『 エジプトの王妃 』 41 目頭がかっと熱くなった。 ----人の噂で知るなんて。 キャロルは侍女達のおしゃべりの輪のなかで懸命に動揺を隠していた。 「花嫁の輝きっていうのかしら、このごろのアイシス様は前にもましてお美しいわね」 「ほんと。見ているだけでため息がでるわあ」 まがいなりにもメンフィスの寵姫を前にして、女同士の喋りの昂揚とはずいぶん無遠慮なものである。 ----メンフィスがあのアイシス女王と婚約したなんて。 先輩格のテティが女達の姦しさへ口をさしはさんだ。 「あなた達、ナイルの娘にお聞かせしてよい話ではないでしょう」 心優しいのはこの侍女の長所だが、こう馬鹿正直にかばわれては、キャロルはかえって惨めになるというものだ。 「あら、だって……」 一人の侍女がごもごもと声を弱くして言い訳をする。 「ナイルの娘はファラオとご一緒だと、いつも困り顔ばかりなさるんですもの。 それにファラオが幾日もお見えにならないのに、少しもお淋しそうではないご様子ですし……」 そうそう、と顔を見あわせて頷きあう侍女達を見るかぎり、キャロルの恋心をまだ誰一人として察していないようだ。 ----あんなに素敵なメンフィス様をお嫌いだなんて、ナイルの娘は不思議な寵姫様。 誰も声には出さないが、つぐんだ口こそそう言っている。 統治者ゆえの忙事を背負いながらも可能な限り時間の隙間を見つけては、毎日自分のもとへ通ってくれていた男が、アイシスとの婚約を公布してからのここ五日、ふっつりと姿を現さない。 42 (私の頑なな態度に、もう飽き飽きしてしまったのかもしれないわ) エジプトの王者たるものが、いつ会ってもなついてこない子供など、そういつまでも寵していようわけが無い気がした。しかも婚約者となった女王を思うとき、あのあでやかな美貌にしなだれかかられて、身も心も溶けない男がこの世にいるとは信じがたい。 (メンフィスはこのまま私のことを忘れてしまうかも。いや……、もうすでに嫌われてしまったのかもしれない) キャロルは、できることなら愛しい胸にすがりつき、「あれほど私を愛していると言っておきながら、あなたは他の人と結婚するの?どうか私の心を傷つけないで」と泣き崩れてみたかった。 三千年の時の隔たりだの、歴史の歪曲などと頭でっかちな理性ばかりに縛られないで、雄雄しく美しい青年に恋をする一人の少女として、メンフィスに真心を与えられたら…… (ばかな。異時代に生きていることを自覚しなければ。すでに私のために二人もの古代人が死んでしまってるのよ) セフォラとセチ。キャロルにとってあの恩人達の死は、心に深く打ちつけられた杭のように重かった。 (ああ、いたたまれないわ) そうこうしているうちに侍女達の口にまたもやメンフィスとアイシスの婚約の噂話が再燃しはじめている。 キャロルは知っていた。これはこの部屋だけのことではなく、おそらくエジプト中が王と女王の婚約を歓喜し、心を沸かせているのだろう、と。 少女は叶うことなら古代世界の全ての音から耳を覆ってしまいたい心境で、それでも唇を微笑んだまま固まらせ、じっと助けの舟を待っていた。 そしてようやく、 「お湯浴みのお支度がととのいました」 待ちに待った言葉をかけてきたのは、あの日メンフィスから叱責を被っていた新米侍女であった。 「どうもありがとう」 ようやく偽りのない笑みがこぼれた。 43 キャロルは自分を迎えに来てくれた新入りの侍女とともに湯浴み屋へと入っていった。 いかなるときもキャロルの身許を離れないウナスも、さすがにそこまでついてゆくわけにもいかず、彼は湯殿の入り口を目の隅に留めて、付かず離れずに距離を置く。 キャロルは束の間の開放感を得たとひとごこちする。 (お湯につかって目を閉じていれば、その間は自分だけの時間が手に入るわ。 この新しく入った人はとても無口な人だし……) サラサラと薄衣のこすれる音がやみ、キャロルが一糸纏わぬ姿になったその刹那、 ----いまだ! 侍女の目が光った。 「あっ!」 「おっと、大きな声を出してもらっては困るんだよ、奴隷娘」 侍女はキャロルの喉元あたりに短剣を置いた。 「……あ……あ……、なぜ……あなたが……あなたはメンフィスの侍女なのに」 「ふふふ、偽りのな」 「えっ」 「この時を狙わんと侍女に身をやつして潜り込んだまでのこと。本当の私は……」 女は鮮やかな「刺客」の手業でキャロルの腹をついた。 「ふふふ、たわいもない」 気を失ったキャロルを湯へつからせると、女はあらかじめ物陰に隠しておいた籠をとりだした。 「さあ、あとはお前達に頼んだよ。アイシス女王の可愛い使者よ」 女は美々しい金色の髪にサソリどもを振りかけた。それらが白い額に、肩に、胸に、 カサカサと乾いた足を交差してはべっていく。 (アイシス女王、抜かりなく仰せのとおりに) この湯浴み屋という密室こそ、アイシスがキャロル暗殺に選んだ舞台であった。 あとはキャロルの死を見届けたあと、なにくわぬ顔をしてここから立ち去れば良い。 44 恐らくウナスがそれを見とめて、「キャロル様はどうした」と訊いてくるであろうが、こちらは返り血ひとつ浴びてはおらぬのだ。涼しい顔をして、「はい。まだ湯のなかにおられます。 ご愛用のロータスの香油が切れてしまったので、取りに行ってまいります」 と言えば済むこと。アイシスの入れ知恵を受けて、女の計画はどこまでも周到だった。 (さあ、早いところ片付けてしまっておくれ) 満足そうにサソリ達を見つめていた目に、すっと緊張が走った。 ----なにっ! 聞き覚えのある力強い足音が、微塵のためらいも見せずに湯殿の入り口を超えてくる。 (メンフィス王!) 女はなんとか王を追い払おうと懸命に平静を装った。 「いかがなされましたでしょうか、メンフィス様」 しかしエジプト王はその声に見向きもせずに、湯槽のほうに向かって白く丸いものを投げ入れた。 「プニャーーーッ」 突然の温水に驚いたのか、白い子猫が飛び上がるような声をあげた。 「侍女よ」 「は…はい」 「キャロルに伝えよ。あの猫は今日視察した農地で見つけたものだ。 このごろ繁務極まりて久しくそなたに会えぬので、私を忘れぬように抱いておれと」 「かしこまりました」 侍女は安堵のため息をひそかに漏らしながら頭をさげた。 来たときと同様、突然立ち去ろうとするメンフィスの足がぴたりと止まった。 「何の音だ」 「え?いえ、な、なんでも…ございませんが…」 振り返ったメンフィスの目に耳に、一匹の殺人鬼がカサカサと足音をたてて現れた。 45 眠りの底からふわりと体をすくい上げられた。 目をあけなくても、それが誰の腕なのかキャロルにはわかる。少女は心でその名を呼んだ。 ----メンフィス…… そのまま揚揚とした鼓動のような歩みに身をゆだねれば、覚醒したての頼りない意識が、いきなり熟した喜びの感覚で染まっていく。 (ああ、助けに来てくれたのね。メンフィス) 湯浴みに従ってきた侍女に、突然の刃を突きつけられたところまでは覚えている。 だがそのあとの記憶は昏倒の霧のなか。胸から取り落としたように、ぽかりとした空白が浮いていた。 「気がついたか!いっこうに目を覚まさぬので案じたぞ」 キャロルは、このとき自分の顔をのぞきこんできた男の顔だけは、この先どんなに月日が流れても決して忘れることはないだろうと感じていた。 「……そなたが無事でよかった」 どのようなときも豪気の面様しかみせようとしないエジプトの王者が、常のプライドをかなぐり捨てて怯えた心をさらけだしている。 