『 エジプトの王妃 』


31
 どこで話を聞きつけたのか、耳ざといもので、
「テーベの街はすごい騒ぎだとさ。いいや街どころじゃないよ。きっと世界中が大騒ぎさ」
 と煽り言葉を置いたあと、工事中止の訳を快活に話しはじめた。
 ココサァニは、奴隷達のどよめきをどこか心遠くに聞きながら、
(ああ、こんなことが起こるなんて)
 一人呆然とメンフィスの心情を思う。しかしそれはとうてい彼女の思惟の届くところにはない。
王とは誰しも、民の想像が及ばないほどに争心の血に巻き込まれて生きるものなのだ。






 ヒッタイトの王女、エジプト宮内にて死す。

 エジプト王とヒッタイト王女の婚儀まであと半月。実りを待つ佳境におこった暗殺であった。
 ミタムンの命を奪ったのはなんと、ヒッタイトから付き従ってきた護衛兵の男。
祖国の姫に刃を向けた謀臣の持ち物を調べてみれば、一介の兵士が持ち得るはずのない見事な金の塊が出てきた。
すでにその男は死して、ものは言わねど、これで筋書きは容易に浮かんでくる。
男は何者かにミタムン王女暗殺を依頼され、不義極まって黄金に目がくらみ、その刃を謀反の血で染めたという
わけだ。しかし、居あわせた王女傍づきの老侍女をも口封じに殺そうとしている間一髪のとき、たまたま騒動を察して、いち早く駈けつけてきたエジプト兵に、男は切り殺されてしまった。
 誰しもがそう思った。
 しかし本当の筋書きは少し違う。それを知っている者。そう、ミタムン暗殺のすべてをあやつった者とは?


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「敵の多いヒッタイト王のこと。あれこれ心当たりが多すぎて困っていることであろう」
 アイシスはゆったりと豪奢な椅子に身をあずけ、手持ちの扇を優美にゆらしながら、さも楽しげに笑った。
 妃候補の時点でミタムンが暗殺されたとなれば、まずこのアイシスが黒幕と疑われるのは必至であった。
だがメンフィスとミタムンの婚約が成立した今となれば話は別である。
富国エジプトと強国ヒッタイトの結婚による癒着を歓迎しない諸王など、
この世にあふれかえっているのだ。それを見通せないアイシスではない。
これまで彼女がミタムンに優しさを尽くし、うちたくも無い芝居をうって弟王との仲立ち役をつとめたのも、すべては好機を計ってのことだった。
「うまくいきましたな、アイシス様」
 すばやく現場に駈けつけて、暗殺者をいち早く切り殺したエジプト兵士。その男がにやりと唇をゆがませた。
「そなたの首尾、まことに上々ぞ。あの男、生かしておいては、あとあと面倒であった。
見張り役として近場に潜んでいた手組みのそなたに、有無も言えずに切り捨てられたとは、あの男もさぞ無念であったろうな」
 と、またひときわ楽しげに笑い声をあげた。
「礼を言うぞ」
「もったいない」
 男はひざまずき、うやうやしくアイシスの手をとった。その物腰にはあきらかに美貌の女王への恋慕が見えたが、それ以上のふるまいは、とても叶わぬものとはじめから諦めているようだった。
(良い仕事のあとじゃ。少しは褒美をあたえねばのう)
 アイシスは男の頭の後ろにしなやかに手をまわすと、そのまま胸元に引きよせて、彼の骨ばった頬に薄絹ごしの豊かな乳房の感触を教えてやった。
そのまま髪を一度だけ優しくなでつけたあと、身はすぐに離された。
アイシスが男を見下ろすと、彼はすでに恍惚の態となり、女神を崇める瞳で自分を見上げていた。
「アイシス様のためでしたら、私はどのようなこともいたします」
 信奉者の誓言を耳にして、艶麗の女は心の内で嘲笑した。
(あの男もまったく同じことを言っていた)


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 ヒッタイトの護衛兵のなかで一番年若かったあの男を買収、いや籠絡したのは、言うまでもなくアイシスだった。金塊を手に持たせて、
「事が果たされた暁には、さらなるお礼をさせていただきます。わたくしの閨房にて……」
アイシスのこの一言で、彼は、それまで一途に抱いていた青年らしい愛国心も忠誠心も、何もかもを捨ててしまった。

 ----愚かな男達よ。それほどまでに、この私が欲しいのか。この私に触れたいのか。
   笑止な。この私が触れたい男は、お前達などではない。
   私が触れたいのは、触れて欲しいのは、この世にただ一人……。
   メンフィス、あなたしかいない。

