『 初恋物語 』

81
アナトリア高原に入ってから、一行は更に首都ハットウシャへと先を急いだ。
出迎えたヒッタイト兵が、道案内と護衛の役についたからであろう。
だが、キャロルは旅の終わりの日が近づくにつれて段々と沈む自分の気持ちを、どうすることも出来ずにいた。

(アイシスは相変わらず近寄りがたい。そして…ハットウシャに到着してしまったらイミルともお別れなのね…。)
いよいよ明日は宮殿に、という夕方、長旅の疲れを癒すためにハットウシャ郊外の小さな館にイズミルに案内されてやって来た。

「イミル、そなたのお陰で無事ハットウシャに到着することができた。大儀であった。」
アイシスは鷹揚に言った。
「そなたの労に報いたい…良き縁があればという件、そなたの望みを叶えてやろうと思うのだが。」
「…。ありがたき幸せにございまする。」

(…!イミルは誰かと結婚するの…?!)
キャロルにはアイシスとイズミルの言葉の裏にある真実などわからない。
(これから交わされるイミルの結婚の話など、聞きたくない!)

「あの…アイシス、もう下がらせてもらっていいかしら…」
キャロルはそれだけ言うのがやっとであった。

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「では、私がお部屋にご案内を…」
言いかけるイズミルをアイシスはやんわりと制した。
「いや、わたくしが連れて行こう。姫にも苦労をかけた。旅の疲れであろう。あとで、そうじゃな…疲れの取れるような何かを持って参るように…イミル、よいな?」
アイシスは目配せをしてキャロルを寝室に送っていった。

「キャロル…このヒッタイトまで要らざる苦労をかけた。だが、もう安心いたせ。」
アイシスの言葉にもキャロルは答えられない。
「如何いたした?キャロル。」
キャロルの目から涙が溢れ出て来た。
「アイシス!旅の途中でいろんなことがあって、アイシスは急に冷たくなるし、私、もう…どうしていいのか…」
「何を申すのじゃ。わたくしは、ずっと常のわたくしじゃ。そうであろう?」
「う、うん…でも…」
「そなたの涙は、それだけが理由ではなさそうじゃ。正直に申してみよ。」

だが、キャロルには自分の感情を上手に整理して話すことなどできなかった。
「わからないの…でも涙がでてくるの…」

(そなたを愛しむのも今日が最後…)
アイシスはキャロルの碧い瞳をじっと覗き込んだ。

「そなた、恋をしたいと言っておったな。」
「…えっ?」
アイシスはそう言ってキャロルから離れた。
「そこにいる男が恋しいと想うのであれば…」

キャロルが振り向くとそこにはイズミルが立っていた。
「わたくしはそなたの幸せを願っておる。恋をして結ばれたい相手がいるのならば、あとはそなたの気持ち次第じゃ。」
そのままアイシスは真っ直ぐ前だけを見て部屋を出て行った。

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(恋…?私が…イミルに恋を…!)
アイシスに言われて、ようやく自分の胸を切なくさせる感情の正体にキャロルは気が付いた。

イズミルは静かにキャロルに近寄ると、その頬をそっと両手で包んだ。
「あ、あの…イミル…」
何かを言わなければ…でも何を言えばいいのか…キャロルはうろたえるばかりで言葉がでてこない。

「姫…何も申されますな…ただ、お約束をしていただいてかまいませぬか?」
イズミルはキャロルの頬に添えた両手を徐々に首筋に、そして肩、背中に滑らせながら言った。
「私は姫に恋をしております…こんなにも人を恋しく想ったのは、初めてでございます。旅の宿直は今宵で終わりますが…私は必ず姫をお迎えに上がります。どうか次に逢うときには、私の花嫁に…姫。」

キャロルは震えながら小さく頷いた。
「おお…ではお約束の印に…」
キャロルはその言葉の意味を本能で悟り、静かに目を閉じた。
イズミルの唇がキャロルの唇に重なる。

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イズミルは寝台にキャロルを静かに横たえた。

「昼に夜に姫を腕に抱き、私は幸せを感じつつも苦しく切ない日々を送りました。だが、それも今宵で最後。姫、お約束どおり…次に逢ったときは身も心も私の花嫁…」

髪に瞼に耳朶に、イズミルは約束の印を残すかのように唇を這わせる。
今は遠慮することなくキャロルを抱きしめるその腕は、キャロルを離すまいとしっかりと自分の身体に縛り付ける。

