『 妖しの恋 』

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王子は言葉を切り、ルカもまた口を噤んだままだった。
室内を沈黙が支配した。しかしその沈黙は何と饒舌に二人の男性の胸の内を語っていることか。
ルカは自分の年幼い従僕が実は金髪碧眼の異世界人だということを知っていた。ナイルの女神の娘が金色に輝くというのなら、キャロルも同じ金色の輝く髪を持っている。ナイルの水と同じような碧い瞳をも持っている。
それにあの頭の良さ、不思議な薬品、道具類。
(まぁ、そもそもキャロルは男だが・・・それに何故、異国の女神の娘がわざわざ母女神の許を離れて異国に・・・例えばヒッタイトなどへ来たがる?
だが考えれば考えるほどに興味深い。疑いは募る。イズミル王子にどのように申しあげるかだが・・・)

一方、王子も考え込んでいた。彼は部下のルカよりもはるかに多くの情報を持っていた。その分、ルカより有利だと言えるし、またキャロルに深い想いを寄せているが故に常日頃の無機的な冷静さは無く不利だとも言えた。
(・・・では拾われ子の従僕キャロルはナイルの女神の娘?! 貴種の娘と言うことになるのか? 
女王アイシスは禁断の呪術を行うためにキャロルを呼び寄せたという。メンフィス王の命を担うキャロルを手許に取り戻したいのは山々であろう。
しかしメンフィス王が正妃アイシスを差し置いて、ナイルの女神の娘を欲しているのか・・・。あれほどの娘であれば男なら誰でも欲しくなる、ということであろうな。
だがもとより嫌がるキャロルをファラオ夫妻に戻してやるつもりなどない。私の手許で大切に守ってやりたいが・・・ルカにはどう切り出すかな)

「この報告書の詳細さは群を抜いているが、どのようにして探った?」
先に口を開いたのはイズミル王子の方だった。
「は・・・。駐屯地で兵士らが伝説の乙女の歌を歌っておりましたのを聞き、その後、様々に身をやつしてファラオ夫妻の天幕近くにて探索を行いました。
今回の遠征を巡っては、ファラオ夫妻の相当深い対立があるようでございます。公然の秘密と申しても良かろうと存じます。ファラオの遠征は国家の大事でございますが・・・根底にございますのは恋情のようなものかと」

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「ふ・・・ん。確かにな。しかしルカ。遠征のそもそもの目的を探るのは牽制のために不可欠のことながら、何故、このような最上機密扱いにいたした?
そなたの有能さ、忠義を疑ったことはない。だが辛辣な言い方をするなら、たかが娘一人のためにファラオが伝統を破って国外に出るなどとは酔狂に過ぎると思うが。胡散過ぎる報告だな。
そもそも、そのような女神の娘などいるのであろうか?」
ルカの顔が強ばった。確かに主君の言うとおりなのだ。
だがルカには確信があった。何故ならば女神の金色の娘とおぼしい人間がすぐ側にいるのだ。ファラオの許から逃げ出してきたところを拾い上げた美しい容貌の人間が・・・。
「恐れながら王子に申し上げます。長い話になりますればご容赦いただきたく。実は・・・」
「キャロルのことか」
王子は先ほどまでの冷たい声音と表情はどこへやら、ルカの押し隠した狼狽えようを少し楽しむようなそぶりさえ見せながら言った。驚いて思わず蛙が潰れるときのような声を出してしまった忠義者に王子は、私はもう知っているのだと言い置いて、淡々と話してやった。
男のふりをしているキャロルが金髪碧眼色白の「娘」であること。
女王アイシスが最愛の夫メンフィスのために禁断の「生命転移の秘術」を行うに当たり、メンフィスの命と魂の形代として呼び寄せたのがキャロルであること。
キャロルはメンフィスの命の保証として生涯をアイシスの監視下で送るのを厭い、エジプト女王の許から出奔したこと。運良くルカに拾われ、以後、男として生活していること・・・。
茫然自失のルカにちょっとした優越感を覚えながら王子は言った。
「今のところ、キャロルの真の身の上を知っているのは私とミタムンとそなただけだ、ルカ。
・・・ルカ、そなたの従僕だがこの上いつまでも側に置くのも良くないであろう。どうしたものか?」