 今日まで、愛するメンフィスに寄りそうミタムンの姿に、どれほど身も燃える嫉妬を味わったことか。
胸に溜まりゆく殺意。それを誰にも悟られてはならぬという一念で、アイシスはミタムンに微笑みを捧げ続けてきた。
(憎い女よ。よくぞ死んでくれた)
 そう、アイシスはなんとしてもミタムンを殺さねばならなかった。彼女にとって怖いものはミタムン----いや、鉄器を思うままにあやつるヒッタイト国を後ろ盾に持つあの王女だけだったのだ。
その者さえこの世から消えてくれれば、あとの万女など取るに足りない塵のようなもの。そう信じていた。
 しかしこの時となってもまだ、アイシスの胸にはしこるものがある。
それは二ヶ月前にメンフィスが拾ってきた、あの異国の娘。
婚約者ミタムンの影に隠れて、今まではそう気にはならなかったが、ミタムンが片付いたとたん、今度はその娘が目障りに思えてしかたがない。
(メンフィス……、かねてから戯れで寵姫を召すことはよくあったが、こう同じ娘ばかりを傍に置きたがるあなたは見たことがない)
 好敵を葬った喜びに笑った心が、にわかにひんやりと冷めては、いいしれぬ不安にとらわれる。
(あの娘、消すしかあるまいのう……)
 メンフィスの妃となり、エジプト王妃となるその日まで、アイシスの殺鬼の血が静まることはない。


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 宰相イムホテップは、民心をおもんばかっていた。
「不運なことに、父君様、婚約者様と悲しい死が続いてしまいましたな」
 名君であった先王ネフェルマアトの暗殺死は、いまだ国民の心を暗く傷つけているというのに、今度は新王の婚約者ミタムンがまたもや暗殺によって死してしまった。
エジプト王宮での重なる不幸に民は不安を覚え、長の喪期で覇気を失い暮らしていた。
「ミタムン王女の喪がようよう明けましたなれば、今こそすみやかなるご決断で、民の沈んだ心を鼓舞してやらねばなりますまい。ファラオよ、一日も早くアイシス様とご婚約なさり、国民へ告示をなされますよう」
 エジプトの知恵と呼ばれるこの宰相は、どんなときにも憎らしいほどの最善の策を突きつけてくる。
 幼き頃よりイムホテップの忠言に重きをおいていたメンフィスだが、このときばかりは、すぐには首をたてに振れなかった。
 若年ながらに賢明なる国王が心迷わせている理由を、イムホテップは内心十分に察していた。 
(このメンフィス様が本当の恋をなさったか……。奴隷村から拾ってきたあの娘に)
 女人に対しては残酷なまでに冷めていた若君が、ようやく掴んだ真の恋と知りつつも、イムホテップは二人の結婚を支持してやることはできない。メンフィスの心情に気づかぬふりをして、今またアイシスを語るのは、国の行方を見誤るわけにはいかない宰相ゆえの決心であった。
「上エジプトに勢力あるメンフィス様、下エジプトに勢力あるアイシス様、御姉弟の結婚により上下エジプトの全国民が、より安寧に暮らすことになりましょう」
 その言葉の裏をさぐるならば、アイシスと結婚しなければエジプトの上下和平が崩れる恐れをはらんでいるとも読みとれる。
 さらにはイムホテップの鋭い眼光のなかにメンフィスへの訓戒があった。

 ----あなたはエジプトの王であらせられまするぞ。
   一介の民のように、俗心のままに恋の道をお選びになれるお立場ではありますまい。
   あなたの妻なるはこのエジプトの王妃。それをお忘れなきよう。

 メンフィスは苦々しくその目をにらみかえした。
 張りつめた空気のなかに、窓下あたりから柔らかな風にも似た歌声が吹き込んできたのはそんなときだった。


35


     エジプトをはぐくみし
     おおいなる河
     母なるナイルよ
 
     誰にこそ告げん
     わがエジプトに
     ソティス星現れしとき
     黄金に輝ける乙女
     ナイルの岸に立つ
 
     そは
     ナイルの女神の
     産みし娘なり……

     その姿
     流るるナイルのごとく麗しく
     その微笑み
     すべての者を魅了する

     ナイルの女神の産みし娘
     わがデシェレトに恵みをもたらさん
     


「ほほう、伝説の乙女の歌ですな。おそらく西の宮の侍女の者が歌っているのでしょう」
 声の主の姿は見えないが、イムホテップの言うとおり確かにその向きから聞こえてくる。
 メンフィスは、
「ここからはナイルが良く見えるのだな」
 と言ったきり、黙り込んでしまった。


