『 妖しの恋 』

41
(どうしよう、どうしよう、どうしようっ・・・!)
明るい朝日が射し込んでくる部屋でキャロルは怒りと屈辱の涙を流していた。
昨夜。
風邪の熱にうかされたキャロルは火照る身体を冷やそうと奥庭の泉に行った。
冷たい水に浸した布で汗ばんで気持ち悪い肌を拭いて本来の肌の色、髪の毛の色がすっかり露わになった時、
たまたま夜更けの散歩をしていたらしいイズミル王子に見つかり・・・女と見破られて・・・抱きすくめられた・・・。
「いやっ!」
昨夜の光景がありありと脳裏に蘇り、キャロルは身震いして頭から布団をかぶった。強引で激しい接吻、弄ぶようにそこここに
押し当てられる男の唇。キャロルに優しく語りかけ、あるいは知識を授けるのと同じ唇から出たおぞましくも身勝手な男の戯言。
昨夜はどうやって自分の寝台まで戻ったものやら。寝台に潜り込んで泣いているうちに張りつめていた気が緩んで半ば気絶するように
眠ってしまったらしい。朝起きれば肌には紛う事なき接吻の跡。死んだ方がましかとも思える屈辱が潔癖なキャロルの心を焼き尽くした。

すっかり日が昇ってから涙も枯れ果てたキャロルは桶の水で身体を拭いた。そうすると少し落ち着いてきた。
(・・・今思えば王子もだいぶ浮き足立っていたような・・・。ひょっとしたら私が“キャロル”だとは思っていないかも。
いえ、それどころか夢か何かかと思っている可能性も・・・)
尊敬もし、また少女らしい心から憎からず思っていた男性に、いきなり辱めるような強引な真似をされたことはショックであったが
今のキャロルには冷静に現状を分析し、今後のことを考えるだけの力もあった。
(もし、もしも正体がばれていないなら闇雲にここから逃げるのは却って危険だわ。だってここ以外に私がどうやらこうやら安全に暮らせる場所ってないもの。
逃げればルカやミタムン王女にも迷惑をかけることになるわ。逃げ出すことで私が他国のスパイだと決めつけられてしまうかも知れないじゃない。
・・・素知らぬ顔をしていようか・・・? あの屈辱は許し難いけれど)

42
(昨夜の乙女はまこと水の精か、それとも天女か。金色の髪をして白い・・・大理石のような色合いの肌であったな。それに碧い瞳!
ああ、何故あのままさらってしまわなかった?)
イズミル王子は私室で一人物思いに耽っていた。膝の上には様々な書類、粘土板。だが目はその上を滑るばかり。はしばみ色の目を
捕らえて離さないのは昨晩の少女が残していった不思議な星明かりを閉じこめた銀の筒―もといペンライトだ―。
王子の心は昨夜の不思議な邂逅を繰り返しなぞった。水辺の美しい少女。肌も露わに水と戯れていた。いかにも心地よさそうな
表情はこの上もなく男の好き心をそそるものだった。その表情の主には全くその気はなかったことは充分、分かってはいるけれど。
白い肌を彩る金色の緩やかな巻き毛。王子を見つめた水と同じ色の瞳。いかにも男慣れしていない初な処女の所作。
いや、むしろ子供じみてさえいた。甘い肌の匂い。柔らかな身体。怯えきった無言の涙・・・。
(まことに・・・あのまま寝室にさらっていって私だけのものにしなかったのが惜しまれる)
普段の王子なら嫌がっている、しかも子供っぽい相手を無理矢理抱くような真似は悪趣味の極みと軽蔑しただろう。
元々、女には大して執着がない上に不自由するなどということは無かったのだから。
しかし今回ばかりは違った。釣り逃がした魚は大きいというけれど、見知らぬ少女は本当に美しかった。声はただ一声だけ、
拒絶の言葉を聞いただけだったけれど容貌に釣り合った可憐な声音であったように思える。
王子は少女の忘れ形見のペンライトの突起を押してみた。それはスイッチで押せば小さな明かりが筒先に灯る。
こんなものを見たことのない王子にとってそれは星を閉じこめた不思議な道具だ。
(不思議な乙女の忘れ形見。星のような貴重なる物を忘れて逃げ出すほど狼狽させたのは悪いことをした。
だが・・・あの乙女はきっとこの星を取り返しに来よう。その時こそ、もう逃がしはせぬ)