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「は・・・」
心酔するイズミル王子に忠義一筋、色恋沙汰に関しては不調法なルカは冷や汗三斗、しどろもどろでろくに口もきけない。
(キャ,キャロルが女・・・?! いや、確かに男にしては体付きが華奢すぎたし、声も高くて細かった。しかし端々には凛々しく男らしいところも見えたし、だいたい何故、キャロルは男のふりなどしていた? 私を困らせるためか?いや、馬鹿な。
キャロルはそんな姑息な真似をする奴ではない・・・)
これまでの出来事が脳裏に浮かび、ルカはますます混乱した。
(そうだ、キャロルは私に誠実であった!それは確かだ。天地神明に誓って言えるぞ、疚しいことなどなかったと。
だが・・・王子や王女はどのようにお思いか?知らなかったとはいえ、男女が同じ屋根の下・・・! 私であれば何かあったろうと当然考えるぞ。
・・・・それに王子はキャロルの処遇について御自ら口にされた。どうしたものか、と。これはつまり・・・王子は・・・。
・・・いや、馬鹿な。イズミル王子ともあろうお方が女になど! ではキャロルを望まれるのは戦略の駒としてか。ならいい。なら分かる。
いや、よくない!キャロルはそのように扱って良い相手ではない。女神の娘だなんだということを差し引いても育ちの良い心根の良い娘だ。
この期に及んで見捨てるのも忍びない・・)

赤く、または青く変化する部下の顔を見ながら王子はかすかなおかしみを感じるのを禁じ得なかった。
(何を考えているのか手に取るように分かるな。ルカにしては珍しい。まことにキャロルのことに関しては何も知らなかったのだろう。
私とて他の者ならまだしも、ルカが妙な真似をするとは思わぬよ)

ルカは言った。
「王子・・・。キャロルが女であったことに気づかずにおりましたことは我が身の不明でありました。しかし、キャロルは・・・」
王子は鷹揚に手を振って、忠実な部下を安心させてやった。
「よい、ルカ。何も心配することはない。キャロルは潔白であるし、そなたも疚しきことのない身ぞ。
・・・ただキャロルが女神の娘ならば、邪な呪術の形代とされた身であるならば、護ってやらねばなるまい」

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「王子・・・!」
イズミル王子は照れ隠しもあってわざと素っ気なく言った。
「キャロルをいつまでも男として扱うのも穏当ではなかろう。どうだ、ルカ。
キャロルの身を私やミタムンに任せてはくれぬか」
(王子はキャロルを欲しておられるのか!)
ルカはすぐに主君の思惑に気づいた。確かにキャロルは男好きのする楚々として可憐で、それでいて凛々しい容貌をしている。性格もまぁ悪くはない。いや、性格はかなり良いと言い直したいところだ、ルカとしては。
陰ひなたなく、よく尽くし気遣ってくれた。お人好しでお節介な所も確かにあるが出しゃばりではないし、人を傷つけるような言動はしなかった。まっすぐな気性の娘だ。
「あ・・・お心遣いはキャロルにとって大変ありがたいものでありましょう」
ルカはかろうじてそれだけ言った。
(しかし王子は女遊びもそれなりに手慣れて頻繁な方。キャロルに興味を持たれたとはいえ、あのキャロルは他の女とは根本的に違うということを分かっていてくださるのか?キャロルは後宮で幸せになれる類の人間ではない。
家族を恋しがり、必死に自分の寂しさを押し隠しているあの子の心を分かってやってくださるのだろうか?)
「・・・キャロルは私の弟、いや妹のようなものです。家族を忘れがたく思っているらしいあの子に幸せになって欲しいと思っております」
ルカの考えていることに気づかぬ王子ではなかった。王子とて生まれて初めて、「自分を愛して欲しい」と思った娘がキャロルなのだ。
いつものように気軽な遊び相手としてキャロルを求めているのではなかった。
「私は愛妾や側室としてのキャロルを求めているのではないし、ましてや対エジプトの手駒としてあれを欲しているのではない」
王子は言った。それは部下に対しての話しぶりと言うよりは、未来の義理の兄に対する花婿候補の話しぶりに似ていたかも知れない。

主従は久しぶりにその柵を越え、その昔、もっと幼かった頃の友人同士の関係に戻って長いこと真剣に話し合った。
そしてルカは言った。
「王子、どうかキャロルをお願いいたします。キャロルを護って幸せにしてやってください」

