『 エジプトの王妃 』


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 帰城するなり、女官長ナフテラを呼びつける声が響いた。
「およびでございましょうか、メンフィス様」
「この娘に湯浴みをさせ、身なりを整えてやれ」
 ナフテラは王が連れてきた異国の娘を引き取ると、湯殿へ導いてやった。
みすぼらしい奴隷服は焼かれ、代わりに肌触りの良い薄布で仕立てた美装をあてがわれ、美しい髪飾りを肩まで垂らせば、キャロルは見事なまでの麗麗の姫と生まれ変わった。
 その仕上がりに満足したメンフィスは、自分の傍らに彼女を引きよせて昼餉の席に加えさせた。
 新王の戴冠を祝うために滞在している諸国の賓客達の好奇の視線にさらされながら、キャロルが身を硬くして席を得るなり、
「メンフィス、その娘は何者です」
 あきらかに悪感情に満ちた女の声。
「そのような怪しき者をなぜに傍に置くのです」
 威圧さえ覚える稀代の美貌の持ち主、メンフィスの姉であるアイシスが、キャロルを睨みすえていた。
 メンフィスは姉の方を向くことも無く、
「なぜとは無粋な。気に入ったので連れてきた。それだけのことです」
 と笑いながら、キャロルの瞳をまっすぐに捉えてみせた。
どきり、という音が洩れたのではないかと思うほどに、キャロルの胸はメンフィスのそばで高鳴りを放つ。
「まだ名を聞いていなかったな。申せ」
「……キャロル」
「キャロルか、良い名だ」
 メンフィスは愛しそうに金色の髪を指先にからませた。
 その姿に業が煮えたか、ろくろく食も取らぬままに席を辞する者がいた。
「わたくし、これで失礼いたしますわ」


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 それを引き止めようと、あのアイシスが慌てた。
「おお、ミタムン王女。どうかお待ち願います」
 しかし王女は振り返ることもなく、足早に場を去っていった。
「メンフィス!どういうつもりです。ミタムン王女が気分を損じたではないですか」
「ふん、あんな女」
「またそのような不遜なもの言いを。あのミタムン王女以上にあなたに相応しい姫が一体どこにいるというのです」
 メンフィスはやや挑発気味に言葉を返す。 
「姉上、それほどまでにエジプトとヒッタイトの政略結婚を望んでおいでなら、いっそ姉上がヒッタイトの王子のもとへ嫁がれるがよい」
「ばかなことを!」
「馬鹿なことではありますまい。なんなら求婚の書状を今すぐにでも使者に持たせるとしましょう」
 キャロルは、古代エジプトと古代ヒッタイトを股に掛けた姉弟喧嘩に遭遇し、なにか現実離れした物語でも読んでいるような気がしていた。
「メンフィス、今日のあなたはどうかしています」
 アイシスは、すべてはお前のせいだとばかりに、キッときつい睨みをキャロルに利かせたあと、裾をひるがえして昼餉の席を捨てていった。
 その足で急ぎ向かうのはミタムンの部屋。扉の前には王女の護衛兵が一人。
滑稽なほどにきちんと直立し、扉を警護している様に、彼の若さと生真面目さが見てとれる。
なるほど彼はこのたび滞在のヒッタイト兵のなかで一番の若年であった。
(こういう男ほど……)
 アイシスはこのうえない美々しい微笑で彼をねぎらった。


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「ご苦労様です。護衛の方」
 禍々しいほどの美貌の女王に声を掛けられ、青年には憧憬を隠すことさえ叶わない。
「ミタムン王女様にお会いしたくて、まいりました」
「ど…、どうぞ、お、お入り下さい」
 彼の声は震えていた。
「アイシス女王、わざわざおいで下さったのですね……」
 さきほどの金髪美女がよほど気になるのか、出迎えたのは消沈の顔だった。
口惜しさのまま故国ヒッタイトへ引き返せれば潔いものを、すでにメンフィスに心奪われ、熱く片恋している王女には、メンフィスをあきらめる決断などできようもない。
 アイシスはわざとゆったりとした微笑みを浮かべながら、ミタムンの深刻さを消し去ろうとした。
「ヒッタイトの王女ともあろう方が、あのような娘のために愁うにはおよびませんのに。
あれは取るに足りない異形の娘。メンフィスはすぐに飽きてしまいます。さあ、お気をなおされて」
「お気遣い、痛み入ります。アイシス女王は、いつもわたくしにお優しくして下さるのね。
女王にお会いするまでは、わたくし、あなたのことを誤解して……」
 ミタムンはそこまで言いかけて、失言を自覚したようだった。
「お気になさらないで、わたくしについて、いわれ無い悪名があることは存じております。
わたくしがメンフィスを熱愛するあまり、メンフィスに近づく者に嫉妬しては、誰彼見境もなく仕打ちを与えるなどと……」
 アイシスは悲しげに目を伏せて、細くため息をついた。稀世の美女が悲哀する姿とは、女のミタムン王女や、王女の傍付きの老侍女さえもが、思わず見とれてしまうほどの美しさ。


