『 初恋物語 』

21
気高い女王とは言えアイシスも生身の女性である。「嫉妬」という感情がないわけではない。だが、メンフィスに仕える身分低き女性はメンフィスにとって所詮一夜の慰み者。
他国の身分高き女性の中で、メンフィスが心動かされたのはミタムン王女のみ。
それとて、アイシスが仕組んだようなものなので、メンフィスの女性関係で嫉妬したことなど一度もなかったのだ。

ただ、−アイシスが嫉妬という感情を認識することがあるとすれば−自分と自分の分身ともいえる弟メンフィス以外の人間が、キャロルに先ほどのようなことをしたなら、アイシスは狂ったように相手を憎んでしまうかもしれない。
そんなことをぼんやり考えていた。

「キャロル、そなたはわたくしを好きだと申したな。わたくしとメンフィスは瓜二つと言われておる。わたくしを好きだと言うのなら、メンフィスとて同じことではないか?」
「ぜんぜん違うわ!私が言っているのは外見じゃなくて中身のことよ!」
キャロルは薄衣を跳ね除けて起き上がった。

22
「私、知っているのよ。メンフィスはあんな建物が欲しい、こんな事業をやりたい、って言うだけで、実際にこのエジプトの政治を司っているのはアイシスだわ。いつも夜遅くまで書類に目を通して、いろんな計算をして…。ほら、この前のオベリスク建造の時も。」
キャロルが言うのはメンフィスが気まぐれに口にしたオベリスク建造の大事業のことであった。

「メンフィスの言う日に間に合わせるために、どれくらいの人を準備すればよいのか、必要な材料の石をどこからどのように運べばいいのか、アイシスが全て手配したのよ。そして、使役の民が充分に働けるように心を配ったのもアイシスだわ。」
「あれは…メンフィスが使役の民の中に病が流行っているのでどうにかせよと…それで、そなたの知恵を貸してもらったのではないか。」
「メンフィスは不機嫌そうに喚くだけだった。でもアイシスはちゃんと原因を突き止めて、私が汚水を浄化する方法を教えただけよ。私、アイシスの役に立てて嬉しかった。」
「わたくしは父王の頃よりずっとそのような仕事を任されてきたゆえ、慣れているだけじゃ。メンフィスとて直に自分ですべてを執り行うようになろうて。」

「それだけじゃないわ。この宮殿に出入りする多くの商人たち。」
アイシスは心臓が凍りつくような思いに囚われた。
(もしや、キャロルはわたくしと彼らの間の秘め事に気が付いておるのか?…ならぬ!キャロルにだけは知られたくない!)

23
「アイシスは贅沢な買い物もしないのに、出入りする多くの商人の話を直に聞いている。やっぱりそれは他国の情報を商人たちから聞き出しているのでしょう?そうでなければアイシスのように身分の高い女性が、そんなことするわけないもの。」
どうやらキャロルはアイシスにとって都合のいい勘違いをしているらしかった。

「国内の政治も外交も…今のエジプトはアイシス抜きではきっと成り立たないんだわ。でもアイシスが身体を壊してしまいそうで心配なの。それなのにあのメンフィスったら!」

「聞いておると、まるでわたくしがこの国のファラオのように思っておるらしいが、そうではないぞ、キャロル。だが…そうじゃな、男であればそなたを娶っていたかもしれぬ。」
アイシスは高らかに笑いながらキャロルの手を取った。

24
「本当はママじゃなくてライアン兄さんを思い出すの…アイシスを見ていると。」
「ライアン?そなたの兄上じゃな。ならば、なぜライアンと婚姻しなかったのじゃ?」
「私の世界では血の繋がった者同士の結婚は、神様がお許しにならないのよ。」
「しかし、そなたはライアンが好きだったのだな?」
「やあねぇ…そういうのともちょっと違うんだけど、でも、恋をするならライアン兄さんみたいな人と、って思っていたわ。みんなはブラコンだって笑ったんだけど。」
キャロルはクスクスと笑った。
(ブラコンとはなんぞや…?まこと、この娘の申すことは訳がわからぬ時がある。だが、ライアンがキャロルの理想の男性であることは確からしい。)
「もう一度、ライアンのことをわたくしに話して聞かせてくれぬか。」
「うーん、ライアン兄さんはアイシスと同じタイプの人よ…」

25
−キャロルが語るライアンの人物像とは−
父の後継者としてリードコンツェルンという巨大な組織の頂点に立つ有能なリーダーで仕事一筋で、女性にはあまり興味がなく−どうやらアイシスに目もくれなかったらしい−だが、キャロルにだけは優しく、そして家族の中で唯一キャロルを叱る厳しさも持ち…

キャロルの兄自慢は留まるところを知らなかったが、軽い嫉妬を覚えたアイシスはキャロルを優しく制した。
「ほほほ。そのような男がこの世に存在するとは思えぬような高き理想じゃな。」
「まぁ、兄さんだからちょっと贔屓目も入っているけど、でも本当よ。そんな人がこの古代にいたら…きっと私は恋をして…結婚したいと願うわ…きゃっ!」
キャロルは跳ね除けた薄衣を手繰り寄せ恥ずかしげに口元を覆った。
「では…そのような人物がおれば、キャロルはその男の元に往ってしまうのか?わたくしを忘れて…」
「アイシスのことを忘れるわけがないでしょう?アイシスは私の大切なお姉さんのような人よ。アイシスにも祝福してもらって…そして私は愛する人と幸せになるの。結婚してもアイシスの役に立ちたいと私はそう願っているわ。」

26
(どうやらキャロルは恋をして婚姻したいらしい…それがキャロルの幸せのためなのか。しかしキャロルの願うような男がいるであろうか?相手が臣下ではメンフィスも民も納得しないであろう…メンフィスは力でキャロルを奪おうとするやもしれぬ。わたくしは寂しいが、いっそわたくしの影響力のある他国の王に嫁がせてしまおうか?それならばメンフィスも手出しはできぬし、民も納得するであろう。)

アイシスは各国の王の顔を思い浮かべた。
(駄目じゃ…キャロルの嫌うような好色な男共しか…いや、待て…一人おったわ。それどころかキャロルの申す兄ライアンとそっくり同じような男が!口惜しいが、キャロルの幸せとエジプトの繁栄のためぞ!)