その真摯な想いが嬉しくて、青い瞳から涙と微笑みがまざりあって零れた。 「私をおいて死することなど決して許さぬぞ。よいな」 そんなひとときの夢のような逢瀬が壊れたのは、 またもや古代エジプト王室に大いなる変貌が訪れようとする前兆のなかであった。 「メンフィス王!恐れ入りまする!」 臣下の者が血相を変えて馳せ来ると、王の足許へ身を落とした。 「女が吐いたのか」 「はい、ようやく。まことにしぶとい女でございました。 片腕を切り落とし、片目を刺して、ようよう吐かせた次第でございます」 46 「誰の手の者だ」 「恐れながら」 さすがに言い辛さは隠せないのか、臣下は一呼吸ほど押し黙ったあと、意を決したように、まもなくエジプト王妃となるべき者の名を伝えた。 「なんということぞ。まことか!」 臣下の者はもはや、「恐れながら」という言葉を繰り返すことしかできないようだった。 「姉上のもとへ参る」 幾人かの兵士達がすぐさまファラオの後につこうとしたが、 「ミヌーエのみで良い。それからウナス、キャロルをしかと頼んだぞ」 メンフィスはそう申し渡した。 合わせ慣れた主君の歩幅に従いながら、腹心の将軍ミヌーエは胸中を騒がせていた。 ----ファラオはアイシス様にどのような態度をとられるおつもりであろう。 今日まで力をあわせてエジプトを守ってこられたこの御姉弟に、憎しみあいは似合わない。 もしもそのような事態となれば、亡きネフェルマアト王のお嘆きはいかばかりか。 メンフィスの鬼のような形相を見てとれば、ミヌーエがそう危ぶむのも無理はない。 「姉上」 「メンフィス。まあ、ずいぶん恐い顔をしているのね。どうしたのですか」 そろそろキャロルを仕留めたころだと予覚していたアイシスは、訪問者の怒気を見たところで機嫌の良さを崩すことはなかった。 しかし、 「なにゆえ力なきあの娘を殺そうとする」 メンフィスの言葉に事の未遂を教えられる。 ----ええい!生き伸びたか、いまいましい娘よ。 アイシスは一瞬、激しく動じたが、すぐにいつもの冷静な微笑を取り戻した。 「そう、知ってしまったのですか。メンフィス」 47 アイシスは弟王の片頬に甘えたように手のひらをおいた。 「どうかそんなに怒らないで。すべてはあなたを愛するがゆえです」 その姉の手を嫌気がさしたように払い捨てて、メンフィスは一喝する。 「私に触れるな!」 さすがにこの冷罵がこたえたのか、 「おお、メンフィス、なんという目でわたくしを見るのです」 アイシスは悲哀の目で訴えた。 しかし最愛の女を殺されかける悪夢をつきつけられ、怒り心頭に発していたメンフィスには、 アイシスの哀愁が白々しい媚態にしか見えず、抑えようのない悪寒さえ覚えてしまう。 「姉上よ、エジプトの王としてそなたに下命す!ただちに最上階へ行かれい!」 それは幽閉を意味していた。 アイシスは俄に青ざめて、弟の胸をかきむしるようにとりすがった。 「おお、メンフィス、自分の言っていることが分かっているのですか!」 「触るなと申したであろう」 「あの娘はただの寵姫ではないですか。わたくしはあなたの妃となる身なのですよ。 未来のエジプト王妃がなにゆえに奴隷娘一人を殺そうとしたくらいで囚われねばならないのです」 「奴隷娘などと申すな!キャロルは我が最愛の娘ぞ」 「なんということを!」 「姉上は大切なるキャロルを葬ろうとする者だ。そのような者に我が王宮をうろつかれるのは我慢ならぬ」 「メンフィス!わたくしはあなただけを愛しているのよ、メンフィス。誰よりも。誰よりも」 アイシスは涙をこぼしながらメンフィスの唇にむりやり己が唇を重ねた。 弟は姉の体を突き放すように押しのけると、重苦しい愛から逃げるように背をむけた。 