『 エジプトの王妃 』 序章 1 酒に酔った貴族の男が悪態をつきながら、ふらふらと私に近づいてきたのは、この街角の太陽が夕日に変わりはじめた頃でございました。 「ふん、お前なんぞに人の何がわかる。出まかせしか言えない年寄りめ」 長く占い師をしておりますと、このように様々な人間と出会うものでございます。 「わかるというなら言ってみろ」 人相見を得意とした私は、その男を一目見た瞬間に彼が心底悩んでいる事柄を読みとっておりました。 (ずいぶんとお金に窮しておられる。そのうえ味方と呼べる者さえいない。まさに八方ふさがりの境地においでですね) しかし、見栄っぱりが服を着ているような者を相手にして、まさかそう言い当てるわけにもいきませぬ。 私は、「瞳を拝見できたなら、あなた様の未来を読ませていただきまする」と申しあげ、言いづらい話から逃げたのでございます。 そのような思惑で形ばかりにのぞき込んだ瞳に、まさかあのような高貴な陽炎が見えてこようとは…… 「お嬢様がおられますな」 ものに動ぜぬと自負していたこの老婆の胸は高鳴っておりました。 「なにい」 「おられましょうぞ」 男はまさに、してやったり、といった態で高笑いをあげました。 「思ったとおりだ。お前はやはりインチキだ。私に娘などいるものか」 吹きかかる酒臭さに辟易しながら、私はいま一度彼の瞳をのぞき込みました。 しかし紛れもなくそこには、先刻見たままの、ただならぬ高貴な光が見え隠れするのです。 「いらっしゃいまするな、お嬢様が」 私のきっぱりした口調につられたように、その男もまた「おらぬ」と語気強く答えてまいりました。 2 「そのようなはずはございません」 「くどいぞ!無礼者!」 「その方にお会わせ下さいませ!」 そのとき私は、ぜひそのお嬢様にお会いして、若く美しい瞳に宿っているであろう未来の真実を、しかと読み取ってみたいという一念にかられていたのでございます。 「その在りもしない娘が一体どうしたというのだ」 「恐るべき高貴な星をお掴みになられます」 「高貴な星だと。一体それは何だ」 「おそらくお嬢様は……、いや恐れ多い。そのお嬢様にお会いして、未来を確信してからでなくば、とても申せませぬ」 私はどこまで話して良いものか迷いながら、遠まわしにこう話を続けました。 「お嬢様はやがて、父君のあなた様さえ頭を垂れなければならないほどの御身分になられましょうぞ」 「なにい」 男は、私の話をまるっきり信じていないらしく、またもや高笑いをあげたあと、吐き捨てるように申しました。 「この私が頭を垂れるほどの身分だと、ばかばかしい。もったいぶって何を話し出すかと思えば。 貴様は、私に娘がいて、それがメンフィス王子の妃になるとでも言いたいのか」 「しっ!そのような大声で。往来の者が耳にいたします」 「このインチキ占い師め!でたらめばかり言いおって!」 男はそう怒鳴り散らすと、お代を置くこともなく、来たときと同様、おぼつかない足どりで去っていきました。 翌日のことでございます。いつものように街角の占い場へ向かうと、驚いたことに朝早くにもかかわらず、その男が私を待っておりました。昨日、酔いにまかせて人のことをさんざん罵倒した手前、やはり少々バツが悪い様子でしたが、とくに詫び言葉はございません。 そして開口一番に、「私に娘がいると言ったな」と申すのです。 私は深くうなずきました。 「心当たりがある、一緒に来い」 貴族男は私の都合も聞かずに歩き出しました。その横柄さにうんざりしながらも、私は黙ってついていきました。ええ、ついていきますとも、そこに行けばお嬢様にお会いできるのですから…… 3 予想もできなかった場所にたどり着き、私はしばし目を疑いました。まさか、お嬢様の居場所があんな所だとは。 「ここは、奴隷村ではないですか!」 男は、村を見まわっていた役人の一人をつかまえると、その者を工事場へ使いに向かわせました。 即座に役人を仕事から離れさせ、命令に従わせることができるとなれば、たとえ上流社会に疎い私でも、男の家柄が貴族のなかでも名門なのだと察しがつくものです。 「カミテ様、お待たせをいたしました」 見まわり役人が一人の奴隷女を連れて戻ってきたのは、ほどなくのこと。 女はもはや若くはないが、その容姿には今でも美しさの名残が見てとれました。 なによりも面差しに慈愛と気品が備わっているのが良い。 