65(ダイジェスト版)
所変わってメンフィス夫妻が滞在するトロイ。メンフィスとアイシスはそれぞれの思惑を秘めてキャロルの行方を追っている。
そんな折り、アイシスはふとしたことから不思議な力を持つ女キルケーを窮状から救ってやることになり、その感謝を受ける。
それぞれ不思議の技に通じている女同士は間もなく深く理解し合い、知識を授けあう仲となった。
キルケーはアイシスがキャロルを探していることを知り、不思議な薬を捧げる。これは私からの感謝の印です、と。
「女王アイシス、私の恩人、私と同じく秘術に通じたる御方。この秘薬を飲まれませ。魂は肉体の器を脱ぎ捨て望みの場所、望みの人の許に翔びましょう」
アイシスは自分の意図を見抜いているらしいキルケーに気味悪さを覚えながら薬の小瓶に手を伸ばした。
「魂だけの存在となって・・・我が望みを叶えることができようか?私の探すキャロルを捕らえ、私のかけた秘術を解き・・・役目を終えたるその身を亡き者にするなど・・・?」
キルケーは微笑んだ。
「魂は夢のようなもの。物理的な力は持てませぬ。つまり実体のある現世の品物や人に触れることはできぬもの。
ほほ・・・。ご心配には及びませぬ。肉体に捕らえられし人の心は存外弱いもの。アイシス様のお姿を見れば現心(うつつごころ)
を失って、言いなりになりましょう。お望みをかなえられませ、私の女王。憎い相手の手に剣を握らせ、その胸を自ら突かせればよいのです」
キルケーを魅入られたように凝視するアイシス。魔女は恋に狂った女性に微笑みかけた。
「憎いのでしょう、皮肉にもあなた様を邪魔することとなった異世界の女が。
これは私からのささやかな恩返し。どうか受け取られませ」
アイシスはキルケーの操り人形にでもなったように素直に首を縦に振った。
「ですがアイシス様、ご用心なされませ。魂だけになられましたならば。
魂を失った肉体が損なわれることがないように。肉体に護られていない魂は儚いもの。少し油断すればあっという間に風の中の煙のように引き裂かれてしまいまするえ。肉体から離れている時間が長ければ、本来の生気もどんどん失われてしまいまする。
ご用心遊ばされませや・・・?」

66(ダイジェスト版)
真夜中の寝室。
独り寝のアイシスは自分の為そうとしていることを誰にも告げることなく―メンフィスはもとよりアリにすら―キルケーから渡された秘薬の小瓶を干した。
(キャロルの許に参りたい・・・!)
甘いようなほろ苦いような不思議な味が口に広がり、アイシスは寝台に昏倒した。

強い風の中、どんどん引き込まれるようにアイシスの魂はキャロルの居場所目指して飛翔する。
真っ暗な視界の中に、ハットウシャの王宮が見え、やがて目指す相手の姿が浮かび上がった。
ルカの従僕として粗末な寝台に横たわるキャロルだ。
(やっと見つけた・・・!こんな所に隠れておったか!ここは・・・話に聞くハットウシャの都?
散々手こずらせた憎い娘!もはや、そなたごとき卑しき身にメンフィスの命を預けて置くわけにはいかぬ)
アイシスは自分の身にメンフィスの生命と魂を移すつもりだったのだ。成功するのかどうかは彼女にすらおぼつかない。
だが最愛の夫を今度こそ全て我が物とするために、アイシスは危険極まりない賭に出る。

真夜中。ふと不吉な気配に目覚めたキャロルが見たのは蒼白く光るアイシスの姿だった。その鬼気迫る凄まじい姿にキャロルは声も出なかった。
アイシスはキャロルに迫った。そなたに預けし我が宝を返せ、と。
「アイシス・・・?! 何を言って・・・いるの?分からないわ・・・」
アイシスの唇が禁じられた呪文を紡ぐ。キャロルは胸にかつてない苦痛を覚え、声も出ないままにのたうち回った。
その肉体の内側に籠められたメンフィスの生命と魂が、キャロルのそれから引き剥がされようとしているのだ。
アイシスの魂は、メンフィスの生命と魂を取り戻し一体となったあとにキャロルを自殺に追い込むつもりだったのだ。
「お前はもう不要じゃ!逃れようとばかりしていた憎い女。逃れるがよいわ、黄泉の世界へ!」
「きゃあっっっ!」
苦痛と恐怖。キャロルの口から大きな悲鳴が迸った。
その悲鳴で隣室のルカが驚いて様子を見に来た。彼が目にしたのは幽霊のようなアイシス女王が、キャロルの胸あたりから光り輝く塊をもぎ取ろうとしているところ。
「何をしているっ!」
ルカは短剣をアイシスに投げつけた。アイシスの姿はかき消すように見えなくなった・・・。