43
「まぁまぁ、キャロル!どうしたのです?まさか今日は学校にも行かなかったの?」
寝台に伏せったままのキャロルにけたたましい声をかけたのは、よく面倒を見に来てくれる年輩の侍女だった。
あれから形ばかり肌の色を濃くごまかし、頭髪を染める気力はなかったのできっちりとターバンで頭を隠したキャロルは思いの外、
時間がたつのが早いのに驚きながら身を起こした。
侍女はキャロルの泣きはらした目と疲れてやつれた顔に驚いたらしかった。
「風邪だと聞いていたけれど、そんなに具合が悪いの?どうして早く言わなかったんです?薬は飲んだの?熱は?」
侍女はキャロルの額に手を当てながら矢継ぎ早に言った。
「熱はないようね。でも今日はミタムン様の所には伺わない方がいいかもしれない。王女様がお前をお召しなのだけれど」
「あ・・・大丈夫です。もういいんです。すぐ身なりを整えて参上します」
キャロルはあわてて起きあがった。
(王女の所に行こう。王子がどうしているか様子を見たいもの)

「キャロル、遅かったのね」
ミタムン王女は目を赤くしたキャロルに驚いたようだった。
「乗馬をしたかったの。お前もついておいで」
そう言いながら王女はさっさとキャロルを連れて外に出て、他の人間に話していることを聞かれないようにしてから改めて尋ねた。
「キャロル、一体どうしたの?泣いたの?風邪気味だって聞いていたけど・・・まさか誰かに無体なことをされたとか
そういうんじゃないでしょうね?」
女だと知っているキャロルに対するぶっきらぼうな気遣いと、女らしく鋭い勘。
(ミタムン王女はまだ何も知らないんだわ)
当然過ぎるほど当然なことに安堵したキャロルは強いて笑みを浮かべた。
「いいえ、何でも。昨夜は風邪で苦しくて少し寝苦しかったのです。ご心配おかけして申し訳ありません」
「・・・そうなの? 私はまた誰か馬鹿な男がお前に無体でも仕掛けたのかとか、誰かが苛めたのかとかそういうことを考えたわ」
「どうしてそんなことをお考えになったのです」
キャロルの声音は正直だった。だが王女は不思議なことにそれ以上、追求しなかった。
「言ったでしょう。私は馬鹿ではないのよ」

44
しばらく乗馬を楽しんだ王女達が居間に戻ってみるとイズミル王子が待っていた。
「あら、どうなさったの、お兄さま?おいでになるって知っていたらもっと早くに戻っていたのに」
王女は上機嫌で兄から手土産のラピスラズリの原石を受け取りながら笑った。甘い兄は妹にちょっとした贈り物をして喜ばせてやるのがたいそう上手だった。
「ご用は何?ひょっとしてキャロルかしら?」
その瞬間、キャロルは真っ赤になり顔を伏せた。だが目ざとい王女をごまかしきれるものではない。
イズミル王子もまた、そんなキャロルをいつもより鋭い視線で念入りに見つめた。といっても一瞬のことだ。
(似ている・・・)
王子はやはりな、と胸の内に呟いた。
昨夜来、悶々と眠れなかったのは王子とて同じこと。だがさすがにこの王子はキャロルのように徒に思考を空転させ、涙に暮れるというような
不毛な時間の過ごし方はしなかった。様々に見知らぬ麗しい乙女の顔かたちを思い出すうち、このところ自分を妖しい気持ちにさせてやまなかった
もう一人の麗人―といったところで王子は男だと思っているのだが―キャロルの顔を思い出し、結びつけたというわけだ。

(あの金色と白の少女の顔はキャロルに似ている。そういえばあの少女の瞳もキャロルと同じ珍しい勿忘草色だった。それに抱いたときの身体つきや触り心地だって。
しかし泉の乙女は間違いなく女の身体をしていた。キャロルはいくら似て見えたとはいえ男ではないか。そう男。
・・・・・・・・・・・・・・。
いや、本当にそうか?キャロル・・・。あの身体つき、所作、顔立ち、男にしては華がありすぎるとルカも言っていたぞ。まさか・・・)

矢も盾もたまらず、王子は性急に妹王女の許を訪れたというわけだ。実際にキャロルを確かめるまでは自分の妄想を冷笑していた王子だが、
赤面するキャロルを見ると妄想は確信に変わった。

