『 初恋物語 』

31
「わたくしもそのことが気掛かりで…ずっと考えておった。わたくしがヒッタイトを訪れてヒッタイト王や王妃をお慰めしようと思っておる。エジプトとして正式に招待した王女が、この国で事故に遭われ命を落とされたのじゃ。ましてや、エジプトにとってヒッタイトは今微妙な立場にある。なんとしても敵対国になることを防がねばならぬ。」
「おう!姉上が行ってくれるか!それなら安心じゃ。のう、イムホテップ。」
メンフィスは最早問題が片付いたかのように長椅子に寝転んだ。

32
「旅の道のりを考えれば船の方が早くしかもアイシス様の御為にも安全ではあるが、ヒッタイトへの風は逆風…時には嵐もあるゆえ、ここは陸路が望ましいか。」
「しかし、そのために護衛の兵を多く付ければ、諸外国はもとよりヒッタイトに必要以上に警戒心を与えることとなりまする。」
イムホテップとミヌーエ将軍、そこにホルス将軍やアイシス配下のナクト将軍までもが入り乱れてアイシスのヒッタイトへの旅程の相談をしている。

「あまり目立った護衛はわたくしも好まぬ。前後、目の届く範囲で目立たぬようにしてもらいたい。諸外国を刺激することが目的ではないゆえ。」
「ですが、アイシス様、それではあまりにも無用心かと。」
「ならば、わたくしの元に出入りする商人の一団に守らせようぞ。エジプトの次に陸路ヒッタイトを目指す商人団がいたはず。ナクトに前後の安全を確認させつつ進み、ヒッタイト領内に入ったら、ヒッタイト兵に道案内がてら護衛を願い出ればよいではないか。」
「しかし、それではアイシス様の御身に…」
「ミタムン王女も同じ条件でエジプトに参ったのじゃ。わたくしも同じようにしてこそ、ヒッタイト王妃をお慰めする資格があるというもの。おお、そうじゃ。キャロルもミタムン王女とは親しくしておった。姫も連れて参ろう。ヒッタイト王妃はきっとお喜びになるはずじゃ。」

「ナイルの姫君を。姫はお優しい。きっとヒッタイト王妃のお気も晴れるでしょう。」

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「なにーっ!キャロルを連れて行くだと!?」
今まで寝転んで話半分に聞いていたメンフィスが急に起き上がり怒鳴った。
「駄目だ、駄目だ、そんなことは許さん!エジプト女王の姉上一人で充分じゃ!キャロルはその間、私の側に置く!第一、キャロルをヒッタイトなどにやって、あの色好みで有名なヒッタイト王に奪われてしまったらどうするのだ!」

(それが今回の目的なのじゃ…ただし、相手は好色な王ではなく堅物の王子だとはメンフィスも絶対に気が付くまい)

「ヒッタイト王の噂は聞いておるが、まさかあのような少女にまで、しかも自分の娘の死に嘆く王妃を慰めるため訪れた客人に対して、まさか礼を失するようなことは。もしもの時には…わたくしがエジプトのためにナイルの女神の娘を守る覚悟はできておる。」

「おお、女王アイシス様…」
メンフィス以外の人間はアイシスの言葉に深く感動し、キャロルの同行はいつの間にやら既成事実となった。
「フン!面白くない!」
只一人、エジプトのファラオ、メンフィスだけがいつまでも納得せず駄々をこねた。

34
「キャロル、今戻りました。」
アイシスが宮殿に戻ってきた。
「アイシス!」
商人イミル−イズミル王子−は再び平伏し、アイシスを迎える。
キャロルの碧い目の輝きを見れば、このわずかな時間が如何に有意義であったかすぐにわかる。
キャロルと並びイズミルの前に腰を降ろしたアイシスは、キャロルの髪をなでながら言った。
「イミル、そなた、近くヒッタイトへ向けて旅立つとか。」
「はい、エジプトでの商品も整いましたゆえ、ヒッタイトに向けて陸路を進む予定でございます。」
「実はわたくしもヒッタイトに行くことになったのじゃ。だが、あまり多くの兵士に護衛させるのはいかにも物々しく好ましくない。そこでそなたの一団に護衛がてら道案内を頼みたいと思うのじゃが。」
「は、女王アイシス様。おおせの通りに。」

