『 エジプトの王妃 』


11
 その一部始終を見ていた将軍ミヌーエの脇をすりぬけて、怒りの形相の男が駈けよってきた。
「ココサァニ!」
「お父様っ」
「お前というやつは、なぜこんな所にいる!」
 父は男の力を緩めることもなく、続けさまにバシリ、バシリ、バシリと片頬を三回打った。
「きゃあぁぁぁぁ」
「ここはお前の来るところじゃ無いんだ!!」
 手加減のない痛みにココサァニは悲鳴をあげて転げまわり、その場にうずくまってしまった。
「どけどけ、奴隷ども!道をあけろ」
 周りの人間があっけにとられているなか、その体をむりやり引きずられるようにして、泣き顔の令嬢は工事場の外へと連れられていった。
 さて、残された舞台には依然異様な空気が消えなかった。無理もない。
奴隷娘が監督官に逆らって工事を止めたとなれば、その先にある残忍な見返りは、ただ一つ。
「セフォラ、セフォラ、しっかりして!」
「キャロル、ほうっておけば良かったのに。あなたが殺されてしまうわ」
「ひどい血だわ。早く手当てをしなければ」
 いたわりあうセフォラとキャロルの背後に、不気味な薄笑いを浮かべた監督官が近づいた。
「この奴隷娘め。覚悟はできているだろうな。奴隷の分際で、この私に逆らいおって」
 キャロルはギラギラと自分を狙う刃を目の当たりにして、ようやく無我夢中の境地から醒めた。
(こ、殺される!私、殺されるんだわ!!)


12
「ラセ!ラセ!なぜココサァニを見張らない!」
 戸口を開けるなり、カミテはどなり声を響かせた。
「ご覧のとおり私の家は大きなお城ではございませんよ。そんな大声は無用というもの」
 ラセは皺だった両手を食卓にのせると、やや重そうな尻をよいしょと持ちあげて椅子を離れた。
「ココサァニが一体どうしたと……、おお、お前どうしたんだい!その顔は!!」
 父に腕を掴まれたままうつむいている少女の顔半分は、赤く青く変色し、腫れあがっていた。
「なんということを!この子に手を上げなすったね」
 カミテは腹の虫がいまだ納まらないようすで、
「私の言いつけを破ったからだ」
 と吐き捨てるように言った。
「ひどいことを!かよわい娘を怒りのまま痛めつけるなんて。そんな父親がどこにいなさるね」
「うるさい。お前、この私に向かってその口のきき方はどういうつもりだ。身分違いをわきまえろ」
「私はこの子が12のときから預かっているんです。いわば親代わり。
娘を殴られたとあっては、たとえ相手が誰だろうと黙ってはいられませんよ」
 そう言うと、ラセはココサァニの体を支えるようにして寝室へつれていった。
「痛むかい?」
「なんでもないわ。こんなの…」
ココサァニは、「お母さんに会ったわ。足にひどい怪我を……」と言ったきり、わっ、と顔を手で覆って泣き出した。 


13
 ひとしきり泣いたあと、
「さあ……。そんなに泣いたら熱がでるよ」
 と、ラセが顔にあてがってくれた濡れ布が、ひんやりとココサァニの頬にしみていく。
冷たい感覚が乱れた心を少しだけ落ち着かせてくれた。
「ありがとう、おばあちゃん」
 ココサァニは、この老婆が好きだった。
血のつながりこそ無いものの、4年間の二人暮らしが彼女達をもう一つの家族に育てていた。
「ひどい父親だよ。お前に八つ当たりすることじゃ無いだろうに」
「やつあたり?ああ、工事が遅れているから……」
 カミテはいま、セフォラ親子が働いている工事場の総監督官を務めている。
あと2ヶ月で完成させろ、と厳しく命じられているにも関わらず、その進行はかんばしくない。
それだけでも彼をイライラさせるのに十分だというのに、ココサァニが、あれほど厳禁していた奴隷の世界に足を踏み入れたことが、どうにも許せずにいた。
 しかも近頃は、彼にとって面白くない情報ばかりが次々と耳に入ってくる。
 ヒッタイトの魅惑的な王女が、メンフィス王のお妃候補としてエジプトに来訪していること。
更にはアイシス王女とメンフィス王の結婚話がいよいよ煮詰まっていること。
今日明日にも、彼女達のどちらがファラオに嫁ぐか公布されそうだというのに、自分の娘はいまだメンフィス王と出会ってもいない。カミテは二重三重の苛立ち、焦り、そしてラセへの疑心で、顔つきも変わるほどに自分を捨てかけていた。