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「わたくしは、このエジプトを守るべき立場の者。ゆえに、王たるメンフィスに近づく女人を吟味せぬ訳にはいきません。すべては弟の為、エジプトの為と思い、やってきたこと。
決してわたくし自身がメンフィスの妃になりたいと望んでとった振るまいではないのです」
「まあ、そうでしたの」
「でも今ようやく、安心してメンフィスを託し、更にはこのエジプトをも託せる未来のエジプト王妃に出会うことができました」
 アイシスは、それはあなたですよ、とミタムンの手をとった。
「それほどまでにわたくしを大切に思ってくださるなんて」
 ミタムンは、アイシスと話をしているうちに不思議なほどに気が晴れてきた。
こうした天性の明るさが、この姫君の身上といったところ。
 嬉しさに目を輝かせるミタムンを前にして、アイシスは力強く誓ってみせた。
「このアイシスが必ずや、メンフィスとあなたの成婚をはからいましょう」
 その言葉どおり、無事に王と王女の婚約が交わされたのは、それからわずか四日後のこと。
 もともとメンフィス王には結婚を、王家の血統を守るために世嗣を産ませる手段としかとらえていないところがあった。そのうえ大国ヒッタイトとの同盟関係が強固になるというのなら、エジプトの王としてなんら不足のあるものではない。そんな背景もあり、
「私の顔を見るたびに、そううるさく勧められてはかないません。
姉上の言うとおりミタムン王女を娶るといたしましょう」
 姉は、最後には弟王にそう言わせてみせた。
 華々しい公布をうけて、エジプト中が沸いていた。
「いやあ、驚いたねぇ。私はてっきりアイシス様が王妃になると思っていたよ」


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「なあに、俺にとっちゃあ、予想通りさ。ファラオの結婚といえば、なんてったって国益第一にするものだからな」
「アイシス様がさぞかし地団駄踏んで悔しがっていると思いきや、意外や意外……」
「このヒッタイトの王女ならばと祝福し、諸手を挙げて婚約を取り持ったらしい」
 今日まで二人のお妃候補を肴にして噂話を楽しんできた下々は、とうとう飛び出した、予想を越えた決着を前にして、更に楽しげに会話をはずませていた。
 そんななか、一人苛立たしげにバザールの人ごみをかき分けてゆく男の姿。
(あのインチキ占い師め!この私をだましおって!)
 カミテはラセの家に踏み込むと、顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。
「これは一体どういうことだ!」
「ファラオの婚約のことでございますね」
 この人相見の落ち着きようときたら、まったくどうであろう。
「そう、うろたえずにおりなされ」
「お前を信じていたら、この様だ!ココサァニとファラオの恋とやらは一体どうなった!」
「今しばらくの御辛抱でございますよ。あの子は必ずメンフィス様に愛され、愛するようになりまする」
「馬鹿者!これ以上待ってどうなるというのだ!
婚約の相手はあの大国、ヒッタイトの王女だぞ!ましてや王女のファラオへの執心はそうとうなものと漏れ聞いている。この成婚、まかり間違っても不履行はないぞ!」
 ラセはポツリとつぶやいた。
「お可愛そうに……」
 この言葉に、カミテの血はますますかっと熱くなる。
「なんだその言い草は!貴様は私を馬鹿にしているのか!」