「え?アイシスがヒッタイトに?商人のキャラバンと一緒に旅をするの?すごいわ!」
キャロルの口から次にでる言葉はアイシスにはわかりきっていた。
「私も一緒に行きたいわ!古代のキャラバンよ!なんて素敵なの!」
「わたくしがそなたを置いてゆくわけがないではないか。キャロル、そなたも一緒に行くのじゃ。」
「アイシス、ありがとう!」
キャロルはアイシスに抱きつきその白い身体をアイシスに預けた。

ヒッタイト王子イズミルの目の奥が妖しげに光るのをアイシスは感じていた。
−よいな、イズミル王子。姫が必ずそなたに恋するように。−
アイシスは祈るような気持ちでイズミル王子を見つめ返した。

35
「キャロル様、商人のイミルが参りました。」
アリがキャロルの部屋にやって来て恭しく告げた。

「ナイルの姫、砂漠の旅の心構えと準備などを姫にお教えするよう女王アイシス様に言付かっております。なんなりとこのイミルにお申し付け下さい。」
「あ…イミル、よろしくお願いします。」

イズミルの見るナイルの姫は昨日と違い沈んでいるようにも思えた。
「姫、どうかなさいましたか?」
「昨日はキャラバンと一緒に旅をすることばかり喜んでいたけど、アイシスがヒッタイトを訪問する目的を聞いたら…あんなにはしゃいではいけなかったの。」
「なぜに?」
「イミルも商人であれば、ヒッタイトの王女がこのエジプトで亡くなったことは知っているでしょう?アイシスはそのお詫びと、王女のお母様、ヒッタイト王妃をお慰めするために自らヒッタイト行きを望んだの。ミタムン王女は私にもヒッタイトのことをたくさん教えて下さったのよ。それなのに私は自分のことばかり考えてはしゃいでしまって。アイシスにもミタムン王女にも、お母様のヒッタイト王妃にも申し訳ないわ…」
(ほう…ミタムンやルカが申すとおり、この姫は神の娘らしくもない人間味あふれる性質であることよ。)

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「ナイルの姫、姫のお優しい気持ちはきっと天のヒッタイト王女様に通じていることでしょう。またヒッタイトの王妃様にもエジプトでの王女様のご様子などお話なされば、それが何よりのお慰めになろうと存じます。」
「ありがとう、イミル。」
「さあ、涙をお拭き下さい。無事に砂漠を超えてヒッタイトに到着しなければ、姫のお優しい気持ちを直に伝えることはできないのですから。」

「イミルは私の先生になってくれるのよね。今日から出発の日まで…教えて、私に砂漠の旅のこと、そしてそれ以外のたくさんのことを。」

(まさか恋を教えるためにやって来た、とは思ってもいないであろうな)
「姫のお望みのこと、このイミル、なんでも教えて差し上げまする。」
イズミルはこみ上げる笑いをキャロルに悟られないよう恭しく頭を下げた。

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明後日はいよいよヒッタイトに向けて出立という日、キャロルは宮殿の広い庭でラクダに乗る練習をしていた。

「そうそう…そのようになさって…ナイルの姫はなかなか筋がよろしゅうございます。」
「小さい頃からライアン兄さんに乗馬を教えてもらっていたの。ふふ。」
「なんと、姫は馬にも乗られますか?」
商人イミル−イズミル王子−は驚いてキャロルに聞いた。
「ええ、こっちに来てからアイシスとお忍びで遠乗りにでかけたこともあるの。でもアイシスみたいに上手には乗れないわ。帰りはいつもアイシスに抱かれて戻ってきたし。」
「おお、では、お疲れの際はアイシス様の代わりに恐れながら私がお抱きして旅を続けましょう。それともアイシス様の方がよろしゅうございますか?」
「アイシスだって長旅で疲れてしまうでしょう…アイシスにばかり甘えてはいられないわ。なるべく皆に迷惑をかけないようにするつもりよ。でも、そうね、もしもの時はイミルにお願いしようかしら。」
「アイシス様のお許しがあれば、喜んでナイルの姫をお乗せいたします。」
「あんまり重くはないつもりだけど…」
キャロルはイミルに申し訳なさそうに頬を赤らめた。

