『 妖しの恋 』

51(ダイジェスト版)
一方、イズミル王子の命を受け、クレタ方面で諜報活動を行うルカは。
時々、国元に置いてきたキャロルの身を心配することはあっても―彼はキャロルが金髪碧眼だということは知っていたが、肌の色が透けるように白い
「少女」であることは知らない。彼にとってはキャロルは「弟分」なのだ―、ひたすら忠義に任務をこなしていた。
(ファラオは本格的に地中海方面に版図を伸ばす気でいるらしい。これは早期に牽制せねば。エジプトが砂漠の外に興味を持つことは我がヒッタイトのためにならぬ。
しかし歴代のファラオが少しも国外に興味を持たなかったというのに、何故メンフィスは急に・・・? エジプトの民は生ける神ファラオが、その治める国土を離れることを不安に思っていると聞くが)

ルカは―そしてアイシスも―知る由もないが、生命転移の秘術で結びつけられた形代と、その宿り主は引かれ合うもの。メンフィスは無意識にキャロルに宿った己の命と魂に近づこうとしていたわけである。

ある時、ルカはエジプト兵達の駐屯地近くで不思議な歌を聞く。
「誰にこそ告げん。
我がエジプトにソティス星現れるとき、麗しき乙女ナイルの岸に立つ・・・。
・・・・・・そはナイルの女神の産みし娘。我がエジプトに恵みもたらさん・・・」
金色に輝く美しい伝説の乙女の歌を聞き、ルカが思い出したのは金髪のキャロルの姿だった。そういえばキャロルに初めて会ったのはナイルの増水期を告げる星の現れる時。
(男にしては華のありすぎる容姿・・・キャロル・・・。不思議な出現、魔法のような道具を持っていた・・・。奇蹟としかいいようのない方法でイズミル王子のお命を救ってくれた・・・)
ルカもまた主君イズミルと同じ予感にうたれ、戸惑い戦くのだった。

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キャロルの日常はある種、荒らしの前の静けさを帯びた調子で淡々と過ぎていった。
あの衝撃の夜以来、キャロルはイズミル王子と二人きりになることはなかった。
毎日毎日、懼れ戦いて過ごしていたが―といっても10日と経っていない―肌に押された接吻の跡も薄れ、キャロルが意識的に忌まわしい王子の行為を思い出さないようにしてきたためか、当のキャロル自身あれは夢であったかと思うこともあるほどだ。
キャロルはミタムン王女からルカの任務が長引く旨を知らされ、小姓としてますます重用されるようになっていった。王女はキャロルを気安くこき使ったが、それは孤児だと思われているキャロルがヒッタイトの王女に分不相応な贔屓を受けていると周囲に思わせないための方策だった。
何しろキャロルは実は女性で、大好きな兄イズミルの想われ人で、しかも兄じきじきに「キャロルを守ってやろう」と言われた相手なのだ。
ミタムン王女はキャロルに好意を抱き、乗馬などにかこつけて、身の上や育った場所などについて聞き出していた。こういうことにかけてはとても巧みなのだ。
そして何気なく兄に新しい情報を伝える。
(キャロルってなかなかの育ちをしているのね。下々の娘ってかんじじゃないわ。もっと詳しく喋ってくれればいいのに上手くはぐらかすんだから)
ミタムンは歯がみした。だが彼女も上流階級の娘達を侍女として身近に召し使う身。キャロルがそんじょそこらの上流の娘に引けを取らないことだけは分かった。

一方、イズミル王子は再度キャロルに近づく機会を狙っていた。
だが急に政務が多忙となり、なかなかその機会は訪れない。深夜、独り寝の寝所でぼんやりとペンライトを弄ぶのが日課となりつつあった。
(全くこれではまるで初恋にのぼせる愚かな子供ではないか)
王子は苦笑した。夢の中では愛しい娘に様々に挑んでいるのだが現実は・・・というわけだ。