「ミヌーエ、姉上を連れてゆけ!固く鎖錠し、何人たりとも入室まかりならん」 遠ざかる愛しい男の足音を聞きながら泣き崩れるアイシスの片手を、ミヌーエはそっと取った。 48 「アイシス様」 「将軍……。わたくしはまもなくメンフィスの妃となるこのときになって、取り返しのつかぬ愚かなことをしたのかもしれぬ。不安です。不安でたまらない。 メンフィスは私を捨てて、まさかあの娘をエジプトの王妃として迎えたいと願っているのでは……」 「聡明なるアイシス様、いまファラオは燃ゆる怒りにとらわれておられます。 このうえはなにとぞファラオの命にお従い下さいませ。 時過ぎれば御姉弟の情のもと、お心が和らぐことは明らかでございます」 ミヌーエの言葉を受け入れて重い足をひきずりはじめたアイシスの背を、臣下の声がひきとめた。 「アイシス様」 振り返ると、主君の悲劇を悟ったのであろう、侍女アリが顔を泣き濡らし立ちつくしていた。 「アイシス様、どうかこのアリもお連れ下さいませ。 いかなる時もアイシス様のお側を離れず、命をかけてお仕えしとうございます」 「おお、アリ……」 何人たりとも入室まかりならん、の言葉をメンフィスから言い渡されたミヌーエであったが、アイシスに身も心も捧げる覚悟のアリを目の当たりにしていると、まるでメンフィスへ対する自分の想いを重ね見るようで、無情に主従の絆を引き裂くことが忍びなかった。 「後日、折りを見て私からファラオへお話ししてみよう。アリよ。 そなたの願いが叶うように取りはからってやるゆえ、それまでお傍離れを耐えて待っておれ」 「おお、ありがとうございます。ミヌーエ様」 ミヌーエはこれ以上の時を置かず、そのまま女王を最上階の部屋へ連れていった。 (ほう、これは) 思いがはずれて彼は安堵した。幽閉のためにつくられたというこの部屋は、もっと暗く寒々とした場所かと想像していたが、思いのほか造りも調度品も豪奢で、これならば生まれながらの王族アイシスにも、それほど不自由な空間ではないはずだ。 49 ----ファラオは、やはり姉君様を大切に思われている。 ここで静かな時間を得て、キャロル様への殺意を静めて欲しいと願ってのことなのであろう。 そのときのミヌーエの直感とまったく同じものを、その数日後に入室してきたアリも感じていた。 「アリや。ここに閉じ込められてからというもの、わたくしは涙をとめるすべを見失っておるのだ……」 「どうかお嘆きなされまするな、アイシス様。まもなくここから出られる日も参りましょう」 アリの言葉が慰めになっているのか、どうなのか。アイシスはうわごとのようにこう問うてきた。 「メンフィスはどうしておる」 「それは……」 アリはアイシスを気遣って言葉をつまらせた。 「真実を申せ。そなたにまで嘘をつかれとうは無い」 主君にそう言われれば、もはや偽りは口にできない。 「メンフィス王はただいまアメン神殿においでです。あの娘とともに」 「なに!」 そこは高官しか入れない厳粛なる聖殿。 本来ならばキャロルのような一介の宮人が軽々しく立ち入れる場所ではない。 「メンフィスはアメン神殿にあの卑しき奴隷娘をつれていったというのか!」 「はい」 「おお、このたびの暗殺失敗といい、なぜに運命の神はあの娘に微笑みを与えるのか!」 アイシスは乱れる気持ちを自尊心で抑え込むように、瞳を固く閉じた。 「あの娘には、なにかわたくしの知らぬ未知なる力が働いているとでもいうのか」 ひとりごとのようにつぶやいたアイシスの声に、アリが敏感に言葉をかえしてきた。 「そのことでございますが……。あの娘、ナイルの女神の娘と言われておりますが、それもあながち嘘ではないように思われます」 「どういうことじゃ」 |