「なんの、私は砂漠を旅する商人、姫をお守りするくらいの力はございますぞ。…それに姫は霞のように軽やかでこのイミルの負担になることなどありますまい。」
イズミルはキャロルをラクダから下ろしながら微笑みかけた。

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ルカはその様子を少し離れた場所で眩しげに見ていた。
(なんと…我がイズミル王子が女性にあのように優しくお話なさるのは初めてだ。まるで在りし日のミタムン王女とご一緒の時のように穏やかなご表情、いやそれ以上かもしれぬ。)
王子は常に冷静で、自分の立場を忘れることなど今まで一度たりともなかった。
たとえ、アイシスと謀ったことだとしても、だ。
(王子は優男のような演技をなさる方ではない。何が王子をあのように変えられたのか?)

その時、ルカの背後に褐色の大きな影が立った。
本能でただならぬ雰囲気を感じ取り素早く振り向くと、そこには怒りの表情を隠そうともしないエジプトのファラオ、メンフィスが立っていた。
「どけ!キャロルから離れよ!」
メンフィスはルカになど目もくれずにイミルに向って怒鳴り散らした。
「そなた、姉上の宮殿に出入りする商人とな。姉上の頼みゆえ此度の警護をそなたの一行にも任せることになったが、キャロルに触れてよいとは、言うておらぬわ!」

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イズミルは傲慢な物言いの若きファラオの顔をことさらゆっくりと眺めると、
「申し訳ございませぬ。アイシス様のお申し付けとはいえ、アイシス様のいらっしゃらない場で出すぎた真似をいたしました。ナイルの姫様にもお詫び申し上げます。」

(このような若造に…腸煮えくり返るが、大事の前の小事ぞ。イミルとしてならばいくらでも頭を下げよう。しかし見ておれ!いつの日かこの屈辱、倍にして返してやろうぞ!)

「何を言うのっ!イミルは何も悪いことなんてしていないわっ!」
「フン!そなたを腕に抱いて旅をするなど、商人風情がっ」
メンフィスはキャロルの腕を引き寄せながら吐き捨てるように言った。
「キャロル、姉上との婚儀が正式に決まった。ヒッタイトより戻れば婚儀じゃ。」
「えっ?本当?ああ、良かったわ!アイシス!」
「そして、その次はそなたぞ…。」

メンフィスは最早、イミルなどその場に存在しないかのように、キャロルを身動きできないように強く抱きしめた。
「いやっ!やめて!メンフィス!」
「今はそのように申していても、じきに私から離れられなくなる。本当はヒッタイトになどやりたくないのだが…そうじゃ、旅の途中で私のことばかり考えるようにそなたの身体に私を刻み付けてやろうぞ。」

「な…何をするの!アイシスー!助けてー!」
「姉上ならば婚儀の慶びの報告と旅の安全を祈願して神殿に籠もっておる。あの様子では夜まで戻らないであろう。その間にそなたを…。」

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(如何いたします、イズミル王子。今なら二人力を合わせれば…。)
イズミルはルカの言わんとするところに気付き、立ち上がりかけた。
その時、メンフィスの肩に担がれ今にも連れされれそうなキャロルが首を横に振った。
(いけない!イミルが殺されてしまうわ。)

「さあ!私の宮殿へ行くぞ!」
メンフィスが肩に担いだキャロルを、もう一度安定させるために担ぎなおしたその時。
キャロルは目の前にいたラクダの首にしっかりと抱きついたのだ。

抱きつかれたラクダは、たまったものではない。
急に暴れだし、その鳴声に驚いたメンフィスはキャロルを抱いたまま尻餅をついてしまった。

「ナイルの姫!危ない!」
イズミル王子がラクダの前に投げ出されたキャロルを救い出すのと、ルカが素早く綱を手繰ってラクダを鎮めるのと、ほぼ同時に−。

騒ぎ声を聞きつけたナクト将軍が兵士を連れ庭に走りよってきた。
ナクト将軍が目にしたものは、ナイルの姫を左手でしっかりと抱きしめ、驚きのため動けずにいるメンフィスを悠然と見下ろしているヒッタイトの王子の姿。
−アイシスの治める下エジプトの神殿を警護するこの将軍は当然イズミルの正体を知っている−

「お怪我はございませぬか?メンフィス王。」
イズミルはメンフィスに向ってゆっくりとその右手を差し出した。

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