45
王子はミタムン王女に言った。
「キャロルを少し借りたい。書籍をまた新しく入手したゆえ」
びくっと身を震わせるキャロル。
(ばれている・・・?王子は私を疑っている!)
紅潮していた頬が一転、蒼白になったキャロルを見た王女は言った。
「キャロルはひどい風邪が治ったばかりの病み上がりですの。今日は早くに退出させてやろうと思っていたのよ。
お兄さま、そのご用はまた次でよろしいでしょ?
・・・キャロル、お兄さまのお許しも出たわ。今日はもうお下がり」
「病み上がり」のキャロルを寒い戸外の乗馬に誘ったことなど忘れたかのように王女はそう言うと、お気に入りの小姓を下がらせた。
キャロルはそそくさと自分の部屋に戻っていった。

「・・・キャロルは風邪をひいているのか。そういえば熱でもありそうな顔をしていたな・・・」
人払いをしたミタムン王女の居間で、イズミル王子は呟くように言った。
(そういえば昨夜の娘の肌も驚くほど熱を帯びていたな。瞳が潤んでいたのも、妙に動きが鈍いように思えたのも、
吐息が熱かったのも、熱がある人間のそれだと思えば不思議はない)
王子は自分を凝視する妹王女の視線をよそに思考を彷徨わせた。
王子の記憶力は並外れていた。写真にでも撮るように様々なことを一度に細かいところまで記憶できる王子は昨夜の光景と、
ついさきほど見たキャロルの表情を注意深く比較検討していた。
(全体的な顔立ち、瞳の色合い、身体つき、何よりも私を見たときの表情。あれは何も知らぬ人間のそれではないぞ。
昨日、触れた身体、肌。いつか私が踏み台から落ちるところであったのを抱き留めた身体の感触。誰が忘れたりするものか・・・。
・・・・・してみると、やはり、やはり、ルカが拾った孤児の従僕キャロルは・・・? しかし何故にまた・・・?)
キャロルは女だ、と断定してしまいたいのに―そうしたいのは間違いなく王子の男としての願望故だ―何故、キャロルは
男のふりなどしているのか、何か企みでもあるのではないだろうか、と考えると納得できる答えはでない。
ミタムン王女は兄王子の様子をじっと観察していたが、唐突に切り出した。
「・・・お兄さまはキャロルがお好きですの・・・?」

46
ミタムン王女は狼狽えて顔色を変える兄の顔を静かに観察した。侍女たちと徒然に恋の噂話に興じることの多い王女である。
心惹かれ合う男女を見抜く眼力は確かな物だった。
もちろん大きく外すことも多いわけだが、今回は的中間違いナシという妙な確信があった。
(キャロルはお兄さまに話しかけられたり、見つめられたりしてすぐ真っ赤になったわ。子供だから恥ずかしがっているのかとも
思ったけれど、お兄さまは王子で、あの通り美男で頭も良いもの。大抵の女なら参るわね。ましてやキャロルは子供ですもん。免疫がないのよ)
王女は的確なのだか、ただの少女の妄想なのだか分からない考察を行っていた。だがやはり、そこは子供の想像。兄が好きなのは「男としての」
(下品な言い方をするなら「美少年の」)キャロルだと思っていた。昨晩、何があったかなど知る由もないのだ。
(お兄さまも、もし本当にキャロルがお好きならキャロルが実は女だってことを教えて差し上げた方がいいかもしれない。キャロルだって
お兄さまが好きなのでしょう?ルカの側にいるよりも、お兄さまの側室か何かにでもなったほうがいいじゃない?
・・・そうね、キャロルは優しいし、嫌みな気取り屋でもないわ。キャロルならお兄さまのお側に上がっても許せそう)
これまで焼き餅から、兄王子の側にある女性達に散々意地悪・悪戯をした前科者はそんなことまで考えた上で、今回の爆弾発言に及んだというわけだ。