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「いえ、カミテ様。あなた様に同情しているのではありません。
そのヒッタイトの王女のことでございます。その王女、いかにファラオを愛しておいででも、けっして妃にはなれませぬ」
「ばかな!あの賢明なファラオが、いまさら王女との婚約を白紙に返そうはずがない!
もしも婚約を破談とすれば、いかにエジプトとヒッタイトの禍根となるか!
そんなことも分からないのか!この下郎め!」
「それくらいのことは、私にもよく分かっておりまする。それでも……」
 ラセはきっぱりと、この御結婚は果たされませぬ、と言いきった。
「まだ言うか!この嘘つきめ!」
 カミテはラセを突き飛ばすように進むと、ずかずかとココサァニの寝室に入り込んだ。
 寝室----といっても、形ばかりの仕切り壁に囲まれて、飾り気のない寝台が置いてあるだけだが----そこにはこの家のなかにあっては、どう見ても不似合いな贅沢な衣が幾枚も吊り下げられていた。
「このようなもの、もうあの娘に必要はない!」
 カミテは、これまでココサァニに押しつけるように与えていた衣装や宝石類を、両手いっぱいに抱えこんだ。
 ラセは冷めた声で訊いた。
「いかがされるおつもりで」
「全て売り払ってやる」
 この4年の間にカミテの借金はさらに膨らみ、今の彼には一枚の銀貨さえもが貴重なものとなっていた。
「おい、あの宝石はどうした。お前が、ファラオとの巡りあいが明けの朝にも来るなどとほざくから、借金をしてまで買い与えたあの高価な胸飾りや腕輪は!」
「あなた様のご命令どおりに、あの日、あの子はあなた様の目の前で身に付けたではないですか」
「そんなことは訊いていない。今どこに有るのかと訊いているんだ」


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 ココサァニはあの日から帰ってはこない。ゴセン村の母のもとへ行くと言って、幸せそうに家を出て行ったきりであった。
カミテは、手に持っていたものをバサリとココサァニの寝台に投げ置いて、
「まずは、あの宝石を取り返さねば」
 と目の色を変えて飛び出していった。
 カミテの突然の来訪を受けたとき、ココサァニは母の寝台の脇にぽつりと座って空(くう)を見ていた。
彼女が立ちあがろうともしなかったのは、四日の間、一人きりでここに座り、肉親の安否を思い続ける孤独と戦っていたせいで、憔悴した身や心を俄には動かせなくなっていたからだ。
その虚ろな姿が、カミテの目にはなんとも惨めったらしく、無力な者の醜さと映った。
(何が恐るべき高貴な星を掴む娘だ!あの占い師とこんな娘に、この私は四年も騙され続けて……!)
 何もかもが腹立たしくなり、カミテはココサァニに飛びかかった。
「きゃあぁぁぁ、いやです。やめて下さい。やめて!いやー」
 腕をねじりあげられ、着ていた服が剥ぎ取られていく。
 思春期の裸形をさらすことは、彼女にどれほどの羞恥と怖れを与えたことだろう。
だが不思議と怒りはなかった。それは父の目に苦渋の涙がたまっていたからだ。
「お前を信じて、私は今まで、今まで……!」
 彼はあきらかに絶望していた。
 ココサァニは混乱する意識の奥で思った。
 ----いったい私は何の罪を犯して、この人にこれほどまでの絶望を与えてしまったのだろう。
 堰を切ったように、彼の口からは娘への恨み言がついて出た。
令嬢として恥かしくない格好をさせてやった。無学だったお前に字を学ばせ、高価な書物を与えてやった。
楽器の一つも弾けねば恥をかくだろうと立琴を仕立ててもやった。そう言葉をならべたあと、


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「私がいなければ、お前など、奴隷娘として惨めな人生を送るだけだったというのに。
それでもお前は、ただの一度も私に感謝を抱いたことはなかった!
なんという身のほど知らずめ。お前など昔のままに戻ってしまうがよい!」
 と、替え着に持ってきていた幾つかの服も、むろん宝石類も、すべてを奪い返してカミテは出ていった。
 いつまでも裸のまま泣いているわけにはいかない。ココサァニはふらふらと母の衣類箱まで歩くと、
蓋をあけた。そこにはツギハギだらけの粗末な奴隷服がニ枚だけ、箱の底で重なっていた。
 ざらつくような粗麻の感触。それはココサァニが生まれたときから12の歳まで身を包んでいた感触。
それにもかかわらず、この4年間、上質な薄布ばかり着慣れたせいで、その違和感には驚かされる。
 この奴隷服を身につけた瞬間から、人は、まるで流される木の葉のように薄い命となり生きていく……そのまま力なく床に座り込んでいたココサァニに、突如、怒声がむけられた。
「おい、お前!何をしている!」
(あっ……!)
 村を見まわる役人に、目ざとく見つけ出されてしまったのだ。
「この不埒者め!工事場を抜け出して、苦役から逃れようとしたな!ええい、早く工事場へ戻れ!」
「あ、あの……」
 ココサァニのとまどいを反抗と見た役人は、言葉より効果が早いとばかりに、奴隷娘に鞭を振りあげた。
 背に焼けつくような熱さが走る。あまりの痛みに気も遠くなりそうだというのに、再びの鞭を恐れて、体は無意識に外へ駈け出していた。
「早く行け!今度こんな真似をしたら殺してやる!」 
「……はい」
 こうしてココサァニは奴隷の人生へと回帰していった。