「…あっ…イ、イミル…」
イズミルの唇がキャロルの首筋に強く約束の朱い印をつけた時に、キャロルは初めて声を上げた。
「姫…男女が一つ寝所で眠るというのは…こういうことなのです。おわかりになりますね…。」
キャロルとてその意味は充分わかる。
未知の領域への恐怖心と甘い期待−だが、キャロルの中で甘い期待が膨らんでいく。

その期待を裏切るようにイズミルは突然キャロルを開放した。
「さあ、明日は王宮で国王ご夫妻にお目通りでございます。ゆっくりとお休みにならなければ…。」

(このままでは…明日、姫は王宮に、いや人前にさえ姿を見せられまい…すべては明日のため。)

85
−翌朝
エジプトからの一行を迎えるハットウシャ宮殿の歓迎の騒ぎに紛れて、
手慣れた様子で裏門から宮殿に滑り込む若者の姿に誰も気が付かなかった。−

「久方ぶりである、アイシス女王よ。遠路、よくおいでなされた!」
王宮の接見の間ではヒッタイト国王夫妻が到着を待ちかねていた。
「此度のミタムン王女のこと…心より御悔み申し上げます。」
「うむ。ミタムンのことは無念であった。まだ若き娘を先に亡くすとは。」
ヒッタイト王妃はやつれた表情で言葉もなく国王の隣に座っている。

「これにあるはエジプトのファラオより、ヒッタイト国王に宛てた書状にございます。まずはこちらを。」
その書状は、当初エジプト出立時にメンフィスより託されたものではなく、早馬によって昨夜、ようやく館に運ばれてきた新たな書状。

(メンフィスはどのような気持ちでこの書状を…しかし確たる証拠が我が手にある以上、わたくしの申し出に否とは言えぬ筈。)

「ほ…う…。」
書状に目を通したヒッタイト国王は驚きの表情でアイシスを見た。
「婚姻による同盟とは。ミタムン亡き今願ってもないことであるが、この条件はヒッタイトに有利とも思える。エジプトの真意や如何に?」

「真意も何も。本来、我がエジプトのファラオとミタムン王女の婚姻により同盟を結ぶ筈でありました。しかし、王女はエジプト滞在中不幸にも事故に遭われて…事故を防ぎ得なかったエジプトの落ち度にございます。
ヒッタイトの世継ぎの王子と、これに控えるナイルの女神の娘、キャロルとの婚姻により、両国の和平と同盟をより確かなるものに。それがすべてにございます。」

エジプトの落ち度、と言いつつも気高い女王は遜った態度など決して見せない。
アイシスは居並ぶヒッタイト高官の耳に届くように、堂々と言い放った。

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エジプト女王として正装したアイシスが、ヒッタイト国王夫妻をはじめ、居並ぶ臣下の前で口にした
ファラオよりもたらされたこの書状の内容は、接見の間をゆるがすには充分すぎる内容であった。

「おお!ナイルの女神の娘を我がヒッタイトに!」
「これはまことに良き同盟ぞ!」
「王!ご決断を!」

この興奮の中、当のキャロルだけが一体何が起きているのかを把握するまで、かなりの時を要した。
(婚姻による同盟?エジプトから誰が…?)
皆の視線が一斉に自分に注がれている。
(えっ?私?私がっ?!)
「ア…イシス、」
アイシスに声を掛けその腕を掴もうとするが、舌がもつれ、足が前に進まない。
(なぜ、私がっ!だって私は…)

「ふむ、これは目出度き話しぞ!だが、我が世継ぎの王子はなんと申すか。」

「どうして…私なの…アイシス…」
キャロルがようやくふらふらとアイシスに歩み寄り、その腕に縋り付いた瞬間−

「否、とは申されますまい。この婚姻は当の本人同士の強い意思によるもの。」
アイシスの言葉と同時に接見の間の扉が開き、商人の仮面を脱ぎ捨て、今は王子の装束を身に纏ったイミル−イズミル王子−が姿を現した。