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ハットウシャは冬の嵐に見舞われ、寒い日が続いていた。キャロルは学校が終わるとミタムン王女の許に参上して、退屈しきっている王女とそのお付きの侍女たちに様々な物語をするのが日課になってしまった。
古代のお嬢様達はアラビアンナイトもシェイクスピアもグリム、アンデルセンも知らないのだから博識なキャロルは人気者だった。手すきの侍童や男の召使い達までもキャロルの話を聞きに来る始末。

「ここはずいぶんと賑やかだな」
「あらっ、お兄さま!今キャロルに物語などさせていたのよ。いろんな話を知っているから退屈しないわ」
「そうか」
イズミル王子は緊張しているキャロルにわざと気づかぬふりをしていた。ようやく多忙を極めていた政務も一段落、久しぶりにキャロルの顔を見に来たというわけだった。
キャロルは冬になってから、顔に塗る赤土のおしろいの量を減らしているので肌はずいぶん自然な色合いに見えた。しかも冬の乾燥した風がよほど体質に合わないのか毛染めのクルミの渋も髪を傷ませるばかりなので、今日はターバンで髪の毛を隠したきりだ。
王女は、必死に何気ないふりを装いながら兄王子から目を離せないらしいキャロルを興味津々、観察していた。
(やっぱりキャロルもお兄さまを好きなのね。でもずいぶん恥ずかしがり。普通の娘ならお兄さまの目に留まろうと必死になるのに、避けて逃げようとしてるみたい。変ね・・・?)
「さてミタムン。楽しんでいるところを悪いが・・・」
「またキャロルを借りにみえたのね。仕方ないわ。キャロル、お行きなさい」
ミタムン王女は兄王子にだけ通じる共犯者の視線を送ると、キャロルを促した。
「は・・・い・・・」
冷や汗でしとどに濡れた肌に気づかれませんようにと祈りながら、キャロルは立ち上がった。

53
「どうした?入れ」
イズミル王子はキャロルに入室を促した。
(へ、変に緊張していては却って怪しまれるわ。とにかく私は何も知らないのよ。あの夜のことだって!そうよ、知らぬ存ぜぬで通してしまえばいいの。
私は男の子でルカの従僕ですもの!)
キャロルは覚悟を決めて、黙って部屋に入った。室内は大きく火が焚かれ、暖かな光に柔らかく照らされている。部屋の主がくつろぐ長椅子の前には、程良く乱雑に取り散らかされた粘土板、書物、酒器と杯。
武器類は相変わらず壁に立てかけてあるし、実用一点張りなだけの部屋だが灯火の光のせいか、以前に比べると何とはなしに親しみ深く見える。
「このところ多忙でな。目を通さねばならない書物がずいぶん溜まってしまった。また整理を頼みたい。まぁ、その辺に座れ」
イズミル王子の声音はあくまで落ち着いていて穏やかに優しい。「従僕」の少年キャロルに接するその態度は以前と少しも変わらない。真夜中の泉のほとりで熱に浮かされたように激しく、身勝手な男の欲望を剥き出しにした口説を繰り返したのと同じ人間とは思えない。
(気づいて・・・いない・・・?)
キャロルは油断無く王子の様子をうかがいながら、長椅子の側の床に座った。
(そうなのかしら?・・・そうよね・・・! だいたい王子ともあろう人があんな夢みたいな出会いにいつまでも拘るわけないじゃない?兄さんと同じ超リアリストよ、この人は。もし怪しまれていたとしても、知らん顔でいればいいのよ。男女の取り違えなんて馬鹿馬鹿しすぎるって)
キャロルは客観的な判断するより、自分の希望的観測に飛びつくことにしたようだ。
キャロルは王子に促されるままに、書物の題名を読み上げて内容別に整理し、積み重ねていった。今回は地図や地誌関係のものが多いようだ。
「そうそう。今回は書物だけでなく珍しき品もあるのだ」
イズミル王子は全く落ち着き払った声で言った。だが胸は早鐘のように高鳴っている。
「これだ。星を籠めた珍しき筒ぞ。このようなものは初めてだ。・・・もっとも、そなたは知っておろうがな」
王子はキャロルの目の前にペンライトを差し出した。