36
 王宮の西の庭。
 聞こえる水のせせらぎ。その音に誘われて歩いてゆけば、なぜかいつも突然の心地で地の端にたどりつく。
キャロルは日々この場所に立ち、目の前にひろがるナイルの流れに胸を奪われていた。
 手をのばして小さな花束を流れにそっとさらわせる金色の髪の娘。
その姿はどうにも人の目を誘わずにはおかない。あれはきっと、神の娘が母なるナイルの女神に祈りを捧げているのだ----そんな噂が出るのも無理からぬ、はかなくも優美な光景なのである。
 キャロルがナイルのほとりに立つと、誰かしら知らず、あの古くからエジプトに伝わる伝説の乙女の歌をうたい出すことがよくあった。
  金色に輝く乙女
  ナイルの岸に立つ
 どこか現実ばなれした美少女は、今、その青い瞳で波間に浮き沈み流れゆく花束を見送ていた。
このとき彼女が胸をしめつけられる思いで祈っていたのは、セフォラとセチの冥福であった。
 あの夜、セフォラとセチは異国人をかくまった罪で入牢した。キャロルが二人の身の行方を案じ、探し出したときには時すでに遅し、セフォラとセチは拷問の末、そのときすでに死していた。
悔やんでも悔やみきれないとはこのことである。

 ----ごめんなさい。私のために……
   私が古代へ来てしまったから、セフォラとセチは死んでしまった……

 あの日からその想いが消えたことはない。
 名残惜しさを感じながらも河を背にすると、思いがけず近くに護衛の青年が立っていた。
「ウナス」
 キャロルは決してこの青年を嫌いではなかった。
しかし、こういつもいつも影のように張り付いてこられては、どうにも息がつまってしまう。
しかも忠臣の彼が口にすることと言えば、きまって主君メンフィスのことばかりなのである。


37
「まもなくファラオがイムホテップ様との談合を終えられます。さあ、その前に宮殿へお戻りください」
「メンフィスが来るのね。い、いやよ。会いたくないわ」
 心に反していることを言っているのは十分自覚していた。だが彼女の信念とは反していない。
 ----会えばもっと好きになる。
 それが怖かった。
 ----どんなときも歴史の傍観者であることを忘れてはいけない。
   古代エジプトのファラオと恋に落ちるなんて、とんでもないことだわ。
 キャロルはこの古代の世界にいる以上は、できる限りひっそりと、息を沈めるようにして生きていこうと心に誓っていた。
「そんなことはおっしゃらず、さあ」
「いや。だめよ。まだ戻りたくないの」
 少女の胸にどれほどメンフィスへの憧れがつのっているか、それが読み取れないウナスは、
「メンフィス王は勇猛果敢なる我がエジプトの誇れるファラオです。
若くて美しい王に、どんな娘も一目で恋に落ちる。なのになぜあなたはファラオの腕に抱かれないのです」
 心から不思議そうな顔をしてこんなことを言ってくる。
「なっ、何を言うの!ウナス」
「ファラオが全身であなたの愛を得ようとしておられるのです。どうかキャロル様、ファラオの腕に」  
「もう、人の気も知らないで!私はこの時代の人間じゃないと何度も言っているでしょう。
あやまって20世紀のナイル河に落ちたとき、不思議な力でこの時代に流れついてしまったの。
だからこの世界に留まってはいけない人間なのよ。それは歴史の流れを変えることに……」
「おっしゃる意味がわかりません」
 キャロルは虚脱したようにため息をついた。
 ----ああ、誰に話しても理解してもらえない。私が未来から来た真実を。
 理解どころか、この頃では、ナイルの女神の娘と誤解する人々まで現れて、気がつけば宮人達に「ナイルの娘」などと呼ばれている始末。
 ----神の娘だなんてとんでもないわ。私は20世紀のアメリカ人キャロルよ。
 そう叫び出したくなるものの、言ったところで誰がわかってくれるだろう。


