『 妖しの恋 』

31
「・・・それにしてもキャロルの顔はずいぶん久しぶりに見るな。傷は痛まぬか?学校はどうだ?ミタムンはよくしてくれるか?」
妹王女と夕食を済ませ、軽く酒を嗜みながら王子は上機嫌で聞いた。
「はい・・・。皆さんにとてもよくしていただきます」
キャロルは隅に隅に隠れるようにして答えた。その恥ずかしがりなところが侍女やミタムン王女にはまた可愛く面白く思えて、小柄な少年をわざと王子の真ん前に押しだそうとする。
キャロルは何やら面はゆくてまともに王子の顔を見られない。大好きな兄ライアンに容貌も性格も雰囲気もよく似ている。
ということは本人は自覚していないが、王子はキャロルにとって、まぁタイプの男性ということになる。
それに怪我をした折りに抱きかかえられ、家族以外の人間としては初めてと言っていいくらい側近くまで体を、顔を寄せ合った。
それを思い出すたびにキャロルは羞恥でじっとしていられないくらいの気持ちを味わう。
「どうした? 顔が赤いぞ」
王子はひょいと手を伸ばして、キャロルの顎に手をかけた。
「な、何でもありません!」
キャロルは驚いて後ずさった。女性達が賑やかな笑い声を響かせた。
「まぁ、キャロルがすっかり困っておりますよ! 王子様は麗しくていらっしゃるからキャロルのような子供でも面はゆいのでしょう!」
「馬鹿なことを申すでない」

王子は杯を口元に運びながら改めてまじまじとキャロルを見つめた。
(ふん・・・。以前より肌の色が白くなったか? 顔立ちも儚げに優しく粗暴なところは全くない。体つきも相変わらず細い。
乗馬と弓うちを始めたと聞いたが筋肉が付いたようにも見えぬし・・・。
まこと男と言うより、女・・・いや生娘だな。見ていると何やら妖しい気持ちになってくる。男というには華がありすぎるぞ)
王子はほうっとため息をついた。
(私もルカも男を相手にする趣味はないが・・・この分ではよほど気をつけてやらぬとキャロルに良からぬことをする輩が出るかもな。
まことキャロルが女であったなら・・・)
思わず好色なことを考えてしまった王子の体は、ゆったりした衣装の中側で正直に反応した。
(ば、馬鹿なっ!この私が男相手に妖しの恋だと?!)
珍しく感情を乱した様子の王子を見て、キャロルは怪訝に思った。

32
「キャロル、手空きであれば今日は私の手伝いをいたせ」
午後、いつものようにミタムン王女の部屋に参上し雑務をこなしていたキャロルにイズミル王子が声をかけてきた。
「他国に遣わせし者より、書籍類などの献上があった。興味深いので整理してみようと思ってな。お前の勉強の進み具合を見てみるのにも都合良かろう!」
王子はさっさと先に立って歩き出した。ムーラに促され、大急ぎで王子を追うキャロル。

「入れ」
王子はちらっとキャロルを振り返っただけで、さっさと部屋の中に進んだ。
広い部屋だ。壁際には高い棚が並び、粘土板や巻物が詰まっている。棚が途切れた壁には使い込まれ、猛々しい光を放つ武具類が立てかけられている。
だが全体的に質素で実用一点張り、言われなければ世継ぎの王子の部屋とは思わないだろう。
(ふーん・・・。男の人の部屋の典型ね。兄さんの書斎も武器はないけれど、こんなかんじだもの。家宅捜査が今すぐ入っても何も疚しいことはありません、
何も隠していませんって主張しているみたい)
「どうした?早く参れ。これがそなたに頼みたい書物だ」
王子は積み上げられた巻物を指し示した。
「読んでみよ」
王子はキャロルに着座を目顔で促し、巻物を差し出した。