この者の顔相は奴隷とは思えぬ----人相見の私は素直にそう思ったものです。 その顔が、まるでおぞましい魔物でも見るように怯えたとき、 私は何かとんでもない過ちを犯してしまったのではないかと感じはじめたのでございます。 「お前と会うのも12年ぶりだな」 「……」 「私の子はどこにいる。確か女だったな。死なずに育ったか?」 このとき、彼女の目に怒りが走ったのを、私は確かに見ました。 「なぜに今になって」 「どこにいる。連れてこい」 娘を取りあげられることを予感したのでしょう。権力者の前で奴隷女は完全に血の気を失いました。 「あの子は、し…、死にました」、母親は震えを押し殺してそうつぶやきましたが、 その言葉をあばくように、笑顔で駈けてくる11か12の、年端のいかない娘がおりました。 「お母さん、お母さーん。どうしてここに居るのーー」 村の見まわり役人達へ水を運んできたその娘こそ、渦中の少女そのものでございました。 「来ちゃいけない!向こうへお行き!」 母親の悲鳴に近い叫び声が、今でもこの耳に残っております。本当に可愛そうなことをしてしまいました。 貴族男が娘を捕らえたのは、娘が幼い顔を驚かせて立ちどまったその刹那のこと。 「さあ、この娘だ。見てくれ」 彼は私のほうを振り返って、そう言いました。 4 繊細なまつげが瞬くその黒曜石の瞳には、明かにどのような少女とも違う、ただならぬ光。 私はまるで恐れ多いものをのぞくような気持ちで、厳かにその未来を見つめ、胸を震わせました。 「おお!まさしく!まさしく!この方こそ高貴な星を掴むお方です。瞳にご婚儀のお姿が見えまする」 未来のエジプト王妃を前にして、私の声はどれだけ興奮していたことでしょう。 「まぶしいほどにお美しゅうございます」 その傍らにいる花婿にいたっては、映し身にもかかわらず、ひれ伏したくなるほどの貴尊の相。 それは他でもない。我がエジプトが誇るメンフィス王子の末の姿でございました。 「なんと!誠に見えると申すのだな」 「はい」 「おお、これで私にもようやく運が向いてきたぞ!」 貴族男は今までとは別人のような嬉々とした顔で娘を抱き上げました。 「私の娘をどうするおつもりですか!」 「何を言うか、無礼者め!私の娘だと!今日からこのカミテの娘だ。これよりは一日たりとも卑しいお前の元になど置いてはおかぬぞ」 「なんですって!おお、それだけは、それだけは!」 母親は娘を取り戻そうと、男にすがりました。 「さわるな。汚らわしい!!」 「あっ、お母さん!!」 足蹴りにされて地に倒れた母のもとへ駆け寄りたいと、娘は両手両足をバタつかせました。 「娘を連れて行かないで下さい。どうかお慈悲でございます。どうか……」 母も泣き、子も泣いておりました。 私はなんとか母子の力になってあげられればと、こう申しあげました。 5 「お嬢様はこのまま母親のもとへお残しなさいませ」 「何を言うか!」 「このままここでお暮らしになっても、お嬢様の瞳が教える未来は必ずやおとずれまするぞ」 しかし貴族男はなんとしてもお嬢様を奴隷の世界から引き離し、自分の身元に置きたいらしいのです。 私は少し考えを巡らしたあと、人相見なりの自信にかけて、こう切り出しました。 「では、おうかがい致しますが、ご両親様や奥方様に、このお嬢様をいったいなんと御紹介されるおつもりか?」 「そ、それは」 相手が言葉をつまらせたことに勢を得て、私は小声でこう耳打ちいたしました。 「『この娘は愛人に生ませた子だが、将来はエジプト王妃になると占い師が言うので引きとることにした。 これより当家の孫として、娘として、ともに暮らしてほしい』と、そうお告げになることができまするか?」 「うっ……」 男について後になって分かったことがございます。----顔相に現れておりましたので、このときすでに私はだいたいのことを察してはおりましたが…… 彼が愛した家柄は、決して生まれながらのものではございませんでした。 つまり名門貴族の令嬢と結婚をして得たものでございます。 彼はその家名がもたらす恩恵を貪欲に味わって生きておりましたが、それも限られた世界でのこと。 ひとたび義父、義母、奥方を前にすれば、下級貴族の生まれながら、この家の跡取にふさわしい有能な人間であることを、隙なく演出しなければならない酷荷を負っておりました。 