったの?)
不安になったキャロルはそっと天幕から顔を出した。

不寝番の兵士の篝火と月明かりを頼りに目を凝らし、耳を済ませて周囲を窺うが、あたりは静まり返っている。
物音を立てないように天幕から抜け出し、イズミルの姿を探した。
(兵士に見つかったら…別に悪いことをしてるわけじゃないんだから、一緒に探してもらえばいいのよ。)
キャロルは、自分を落ち着かせるように自らに言い聞かせ天幕の裏手に廻ると、
野営地のそばにある泉の畔に、二つの影を見つけた。
(イミル…それに、アイシス?)

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並んで泉の方を向いているその影は微動だにしない。あたりはこんなに静かなのに話し声さえ聞こえない。
−二人ともどうしたの?−
声をかけたくても近寄りがたい空気が二つの影を包んでいる、そんな気がしてキャロルはそっとその場を離れた。
天幕に戻り寝台にもぐりこんでも、二つの影がこれからどうなってしまうのか、気になって眠ることができない。
ふと滲んで来る涙の意味もわからず、イズミルの厚衣を被って夜の冷気で冷たくなった身体を丸めた。

「姫が…見ておった。天幕に戻ったようだが。」
「キャロルが?」
「おそらく私を探しに来たのであろう…私は嘘は言わぬ。私はそなたの問いに正直に答えた。次はそなたの番だ。女王アイシスよ、何が目的で此度のことを仕組んだ?生け捕ったカプター大神官一派の者供をなんとする?そして、姫も気にかけていたあの男…そなた、エジプトのファラオの妃となる身ではないか。さあ、私の問いに答えよ。」

−何から話せばよいのか−
アイシスはその場に座り込んでポツリ、ポツリと話し始めた。

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−イズミル王子よ、そなたはメンフィスと同様、生まれながらの世継ぎの王子。
だが、その生い立ちの過程で残酷な陰謀があったと聞く。
わたくしが初めて父王の名代でヒッタイトを訪れたのは、行方不明の世継ぎの王子に代わって、国王の甥が世継ぎとして立つ祝賀の際であった。
あの折に、王家の人間なれど、いや王家の人間だからこそ、わが身は自分で守らねばならぬ、ということをわたくしは知ったのじゃ。

わたくしの母は、旅の踊り子でネフェルマアト王の目に留まり寵愛を受けたことになっておるが、真実はネフェルマアト王に殺された先代ファラオの縁に連なる者。
母は幼子だったゆえ、下エジプトの神官らに匿われその存在をあまり知られていなかった。
父王は先代ファラオの正妃との婚姻によって、エジプトのファラオとなった。
そして、婚姻の後すぐに正妃を闇に葬り、新たなる正妃を迎えた−それがメンフィスの母。
しかし、なかなか御子を授からない正妃のためにと、カプターの進言により父王は下エジプトの神殿に祈願をするようになった。
当時の下エジプトは先代の王の影響力がまだ強く残っており、父王の手を煩わせることもあったという。
先代の王の霊鎮めのため敢えてその地を祈願の場に選び…そこで父王は、まだ少女の母を見初めて無理やり娶った。
だが、先代の正妃を排除し、ようやく自身の影響力で上エジプトの支配を磐石なるものにしようとしていた時期に、先代の縁に連なる者を妃にしては混乱の火種となる、また新たに迎えた正妃の母国リビアの協力も得にくかろう、そんな父王の配慮があって、母の身分は固く秘められた。そんな中でわたくしは生まれ育ったのじゃ。
しかしその配慮も空しく、正妃をリビアから迎えるために暗躍したカプター大神官、当時はまだ神殿の一つを預かる神官に過ぎなかったのだが、リビアの顔色を窺うあのカプターによって母は暗殺されてしまった。

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−アイシスの独白は続く−

下エジプトは動揺し、上エジプトに反抗したが、父王は幼いわたくしに下エジプトを譲ることで、下エジプトの神官や兵、民の支持をようやく得ることができた。
そしてわたくしの立場を諸外国にも、国内にも印象付けるために、自分の名代としてわたくしを数多の国々への使者とした。
正妃との間にようやく授かった世継ぎの御子、メンフィスの御世を確かなものにするべく、産褥でわたくしを呪いながら身罷った正妃の遺言を捏造し、メンフィスの妃とするように定めたのも父王じゃ。
わたくしは…父王が何をわたくしに期待していたのか、正直なところわからぬ。
だが、母の無念の思いはよく知っておる。そして下エジプトの民の願いも。

