『 初恋物語 』

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「楽しげな笑い声が、回廊にまで漏れ聞こえてまいりましたぞ。」
イズミルが部屋に入ってきたのはそんな時だった。
(よく言うわ、耳を済ませて聞いておったくせに)
アイシスはちらりとイズミル王子の顔を見た。

(本心を表さぬそなたなれど、顔がどことなく上気しておる。わたくしの目を欺こうとしても、ことキャロルに関しては…)

「キャロルは先ほどからそなたの話ばかり。あまりにもそなたの名ばかり口にするゆえ、わたくしが姫に数えて聞かせてやったのじゃ。」
アイシスは恥ずかしげに抗議するキャロルの表情を見せたくて、わざと話を蒸し返した。
「イミル、違うのよっ。んもうー、アイシスったら。」
「アイシス様、ナイルの姫がお困りになっておられます。あまりご冗談が過ぎますと、かえって私が姫に嫌われてしまいそうな。」
イズミルも負けてはいない。
「イミルを嫌うなんて!そんなことは絶対にないわ!ただ、その…イミルは大人だし、私は子供だし…そう、そ、それにね、お国には奥様か恋人がイミルの帰りを待ちわびているわ。」

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キャロルは自分でも何を言っているのかわからなかったが、
(イミルの奥様か恋人)という自分の言葉になぜか胸がちくりと痛んだ。
アイシスはキャロルを見つめるイズミルの小さな表情の変化を見逃さなかった。
(隠しても無駄です。そなたの目の縁、頬のあたり。目は口ほどに物を言うとはこのことじゃ。)
キャロルに恋をさせるつもりの怜悧で堅物のイズミル王子が、逆にキャロルに恋をしていく瞬間を、アイシスは楽しく、しかしどこか寂しい思いも手伝って、意地悪く観察していたのだ。

「イミル、そなたはわたくしより少し年かさであったはず。妻や恋人が国にいてもおかしくない年齢であろう。」
アイシスの煽りは止まらない。
いつものイズミルであれば、アイシスの意図など容易く見破るのだが、自分の心に初めてざわめく甘い感情−姫に誤解されたくない−に気を取られ、冷静さを失いつつある。

「私は長く旅を続ける身でありますので…未だにそのような存在の者はおりませぬ。」
「ほう、そうであったか。もしも良き縁があればわたくしに世話をさせてはくれぬか?」
「おお、なんとアイシス様が。これは願ってもないことでございまする。」
アイシスは満足そうに肯いた。

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(まんまとアイシスに乗せられてしまった。私ともあろうものが。)
今夜もキャロルの寝台の脇の長椅子に横になったイズミルは、昼間の出来事を思い出していた。
(あれではまるで私が妻を娶りたがっているようではないか。姫のことから、なぜそんな話になってしまったのやら…)
イズミルは微かに身を動かして、キャロルの寝顔が良く見えるような姿勢に変えた。
(姫は誤解したのではないだろうか?)
今すぐに姫を目覚めさせ、姫が昼間の話をどう受け取ったのか聞きだしたい。
そんな衝動に囚われるなど、イズミルにとって初めての経験であった。
(私は何を考えているのだ。姫が私に恋をするように…そして私の妃にするようにと願い出たのはアイシスではないか。)

キャロルが未だ恋を知らないように、イズミル王子もまた恋というものを知らない。
只違うのは、キャロルは恋も男性との交わりも知らない本当の乙女であり、イズミルは恋など必要のない身分で、大人の男としての生理を処理するだけの日常がすでにある、ということだ。
ヒッタイト国王や王妃が、世継ぎのこの王子に早く妃を迎えるように勧めても、父王の好色癖と媚を売る身分低き女たち、そして母王妃の決して表には出さない嘆きを見て育ったイズミルは、女性嫌いとまではいかなくとも、どこか潔癖な性質であった。
諸国を旅するうちに耳にしたナイルの女神の娘の噂。
ミタムンやルカからの便りで更に知ったその英知ある神の娘を、どうにかヒッタイトに奪い取ることは出来ぬか、と興味を持ったに過ぎなかったのだが−。

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キャロルの愛らしい顔立ち、透き通る白い肌、細き肩、豊かな黄金の髪、素直な性格、そしてエジプトの若きファラオから身を守ろうと必死になる様、その最中でも、商人としての自分が罰せられることのないように気遣う優しさ、
(神の娘だとか、英知だとか、政略だとか、そんなことは一切関係ない!この清らかなる姫を我が側において、ずっと眺めていられたら…!…)
その先のことを考えてイズミルは身体の芯が熱く燃え上がるのを感じ、キャロルの寝台の脇に音も立てずに近づいていた。
−自分でも知らないうちに−