27
「なんと申した?アイシス女王よ。」
イズミル王子は思わず聞き返した。
「ですから、ナイルの姫、キャロルをヒッタイトの王子の妃にしていただきたい、と。」

イズミルは唖然とした。
英知あるナイルの姫をなんとかヒッタイトに奪うことはできぬか、そのためにルカをアイシスの元に送り込んだのだ。

「それは願ってもないこと。そのような話であればすぐに正式に使者を立てようぞ。」
「いえ、それでは困るのです。」
ナイルの女神の娘を狙って各国が暗躍していたことなど、アイシスは重々承知していた。
「わたくしはキャロルを政略の道具には使いたくありません。」
「何を申される。ナイルの姫をヒッタイトにという、それこそがそなたの得意とする政略では…?」

イズミルは怪訝そうにアイシスの表情から本心を窺おうとした。
アイシスはイズミル王子に表情を読み取られることを常に嫌っていたのだが、今だけはキャロルのために、胸の中を開いてでもイズミルに願い出るより他に方法がなかったのだ。

28
「どうか…キャロルに恋の悦びを。あの娘は未だ初恋も知らぬ清らかな乙女。そなたにキャロルを託す以外、わたくしにはキャロルを幸せにしてやる手段がないことを知ったのです。」
「若きメンフィス王は、ナイルの姫に心奪われつつあると聞いたが。」
「メンフィスでは駄目なのです。キャロルはメンフィスの妃になるくらいならば、わたくしの花嫁になった方が良いと真顔で申すのじゃ…わたくしも…男であればキャロルの願いを叶えてやりたいと思っておるくらいじゃ。」
「なんと!では私はメンフィス王ではなく、アイシス女王からナイルの姫を奪うことになるのだな。」
「なんとでも申すがよい!だが、キャロルがそなたに恋心を抱かねば、この婚姻をエジプトは、いやわたくしが承知いたしませぬ。」
「良かろう…。で、どのような手筈で…?」
妖しい火花を散らしていたアイシスとイズミルは即座に政治向きの仮面をかぶり今後の相談を重ねていく。

29
「アイシス?こちらにいるの?メンフィスから呼び出されて困っているの…」
キャロルが遠慮がちにアイシスの私室を覗き込んだ。
キャロルの目に映ったのは、アリを従え悠然と微笑むアイシスと、幾多の商品を背後にアイシスに平伏する異国の商人の姿。
「おお、キャロル、ちょうど良いところに。そなたと一緒に珍しい宝石や衣を見ながら異国の話をこの者から聞こうと思っていたのです。」
「まぁ!どこのお国の方?」
「イミル、姫がそなたに問うておる。」
アイシスは平伏する商人にことさら鷹揚に言った。
「私はイミルと申します。各地を旅しながらこのように珍しい品々を仕入れております。ナイルの姫様、どうか以後お見知りおきを。」
顔を伏せたまま、だがハッキリとした口調の商人にキャロルは矢継ぎ早に質問した。
「エジプトに来る前はどちらに?そこからどうやってエジプトに?」
「ほほほ、キャロル、そのように急いではイミルが困っておるではないか。イミル、この姫は広く知識を得たいと思っているようじゃ。もしもそなたに答えられることがあれば聞かせてやって欲しい。」
「は、私でよろしければ…」
「嬉しいわ!アイシス!…でもメンフィスが…」
「よいよい、ちょうどメンフィスに用があるゆえわたくしが行ってこよう。そなたは行かずとも良い。」
アイシスは商人イミル−イズミル王子−にだけ判る眼差しを向けると部屋を出て行った。

30
「姉上、キャロルはどうした?」
宮殿の庭でイムホテップやミヌーエに囲まれて鬱陶しそうにしていたメンフィスが言った。
「キャロルはわたくしの元に来た商人の持参した品々を見ておる。」
「なに!その商人と二人きりでか!」
「アリが付いておるに決まっておろうが。まったく…何を申すのやら。」

「アイシス様に申し上げます。今、メンフィス様にご報告していたところなのですが、先のヒッタイト王女ミタムン様の一件で、ヒッタイト国より使者が参りました。旅先で亡くされた王女様を偲んでヒッタイト王妃がいたくお嘆きとか。また、ヒッタイト王は真相究明を要求しエジプトへの態度を硬化しておりまする。如何いたしましょう。アイシス様。」
エジプトの知恵と言われる宰相イムホテップの言うことの一部は事実であった。
しかし、そのような使者はミタムン王女の死後すぐに来ていたものであって、今に始まったことではない。
彼らがいちいち報告しなかっただけで、そういう使者が来ていたことはアイシスはとっくに承知していた。
だが、ヒッタイト王の態度の硬化という新情報は、つい先程のイズミル王子との会談で決まった話。なんと手回しの良い王子よ…とアイシスは心の中で思った。

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