『 初恋物語 』

41
「キャロル様!いかがなされました?!ご出発まであと僅かでございますのに、大事があってはいけませぬ!」
ナフテラやアリも騒ぎを聞きつけてやって来たのであろう。
「イミル!何をしているのです!キャロル様にもしものことがあれば、アイシス様に申し開きができませぬ。そなたは医術の心得もあるゆえ、早くキャロル様のお身体に障りがないか、もしもお怪我などなさっていたら…すぐにお手当てを!」
アリは機転を利かせて、この場からキャロルとイミルを去らせ、アイシスの宮殿内に入るように計らった。

「ナフテラ様、わたくしと一緒にキャロル様をご寝所へ…!お願いいたしまする。」
「えっ、ええ、そうですね!キャロル様の御身に障りがあってはいけませぬ!イミルと申す商人とやら、わたくしに続きなさい!それからアイシス様の侍医にも早く連絡を!」
何がなんだかわからないが、ナイルの姫に何かあったら一大事である。
ナフテラはアリに上手く煽られて、てきぱきと指示を出し始めた。

42
「いや、それにしてもイミルとルカの機転で、ファラオにもナイルの姫にもお怪我がなくて、ようございました。」

ナクト将軍は
(メンフィス様のことゆえ、何かあったに違いない。それにしても、我がエジプトの若きファラオがヒッタイトの王子に見劣りするとは…やはりアイシス女王あってこそのファラオであられるのか)
と苦々しく思いながらも、若きメンフィス王の機嫌を損ねぬ程度に言った。

「ラクダが急に暴れだしたゆえ驚いた。このラクダ、成敗してやらねばならぬ!」
キャロルを無理に自分の宮殿に奪おうとして、ラクダに踏み潰されそうになったなど臣下に知られては威厳が保てない。
「今日のお慶びの日に、アイシス様の宮殿で殺生があっては、アイシス様もお悲しみになりましょう。ファラオも宮殿にお戻りになり少しお休みになられては…」
ナクト将軍は体よくファラオをアイシスの宮殿から追い出すことに成功した。

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「キャロルー!大丈夫かっ?!」
アイシスが取り乱しながら宮殿に戻ったのは、ナフテラ女官長も侍医も下がり、アリの計らいでイズミル王子ただ一人がキャロルの枕辺に座り、静かに語らっている時であった。

「アリから話は聞いた…メンフィスがそなたに何か…?」
「なんでもないのよ、アイシス。メンフィスが来たせいかしら。驚いたラクダが暴れて…イミルが助けてくれたの。」

(アイシスにとって今日は慶びの日。そんな時にメンフィスのあんな言葉は聞かせたくない…)

キャロルは気を遣っているつもりであったが、アイシスは只ならぬ雰囲気を敏感に感じ取っていた。
(良いわ、あとでナクトに聞けばよいこと。…それにしても、この部屋に入ってきた時の二人の間に流れる空気。その方がわたくしには気になる。自ら仕掛けたこととはいえ、この冷徹な王子があのように蕩ける様な笑顔をわたくしのキャロルに向けるとは。)

44
「イミル、そなたに申し付ける。今宵より出立の朝までわたくしの宮殿に留まり、キャロルの世話をせよ。わたくしは…夜はメンフィスの宮殿に参るゆえ。」
アイシスはこの身を焦がすような熱が、婚儀の決まったメンフィスへの愛なのか、それとも自分の筋書き通りに、商人イミル−イズミル王子−に心を開き始めたキャロルと、演技かはたまた本気かわからないイズミル王子の間に流れる自分が入り込めない空気に嫉妬しているのか、わからなかった。
(この昂ぶった気持ちを…メンフィスに鎮めてもらうより仕方ない。)

夜はメンフィスの宮殿に−という言葉の意味に気が付いたキャロルは真っ赤になって俯きながらアイシスを見送った。
(この艶めかしい乙女をイズミル王子はなんと見るであろう…)
アイシスはイズミルの表情を窺おうとしたが、あくまでも商人イミルの仮面をかぶるイズミルは、恭しく頭を垂れることでアイシスの視線を逃れたのであった。

45
その夜更け。
アイシスは密やかな話し声で目を覚ました。
隣で寝ているはずのメンフィスの姿がない。

(メンフィス…?)
愛しい弟から受けた愛の行為に溺れたアイシスではあったが、今日ばかりは自分の宮殿に残したキャロルとイズミル王子のことが気になり、どこか熟睡できなかったのだろう。
また、その密やかな声の持ち主が常日頃より警戒している相手だったからかもしれない。
アイシスは物音一つ立てずに起き上がると、声の方向に精神を集中した。
まるで耳元で聞いているようにその会話が聞こえてくる。

人はそのようなアイシスを「神秘の力を持っている」と噂するが、なんのことはない。
訓練のたまものである。

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「なに?そなたは今日の騒ぎを最初から目にしていたと申すのか。」
「はい、ファラオ。あと一息でございましたのに…」
「むむっ。カプターよ。そなたは姉上よりもキャロルが私の正妃に相応しいと常々申しておったな。」
「はい、ファラオ。アイシス様は確かに下エジプトの女王にて、神殿の最高司祭でございますが、母上は名もなき踊り子という劣ったご出自にございます。しかしながらナイルの姫は違います。エジプトの女神の産みたもうたこの上なく尊いご身分。アイシス様よりも下のお扱いでは神々の怒りに触れましょう。」