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(!)
キャロルはひゅっと音を立てて息を吸い込んだ。
知っているも何も目の前にあるのはキャロルのペンライトではないか!
パニックに陥って王子の無体から逃げ出したキャロルが忘れていった20世紀の品! 
あの夜以来、大事な品々を収めた小袋の中身を確かめることも忘れていた。つまりキャロルは今初めて、自分がしでかした大きな大きな失敗に気づいたわけだ。
「どうした?これは・・・そなたのものであろう?」
相変わらず相手を包み込み、安心させるような余裕ある優しさを漂わす声で王子は問うた。
先ほどまでの「何があってもしらばっくれて逃げ切る」という決意はどこへやら。キャロルの顔はさっと紅潮し、続いて蒼白になり、冷たい汗が全身から噴きだし、息づかいはひどく荒くなった。
「こ・・・れは・・・」
キャロルの声はひどくしゃがれていたが、「少年」の声を装うことを忘れ果てているので、間違いなく「少女」の声になっていた。
王子は内心、にんまりした。しっかりした賢い少年として振る舞っていても、所詮は子供だ、と。
あまりに正直すぎる反応にこちらが拍子抜けするほどだ。もっと巧みにしらばっくれ、手こずらされると思っていたので。
「これ・・・は・・・ペンライ・・・私・・・忘れて・・・? いえ!」
キャロルは目の前の男性の憎たらしいほど余裕綽々の顔を見つめた。
いけない!何とかしなくては!相手の思い通りになるようなことがあってはいけないのだ!
「どうした?そなたが忘れし星であろう?ペンライという名の星なのか?
あの夜、私とそなたは出会ったではないか。よもや忘れたとは言わせぬ。私は片時もそなたのことを忘れなかったぞ」
「お・・・おっしゃることが分かりません。こんなものは初めて見ます」
キャロルは必死に言い募った。だが王子は一転、厳しい表情を浮かべ逃れようとする細い手首をしっかりと捕まえてしまった。
「嘘だ」

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「嘘なんかじゃありません。僕は知りませんっ!・・・だいたい私、夜中に庭に出るようなことしませんものっ!」
語るに落ちたとはこのことだろう。キャロルはイズミル王子を睨み据えたが、王子から返ってきたのはいかにも愉快そうな笑い声だった。
(あら・・・? この人、こんなふうに声をあげて楽しそうに笑えるの?)
一瞬、キャロルがこう考えてしまうほど磊落な笑い声。
「ほう?泉の乙女よ、夜中に庭で我らが会ったことを何故、一介の従僕に過ぎぬ“キャロル”が知っているのかな?
風邪が治りきっておらぬか?いつもの賢さはどうした?」
王子の顔がずいっと近づいてきた。いかにも面白そうな色を湛えたはしばみ色の瞳。
(怖いっ!)
あの夜の恐怖が蘇ってきてキャロルはぎゅっと目を瞑った。そうすれば嫌なことは全て自分とは無関係のことになるとでもいうように。
だが。
王子はただ、こつんと額を合わせて来ただけだった。強引な真似をされて辱められるのではないかと思っていたキャロルは思わず目を見開いた。
「ふむ、熱はないようだな」
「え・・・?」
優しい微笑。ライアンを思い出させる怜悧な顔に浮かぶ暖かな笑みに、キャロルの強ばらせていた身体から一気に力が抜ける。
その一瞬の隙を待ちかまえていたかのように、王子の大きな手がキャロルのターバンに伸びた。
(え?)
何が起こったのやら充分に理解できぬままにキャロルは髪を隠していた布を奪われ、艶やかな金色の髪の毛が細い肩にこぼれ落ちた。
すかさず王子の手は濡らした布を掴み、小さな顔をごしごしと擦った。赤っぽい色が落ち、本来の白い肌が露わになる。
「おお・・・!」
王子は感嘆と喜びの声をあげた。目の前にいるのは間違いなくあの夜、月明かりのもとで見た金色と白の乙女だ!
「そなただ。間違いなく私の探していた娘だ!」

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「あ・・・ああ・・・あ・・・」
キャロルは涙ぐみ、竦んで動けぬままに圧倒的に力の差のある男性を見つめた。隠し切れぬ恐怖と、毅然と目の前の敵に立ち向かおうとする決意という相反する感情を湛えた表情はこの上なく男心をそそるものだった。
(どうしよう・・・どうしよう・・・。私、どうなるの?怖い、怖い・・・!どうして王子の部屋になんかのこのこ入り込んだの。
誰か助けて!兄さん、ママ、神様っ!)