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 醜かった片頬の腫れとアザは、はからずもココサァニを守っていた。
しかしそれも日が経つにつれて回復し、今では彼女本来の美しさを隠してはくれなくなった。
(あ……、また?)
 続けざまに体に粘りつくような視線を感じたのは、ココサァニが奴隷に戻って6日目を迎えたときであった。
(気味が悪いわ)
 とっさに彼女の脳裏に遠い記憶が甦る。それはとても幼いころに見た気がする、おぼろげな母の記憶。
(ずっと昔、お母さんが墨で肌を汚していたような)
 ココサァニはセフォラを真似るように、急いで顔と手足に車油を塗り、そのうえから泥土をこすりつけた。
 奴隷男の視線ならば、まだ逃げ切れる。だが貴族や兵士、役人の視線に絡めとられれば、彼らの肉欲のまま慰み者にされてしまう。本能的にそれが悟れないほどココサァニは幼くはなかった。
(それだけは嫌よ!慰み者になるくらいなら!)
 車輪の下に飛び込んで死んでしまおうと、頑なに心に決めた。
すべてはあの日遭遇した男への想いゆえに……

 ----遠く西の方角にいた兵士達があの人を呼んだ。ファラオ、と。

 そのとき、ココサァニはあの男がエジプト王、メンフィスだと知った。
 たった一度の短い巡りあい。言葉を交したわけでもなければ、視線をからませたわけでもない。
しかしあの葦陰から見たひとときがココサァニに初恋をさずけた。
エジプトの王者に恋する奴隷娘。人が聞けば、さぞ滑稽だと笑うだろう。
こうして男達から純真を守るために、油と泥で身を汚したところで、たとえ命を捨てたところで、メンフィスにこの気持ちが通じるわけではない。それはココサァニにもよく分かっていた。
それでも、そうせずにはいられない。これが人を恋うるということか。


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「どけどけーっ、ひき殺されたいか!」
 怒鳴り声につられて人々が道をあける。
 ココサァニの目の前では、もうすぐメンフィス王の花嫁となるヒッタイト王女に贈る女神像が運ばれ
ようとしていた。女神のまろやかな唇が、結婚を祝して微笑んでいる。
「おい女!油だ!早くしろ!ぼさっとするな!」
「はい」
 ココサァニは、重い油袋を抱えて声のほうへ振りかえり、走った。
「急げよ!」
 急かされながら車輪の表に油をさし終わると、今度は注意深く手を伸ばして裏側にも油を注いだ。
ここでぐずぐずしてはいられない。素早く腕を引いて身を離さなければ、動きはじめた車輪に腕をもぎ取られてしまう。
特にこの頃は工事場全体が時間に追われる緊張感でピリピリしていた。成婚の日は迫っている。
なんとしてもその日までに神に捧げる祝殿を一つ完成させよと、王宮から厳命が下っていた。
 疲労を超える疲労を抱えて、奴隷達は苦役の日々に追われる。昨日も今日も、そして明日もそうなるはずだった。
「なんだって!工事は中止だと!」
「どういうことだ?もう完成目前じゃないか」
 工事の中止が発令したのは、あまりにも突然のこと。奴隷達は誰も彼もが心底驚いた様子で顔を見あわせた。
 なぜ今になって工事の中止命令が?ココサァニがその理由を知ったのは、焼けつく太陽がまるでじりりと音をたてて、人も地も焦がしてしまいそうな昼下がり。
工事場の一角に人だかりを見とめ、なにげなく覗きこめば、
見るからに噂好きそうな奴隷男が一人、得意満面の表情で周囲の視線を独り占めしていた。

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