「父上、母上、ただ今戻りました。ここにいるナイルの姫は私の花嫁。
このヒッタイトまで我が腕で大切に守り、連れて参りました。」

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「アイシス…イミルは…イミルはヒッタイトの王子だったの?」
「キャロル、そなたの望みどおり恋をして婚姻するのじゃ。それがそなたの幸せ、そうであろう?」
自分の腕に縋るキャロルの白い手を取りながらアイシスは言った。
「イズミル王子、さあ、エジプトの女王であるわたくしの手より、ナイルの女神の産みたもうた黄金の姫、受け取られよ!」

アイシスに差し出されたキャロルの白い手を受け取り、緊張のあまり震える肩をそっと抱きながらイズミルはキャロルに囁いた。
「姫…約束どおり…迎えに参ったぞ。」
そしてキャロルが今朝自分の目の前で、懸命に白粉や首飾りで隠した首筋の約束の朱い印を、そっと指で撫でた。
「イミル…あなたは…」
「アイシス女王が世話してくれた良き縁…姫も約束を違うことなど…なかろうな?」

−昨夜の約束ぞ…ここにまだその印が鮮明に残っておる。そなたは承諾したはず。−
首筋を撫でられる度に目に見えない柔らかな羽がキャロルの全身を擽る。
−あっ、はい…−

「父上、母上に申し上げる!アイシス女王滞在中に、私、イズミルは、ナイルの女神の産みたもうた黄金の姫と婚姻の儀式を行うことをここに宣言いたしまする!」
キャロルの小さな承諾の言葉を、自分の耳でしっかりと聞いたイズミルは上気した顔で大きく宣言した。

接見の間のざわめきはそのまま王宮内のどよめきへと変わった。
「我がヒッタイトとエジプトの同盟は成立した!今宵は宴じゃ!」
ヒッタイト国王の言葉に、ミタムン王女の逝去以来、沈んでいたハットウシャの宮殿は沸きかえった。
その慶事はすぐに国民にも知らされて、首都ハットウシャ全体が慶びで満ち溢れる。

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宴は夜更けまで続いていた。
−その慶びの声が微かに届く王宮の一室−
ヒッタイトの古い慣習に則って、母親が初夜を迎える娘に薄化粧を施す儀式が、ひっそりと執り行われていた。
しかし花嫁、キャロルの母は当然この古代にはいない。
「ナイルの女神に代わり、わたくしがそなたの母上の役目を…キャロル、幸せになるのじゃぞ。」
「…アイシス…私…」
「ほらほら、泣いてはならぬ。せっかくの化粧が流れてしまうぞ…」
そのアイシスも眦にうっすらと涙を浮かべている。
「キャロル、そなたはイズミル王子の良き妃となり、そなたの優しさでこの国の民を治めるが良い。」

花嫁の部屋に花婿のイズミル王子が迎えに来た。
母から−この場合はアイシスであるが−花嫁の手を受け取り、寝室へと導いていくのは花婿の役目。

イズミルに導かれた部屋は、初夜に相応しく適度に明かりを落とした、しっとりと落ち着いた設え。
「姫…昨夜の約束は…」
寝台の前までキャロルを導いたイズミルであったが、今一度、キャロルに問いかけた。

「イミル…いえ、イズミル王子…」
キャロルはようやくイズミルの名前を正しく呼んだ。
「私は何も知らずに旅に出たの。でも、アイシスもイミ、イズミル王子も最初からそのつもりだったの?」

(姫は怒っているのか…?私が姫を謀ったと…)

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だが、最初は確かにアイシスと謀ったこと。
キャロルは何一つ説明されていないのだが、イズミルにとっては、キャロルがアイシスから何を聞かされたのかと、想像しただけで胸が塞がる。

「姫!私はっ…!」
狼狽し激情に流されるまま、キャロルを寝台に押し倒し、その唇を塞ぎうわ言の様にキャロルに許しを請う。
−私はずっと姫に恋していた−
−その白き身体を我が腕に抱きながら、なんと切ない道中だったことか−
−我が妃にと願ったその日より、女神イシュタルの祝福を得るまでの長き日々−

