『 初恋物語 』

51
旅程を示した地図を前に相変わらず聞き取れない程の声で語り合う二人であったが、イズミルが急に人差し指を立て、話を止めた。
「しっ、ナイルの姫がそろそろ目覚める。」
「なに?キャロルが?なぜそのようなこと、そなたにわかるのです?」
「離れたところにある気配や、話し声を読み取る能力は自分だけのものとお思いか?」
イズミルは声に出さずに唇だけを微かに動かしてみた。
アイシスにはそれだけで充分に理解できた。
(この男も唇の動き、風の動きを読むのか…人の心を読む不思議な王子よ、と思っていたが。やはりキャロルを託すのはこの男しかいない。わたくしの選択は間違ってはいない…!)

「このように旅の途中でも充分相談はできるであろう。さて、姫のお目覚めであるが…今朝よりこの先ずっと、私が一番最初に、姫に目覚めの挨拶をしてもよかろうな?」
イズミルは今度はわざと声を出して、「この先ずっと、私が一番最初に」という言葉を強調するかのように言った。
「そなたに任せます…これから姫のことはすべて…」
(口惜しい。だが、この微かな唇の動きがわかるか…?)
「ふっ」
イズミルは謎めいた微笑をアイシスに一瞬だけ向けて…商人イミルの仮面をかぶりキャロルの寝所へと向った。
その足取りが、ほんのわずかではあるが、軽やかだったのをアイシスは見逃さなかった。

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テーベの都を出立した一行は順調に砂漠の旅を続けていた。
隊列はキャロルを気遣ってゆっくりと進んだ。
キャロルは最初の二日間だけ一人でラクダに揺られていたが、生まれて初めての砂漠の旅、キャロルの身を案じるアイシスの命令で、今はイズミルの腕の守られながらラクダに乗っていた。

最初のうちは恥ずかしがり遠慮がちにイズミルにそっとしがみつくキャロルであったが、
「姫、恐れながら申し上げます。もう少し私にお身体を預けてくださった方がラクダも安定いたしますし、姫もお楽になることでしょう。私もその方が手綱を操りやすいのです。」
「キャロル、イミルの申すとおりじゃ。わたくしと一緒に馬に乗った時のようにすれば良いのじゃぞ。」
アイシスの言葉もあり、戸惑いながらもイズミルにもたれかかる様に身体を寄せる。

「さあ、オアシスまでいま少し。オアシスでは明日一日の休養を取る予定です。」
イズミルは恥ずかしがる姫に優しく気遣いながら話しかけた。

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今宵と明日、身体を休めるオアシスはエジプト領内の東の端にあり、ここを抜けるとエジプトの勢力の及ばぬ砂漠の民が入り乱れる地域に入る。
途中点在する小さなオアシスで、気にかかる報告を受けていたアイシスは、イズミルとナクト将軍を部屋に招いて相談を重ねた。

「例の一行、本隊はオアシスを遠く迂回し、少人数があらかじめ準備されていた食料などを受け取り、先を急いだそうじゃ。」
アイシスは懇意にしている大商人の妻、ネネからもたらされた情報を二人に話した。
「ではこの先で?」
ナクト将軍も真剣な眼差しで地図を読む。
「砂漠を抜けてしまえば、彼らも帰路が大変であろう。おそらくは次のオアシスまでの間に、と思われる。」
イズミルは地図の上のある一点を指差した。
右手に岩山のあるこの地点、おそらくここで待ち伏せしている。
三人の意見は一致した。

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「して、どうなさいまする?アイシス様。」
「武装しているとはいえ、所詮は神官。目的はキャロルを奪うことのみ。ただ…。」
「ただ?如何いたした。アイシス女王よ。」
「わたくしの命を狙っているやもしれませぬ。メンフィスの命令とは別に、カプターの密命がでているはず。」
「我ら、命に代えましても、アイシス様とナイルの姫をお守りいたします!」
意気込んでいうナクト将軍にアイシスは答えた。
「ナクトはこれまで縦に長かった護衛を纏め、キャラバンをしっかりと守るようにするのです。」
「しかし、それでは…狭い岩山付近で襲われれば身動きがとれませぬ。」
「わたくしに一案があるのです。すでに手配は済ませました。イズミル王子よ、そなたはわたくしにかまわずキャロルをしっかりと守ってたもれ。この先はラクダではなく馬で進もうぞ。」

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そんな危険がこの先に待ち受けているなど夢にも思わないキャロルは、アリに身体中の痛みを和らげるマッサージをしてもらっていた。

「キャロル様、ここをこうして…」
「つぅっ…!」
「ほら、これでだいぶお楽になりましたでしょう。」
「アリ…これはマッサージじゃなくて中国式の整体よ…。古代エジプトにもこんなものがあったなんて…」
起き上がったキャロルはアリの言うとおりに身体が軽くなったことに気が付いた。
「すごいわ!さっきまでの身体の凝りが嘘みたいに取れたわ。」
「さぁさぁ、お休み前のお飲み物でもいただいてまいりましょう。」

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しかし飲み物を手にして戻ってきたのはアリではなく、商人イミル−イズミル−であった。