一方、イズミル王子は驚いて言葉を返すどころではなかった。
彼はキャロルが妹に大きな秘密を打ち明けたことは知らない。普段の彼なら耳年増の妹の見当違いの発言を窘めただろうが、昨夜の衝撃が未だ
尾を引いているもので一言も言葉を返せないのだった。
ミタムン王女は静かに兄王子の隣に座り直すと、その耳元にさらに衝撃的な事実を告げた。
「・・・お兄さまもキャロルが気になっておいでだったのですね。思った通りだわ。・・・あのね、キャロルもお兄さまが好きなんですわ。見ていれば分かります」
「ミタムン、戯れもいい加減にせぬか・・・」
「お兄さま、お兄さまにはお教えしますわ。きっとキャロルだって許してくれるでしょう。
・・・・・キャロルは女ですのよ。男の子なんかじゃありません」

47
おそらくは生まれて初めて、茫然自失、口も利けないという状態に陥ったイズミル王子のためにミタムン王女は
静かに順序立ててキャロルの秘密を教えてやった。無論、キャロルには無断だ。
(でもいいわ。きっとキャロルだって私に感謝するでしょうよ。だってキャロルはお兄さまが好きらしいし、
お兄さまはといえば間違いなくキャロルを意識しておいでだもの)
ミタムン王女は話した。
キャロルが禁断の呪術のためにエジプト女王アイシスにこの世界に引き込まれた異世界の少女であること。
行われた呪術の強力さと特殊さ故にキャロルは元いた世界に帰れないでいること。アイシスの理不尽なやり方から
逃れる途中、ルカと知り合い、同情したルカの心遣いからその従僕の身分を得たこと。
今まで男のふりをしていたのは、自分の身を守るためで何かの深い企み故ではないこと・・・等々。
「キャロルが私にうち明けてくれたのはごく最近なんです。私の馬が暴走したのを助けてくれたときに偶々、知ったんですもの。
お兄さま、私が言うのも何ですけれどキャロルは決して怪しい輩でも、邪な輩でもありませんわ。どうかキャロルを追い出したりしないで!」
「あまりに急な話だな・・・」
イズミル王子はようやく呟いた。
知らなかったとはいえ、少年としてのキャロルに惹かれていた自分の性癖が至極まともなものであったことへの安堵や、
キャロルと水辺の乙女がどうやら同一人物らしいということの嬉しさも今は感じられない。
(あの、いかにも恥ずかしがり屋のようなキャロルが何故、そのような秘密をじゃじゃ馬のミタムンに打ち明けたのか?
ルカはキャロルが女だということを知っているのではないのか?男なら誰でも欲しくなるような容貌の娘ゆえ・・・)
今、王子の胸の内にあるのは「嫉妬」だった。生まれて初めて感じる・・・。

48
兄の戸惑い、無口ぶりをどう勘違いしたものやらミタムン王女はさらに言葉を重ねた。
「本当です。キャロルは本当に心根の良い娘です。優しいし、媚びないし、賢く堂々としているわ。本当よっ!」
いつの間にかミタムン王女はうっすらと涙ぐみさえして、いつぞや「修身係」の老侍女に泣かされた折り、キャロルが親身になって慰めてくれたことを話した。
「自分だって辛い立場にいるのにあの娘は私を気遣ってくれたんです。あんなふうに言ってくれたのはキャロルが初めてです。私、ちっとも不愉快じゃなかったわ。
それに・・・あの・・・男のふりをしてルカの従僕をやっているけれど決してその・・・愛人・・・だとか囲われ者だとか、そういう関係じゃないと思います。
ええ、ホントに」
「何と、愛人!そなた、何という言葉を使うのだ!」
自分でも考えていた露骨で不愉快でふしだらな事柄を表す言葉が、あっさりと15歳の妹の口から出たことで王子はようやく正気に返った。
「ごめんなさいっ、お兄さま。でも、だって男女が同じ部屋で住むならそういうことも考えられるでしょ?
私、実はこっそりルカの宿舎を訪ねてみたの。キャロルの部屋は台所の一隅で、本当にただの従僕部屋だったわ。もし愛人ならそれなりの調度とか服とか
あてがうでしょ?それがないのよ?そもそも、愛人なら寝台を別にしたりはしないんじゃ・・・」
「もう良い、ミタムン。そなたの言いたいことはよく分かったし、疑いなどせぬよ」
王子はそう言って姦しい妹のお喋りを中断させた。
「しかし・・・驚いたな。何故、そのような重大な事柄を私に告げた?他に知っている者はおらぬのか?」
「秘密を知っているのは私とお兄さまだけです。ルカは何も知りません。だいたいキャロルが女だと知ったら一緒には住もうとしないでしょう、ルカなら。
それに先ほども申しましたでしょ。お兄さまはキャロルがお好きのようだと思ったし、キャロルはもう間違いなくお兄さまのことが好きですわ。見ていれば分かります。
・・・キャロルはお兄さまに恋しているんですわ」