67(ダイジェスト版)
アイシスは自分の寝台の上で目を開いた。全身が引き裂かれるように痛み、息が苦しく、滝のように汗が流れる。
(失敗した・・・!)
アイシスは瞬時に悟った。憎いキャロルの身の内からメンフィスの命と魂を引き剥がせるところだったのに、悪運強いキャロルは誰かに助けられてしまった。
「誰か・・・おらぬか。水が欲しい。それと・・・キルケーを召し出せ」
アイシスは気丈に命じた。失敗はしたもののキャロルがどういうわけかハットウシャに居るらしいことは分かった。
アイシスはキルケーに事情を説明し、さらに秘薬を譲り受けた。
「キャロルはハットウシャの都にいる。金髪に憎い娘の居場所が分かった上は一気にカタをつけたいのじゃ」
「この薬は効き目の激しいもの。過ごされてはなりませぬえ・・・」
キルケーの声がアイシスの耳に届いたのかどうか・・・・。
そして。
二人の女は気づかなかったが政務を終え、寝所近くに戻ってきたメンフィスはキャロルがハットウシャの都にいるという一言を漏れ聞いてしまう・・・。

キャロルはアイシスの出現に怯えきっていたが、敢えてアイシスのことは自分の悪夢だと思いこもうとしている。認めれば自分の感情をコントロールできないと思っているのだ。
だが亡霊のようなアイシスにキャロルが襲われている現場を目撃してしまったルカは平静ではいられない。キャロルに内緒で自分が見たことをイズミル王子とミタムン王女に告げた。兄妹は顔を見合わせるばかり。いくら不思議に慣れた古代人とはいえ、自分の目で見ないうちは・・・というわけか。
しかしそうはいいながらキャロルを愛しく思う王子の胸の内には、暗雲のような曰く言い難い嫌な予感が膨れ上がっていく。王子はその夜、忍びでルカの宿舎に行き、主従はこっそりとキャロルを見守った。
果たして、その夜も現れたアイシス。燐光を帯び、より凄まじい有様のアイシスは鬼女の形相でキャロルに迫る。自分の魂魄に宿ったメンフィスのそれを無理矢理に引き剥がされる苦痛に悶絶するキャロル。
イズミル王子は隠れ場所から飛び出ると、聖なる神の印を刻み込んだ鉄の守り刀でアイシスに斬りつけた。アイシスはたまらずに逃げ出した。王子は半ば気を失っているキャロルに命じた。
「これよりそなたは我が許に参れ。そなたはもはや従僕、小姓の少年にあらず。ナイルの娘よ、私の許に参れ。そなたを失う恐怖に私は耐えられぬ」

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キャロルは呆然と自分の新しい部屋を眺め渡した。

一昨夜から何と多くのことがあったのだろう。ルカの従僕で、ミタムン王女の小姓でもあった孤児の少年キャロルはもういない。
言ってみれば少年はアイシスの亡霊(としかいいようのない存在に)殺されてしまったのだ。
キャロルを救ってくれたのはイズミル王子とルカの主従だった。汗を流し、浅く呼吸し、半死半生の有様であったキャロルはイズミル王子の腕の中で正気付いた。
「王子がお前の置かれている立場を全て説明していただいた。これまでよく私に仕えてくれたな、キャロル。
だがお前は女だ。これからは王子がお前をお守りくださる。王子はお前を疎かに扱ったりはなさらぬ。
良いな、これからは私に仕えてくれたように王子にお仕えいたせ」
あまりにさらりと言い渡されたルカの言葉。
「キャロル、今となってはお前のことを“お前”と呼んでいいのか分からない。ナイルの女神の娘であるお前が私の許に飛び込んできて、アイシス女王がその身を殺そうとさえした。
状況はお前が考えているより余程切迫してきているのだ。もう逆らうことは許されない。王子の御許に行け。
王子はいい加減な方ではない。お前を大切に護ってくださる」
自分が女神の娘? 口も利けないでいるキャロルにルカは重々しく言った。
「これまでのことを感謝している、キャロル。ナイルの娘。幼い御身にはまだ幸せの何たるかは分からず、ただ家族を恋い、この世界の全てを疎んじるだけかも知れない。
だが賢い御身にはいつか全てが分かるだろう。王子の庇護のもと、早くその日が来るように・・・」