38
「キャロル様、さあお早く」
 ウナスにせっつかれるように殿楼に戻ると、寸刻遅れて力ある足音が向かってきた。
エジプト王はいましがたイムホテップとの談議を終えたばかりの、昂ぶる気をそのままにして扉をひらく。
「喉が渇いた。水を持て」
 一人の侍女がメンフィスのそばに走り来て、うやうやしく水杯をさしだした。
「キャロルの水しか飲まぬといつも言っておろう。お前などに用は無い。さがれい!」
 杯を取り上げたそばから、口もつけずに荒々しく床に投げつけた。
「お、お許しを」
 粉々に砕ける杯の音吐に、先輩侍女達は耳をひきつらせて、今日入りたての新入り侍女の身をひっこめさせた。
かわりに、「ナイルの娘、早く、早く」と侍女テティに急かされながら、新たな水杯をもってキャロルが姿をあらわした。
「そばに座れ」
「は…、はい」
「もっと近くにだ」
 キャロルが心もち、形ばかりに身を近づけると、
「違う!もっと近くだ」
 と、いきなりメンフィスの腕が伸びて、白い細腕をぐいときつく引っぱった。
 キャロルは長椅子のうえで身をからめとられて、人目が気になってしょうがないというのに、若きエジプト王は、そんな気まわしとは一切無縁の気質である。
むしろもっと絡みつけと言わんばかりに、たくましい腕の力を増していく。
 ----こわい……
 でも胸がときめく。
 いまもメンフィスに握られた肌が、甘く熱い。
 ----また惹かれて……
  好きになってはいけないと思えば思うほど、心は逆行していくものなのか……


39
「メンフィス様、あ、あの、アイシス様がお見えになられました」
 テティの遠慮がちな取り次ぎの声に救われて、キャロルはようやく理性との戦いから解放された。
「向こうへ行っていろ」
 アイシス女王が不得手なキャロルにとっては、そうさせてもらえるのは有り難い限りだ。
 さっきまでそこに憎い異国娘が座っていたとは露知らず、アイシスは上機嫌の面持ちでメンフィスの傍らに身を添えた。
「メンフィス、たったいまイムホテップから聞きました。わたくしとの婚約を決断したそうですね」
「……」
「うれしいわ。わたくしはあなたと結婚する運命を幼いころから信じてきたのだもの」
 弟王は重たげな口をようやく開いた。
「解せぬな」
「まあ、何が?」
「ならば何故にあれほどまでの執心でミタムン王女との結婚を勧められたのか」
「ほほほ。それはあなたにも分かっているでしょう。
あれはヒッタイトから鉄の製造技術を得るためにとった、エジプト女王の苦肉の策というものです」
 アイシスの見慣れた顔を見ていると、メンフィスはなにやら宝石でできた人形と話しているようで、女の生々しさというものを感じない。これではたとえ初夜の晩をむかえても、とても彼女を新妻として愛撫できる気がしなかった。メンフィスにとってアイシスはどこまでいっても「姉」なのだ。
しかしそのアイシスはメンフィスのことを「男」としか感じない。この姉弟の悲劇がそこにある。


40
 だがこの勝負、姉アイシスがもはや勝ち取った。
メンフィスとアイシスの婚約が公布されたのはそれからまもなくのこと。民の喜びようは大変なもので、イムホテップの先見どおり、この婚約はエジプトを覆っていた暗鬼の気をいっきに払い去っていった。
「ほほほ、アリや見たか、民たちの祝福の姿を」
「はい。アリは嬉しゅうございます」
 アイシスの腹心アリは、ひれ伏して両手を捧げ、大切なる女王の幸運を崇めた。
「あと一月のちには結婚の儀じゃ。わたくしはとうとうメンフィスの妻となるのです」
「そして、このエジプトの王妃となられるのでございますね」
「エジプトの王妃か。ほほほ、よき響きじゃ」
「まことに。エジプトの王妃は、世界の王妃でございますもの」
 ひとしきり笑ったあと、幸せの只中の一点の曇りが思い出されたのか、もうすぐ花嫁となる麗しの唇から、またもや不気味な言葉がこぼれおちた。
「それにしても目障りなのは、あの娘……」
 キャロルに刺客を送りこむ時を狙って常々目を光らせていたが、いかなるときもメンフィスの従臣ウナスらが側近くにつききりで、どうにもその機をつかむことができずにいた。
 ----外から近づけぬのなら、内から攻めるが良策というもの。
 策士アイシスはそう読んで、先の頃より仕掛けを変えた。
「ああ、苛立たしや。はようあの娘の骸(むくろ)が見たいものよ」
 アリは意を得て、一歩アイシスに近づいた。
「では、そろそろ……。外から近づけぬのなら、内から攻める、でございましたな」
 主従は顔を見あわせてうなずいた。

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