14
 新たに絞った濡れ布が、もう一度、頬に冷たさを移す。
 ラセは責めるでもなく訊いた。
「なぜに工事場へ行ったんだね?行けばカミテ様に見つかることは承知していただろうに」
「どうしても家でじっとしていられなかったの」
「それはまた何故」
「…このごろ…私、なんだか変なのよ」
 ココサァニは心に霧がかかっているような表情を浮かべた。
「どう変なんだね」
「うまく言えないわ。ただ、どうしようもなく胸が騒ぐのよ。
どこかへ行かなければならないという想いがいつも消えなくて……。
何かが私を待っているような、呼んでいるような、そんな苦しい気持ち。ああ、やはり上手く言えないわ」
 ココサァニの表情とは対照的に、ラセは、我が意を得たり、という顔をした。
「瞳をお見せ」
「また?」
「いいから」
 ラセはじっと彼女の瞳を覗きこんだ。
「何が見えるの?」
 もう幾度この問いかけをしたか分からない。しかしその答えをもらったことは一度もなかった。
「おお…まさしく」
 黒曜石のごとく輝くそのなかに、神々しいほどに美しい花嫁が、いつにもましてはっきり映っていた。


15
 ラセがココサァニの寝室から出てきたとき、カミテはまたもや小言の溜まった顔をしていた。
そんなものを聞かされる気はない彼女は、まずは口封じとばかりに満面の笑みをおくった。
「いよいよでございますよ。時が参りました」
 カミテは一瞬ぼんやりしたあと、それが一日千秋の想いで待っていた言葉だとようやく理解した。
「ほ、本当か!!」
「はい」
 苦虫を噛みつぶしたような顔が、みるみる狂気めくほどの笑みに変わった。
「とうとう来たのだな。とうとう」
「はい。たったいまココサァニの瞳を見てまいりましたが、運命の熟を見た想いでございましたよ」
「おお、私は何をしたら良いのだ。何を」
「何もする必要はございませんとも」
「いや、だめだ。もっと衣や宝石で装わせたほうが良いに決まっている。買い与えねば」
 ラセは「そんなものは必要ございませぬ」と言葉を返したが、
「もっともっと美しい娘にしなくては。アイシス様に勝るほどに!ヒッタイトの王女など霞むほどに!」
 そう言って、相手はゆずらない。
(また、それか。いかにアイシス女王が美しくあろうとも。大国の王女が言い寄ってこようとも、ファラオの恋の運命はココサァニに流れていくと幾度も申しているのに)
 ラセは今さらながらにこの男の意固地さを見るようで、それがなんとも苛立たしく、おもわず相手の心をいたぶる一言をつぶやいていた。 


16
「衣も宝石もいりませぬ。あの子は十分に美しい。ただ、気になるのは……」
「何だ」
「あなた様がファラオの怒りを買わねばよろしいのですが……。
なにしろあの子の痛々しい頬。まるで顔半分が別人のようでございますからな」
 その言葉を聞いて、カミテの顔からさーっと血の気が引いた。
「おお、私はなんという馬鹿なまねをしてしまったのだ。よりにもよって運命の時が巡ってきたこのときに!」
 育て子の情の細やかさを知っているラセは、ココサァニが、あの峻厳なメンフィス王の怒りからカミテを庇わぬことはあるまいと分かっていた。しかしそれを伝える気はおこらなかった。
(せいぜい後悔なされませ)
 ラセは頭を抱えている小心の男をたたみ掛けるように言った。
「カミテ様、ココサァニにお優しさをお示しなさいませ」
「うむ……」
「今日からは何でもココサァニの心のままに」
「なんだと」
「あの子は怪我をした母を見舞いたいと願っております。行かせてやりなされ」
「なに!ならぬ!それだけは許せぬ!」
「どこへでも、行きたいと望むところへ行かせてやりなされ。
ファラオとの出会いはもう間近か。明くる朝でもおかしくはございません。そう瞳に暗示が出ておりまする。
よろしいですか、カミテ様。これからが肝心な時でございますよ。
ココサァニの運命を信じて、あの子に自由を与えなされ。
親がそうがんじがらめに縛りつけては、ファラオとココサァニの運命の恋を逃がしますぞ」