王子は怯えて声も出ない少女に、この上ない愛おしさを覚えた。自分が強引にキャロルの正体を暴いたことにひどく嫌悪感を感じた。
今この瞬間まで王子はキャロルを抱いて我がものとすることだけを考えていた。そうするのが自分の望みであったし、ヒッタイトの王子たる自分に熱望されて抱かれることはキャロルにとってもこの上ないことと思っていたのだ。
だが恐怖のあまり気絶しそうになっている異世界の少女を見ていると、そのような身勝手下劣な欲望は急速に薄れ、ただ自分を恐れないで欲しい、愛しいと思う心を知って欲しいという初めて味わう感情が萌してきたのである。

王子はそっと指を白い頬に伸ばし、涙を拭った。
「泣かないでくれ・・・。そなたを泣かせるつもりはなかったのだ。怖がらせるつもりはなかったのだ。泣かないでくれ。頼む・・・」
自分を見つめる勿忘草の瞳をじっと見つめ、心を込めて語りかける。
「私はただ、そなたが、泉のほとりで出会ったそなたが忘れられなかったのだ。水の精か、はたまた天女かと思う相手がよもやミタムンの側に居たと知ったときの嬉しさと驚きを察して欲しい」
王子は優しく金髪を撫でた。泣き虫の妹王女を幾度と無く慰め、笑顔を取り戻させてやった兄の仕草と声はいかにも穏やかに思いやりに満ち、強ばったキャロルの心に少しずつ染み込んでいった。
「怖がらないでくれ。もう無体をしてそなたを怖がらせるようなことはせぬ。
泣かないでくれ。怖がらせたのなら謝る。
私はただ、初めて会ったときから愛しいと思ったそなたにもう一度会いたかったのだ。星を忘れていった天女にもう一度会いたかったのだ」
王子の声は催眠術のようだ。いつしかキャロルの身体の闇雲な緊張は去り、詰めていた息づかいも穏やかになる。
「信じて欲しい・・・」
キャロルは・・・自分でも気づかぬうちに、こくんと頷いていた!

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にっこりと本当に嬉しそうにイズミル王子は微笑んだ。強引に想いを遂げようとしなくて良かったと心から思えた。
(私はこの娘の・・・キャロルの心が欲しい。身体ではない。心が欲しいのだ)
キャロルの青い瞳を見つめながら彼は悟っていた。今まで相手にしていた女達とは全く違う娘。これまでは男だと思い、口説いて征服する相手だとは考えていなかった。
何とか自分の気に入られようと媚びたり、蓮っ葉なふりをしたり、泣いたり笑ったりみせたりする女達の媚態に食傷し、深く知り合うのを避けてきたイズミル王子だったが、キャロルはまず「少年」として彼の前に現れた。王子は何の先入観も持たずに少年を観察する機会に恵まれたというわけだった。
頭も良く如才なく振る舞い、恥ずかしがりらしく、とにかく控えめで腰が低くて―キャロルにしてみれば下手に目立ったりすることは避けねばならないだから当然だ―、しかし人の心を思いやる繊細な優しさも持ち合わせているらしい少年。
それだけではない、顔立ちも非常に整っている。キャロルを男だとばっかり思っていたイズミル王子が、自分はよもや男色趣味があるのだろうかと本気で心配になったくらい凛々しくも楚々とした美貌の持ち主だったのだ。
(まことにまぁ、冗談のように男の理想に叶った少女だ)
王子がこう考えて苦笑したほどに。
とにかく。
王子は一目でキャロルという一人の娘に恋をして、今まで父王ほどおおっぴらではないにせよ、散々女性相手の火遊びを繰り返してきた若者らしからぬ純情さで初めて自分の方から好きになった娘の心を得ようとしているわけだった。