「イズミル王子…あなたは私に身分を偽って近づいてきたわ…」
キャロルの言葉でイズミルの愛の動作が止まる。
「姫…どうあっても私を許さぬと、そう思っておるのか…?」

「許せないわ…許せない…私を騙して…」
その言葉と裏腹にキャロルはイズミルの首に両腕を回した。
「だから…今宵からはずっと私の側で休んで…。これは罰よ、イズミル王子。」

キャロルの突然の行動と言葉に、イズミルの顔がぱっと輝きを増す。
「おお…姫よ!では、今宵よりこの宮殿にて姫の宿直を勤めようぞ。姫が私を許すまで、永久に…。」
そして、新婚の夜の清楚な衣装に身を包んだキャロルの身体をそっと撫でる。
その指が衣装を束ねる紐の先を探り当てた時…イズミルはキャロルに言った。

「しかし、姫に男女が一つ寝所で眠るとは本当はどういうことか、これから私が時間をかけてゆっくりと教えてやらねばならぬ。そうでなければ、宿直をしていても私は切なき心を持て余すままぞ…姫よ。」
キャロルは恥ずかしげに小さく笑った。
−キャロルの甘い期待は、今宵は裏切られることはなかった−

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「アイシスの婚儀に…必ずエジプトに行くわ!」
ここは地中海に面したヒッタイトの海岸の城。

イズミル王子とキャロルの婚儀を見届けたアイシスは、ビブロスで建造されたばかりの新造船を廻してもらい、海路エジプトへ帰国することとなった。
「ほほほ。キャロル、まだ新婚のイズミル王子が、そなたを一日たりとも離したりするものか。」
首都ハットウシャから見送りに来たイズミル王子とキャロルを前にアイシスは言った。
「イズミル王子、キャロルの身体が心配ゆえ、その必要はない。またいつかゆっくりと…。」
(ヒッタイトから一歩たりとも出すことなく…二度とエジプトの地を踏むことなく)
イズミルも、アイシスの言いたいことは充分わかっている。

「アイシスー!元気でー!幸せになってね!」
船の上からでも、城壁の端に立ち黄金の髪をなびかせてキャロルが叫んでいる言葉が、アイシスにだけは聞こえる。
(そなたも…)
「さあ、エジプトへ帰ろうぞ!出航せよ!」
アイシスの命令で船はゆっくりと岸を離れ始める。

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(イズミル王子、わたくしはそなたに最後まで本当のことを話さなかった。わたくしの母は、カプターの魔の手からなんとか生き延び、縁を頼りにバビロニアに逃れたのじゃ。あの時、母は再び身籠っておった。カプターは母が世継ぎの御子を上げることを恐れたのであろう。だが、月満ちて母が産み落としたのは女子であったそうな。今もバビロニアの王宮奥深く…ネフェルマアト王の血を呪いながら、母と我が妹は生きておる…)

アイシスは遠ざかるヒッタイトの地にもう一度目を向けた。
キャロルの姿も、その側に立つイズミル王子の姿も今は見えない。

(イズミルよ、キャロルは確かにエジプトとヒッタイトの友好の礎となろう…
しかし、その礎が足枷になる、と気付いた時にはもう遅いのじゃ。
恋や愛などで国を治めることはできぬ…そなたがその本当の意味に気が付くのは、いつの日であろう。)

−いや…そのようなことに気付くことなく、恋する人と静かに穏やかに暮らすことができれば…−
アイシスの胸に遠くバビロニアの空の下、同じように国を治める大柄な男の影がゆらりと浮かんできた。

「アイシス様、風が強くなってまいりました。そろそろ船室に…」
アリの声でふと我に返る。

(わたくしは女王アイシス、下エジプトの民のために…母のために…そしてわたくし自身のために…!)

「アリ、下エジプトに到着したらすぐにバビロニアに使いをだせ!
メンフィスとわたくしの婚儀の祝賀の使者、かのバビロニア王女の訪問を心より歓迎すると。」
アイシスは二度とヒッタイトの地に目を向けることなく船室に向った。

END

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