17
 恋しさに足は逸る。
「お母さん!兄さん!」
 感極まって飛びこんだ扉の向こうには、抱きあって喜びあえる肉親が待っているはずだった。
「私…、帰ってきたわ……」
 しかし彼女を受けとめてくれる腕はなく、有るか無いかのとぼしい燈火だけが、この家の泥レンガの壁をさびしく明滅させていた。
 ココサァニが手持ちの松明をかざしながら狭い家中をさまよえば、見覚え深い母の陽よけ布が、抜け殻のように床に臥していた。
 食卓に飲みかけの水杯。質素な料理を手つかずで残す火口には、まだ温もりを含む灰。
そう、家族はまさに、忽然さながらに消えていた。
(いったい何があったの)
 先刻、この家で起こった事件を、ココサァニが知りようもない。
 それはキャロルが夢を見ているような心地で昼間の出来事を思い返していたときのこと。
「ねえ、セチ、ミヌーエ将軍って、どんな人なの?」
 キャロルは、監督官に殺されかけたところを救ってくれた風貌立派な男のことを尋ねた。
「あの方はメンフィス王の一番の腹心。人望あつい方だよ」
 セチの口ぶりには、ミヌーエへの憧れが見て取れた。
「古代にもあんなに心優しい将軍がいるのね……」
「将軍にはどんなに感謝してもしきれないよ。君を救い、そのうえ母さんには、足の怪我が治るまで苦役を免じてくれるなんて」
 セフォラのほうを見やれば、さきほどから寝台のうえで身じろぎもせずに、ずっと目を閉じている様子。
あれだけの大怪我を負った身で、果たして鎮痛剤無しで眠れるものだろうか?とキャロルが案ずる、そんな最中、
戸はなんの前触れもなく、荒々しく開かれた。


18
 来訪者とまともに目があってしまい、キャロルは恐怖の甦りに震えた。
(あの監督官だわ!)
 不意をつかれて身を隠しようもなく、どうにも嫌な相手にキャロルは姿を見られてしまった。
「女、異国者だな!」
 監督官もまた、こんなところで異形の娘を見つけるとは思いもせず、驚きに言葉をつっかえさせながらの怒鳴り声。
 昼間は将軍ミヌーエの命令に否応無く従うしかなかった彼は、まんまと死罪を免れた娘に
嫌味の一つでも言わねば腹にすえかねると、娘の所在を捜してゴセン村の一戸に立ったというわけだった。
しかしそんな小娘など、もうどうでも捨て置けと思えるほどの新たな標的を、彼は目の当たりにしてしまったのである。
「ええい、あやしい娘め!こい!」
 監督官がキャロルを捉えようと手を伸ばしたとき、
「キャロル、逃げろ!」
 セチは、力任せの体当たりを彼にくわせた。体躯の良い若者からまともに当て身をくらい、監督官は大げさによろめいた。
「逃げるのよ!行きなさい!」
 セフォラの声を耳にしたとたん、キャロルの身ははじかれたように監督官をすり抜けた。
 無我夢中で家の外へ飛び出したものの、外は星も月もない漆黒の闇。右も左もわからない土地不案内の地で、どっちの方向へ逃げればいいかも分からないまま、少女はただ走ることしかできない。
 ----走って。走って。何処へ?分からない。でも走って。この悪夢から逃げて。
 突如、頭の中に星が舞った。
 彼女にはこれからしばらくの記憶が無い。暗闇のなか大樹にぶつかり、額を強く打ちつけ、そのまま葉風が見下ろす地で失神してしまったのである。