「ふむ…しかし、姉上は父ネフェルマアト王の頃よりエジプトを束ねる重要な存在であった。また、ネフェルマアト王の正妃、私の母上の遺言でエジプトの正妃とするように定められておる。姉上には今まで通り正妃として、また女王として政務と神殿を司ってもらい、キャロルはただ私のそばにいてくれる妃でよいと思っておる。キャロルさえ我が意のままになれば、正妃だろうと妃だろうと関係ない。」
「ファラオ、我が星占いは神々がそれをお喜びではないと出ております。」

「しかし…姉上を差し置いてキャロルを正妃に迎えれば、姉上とて気分を損ねよう。また下エジプトの民はどう思うであろうか。私自身も姉上なくしてエジプトを束ねていくことは難しい。」
「ファラオ、ご心配めされるな。神殿のこと、政治向きのこと、及ばずながらこのカプターをお使いくださいませ。」
「そなた、姉上を排除せよと暗に申しておるのか?」
「め、めっそうもない!アイシス様にもこれまでその肩にかかっていた重荷を取り除き、ファラオに愛されて穏やかな日々をお過ごしいただきたいと…」
「ふむ…確かに姉上は働きすぎ。あのままでは婚儀をあげても子を授かる暇もない。だが、カプターよ、我が正妃はあくまでも姉上ぞ。エジプトで最高位の女性は姉上以外には考えられぬ。もちろんキャロルは女神の娘ゆえそれに劣らぬ扱いをするつもりじゃ。」

「では、アイシス様は正妃、ナイルの姫は聖妃ということで如何でしょう…」

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「正妃に聖妃か…それならば姉上も納得しよう、また女神ハピの娘にも相応しい呼び方じゃ。姉上との婚儀の後、すぐにキャロルとの婚儀を行いたい。」
「しかし、あまりに急ぎますとご新婚のアイシス様のご気分を損ねましょう。」
「…だが私はもう待てぬぞ。早くあのキャロルを我が胸に抱きたいのだ。ヒッタイトになどやりたくないのに…!」

「ファラオ…わたくしに良い考えがございます。アイシス様は…ゆっくりとお休みでしょうな?」
カプターは一層声を潜めた。
「姉上ならば、そなたに言われたとおり、朝まで、いや朝になっても気が付かぬほどに愛したゆえ…あの様子ならば大丈夫だ。」
メンフィスの声も自然と小さくなる。

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「ん…メンフィス…?」
アイシスは夜明け前に愛しい弟の愛撫に無理やり目覚めさせられた−ふりをした。
「姉上、ヒッタイトへの旅立ちはいよいよ明日。もはや一時も姉上と離れていたくはないのだ。」

(それもまた本心やもしれぬが…たった今までキャロルをわたくしから奪う算段をしていたとは思えぬ。いや、それゆえの振る舞いか?)

「メンフィス、わたくしもそなたと離れて幾夜を過ごさねばならないと思うと、今から苦しいのです。わたくしに…そなたの消えることない面影を刻み付けてたもれ。いや、わたくしがそなたに刻みつけようぞ。」

アイシスはこれまで他国の王や王子からその身体に教え込まれた技を使い、メンフィスに挑みかかり、メンフィスを激しく悦ばせ、夜が明けるまでの僅かな時間にメンフィスの精気をすべて吸い尽くすかのように愛し続けた。
「姉上…アイシス…もう…」
「メンフィス、そなたはエジプトのファラオ。これから先、幾多の女性を抱きながらエジプトの繁栄を願わねばならぬ身。」
「む…そうであるが…姉上、もはや身がもたぬ…」

(わたくしはキャロルのことも気掛かりなのです。さっさと果てておしまい!)

メンフィスにまたがったアイシスが激しく身をよじると、メンフィスは最後の一滴を搾り取られた抜け殻のように気を失った。

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(キャロル…どのような一夜を過ごしたのでしょう…)
アイシスは自分の宮殿へと急いだ。
次の間からキャロルの寝台のある部屋をそっと覗き込もうとした瞬間、背後から剣を突きつけられる感覚に襲われた。

(くせものっ?!)

振り向くとそこには音もなく忍び寄った商人イミル−イズミル王子−が、ただし手には剣など持っていないが、するどい眼差しでアイシスを見つめていた。

「姫はぐっすりとお休みになっておる。夜が明けきるまでは今しばらく時間があるゆえ、姫の眠りを妨げないでいただきたい。」
「そなた、一緒に休んでいるものだと思っていました…」
「それゆえあのように急いで戻ってこられたのか。」
アイシスは含み笑いで物を言うイズミルにカッとして声を荒げそうになったが、イズミルに制止された。

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「昨夜は…」
自分の居間に戻ってきたアイシスはイズミルに言いかけたが、すぐに口をつぐんだ。
(この男の語ることよりも、キャロルから聞いた方がよかろう。いずれにせよイズミル王子は自分の本心など滅多なことでは明かしたりしないだろうし、気取られるそぶりさえ見せなかろうて。)

「いよいよ明日は出立です。旅にあればキャロルも居ることゆえ、なかなか話しにくいこともでてくるであろう。約束は覚えていますね?」
「当然のこと。ナイルの姫が私に恋心を覚え、そしてヒッタイトの王子として姫を妃に迎えよ、との約束、このイズミル王子、神に誓って違わぬと約束しようぞ。」

(で、そなた自身はどうなのです…イズミル王子。)
アイシスは問い正したい思いに駆られたが、イズミル王子の表情にはそれを許さぬ何かがあった。

「実は…エジプトの恥を申すようで情けなくもあるのですが、道中に災いが降りかかりそうな動きがありまする…」
アイシスは話題を変えた。
「ほう…やはりナイルの姫を国外に出すにあたって、一筋縄ではいかぬと見える。」
二人の密やかな話し声はナイルの小波に消されて聞き取ることすら難しい。

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