−そこまで語ってアイシスは黙り込んだ。

「女王アイシスよ、そなたはメンフィス王を愛しておらぬのか?
そなたの望みはエジプト…そのものであったのか?」

イズミル王子は言葉を続けようとしないアイシスに更に問いかけた。

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−わたくしは…−
アイシスはようやく語り始めた。
わたくしがメンフィスに会ったのは、母を亡くしたことも知らずに、乳母の乳をむさぼる弟を父王に紹介されたのが最初であった。
この赤子がエジプトのファラオとなる…
母の無念の声が、下エジプトの民の怨嗟の声が耳に響いた。
−呪われてあれ、血塗られたラーの息子よ−

父王の命令でメンフィスはわたくしと共に暮らすようになった。
赤子の命を奪うなど容易いこと…。
だが、時として乳母と間違えて、わたくしの乳をまさぐる弟の命を絶つことなど、わたくしにはできなかった。

−メンフィスの良き妃となれ、さすればそなたは上下エジプトの王位継承権を正式に得るのだ−
それは母を愛したゆえに罪の意識に苦しむ父王か、あるいは下エジプトの亡霊が言ったのか…
もしや自分自身の願いだったのかもしれないが、結局のところ、わたくしはメンフィスの存在を憎みつつ、愛する以外に生きる術はなかったのじゃ…。

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しかし、我がエジプトを愛する気持ちは他の誰にも負けぬつもり。
わたくしはエジプトの繁栄を願い、また父王に言われるまま、エジプトのために他国の情報など集め始めた。そんな中で…あの男と出逢った。
そなたはあの男の正体を知っておるようじゃ。
先代ファラオの数多ある妃の一人はバビロニアから来たのだが、もしもそこまで知っておれば、そのように不思議に思うこともなかったであろう…。
わたくしの母は、そのバビロニアからエジプトに嫁いだ妃から生まれた王女だったのじゃ。

−アイシスはそこまで語ると再び黙り込んだ。
泉の水面に映る月が傾いて時を刻む。
アイシスは再び言葉を繋いだ−

わたくしは下エジプトの女王…。
恋や愛だけで国を治めることなどできぬ。
わたくしは憎みつつも愛する弟との婚姻により、エジプトの王位継承権を正式にわが身に受ける。
そのように期待されて育ち、またわたくしもそのように願って生きてきたのじゃ。

だが、キャロルは違う。愛と慈しみで人の心を癒す、そのようなことを好む娘じゃ。
諸外国はナイルの女神の娘を得ようとすでに蠢いておる。
メンフィスはまだ若い。その動乱の中でわたくしはキャロルを守るどころか、エジプトそのものを守ることができないやもしれぬ。
今後はヒッタイトから一歩たりとも出すことなく…
それがあの清らかな魂を持った娘の幸せかもしれぬ。

捕らえたカプター大神官配下の者供、あれはメンフィスに対する切り札じゃ。
わたくしがいつの日か上下エジプトの女王として君臨するために。

−アイシスの独り語りはここで終わった

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「では、近くエジプトに騒乱が起きる、と考えてよいのか?そうなった時、ナイルの女神の娘を妃とする私は…エジプトを狙うぞ。」
「さあ…騒乱が起きるのか起きないのか、わたくしにもわからぬ。だが、いずれにせよキャロルが側にいる限り、そなたは何もできぬであろう。キャロルは、わたくしを滅ぼしてまでエジプトを手に入れようとするそなたを、なんと見るであろう?」

(くっ…そこまで考えておったか…!)
イズミルは歯軋りした。だがすべては、この女王の筋書き通りに物語が進んでしまったのだ。

「夜明けまで、まだ暫し時間がある。キャロルがそなたを待って泣いておろう。わたくしは姫の涙に弱いのじゃ。」
立ち上がり踵を返すと、アイシスは音も立てずに自分の天幕に向って滑るように歩き始めた。

イズミルが天幕に戻ると、キャロルは厚衣にすっぽりとくるまって眠っていた。
そっと厚衣をめくると…アイシスの言うとおりキャロルの睫は涙に濡れていた。

(眠ってしまったのか…だがその涙の意味を今すぐ問うてみたいぞ…姫よ。)
イズミルは眠っているキャロルの唇をそっと指でなぞった。
(初めてそなたの唇を奪うのは、やはりそなたの目覚めている時…であろうな。)

イズミルはキャロルを起こさぬようにそっと包み込むと、眠れないとわかっていても、
甘い空想のために目を閉じずにはいられなかったのだ。

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