19
 その夜のうちにセフォラ親子が捕らえられたのは言うまでも無い。
「貴様ら、異国者をかくまっていたんだな!それがいかに大罪かは知っているだろうな!!」
 ただでさえ重みを得ない奴隷の命が、まして軽いものとなり、二人は牢に繋がれた。
 そんな事情を知る由もないココサァニは、捨てようのない不安を抱いたまま、一人きりの夜を耐えていた。
(やっと会えると思ったのに……。お母さん……)
 幼いころの別れの日が、嫌というほど鮮やかに思い出される。あれから4年もの間、自分は母との再会だけを憧れに生きていたのだと、今更ながらに彼女はしみじみ気がついた。
 今夜、ここへ向かう道すがら、母の歓迎の笑顔を思い浮かべては、まるで地を浮いて行くごとき心地で歩いていた自分が、無性に愚かしくさえ思えてくる。
(母さん、兄さん、何があったの)
 この静寂と、底なしの闇の中では、とうてい眠ることなどできそうにない。
窓にごく微かな闇の薄れを見つけると、ココサァニは外へ出た。ゆっくりと生まれゆく太陽が、もうすぐ故郷の景色に会わせてくれるはずだ。
 幼いころから、ここから見る朝陽がたまらなく好きだった。つい、いつまでも見とれていると、よく兄が迎えに来てくれた。
「ココサァニ、だめじゃないか!外でウロウロしているところを兵士に見つかったら、うんと酷い目にあうんだよ!」
 兄の怒った顔が妙にうれしかったものだ。
(あ…、音)
 前方からひずめの音が聞こえる。なんという駿馬。遠かったそれが、風のごとき速さで近づいてくる。
(きっと兵士だわ!か、隠れなきゃ!)
 貴族令嬢の格好をしていることも忘れ、子供のころに教え込まれた忠告に、体が素早く従ってしまう。
ココサァニはパピルスの茂みのなかに飛び込んだ。


20
 まるで自分を目指してでもいるかのように真っすぐに、騎乗の男は駈けてくる。
(近くで止まった…!)
 少女は葦陰から出るに出れなくなり、息を殺して事態を見守るしかない。
 太陽を背負い、男が馬を降りた。逆光のせいでその姿は定かには見えないが、ならびなき威風の影がそこにある。
(こっちへ来るわ!)
 男は歩み、隔たりを狭めるにつれて逆光の影を払っていく。
 太陽の中から現れたその姿に、ココサァニの全身から力という力が抜けていった。
(なんという、なんという美しい人。恐れ多くなるほどの威厳。この方はまさか……)
 男はココサァニのすぐ側に身を置くと、長い両手をすっと伸ばして清水をすくった。
よほど喉が渇いていたのか、幾度となくその所作を繰り返し、ようやく渇きを癒し終えたようだった。
こぼれゆく水にさえ嫉妬が湧くような、魅力なす手。その手の甲で濡れた口元を拭いながら立ち上がると、男はすぐには馬に戻らずに、ココサァニが潜むあたりをじっと見据えた。
パピルスの茂みの重なりから微かな光がこぼれている気がしたのだ。
(こっちを見ているわ)
 ココサァニの体は震え、パピルスの茎に、葉に、それが移っていきそうになる。
 男の足音が一歩、葉音をたてて近づいた。
 もしもこのとき、あの騒動が起こらなければ、ココサァニの身は間違いなく葦陰から引き出されていたであろう。エジプト王妃となる運命を抱く者として。
「金色の髪だ!金色の髪の娘がいるぞーっ」
「そっちへ逃げた!捕まえろー」
 どこから湧いたのか、兵士達が束になり、西の方角で声を放つ。
 男はいぶかしそうに眉根をよせて、「金色の髪の娘だと」とつぶやくと、ひらりと優麗な身のこなしで馬に飛び乗り、馬頭を反して駈け去っていった。

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