キャロルもまた、年相応の娘らしいときめきを押さえることはできなかった。
古代に来て、ライアンに雰囲気の似たところのあるヒッタイトの王子は何となく心惹かれる存在であった。その声を聞くと我知らず顔が赤らみ、書物の整理などしているときにふと息づかいを感じたり、手が触れたりすると鼓動は独りでに早くなった。
つまり彼女の方も初めてライアン以外の人間に本格的な恋心を感じていたわけだが、古代での暮らしへの不安やストレスが先に立って気づくこともなかったということだ。

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王子はごく自然にキャロルを抱き寄せた。いわゆる欲望といった感情は覚えなかった。ただ目の前の娘が愛しく、
昔、ミタムンにしていてやったように背中を優しく撫でて安心させてやりたかったのだ。
女というにはあまりに幼い、少女の身でありながらこれまでよく耐えてきたことよとその気丈さを褒め、もう必要以上に緊張して突っ張ってみせる必要はないのだと教えてやりたかった。
キャロルは一瞬、身を固くした。だが王子の優しい手つきは彼女に懐かしい思いを抱かせた。
(・・・兄さんの手と一緒・・・。暖かくて気持ちのいい・・・安心できる)
キャロルは静かに吐息をついた。それは古代に来て初めて漏らす安堵の吐息であったかもしれない。

「そなたの話を聞きたいな。私は従僕で小姓の“キャロル”しか知らぬ」
王子は名残惜しげにキャロルから離れ、長椅子で楽な姿勢をとった。これ以上、側近い距離にいては理性が持たないと思ったのだ。ゆったりした衣装の内側では男の体が痛みを感じるほどに熱くなっているのが分かる。
キャロルはそんな王子の苦労を知ってか知らずか、子供っぽい元気な動作で王子の胸の中から離れると―少しは名残惜しげにしっとりとした風情を見せて離れて欲しいところだと王子は思った―、長椅子から少し離れた敷物の上に座り直した。
「どこからお話すればいいのか・・・。ミタムン王女様は何をどこまで話されたのでしょう」
「最初から全て、そなたの口から聞きたいな」

キャロルは王子に見守られながら自分の物語を語り始めた。
アイシスの不思議な力によってこの世界に引き込まれたこと、少年のなりをしてアイシスの許から逃げ出す途中でルカに助けられ、ヒッタイトにやって来たこと、ミタムン王女に秘密を打ち明けたこと・・・。
「そして今、私にもうち明けてくれたのだな」
話し終えたキャロルに王子は言った。妹王女からも話を聞いていた王子は、キャロルが妹に話していないことまで自分に打ち明けてくれたことに気づいていた。
それはルカとの奇妙な、でも静かな生活のことなどだ。キャロルは王子にあらぬ誤解をしてほしくなかったということになる。
押さえた話しぶりながら、男女のことは何もなかったと力説するキャロルは何とも愛らしく思えた。
(ふむ・・・。世慣れぬ子供のような有様ながら、ひょっとしてこのキャロルは私のことを憎からず思っていてくれるのか?)
王子は内心、呟いた。いつかは20世紀に帰るつもりのキャロルの想いなど、この青年には考え及びもつかないのだ。