そしてキャロルは密かに王子の宮殿の中の奥まった一室に連れてこられ、王子の心づくしの美しい女性の装束に身を固めているというわけだ。彼女の存在はごく限られた人々にしか明かされていない。
透けるように色の白い金髪碧眼の少女は密やかにムーラ達、少数の侍女に監視するように見守られ傅かれながら、この宮殿の主イズミルの訪れを待っているというわけだった。

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宮殿の主がキャロルの許を訪れたのは夜になってからだった。
緊張しきった顔つきのキャロルは薔薇色の地厚のガウンを白色の紗の上に纏い、幼い顔にうっすらと化粧を施され、たいそう美しい。
「よく来てくれたな」
王子はにっこりと微笑んだ。
「何も怖いことはなかったか? 慣れぬ場所ゆえ疲れているのではないか?」
キャロルは真っ赤になって首を横に振った。女として王子に対面するのは初めてだ。美しく贅沢な衣装も、白い肌の幼げな容貌を損ねぬようにとムーラが注意して施した化粧も、梳き流した金髪が剥き出しなのも全てが面はゆいかった。強がって見せてもキャロルはまだ16歳だ。美しく装って、密かに好意を寄せている―密かに、と思っているのはキャロルだけかもしれないが―ライアン似の男性の前に立つと心ときめきを覚えた。
「これをそなたに。ナイルの娘よ」
イズミル王子はそう言って繊細な鎖につけた護符をキャロルの首にかけてやった。悪しきモノを遠ざけるその護符は今日、王子が神殿の大神官に命じて作らせたばかりの品だ。薄い香木の板に聖なる印が刻まれている。
「あ・・・ありがとうございます。イズミル王子。お心遣いに感謝します。それから、あの私のことはキャロルと呼んでください、今までみたいに。
・・・私はナイルの娘と呼ばれるような存在じゃありませんから」
最後の一言は少しぶっきらぼうになってしまった。いきなり神の娘呼ばわりされては戸惑いや腹立ちが先に立つ。
「ふむ、ではキャロルと呼ぼう」
王子はくすりと笑った。とりあえずキャロルが元気そうなので安心した。キャロルの心をほぐそうと王子は様々に話しかけ、また自分からキャロルが興味を持ちそうな話題を持ち出した。女の姿に戻ったキャロルが、自分の今後にたいそう不安を抱いているらしいことはよく分かっていた。
(いずれ私だけのものとしたいが、今は妹のように接してやるのが良いだろう。まずは私の側にいることに慣れさせねば)

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イズミル王子の話術はなかなか巧みで、キャロルはかなりうち解けてきた。
いや、巧みな話術のせいだけではない。王子はきちんと彼女に、彼女が一番知りたがっていることを教えてやっていたのだ。
つまり今、キャロルが置かれている状況、今後起こりうると予想されるいくつかの出来事等々。
「生命転移の秘術」の恐ろしさを改めて思い知ったキャロルは顔を強ばらせた。
「ではアイシスは私の中にあるメンフィスの・・・命と魂を取り返そうとしたのね。私・・・まさか本当にそんなことが
できるなんて信じていなかったわ」
「そして如何なる術を用いたやら実体を持たぬ幽霊のような存在として、そなたに害を為そうとした。私が投げつけた短剣はあの女の身体を通り抜けたぞ。
アイシスはそなたの中に隠したものを取り返そうとしたのだ。そなたが夢だと思いこもうとしているらしいのは知っている。
だがな、そなたが被った苦痛は間違いなく本物だ」
キャロルはこくんと頷いた。ぞくりとした悪寒が背筋を這い上る。
(ミタムン王女は言ったわ。メンフィスは言ってみれば死人。その死人を愛し、永久に我が物として愛を貫こうとするアイシスの恐ろしさ・・・そして哀れさ。
できることならアイシスの苦しみを除いてあげたい。でも私の命と引き替えなんて恐ろしいことはできない。アイシス、それはもう愛ではないわ)

「キャロル。顔が蒼い。疲れたのであろう。さぁ、休むがいい」
イズミル王子は驚き、何が起こったのやら理解できないでいるキャロルを軽々と寝台に抱き下ろすと、自分もその傍らに身を横たえた。
「ふ。何て顔をしている?私が添い寝するのは嫌か?だがな、一番確実にそなたを守ってやれるのはこの方法しかないゆえな。
安心いたせ、いくら愛しいとはいえ妹のようなそなたをすぐどうこうするような倒錯した趣味はない」
「でっ、でも・・・!」
「・・・言ったであろう?私はそなたの身体などではなく心が欲しいのだと」

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