「アリ?ねぇ、こんなに身体が楽になったんだったらまた一人でラクダに乗れそうよ。私だけ甘えさせてもらってはやっぱり悪いもの。」
キャロルは寝台にうつ伏しているので、部屋に入ってきたのがイズミルだとは気が付かない。
「ホントはイミルに乗せてもらっているとゆったりとして安心できるんだけど…うーん、やっぱりイミルに乗せてもらおうかしら?」

「それは嬉しい事を言ってくださる。」
イズミルはキャロルの寝台の脇に跪きながら言った。
「えっ?やだわ、アリだと思っていたのに。」
キャロルは真っ赤な顔でうつ伏せたまま両手で顔を覆った。
「明後日よりはラクダから馬に乗り換えての旅となりまする。馬を駆けさせることもございますので、姫は私と一緒にお乗り下さい。」
「ええ…でも岩山地帯に入るのに馬で駆けるって、何か危険なことでも…?」
「姫の心配なさることではありません。今宵はゆっくり休んで、明日はオアシスに買い物にでかけましょう。」
「わかったわ。ここは大きなオアシスだから楽しみよ…おやすみ…な…さ…」

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(よほど疲れておるのだな。呆気なく眠りに入ってしまった。もう少し物語などしたいと思っておったのに。仕方あるまい、このような小さな身体で砂漠を越えて参ったのだ。さて、アイシスの許しも得ているゆえ、今宵はここに休むとしよう。)

イズミルはキャロルの寝台の脇にあるゆったりとした長椅子に身体を横たえた。
(しかし、アイシスも酔狂なことよ。この婚姻に外交上の理由付けなどいくらでも出来そうなもの。それを、わざわざこのように回りくどいやり方で、しかも自身は妬心を滲ませながら、姫に恋をさせた上で嫁がせたいなど。)

イズミルは安らかに眠るキャロルの顔をぼんやりと見つめていた。
(恋…か。)

軽く目を閉じると、メンフィスから逃れようともがくキャロルが、アイシスに嬉しそうに身体を預けて抱きつくキャロルが、瞼の裏に浮かんだ。
(この姫が私に恋をしたら…メンフィスに対するようではなく、アイシスに対するような態度を取ってくれるのであろうか…?)
(そして、それ以上に…?)
イズミルは身体の芯に甘い疼きが走るのを感じて、思わず眉を寄せた。

(ふっ。私としたことが…アイシスに踊らされる人形になるところであった。)

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「ねぇ、イミル!あれは何?」
大きなオアシスはキャラバンの休息の場でもあり、商品の取引の場でもある。
キャロルは見るものすべてが珍しく、見飽きることがなかった。
「姫、そのようにはしゃがれては。髪を覆うベールが落ちてしまいますぞ。」
イズミルは自分のマントでキャロルをすっぽりと包み込むような真似をしてみた。
「そんなことをしたら、何も見えないわっ!」
「ではもう少しお淑やかなさいませ。いくら私がお付しているとはいえ…ここには商人に身をやつした異国の高官など、多く出入りしているやもしれませぬ。」
イズミルは自分のことを棚にあげて、キャロルに注意した。
「そうね、イミルの言うとおりだわ。腕や手を見れば商人か、剣を扱う兵士か見分けはつきそうだけど…外見ではわからないもの。でも、イミルの腕や手も、まるで武人のように鍛えてあるのね。」
イズミルは一瞬背中に冷たいものが流れるのを感じた。

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しかしすぐに厳しい顔で姫に言った。
「姫、商人は、いつどこでどのような危険に巻き込まれるかわかりませぬ。腕に覚えがなければ、幾多の商品を抱えて砂漠を渡るなど無理なこと。私とて同じです。そうでなければこうして姫をお守りすることもできませぬ。」

当然、今この周囲にもイズミル王子と共に商人に身をやつした多くのヒッタイト兵や、キャロルの従者としてルカが二人を幾重にも護衛している。
だが、キャロルはそんなことに気が付きもせずに、商人であるイミルと二人だけでオアシスを歩いているのだと思い込んでいた。

「アイシスが警護を頼むほどだもの。イミルのキャラバンの人たちはきっとみんな強いのね。イミルはその商人たちの長なんでしょう?無事にヒッタイトに到着できるよう、ちゃんとイミルの言うことを聞くわ。」
キャロルはベールを目深にかぶりなおし、心持イズミルに寄り添うように歩き始めた。

(人を疑うことを知らない素直な姫よ…)
イズミルもまた周囲に鋭く目配せをしながら、オアシスの通りを進んだ。

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「ただいま!アイシス!」
逗留している宿に戻ったキャロルは、アイシスにオアシスの様子を語り始めた。
「アイシスも一緒だったらもっと楽しかったのに…。でもアイシスはエジプトの女王で、ファラオの正妃になる身分。イミルにもオアシスには危険がたくさんある、って叱られたの。それで、イミルがね…」
キャロルの話は尽きない。

「ほほほ、キャロル、そなたイミルの名を何度口にしたか自分で覚えておるか?」
「えっ?やだーっ。アイシスったら人の話を真剣に聞かないで、そんなことを数えていたの?」
キャロルは真っ赤になって周囲を見回した。
イズミルは補給した食料や水の仕分けの指示でこの場にはいない。
「イミルに聞かれたら恥ずかしいじゃない。イミルはライアン兄さんみたいに私にいろんなことを教えてくれたり、叱ってくれたりしているだけなのに。」
その言葉を聞いた途端に、アイシスの目の奥が光った。

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