「…イミル?」
人の気配を感じてキャロルは薄く目を開けた。
目の前にイミルの顔があることに驚いたキャロルは
「何かあったの?」
と心配げに周囲を窺いながら聞いた。
まさかイズミルが別の意図で自分に近づき、顔を見つめていたなどキャロルには想像もつかないらしい。
「何もございませぬ、姫よ…このイミルが姫をお守りしておりますゆえ、安心してお休み下さい。夜明けはまだまだ先でございます。」
イズミルは切なげな表情でキャロルに語りかけることしか出来なかった。

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「イミル…あなたも身体を休めないと。長椅子では寝付けないのでしょう?あの、今夜は場所を交代しない…?明日からはまたイミルに馬に乗せてもらうんですもの。」
キャロルはイズミルを気遣って少し顔を赤らめながら起き上がった。

「何を申されます…姫、私はどこでも眠ることができます。この先、ゆっくりと休むことができるのは、ヒッタイト領内に入ってからもしばらくありますまい。天幕での夜が続きます。姫こそ今のうちにお身体を休めて…」
「じゃあ、こうしましょう。イミルも今宵はここで寝てちょうだい。そうじゃなきゃ、心配で私も眠れないわ。昨夜は…ぐぅぐぅと寝ちゃったんだけどね。」
顔を赤らめていたのは、どうやら自分だけがゆっくりと休んでいた気恥ずかしさゆえだったらしい。
そんなキャロルにイズミルは少し拍子抜けした。
(私は何をしようとしていたのだ…まだ子供のような姫に対して。)
「では姫君のお許しを得て、今宵は寝台で宿直つかまつりますぞ。」
イズミルはわざと厳めしく囁いた。

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「ねぇ…イミル」
寝台は広いので直接二人の身体が触れるようなことはない。
「なんでございますか?姫。」
「天幕でもこうやって一緒に休んでくれる?」
「は…?しかし、天幕でしつらえる寝所はこのように広くはございませぬ。その…姫と身体が触れ合うことがあっては…」
イズミルは少しうろたえた。

「私が小さい頃はね、大好きなライアン兄さんが時々こうやって一緒に眠ってくれたのよ。でも、もう大人なんだから一人で寝なさい、って。こうしていると、小さい子供に戻ってライアン兄さんといるみたいなの。」

(面白きことを申す。大人だからこそ一つ寝所に眠るというのに。)
「私と一緒じゃないと、イミルは夜通し起きていそうな気がして…」
「ではお約束いたしましょう。昼も夜も、姫は私がこの腕でお守りいたします。それならば姫も安心して休むことができましょう。」
−これから一生涯−イズミルは小さく呟いた。

「では、姫、もそっとこちらに…」
イズミルの腕がキャロルの肩に回され、キャロルはラクダに乗っている時と同じように、イズミルの腕と胸に守られて、そのうち静かに寝息を立て始めた。

(姫、そなたは安心かもしれぬが…逆に私は眠ることができなくなりそうぞ。)
鎮めたはずの疼きが再びイズミルを苛んでいた。
(困ったことよ…)
イズミルは苦笑した。

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ラクダから馬に乗り換えた一行だが、相変わらずその進行はゆっくりとしていた。
(まるで何かを待っているみたい…?)
「イミル…怖い。」
「姫…?如何なされましたか?」
キャロルの言葉にイズミルが不思議そうに聞き返したその瞬間−

「いけーっ!」
右前方の岩山から、右後方の岩山から、同時に土煙を上げながら隊列に向けて一気に襲い掛かる集団が駆け下りてきた。

「ナクト!兵を展開せよ!イミルはキャロルを守って先を急げーっ!ルカはイミルに続くのじゃ!」
アイシスは次々に指示を出した。
「アリ!そなたはわたくしの側におれっ!」

「姫っ!駆けますぞ。しっかりと私につかまっていて下さい。」
「イミル、アイシスがっ!」
「女王ならば大丈夫。今は姫を守らねばなりませぬ。」

襲い掛かる集団は口々に「ナイルの姫を奪うのだー!」
「ナイルの姫はどこだー!」と叫んでいる。
(え?私を狙っているの?何故?)
「でも、イミル、これじゃ前後を挟まれて不利な戦いだわっ!」
(この混乱の最中、戦など知らぬ姫でさえこの状況を判断できる。だが、今はアイシスの言葉に従う以外に手立てはない。最悪の場合、姫さえ助かれば…そのまま一気にヒッタイトへ)