「はい・・・。これは『薬草総覧』『風土・地誌』『本朝口伝』『幾何』『薬学』に『世界図絵』『ギルガメシュ王の事跡』・・・」
キャロルは次々に読み上げ、無意識に分野別に巻物を選り分けた。
(実用書や歴史から神話や詩歌の類まで。とにかく知識を求める王子に手当たり次第に送りつけたってかんじね。でも、これを全部読むことができたらどんなにすばらしいことかしら?
系統立てて学べばずいぶん役に立つわ。知識を深め、それを元に国を富ませることができる!)
王子は王子で、読み書きを習い始めて日も浅いキャロルがすらすらと文字を読み上げ、あまつさえ巻物をその内容によって選り分けているのに舌を巻いた。
彼は武術や軍事といった事柄と同じくらい、学問を重んじていた。軍事力によって周囲を威嚇し、従わせ版図を拡げることはできても、学問や知識を持った人々が内政をよくしないことには、せっかくの領土を維持することはできないし、また民の安寧を図ることもできないと考えているのだ。
やがてキャロルは50冊になりなんとする書物の題名を全て読み上げた。
「ふむ・・・。なかなかよく勉強しているようだな。キャロル、そなたはミタムンの小姓だが時々はこのように私の秘書のような役目もいたせ。
お前はそういうことに向いているようだ」

33
キャロルは時々、王子の書籍や粘土板の整理に借り出されることになった。細々した整理に妙に才能があり、知識量もなかなかどうして半端ではなかったからだ。
王子は特定の者を贔屓して扱うような人間ではなかった。だから仕えやすい主君と言うことになるのだが、その王子は最近キャロルを妙に意識するようになっていった。
何かの折りにキャロルがどきりとするほど女っぽく見えるのだ。細い指、折れそうな手首、綺麗な横顔のライン、濃い睫に縁取られた青い目。細い骨格。
一度、巻物もろとも踏み台から落ちかけたキャロルを王子が受け止めてやったことがあった。
軽い身体は何やら甘い娘じみた匂いがして、王子は本当に狼狽えた。まるでまだ女を知らない少年のように王子は取り乱してしまったということだ。
(全く・・・男相手に何だ、私は!)
王子はその日は早々にキャロルを仕事から解放した。
一人きりの部屋で政務向きの文章だとか、諸国の動静や気候風土を記した文章に目を通していたが全く頭に入らない。浮かぶのは先ほど抱き留めたキャロルの華奢な体つき、
細いうなじ、形の良い耳朶が深紅に染まった有様、恥じらって潤んだ勿忘草の青い瞳・・・。
(馬鹿馬鹿しいっ!相手は男だぞ、男!私だって男で、女に趣味はあっても男をそういう対象として見るほど倒錯はしておらぬ・・・!)
王子だってそういう性癖の男性がいることは知識として知っていたし、他人の趣味についてとやかくいうような趣味はなかった。だが、自分の中にどうやらそういう要素がありそうだとすると・・・?
王子は書物を乱暴にうち捨てると剣を取って練兵場に向かった。体を動かして忘れてしまおうと思ったのだ。

「キャロル?どうしたの?」
自分の居間にやってきたキャロルを見てミタムン王女は不思議そうに声をかけた。以前の短い、しかし深い語らいの後、彼―キャロルのことだ―を信頼に足る相手だと見なすようになっていた王女である。
「な、何でもございません」
キャロルは短く答えただけだった。先ほどの王子の息づかいや体温、肌の匂い、心配そうに覗き込んでくれた顔がちらついて、とても落ち着いた顔になどなれそうにない。