しかしながら、認められたい一心で手がける仕事はことごとく失敗し、増えていくのは、つじつま合わせに陰で作った借金ばかり。 自棄になって放蕩に身を浸せば、またもや言うに言えない借金が増えていくという、窮犬のような心情を抱えておりました。 そのような男が、愛人の子を屋敷に連れ帰るなど、そう容易にできるはずもございません。 「私が良き隠れ家をお教えいたしましょう」 幸い男はその場所へ娘を預けることを承知してくれました。しかしそれは同時に、子から母を奪い、母から子を奪うことに違いありません。 6 泣き崩れている哀れな奴隷女に、私は先刻から声をかけたいと絶えず思っておりました。 「いや、いや、お母さん!お母さん、助けて!」 泣き叫ぶ少女を持て余しながら男が去りはじめたその隙に、私は母親の側にこの身を寄せて、一息にこう申し上げました。 「お前さんにはつくづく気の毒なことをしてしまった。こんなことになったのも、元はといえば私のせい。 お嬢様を必ずやお前さんの元へ連れて帰るから、私を信じて待っていておくれ」 私が自分に伴っていないことに気づいた男は、大声で私の名を呼びました。 「ラセー!何をしている。早くこい!」 そうして私は急いで男を、いや大切なる少女を追ったのでございます。 「あの女と何を話していた」 「何という話ではございません。ただあのように泣いて哀れでございますので、背をなでてやりました」 「ふん、奴隷女に同情など無用だ」 「母を慕って泣いているお嬢様の前で、なんという無慈悲なもの言いをなされるか」 「貧乏占い師の分際で、私に説教か。お前の話など聞きたくもない」 私は男の無情さを心底腹立たしく思っておりましたので、すでに礼態を保つ理性も尽きておりました。 「いいえ、聞いてもらわねばなりませぬ。特にこれから申し上げる忠告だけは無視されませぬよう」 「忠告だと」 「お嬢様の高貴なる未来、けっして口外してはなりませぬぞ。 私達のどちらかが下手に口外して敵を作らぬ限り、お嬢様は何者にも狙われることはございませんからな」 「何者かに狙われる?」 7 「このたびの話、万が一アイシス様の耳にでも入ったらいかがされまするか」 男の眼がハッと反応いたしました。さすがは王族にも精通する名門貴族のことだけはあって、そのあたりのことは私どもよりも、ずっと詳しく承知しているらしく、男は即座に「声を抑えろ」と、私に命令をいたしました。 私が知っていることはあくまで噂でございますが、御歳17になられたアイシス様は、メンフィス王子に近づこうとする娘を嫌い、たとえその相手が他国の姫君だとて、容赦のない仕打ちをなさると。 しかしアイシス王女の名を聞いただけで、たちどころに緊張した面持ちになった男の様子を見る限り、町人たちの噂はあながち嘘ではないのでございましょうな。 「強運ゆえに、命まで取られることは無いでしょうが、万が一、傷つけられるようなことがあってはお可愛そうですからな。 ご成婚のその日までお嬢様をお守りせねばなりますまい。他言は無用、よろしいですな」 「言われるまでもない」 この日より、奴隷娘にして、大貴族の令嬢であるその少女は、粗末な我が屋でこの私と暮らすようになったのでございます。 それからの4年。様々な人間の思いを揺らし、時は過ぎてまいりました。 このエジプトでは前王ネフェルマァト様がご逝去され、まもなくメンフィス王子がファラオにご即位なされます。 そして未来のエジプト王妃といえば、幼かった短い髪も、今では長く伸び、なめらかに艶めいておりまする。 薄衣をまとった小麦色の肌が、若く輝く姿に見とれぬ男はおらぬほど。しかし私が何より嬉しく思うのは、大きな黒曜石の瞳に、母ゆずりの慈愛と気品が息づき、それこそが彼女の美しさの源となっていることでございます。 私は感じておりました。ハスの蕾が静かに静かに花ひらくように、この娘にもまた、花ひらく幸せのときが静かに静かに近づいていることを。 ああ、それなのに、今このときになってナイルはなぜ、あの青い瞳の少女をこの地へおとどけになったのでございましょうか……。 白い花びらのような肌を持ち、金の髪を陽と交わらすあの少女を…… 8 荒麻の奴隷服を身につけたとたん、見るからに苦労を知らない白くやわらかな手がいっそう際立ってしまった。 「顔も手足も、こうするのよ。さあ」 セフォラは容赦なく墨灰をこすりつけた。 色黒く汚れていく自分の手を見つめながら、キャロルはその訳が飲み込めずにいた。 