59
「ねぇ、キャロル。キャロルはお兄さまが嫌いなの?」
初春のハットウシャ。杏の花の蕾がだいぶ膨らんできている、その木の下でミタムン王女は手綱を預かるキャロルにあけすけに聞いた。
兄に秘密を打ち明けたのが冬。今は春。何らかの進展をずっと王女は待ちわびていたのにキャロルは相変わらず「小姓の少年」のままだ。
(お兄さまはいつも、もっとお手が早いのだけれども・・・? といって他の女達と派手に戯れておいでかというとそうでもないのよね。
変なの)
「イズミル王子様はご立派な方です。嫌いなどとはとんでもない」
「私が言うのはそんな意味じゃないわ。分かっているでしょう?お前はいつ女に戻るのって聞いているのよ」
「王女様、お声が高い。僕は・・・王女様の小姓ですし、お戻りになったルカ様の従僕です。それ以上ではありませんよ」
ミタムン王女はいらいらとした声を出した。
「まだそんなことを言うの? 私が何のために、おしゃべりの憎まれ役になってお兄さまにお前の秘密を話したと思うの?
お前を守るためって言うのも確かにあるけど・・・」
王女はここで言葉を切って、困り切った顔になったキャロルを見つめた。
困り切った顔になってもキャロルはなかなかの美人だと王女は思った。まじまじと顔を見つめれば、兄とは違ってポーカーフェイスの下手なこの娘は我が儘で強引なミタムンの言い分に困惑だけでなく、わずかに苦渋というか葛藤のようなものを感じているらしいことが読みとれる。
「私はてっきりお前がお兄さまのことをお慕いしているんだと思っていたのよ。だってお前はお兄さまがいると赤くなったりしていたもの。
それにお兄さまだってお前のことを憎からずお思いっていうか・・・好ましくお思いよ」

59.5
「ミタムン王女様!」
「本当よ。私、伺ったもの。お兄さまのお口から。ねぇ、何を小難しく考えているのか知らないけれど、お兄さまのお側に上がりなさいよ。
私はそれがいいと思うし、お兄さまなら何があってもお前のことを守ってくださるわ。一度情けをかけられた女にはそりゃ律儀なんですもの。
ましてやお前は・・・」
「ミタムン様、どうかそれ以上はおっしゃいませんように。僕は・・・いつかは故郷に還る身です。どうして王女様の夢物語におつき合いできましょう?
イズミル王子様だって分かっておいでです」
王女は初めて聞く事実に呆然とした。キャロルが還る?いつか?

60
「おお、ルカ。待ちかねたぞ。長きにわたるトロイ探査、ご苦労であった。予定が当初よりかなり延びてしまったな」
イズミル王子の執務室。衣服を改めたルカは主君に恭しく頭を下げた。室内には二人きりで、王子の前にはルカからもたらされた報告文章が置かれている。
(ルカは“従僕”キャロルの介添えで衣服を改めたのか・・・?)
イズミル王子は頭を軽く振って自分らしからぬ馬鹿げた妄想を追い払おうとした。そんなことより今は・・・。
「恐れ入ります、王子。国王様が国境にお送りくださった軍のおかげでエジプト側の不審なる動きを封じることができました。メンフィス王はにわかに外国出兵の理由を“国交拡大と貿易拡充のため”とし、トロイをはじめとする東地中海諸国に圧力をかけることを止めました・・・」
ルカは頭の良さを思わせる口振りで報告を進めていった。実際、エジプト軍の多くは帰国の途に就き、今はトロイ王国の“客分”となったエジプト国王夫妻が少数の精鋭と共に現地に留まって居るのみだ。だが彼らも、おそらくはナイルの増水期前後には帰国するだろう・・・。
王子は重々しく頷いた。実際、ルカの報告は的を射ているし、全ては王子の予想通りに進むだろう。だがその王子にもどうなるか分からない一点がある。
「ところで、そなたのこの報告書だ。エジプト王の出国と、伝説のナイルの女神の娘の出現と・・・おそらくは失踪を結びつけたこれ・・・」
幾重にも封印されていたそれには簡潔に記されていた。

―伝説の黄金の神の娘がエジプトに現れ、そして消えた。神の子たるメンフィス王は、女神の娘を娶るために遠征軍を組織し、失踪した娘の足取りを追っていたのだ。
女神の娘が消えた時期はおそらくは即位式前後、東方よりの客人の帰国―ここで報告書は暗にヒッタイトのことをも仄めかしている―時期と重なる。
エジプト王は独自の捜索で今回の急な遠征軍の行き先を決定したと思われる。
この件につき、王の正妃アイシスは消極的な不賛成の態度を崩さない・・・。

「実に興味深い報告だ」
王子は言った。
「アイシス王妃は何故、積極的にファラオの無謀を止めぬのか?メンフィス王は何故、黄金の娘に執着する? だがその一方でアイシス王妃も巨費を投じて
同じ娘の行方を追っているらしいし・・・」

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