34(ダイジェスト版)
その日、ミタムン王女は献上品の子馬に乗った。20世紀で取った杵柄、乗馬なら少々の心得があるキャロルは馬丁と一緒に王女に付き従った。おとなしい子馬に乗る王女は得意満面。
ところが子馬は初冬の風に飛ばされてきた大きな落ち葉に驚いて暴走してしまう。馬丁の馬も煽られて暴れ、乗り手を振り落としてしまった。
少し離れていたキャロルは単騎、王女を追う。走っている馬から乗り手だけを降ろして、かつ自分の馬に移動させてやるなどキャロルはやったことがない。
案の定、王女を暴れる子馬から降ろすことはできたが、今度はキャロルと王女が一緒に落馬してしまう。当然、というかお約束通りというか下敷きになってキャロルは気絶状態になる
「キャロルっ!しっかりしなさいっ!」
驚いた王女はキャロルに縋って、その身体を揺さぶった。
そして・・・。
王女は自分の縋った「少年」の身体の異変に気づく。小振りながらまろやかに柔らかく隆起しているらしい胸。おそるおそる脚の間を探ればそこは自分と同じで・・・何も「ない」!
深窓のお姫様とはいえ、姦しい侍女に囲まれての日々の生活。実の父親の後宮は華やかだし、侍女の所に恋人が通ってきているのを見かけることもある。自然、耳年増にもなるし、生物学的な男女、もとい雌雄の違いなどペットの小動物を見ていれば分かる。
「・・・キャロルは・・・女・・・?!」

気が付いたキャロルの許を訪れた王女。人払いをして部屋は二人きりだ。怪訝そうなキャロルに王女は単刀直入に切り出した。
「キャロル、お前は女だったのね。どうして男のふりなんてしていたのかは知らないけれど・・・まさかお前はルカの・・・ルカの恋人なのですか」
愕然として起きあがるキャロル。王女はお前の秘密を知っているのは私だけと薄気味悪いほど静かな口調で告げた後、にわかに感情を爆発させて再度問うた。お前はルカの恋人なのか、と。
キャロルはこのとき、初めて王女のルカに対する想いに気づく。素早く考えを巡らせるキャロル。王女が気にしているのはルカと自分の関係だけだ。この一点さえ納得させられれば、何故、自分が男のふりをして結果として皆を騙すような仕儀となったかも比較的容易に納得させられるだろう。

35(ダイジェスト版)
キャロルはまず、自分は絶対にルカの恋人などではないこと、そもそもキャロルが女であると知ったのは王女が最初であるということを言葉を尽くして語った。そして何故、ルカの側にいることになったかのいきさつも正直に話して聞かせた。
「ルカ様はあの通りの清廉実直なご性質です。私を秘密の恋人として側に置くために男のふりなどさせるような方ではありません。
あの方はご自身、戦争で身内を失い辛酸を舐められたから、家族から離れたった一人の私の身の上に同情して従僕にしてくださったんです。
・・・恩ある方を謀ったような形になったことは本当に申し訳なく思っております。でも私自身、女であることを隠さずにいたらとても今まで無事ではいられなかったでしょう」
説得力と誠意あるキャロルの話に深く頷く王女。
キャロルは女同士である安心感からか初めて、請われるままにアイシスにこの世界に引き込まれたことも語って聞かせた。
よく分からないがどうも自分はメンフィスの命の形代の役割を負わされているらしいこと、自分の命とメンフィスの命が結ばれているのでアイシスはキャロルを一生監禁状態に置くつもりであったらしいこと、自分をちらっと見かけたメンフィスが興味を引かれたらしいのでアイシスは急遽、キャロルを地下牢に移そうとしたので脱出してきたこと・・・。

とても信じられないでしょうねと言葉を終えたキャロルに王女は首を振った。
「アイシス女王が使ったのは生命転移の秘術でしょう。死にかけた人間の命運や魂を他の誰か元気な人間のそれと同化させて生きながらえさせる術。聞いたことあるわ。お前はきっとそのために転移の術を使って女王の所に呼び寄せられたんだわ。
・・・すごいわね、本当に禁断の魔術を使うなんて!いくら好きな相手のためだからって!言ってみればメンフィス王はもう死人なわけよ。死人を愛せるもの?・・・哀しいわね」
今度はキャロルが驚く番だった。王女はキャロルに様々な不思議を話してやった。古代人の王女には身近な話だ。お返しに20世紀の話をしたり、ルカにしたように珍しい20世紀の物品を見せるキャロル。
二人はいつしかすっかりうち解けていった。やがて王女は言った。
「キャロル。お前は私の小姓におなり。女のお前がルカと同居しているのはおかしいわ。私からお兄さまにお願いするから!」