「なぜ、こんなことを」 「あなたのためよ。貴族や兵士は、美しい奴隷娘を見つけると、むりやり家につれて帰って愛人にしようとするわ」 「愛人ですって!そんな!」 16歳の少女の背中に、ぞっとする悪寒が走った。 キャロルはみずから墨灰をすくうと、それをゴシゴシと頬にあてて肌の白さを消した。 「私達は貴族や兵士に何を強要されても抗うことはできないのです」 足元にひざまずくようにして、自分のために足先にまで一心に墨灰を塗ってくれているこの女性に、キャロルは温かな気持ちを覚えた。 「助けてくれてありがとう、セフォラ。あなたとセチにはなんとお礼を言ったらよいか」 幸せだった現代での生活から引き離され、3000年もの時を越えて古代エジプト---しかも奴隷村へ流されてしまった。そんな張りつめた心細さのなかで、セフォラとその息子セチの優しさだけがキャロルを支えていた。 「私にもあなたと同じ歳の娘がいるのよ。訳あって離れて暮らしているけれど……。 あなたを見ていると、まるで娘が帰ってきたようで、とても放ってはおけないわ」 そう言ってこぼれた微笑みの、無償の優しさ。 そんなとき、キャロルもまた、ふとセフォラに母の面影を重ねてしまうのだった。 9 「この布を頭に。できる限り深くかぶって顔を隠しなさい」 セフォラはキャロルの頭に粗末な陽よけ布をかぶせ、少しでも若い娘の美々しさを抑えこもうとしていた。 かつての自分が懸命にそうしていたように…… カンカンカン、カーーン。カンカンカン、カーーン。 奴隷たちを急き立てる鐘がけたたましく打ち続けられていた。 「さあ、私たちも工事場へ行かなくては。いつまでも家でぐずぐずしていると、見まわり役人に見つかってしまうわ」 「見つかったらどうなるの?」 「ムチで打たれながら追い立てられるのよ。見せしめに殺されてしまうこともあるわ。 奴隷はね、どんなささいな理由でも簡単に命を奪われてしまうのです」 まだ早朝だというのに、外へ出たとたん強い陽射しが瞳に差し込んできた。 このときキャロルが一瞬めまいを起こしたのは、むろん陽射しのせいだけではない。 「しっかりしなさい、キャロル」 これから始まる過酷な一日からこの少女を守りたい、セフォラはその一心で、返事もろくにできないほど絶望している娘を叱った。 「さあ、この水袋を持って。絶対に私のそばから離れてはだめよ。いいわね」 初めて足を踏み入れた工事場は、どこを振り向いても、巨石、丸太、車、油瓶、水瓶であふれかえっていた。 そのなかを材引き用の太縄がまるで罠のように無数の放射線を描き、奴隷たちはそのような障害物をかいくぐるようにして個々の仕事を果たさなければならない。考古学に心酔していたキャロルが、ぼんやりと工事の光景に見とれてしまうようなら、たちまち命が幾つあっても足りない事態になる。 いや、たとえ気をつけていても、そこは危険極まりない場所に違いなかった。 初心者が現場事故で死んでいく様を嫌というほど見てきたセフォラは、キャロルの身を案じて気が気でない時を過ごしていた。 10 「おい、水を飲ませろ!」 「俺にもだ!水をくれ」 朝を見送り、時間とともに陽はますます強くなっていく。工事場の誰もが、苦役とともに喉の渇きを背負っていた。 「早く!こっちにもくれ!」 ひとたび奴隷女が水袋を手にして工事場へ入れば、あちらこちらから声が飛んでくる。 はじめのうちは側にぴたりとくっつき、離れようとしなかったキャロルとセフォラだが、四方八方から飛びかう要求に応えるうちに、いつしかお互いを見失ってしまった。 きゃーーーーーっ 突然、女の悲鳴が響いた。彼女をとりまき、大勢の奴隷が大声で騒ぎ立てている。 「奴隷女が石の下にまきこまれたーーっ!!引き殺されるぞ!」 「死ぬぞ!死ぬぞーーっ!!」 地獄のような光景を前にしても、監督官の声に躊躇はなかった。 「止めるなーっ、工事が遅れる!たかが奴隷女だ。かまうな!このまま引けーーっ」 今まさに奴隷女が引き殺されるという刹那、監督官の前に飛び出していく二人の少女がいた。 一人は見るからに上質な薄布の美衣。一人は粗末な奴隷の服。 二つの長い陽よけ布が絡みあうように揺れながら、監督官につかみかかっていく。 「止めて!!殺さないで!!」 「この乱暴者!セフォラを殺そうとするなんて!!」 石引きはセフォラの片足を犠牲にし、ようやく中断された。 |