49
(キャロルが私に恋をしている!)
王子は自分の胸が早鐘のように高鳴っているのを感じた。
(ミタムンの話が本当なら、昨晩の乙女は間違いなくキャロルだ!あのような無体をしてしまったが、
もしまことキャロルが私のことを憎からず思っていてくれるなら・・・私はキャロルを・・・!
いや、拒ませはせぬ。あれは女なのだ。従僕などさせぬ。ルカには悪いが取り上げて私に傅かせ、仕えさせ・・・大切に慈しんで・・・)

「お兄さま・・・?あの・・・びっくりなさった?お怒りになった?」
心配そうに兄の顔を覗き込んでいるミタムン王女。いつも仲の良い気安い侍女たちと話しているような事柄を、つい兄の前で
べらべらやってしまったことが急に気になってきた。
イズミル王子は顔つきを和らげて妹を安心させてやった。
「そうだな、驚くべき話だ。そなたの小姓がよもや女であったとはな。だがよく話してくれた。私も気になってはいたのだ。
・・・良いか、ミタムン。今の話は他言無用ぞ。キャロルの身を守るためにも是非、秘密にしておかねばならぬのだ。ルカには私から折を見て話そう。
これからは私とそなたと二人してキャロルを守らねばならぬのだからな」
ミタムン王女は花のような笑みを浮かべた。
大好きな兄は王女らしからぬ真似をした自分のことを怒ってはいないらしい。
それどころか「二人してキャロルを守る」とは!やはり兄は・・・!まだ恋物語が現実のものと信じていられる幸福な年頃の王女は、
この上ない胸のときめきを覚えた。
「お兄さまはキャロルのことをお好きですのねっ!」
ミタムン王女の断定は王子を狼狽えさせ、腹立ちを覚えさせた。しかし珍しく、本当に珍しく王子は妹の無礼を窘めることができなかったのだ。

イズミル王子は心も軽く、私室に向かった。途中で意味ありげな艶っぽい視線を王子に送る女が何人かいたが、彼はろくに気づきもしなかった。
これからどうしたものかと生まれて初めての緊張する、しかし心楽しい計画を立てていたので。

50(ダイジェスト版)
所は変わって、キャロルがそもそも古代に来る羽目になった原因の居るエジプトでは。
アイシスが悶々と心晴れぬ物憂い日々を送っていた。ふとしたことから知った弟メンフィスの短命。その寿命を延ばし、
夫婦として末永い幸福の日々を送るために禁断の「生命転移の秘術」に手を出したのだが。
偶然、金髪碧眼の白人の娘キャロルを見てしまったメンフィスは彼女が自分にとって如何なる存在であるのかを理解せぬままに惹かれていく。
一方、メンフィスの命と魂を宿すための器として呼び寄せたキャロルは、アイシスの手元から失踪してしまった。その行方は杳として知れない。
(もし、キャロルの身の上に何かあったら・・・・メンフィスの身も無事では済まぬ!あれの身体にメンフィスの生命が宿っているというのに!)

それだけではない。
メンフィスは地中海方面にエジプトの勢力範囲を伸ばすためにクレタ王国方面に親征を行う。国内にメンフィスがいれば、まだしも巫女としての
力を使ってその身の安全を守ってやれもするのに、国外に出られてはアイシスもたまらない。
やむを得ず、メンフィスに付き従うアイシス。メンフィスはそんな姉にして妻たる女性の心も知らずに、キャロルのことを話題に上せる。
「あのように美しい乙女は見たことがない。あれこそは我がエジプトにいつか現れると伝えられるハピ女神の娘ではないだろうか?
もしそうなら私の手元に置きたい。姉上の他に、神の娘を娶ること叶えば私の威信はいや増そう」
「メンフィス、そのようなこと。夢でも見たのではないですか?そなたはファラオ。私の最愛の男性にしてエジプトの守護神。まずは現実を弁えてください」
アイシスの嘆願は悲痛だ。彼女はメンフィスの命の形代をキャロルから誰か他の人間、たとえば自分、にすることを目論む。危険きわまりないことだが
今の彼女にはそれ以外の道はないように思えるのだった。

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