36(ダイジェスト版)
ミタムン王女は兄イズミル王子にキャロルを自分専属の小姓に呉れるよう本当に嘆願した。
さすがに妹に甘い兄王子もこの我が儘に苦い顔をした。キャロルは秘密を打ち明けたミタムンの側の方が今となっては安心かもと思う一方で、王女が自分を身近に置きたがるのはどうも王女がルカを好きなせいらしいとも察する。
ところが結局、ルカの任務―クレタ方面での諜報活動―がエジプトの地中海進出の動きを受けて予想外に延びそうだと分かったため、キャロルの身分は暫くの間、ルカの従僕からミタムン王女の小姓に変わることを余儀なくされる。

王女は大喜び。ついでにキャロルの部屋を奥宮殿に移したいと申し出るが、さすがにこれは受け入れられなかった。
王女はそれからまもなくお忍びでキャロルのいるルカの居室を覗きに来た。驚くキャロルを尻目に室内を珍しそうに眺める王女。台所の一角を仕切っただけの簡素なキャロルの部屋は、とても高級将校が密かに囲っている
「愛人」の部屋には見えず、お転婆な王女もようやく安心するのだった。王女はキャロルに、実はルカが好きなのだと告白する。キャロルはそんな王女のかわいらしさといじらしさを微笑ましく思うのだった。

ハットウシャの冬は深まってきた。古代に来てからずっと健康だったキャロルだったがここに来て疲れが出たのか風邪をひいて寝込んでしまった。周囲の人々は何だかんだとキャロルのことを気にかけてくれるが、病状は、はかばかしくない。残り少ない薬を惜しんでキャロルはのど飴で病気をごまかす始末だった。
ある満月の真夜中。熱と寝汗で眠れないキャロルは火照った身体を冷やそうと、ふらふらと表に出た。足下をそっとペンライトで照らしつつキャロルはいつかミタムン王女が泣いていた泉のほとりに来た。
(冷たくて気持ちよさそう・・・。少しだけ・・・冷やしてみよう)
胸元を少しはだけ、熱で火照った肌をキャロルは冷たい水に浸した布で拭っていった。白い肌を塗っていた赤土の染料も、髪を染めていたクルミの渋も流れ落ち、本来のキャロルの容姿が露わになった。

一方、深夜にまで及ぶ政務と書見に倦んだイズミル王子も頭を冷やしがてら庭に出てきていた。密かな水音と人の気配を怪しんだ王子が泉をのぞいてみると、そこには月明かりとペンライトの光に照らされた金髪色白の「少女」がいた。

37
(あ・・・?! あれは誰だ? 女・・・? き、金色と白の女?! 馬鹿な・・・まさか水の精か何かか・・・?)
王子は暫く呆然と水辺で身体を拭き清めるキャロルを見つめていた。寝間着の上に毛布を羽織っただけのキャロルは細い腕をむき出しにして、今は毛布を脇にうっちゃり、薄い毛織りの寝間着がわりのチュニックの胸元もはだけている。
そこからのぞく陰影は、まがう事なき女の形―まろやかな胸の隆起―を予想させる。
蒼白く冴えた月明かりが照らし出す白い肌。冷たい金属の光沢を宿す金色の髪。初めて見る不思議な乙女の足下には何と星が―それはただのペンライトの微光なのだが古代の夜では驚くほどの光量に見えた―落ちて居るではないか!
やがて水辺の乙女は形良い横顔を王子のほうに向けて、細いうなじのあたりを拭き、その手を胸元に潜り込ませた。
(もう我慢できぬ!)
夢でも見ているのだろうかと暫くキャロルを見つめていた王子は一歩踏み出した。
かさっ。
枯れ草を踏みしだく音は驚くほどの大きさで、キャロルはもとより音を立てた王子も驚いて一瞬固まってしまった。