イズミルのそんな心を知ってか知らずかキャロルは泣き叫ぶ。
「イヤよ!アイシスが殺されてしまうわっ!」
「姫!アイシス女王のご命令ですぞ。ナクト将軍を信じて、我が商人達を信じて…そして私を信じて下さい。私の命に代えても姫をお守りいたしますっ!」

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だが、前方から襲い掛かる集団を目の前に、後方から襲い掛かる集団に退路を絶たれ、左に逃げようにもじりじりと追い詰められるのみである。
キャロルに言われるまでもなく、形成はどう考えても不利であることなどイズミルは充分わかっていた。
しかし、アイシスの策を信じて力の限り戦うしかない。
「イ、イミル!また敵がやって来たわ!」
たった今一団が現れた岩山に、イズミルでさえ慄くほどの大集団が姿を現した。
(あの人数では…だが、姫だけは奪われてはならぬ!)

ところが、後から姿を現した大集団は、先に現れた一団の背後を襲い、圧倒的な強さで蹴散らしていく。
キャロルと一行の荷駄を守った商人団は安全な場所に避難し、戦いの終わるのを待っていた。
(あの戦いぶり、ただの砂漠の民とも思えぬが…)

混乱はすぐに収まり、多くの賊が捕らえられた。
生き残った者だけではなく、死者の亡骸、馬、武器や防具、装身具の細かなものまですべてが集められ、ナクト将軍配下の一部隊によってエジプトの方向へ運ばれていく。

キャロルたちの待つ場所まであとわずか、というところまでアイシスは大集団の中心にいた大柄な男に送られてきた。
キャロルの目にもアイシスの表情がハッキリと見える。
砂漠の民の衣装を身に纏った大柄な男とアイシスの会話はここまでは聞こえない。

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「あんなアイシスは初めて見たわ…イミル、あの人は誰なのかしら?」
キャロルの言葉にイズミルは我に返った。
「アイシス様には、私のような商人の他にも砂漠の民など、懇意になされている者が多くおりましょう…。砂漠の戦などを得意とする部族やもしれませぬ。」
イズミルはキャロルを安心させるためにさらりと言った。
しかし、そのイズミル自身が信じられない光景を目の当たりにして動揺していた。
(あの戦いぶり、あの姿、あれはまさしく…いやそんなことよりも!)
イズミルはアイシスのいる方向を注視した。
(エジプトの女王アイシスよ…そなたは一体…?)

「大事なかったか?キャロル!」
アイシスはナクト将軍とアリを両脇に従えてキャロルたちの待つ場所にやってきた。
「待たせて済まなかったが、すべては片付いた。ヒッタイトへ向けて先を急ごうぞ!」
「アイシス、無事で良かったわ。あの…先ほど助けてくれたのは…?」
「おお、わたくしの懇意にしている砂漠の民じゃ。偶然近くを通りかかったとか。キャロル、あのような危険なことにも遭遇するゆえ、そなたは辛かろうがゆったりと進むことが出来なくなった。ヒッタイトまでしばし辛抱するのじゃ、よいな?」

有無を言わせないアイシスにキャロルは黙って頷くしかなかった。
アイシスは最後までイズミルの目を見ようとはしなかった…。

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天幕を張り、束の間の休息を取っても夜明け前には出立。
あの日以来、休息の間にも近寄りがたい雰囲気のアイシスにキャロルは戸惑っていた。
(アイシスは一体どうしたの…?いつも何事か考えているようで…)
自然とキャロルはイズミルとの時間が長くなる。
もともと昼は馬上で、夜は天幕の中でイズミルがキャロルをその腕の中で守っているのだ。
(姫は女王アイシスのことが気掛かりの様子…。このままでは姫が私に恋をした上で、ヒッタイト王子の妃にするというアイシスとの約束を果たせぬまま、首都ハットウシャの王宮に到着してしまう。なんとかせねば…)
明日はアナトリア高原に入るという夜の天幕で、イズミルも焦っていた。

「イミル…アイシスは?」
「女王アイシス様は先ほどまで、ナクト将軍とハットウシャ滞在中のご相談をしておられましたが、すでにお休みなられましたご様子…」
「そう…」
キャロルはため息をついた。
「イミル、私も休むわ…なんだかとっても疲れてしまって。」

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