(! 誰っ! 誰かいるのっ?! 何てこと、どうしよう?)
月明かりとペンライトの光でキャロルの方が闇を見はるかすのには不利だった。恐怖で強ばる身体を叱咤激励してキャロルは必死に立ち上がろうとするが、王子の動作の素早さの前には無力だった。
「待てっ、そなたは誰だ?」
王子はキャロルの顎に手をかけて自分の方を向かせた。恐怖に見開かれた瞳が・・・月明かりを透かして透明な水のような碧に輝く瞳が王子に向けられた。
(何と・・・何と碧い目をしている?! 白い肌に碧い瞳、金色の髪の毛?!
初めて見たぞ、こんな・・・!)
王子は抗うキャロルの手首をも無遠慮に掴むと、まじまじと娘を見つめた。
珍しいだけではない、美しささえも兼ね備えた不思議な容貌の娘を。よく知っている誰かにひどくよく似ている娘を。
はしばみ色の瞳に凝視されたキャロルは恐怖のせいで声も出ず、ただがくがくと震えるばかりだった。
(イズミル王子っ?! 何故、こんなところで顔を合わせるの?)

38
しばらくの間、二人は見つめ合っていた。先に口を開いたのは王子の方だった。
「そなたは誰だ?人なのか?それとも・・・水の精か?このような冷たい夜更けに水辺で戯れているそなた・・・」
可憐な容貌の娘を見つめながらしゃべっているうちに王子は夢見心地になってきた。娘を近々と引き寄せ、ほのかな月明かりが照らすその白い―今は緊張と戸惑いで蒼白といっていいくらいの色だ―顔を見つめ、繊細に整った顔立ちを惚れ惚れと見つめた。
「喋れぬのか?私は怪しい者ではない。・・・この奥庭の主ぞ。主に断りもなくここにいるそなたは何者?」
王子に捕らえられた娘の、濃い睫で縁取られた大きな瞳はうっすら涙で潤み、形の良い唇―きっと薔薇色と真珠色が混ざったような色合いだろうと王子には何故か分かっていた―も強ばったままだ。
(どうしよう、どうしよう?! 王子に捕まってしまうなんて!正体がばれてしまったらどうなるの?)
一方のキャロルはパニックに陥ってしまって、王子もまた狼狽え浮き足立っていることなど分かりはしない。
キャロルの脳裏にこれまで王子が話して聞かせてくれた様々な事柄が去来する。
―国を守ることは民を守ることだ。外国人は我が国に活気をもたらすが、同時に隠密である可能性もある。外国人には用心せねば、な。
―国政に携わる者、常に正直・誠実であれと言われてもそれは無理だ。心殺し、嘘をつき、冷酷になってみせることこそ必要な資質となることも多い。
・・・少しでも怪しいと思った時には・・・殺さねば、な。
(殺される・・・!)
キャロルは、ふるふると震えていた濃い睫を耐えきれずに伏せてしまった。
慧眼の王子は瞬時に自分の正体―ルカの従僕にしてミタムン王女の小姓キャロル。外国人で、しかも女でさえある!―を見抜いたと思ったのだ。
ルカやミタムン王女にうち明けたように様々な事情が重なってこうなってしまったとはいえ、王子は聞く耳を持たないだろう。
王子が常に携行している冷たい鉄剣・・・それが自分に振り下ろされると遠ざかりそうになる意識の奥で覚悟したとき。
王子の吐息が顔にかかったかと思うと、その唇がキャロルのそれに押しつけられた。

39
「・・・!・・・」
キャロルは驚いて目を見開き、身体を突っ張らせた。
王子はひしとキャロルを掻き抱き、無我夢中で接吻を贈っていた。本当に・・・まるで初めて女に接吻した少年のように。
物慣れぬ不器用な子供のようなやり方で。まるで噛みつくような激しい接吻。

王子もまた自分のやり方に驚いていた。まさか自分にこんなことができるとは?!真夜中の寒い庭で女を掻き抱いている自分。
たった一粒の星明かりをお供に、月の光に照らされて水晶のような冬の水と戯れていた少女。昼間の明るすぎる光とはまた違う、ほのかな、しかし冴えた光の許で見た少女の顔は驚くほど美しかった。
無垢な幼子の顔、そして成熟し開花するのを待っている傲慢なまでに潔癖な乙女の顔、知らぬ間に男を誘い狂わせる罪深い女の顔・・・が同時に王子を驚いたように見つめ、そして懼れるようにわなないた。
何かが王子の中で解き放たれた。これまでだって女が欲しいという衝動を覚えることはあった。でもこれほどまでせっぱ詰まった欲望を感じたことなどあったろうか?
ほの見えた胸元の白い肌、いかにも未熟な膨らみ、細い身体の線、気持ちよさそうに水を触る表情、全てが仕事に倦み疲れ、様々に鬱屈した若者の理性を解放した。
(この少女に触れたい、この少女が欲しい!)
半ば夢を見ているような心地で王子は作り物めいた美しさを持った少女を抱き寄せた。水に濡れた肌はひんやりと冷たいのに、その奥は驚くほど熱い。神々が気まぐれで大理石で作った人形が命を得る瞬間にでも居合わせたのだろうか?

キャロルの驚きをよそに王子の接吻は熱を帯びてきた。押しつけられていた唇はいつの間にか啄むような動きを加え、固く閉ざされたキャロルの唇を開こうとし始めた。
息苦しさに腕の中の少女が口を開けば、すかさず王子は舌を入れ少女をもっと深く味わい始めた。甘い香り。
(いかにも男慣れしていない・・・)
王子は腕の中のキャロルが動かないのを良いことにますます行為に熱を入れだした。
「そなたが誰でも構わない。そなたが愛しい・・・」
キャロルはただ礼儀正しく謙抑な性格だとばかり思っていた青年の思いがけない行為に硬直するだけだった。

40
イズミル王子は無我夢中であった。
いつの間にか接吻だけでは飽きたらず、柔らかな身体をもまさぐる。骨細の華奢な身体。固く細い小鳥のような骨を包む柔らかく薄い肉付き、すべらかな肌。熱を帯びた身体からは甘い香りが匂い立つ。
「そなたは誰なのだろう・・・。一目見ただけなのに、どうしてこんなに愛しく心惹かれるのだろう・・・」
王子は相手が無抵抗なのを味気なくも、都合良くも思いながら唇をうなじに移していった。これまでだってこういうふうに経験のなさそうな女を相手にしたことはあった。身分柄、火遊びの相手には不自由しなかったし、非公式とはいえ側室のような立場に置いてある女もいた。
しかし王子にとって、女はただ自分の身分と地位に惹かれて寄ってくるだけの生き物、言葉は悪いが男としての欲望を満たし愉しむだけの存在だった。
それなのに、この不思議な相手はどうだろう? 一目見ただけで切羽詰まった欲望を感じた。いや欲望の一言では済ませまい。愛おしさのような感情をも覚えたのだ。手元に引き寄せ確かめずにはおれなかった。
たぶん、こういうやり口は最低なのだと理性では分かっていても、本能の方はもう押さえが効かなかった。人外の存在なのかも知れないと心のどこかで屁理屈を捏ね、それならば自分が人間の世界に引きずり込んでやろうと彼は半ば本気で考えていた。
それは彼が日頃、全くの絵空事、我が身には絶対に起こり得ないと軽蔑混じりの感情と共に考えていた「一目惚れ」という突発事項なのだが・・・さて彼にその自覚があったかどうか。

押さえたあるか無きかの嗚咽と、細い喉のふるえに王子が気づいたのはどれほどの狂態の後であったのか。喉元に、はだけた胸元に点々と薔薇色の刻印を押された少女は恐怖に強ばって涙を流していた。
はっとして思わず力を緩める王子。金髪碧眼の少女は、きっと王子を睨み据えると力任せに無体な男の鳩尾を打ち、一目散に駆け出した。

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