『 妖しの恋 』

11
「で・・・。ルカ。そなたの従僕のキャロルだが。どのような身元の者なのだ」
内密の打ち合わせをルカと二人きりで済ませた王子は静かな口調で聞いた。
「エジプトに行く前には見なかったな、確か。どうしたのだ?」
ルカの顔がさっと緊張した。何と言ったものだろう。キャロルは心根の正しい少年だ。その心映えも陰ひなた無い献身ぶりもルカはよく知っている。
しかし、いかんせん・・・キャロルは「異世界出身」。
「何て顔をしている、ルカ。いらぬ疑いを招くような真似は止めるがよいぞ?
あのキャロルが胡乱な敵国の暗殺者や密通者でないことくらい私にも分かる。
・・・もしや、そなたの身内か何かなのか? もしアランヤ出身者であるならば、そしてそなたが望むならあの少年をそれなりに庇護してやろうよ?
私がそなたにしてやったように、な」
「もったいないお言葉でございます」
ルカは感激して深々と頭を下げた。若く優秀で冷静、時に冷酷な主君だが臣下を思いやる心は深い。
「あの者は私がエジプトで召し抱えました。親元から拉致され奴隷に落とされるところであった少年にて、今はもう孤児でございます。
身の上を聞きますに何やら他人とは思えず、側に置くことにいたしました」
「そなたの弟が生きていたら、あれくらいの歳であるのかな」
王子は淡々と言った。ルカも黙って頭を下げる。
「いずれ名のある家の出身であるのかもしれぬな。立ち居振る舞い、博識ぶり。私の傷を見事に治療したのには驚いたな。侍医もキャロルの看護ぶりを褒めていた。あの子供は誰もが恐れる主席王宮侍医殿と医術や薬品の話をしているそうだ。ちゃんと話し相手になっているらしい」
王子は面白そうに言った。実際、学問を武術と同じくらい重んじる王子は博識な少年にひどく興味を持っていた。
「興味深い少年だ、あのキャロルは。困ったことにミタムンもあの子に興味を持ったらしい」

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「ミタムン様が?一体何故?」
ルカは驚いた声を出した。イズミル王子は面白そうに微笑んだ。妹がこの優秀で将来有望な若い軍人に心惹かれているらしいことはとうに承知していた。
「さぁ、そなたのことを根ほり葉ほり聞いてキャロルを困らせているらしい」
「はぁ?!」
「キャロルはすっかり困って逃げ回っているそうだ。ま、主君の噂話をするような軽薄な輩でなくて重畳だな。もちろん、ミタムンの話し相手もしてやってくれているようだ」
「キャロルがでございますか?何と畏れ多い!」
「良いさ」
王子はあっさりと言った。
家庭教師をまいて脱走した王女が庭先でキャロルに出くわし、キャロルがいともあっさりとミタムンをげんなりさせた幾何の課題を解いて見せたという話はムーラから聞かされていた。従僕風情・・・と軽く見ていた少年の頭の良さとそれをひけらかさない謙虚さが大らかな気性の王女の気に入ったらしかった。
ミタムン王女は、自分の若い侍女たちも巻き込んで何だかんだとキャロルに構い勝手に面白い話し相手にしてしまった。
キャロルはルカに従って女達の住まう宮殿まで行くことも多かったし―そのルカは妹王女や母王妃のもとに行くイズミル王子に従っているわけだ―、幼い小柄な外見を喜んだ女官達にちょっとした表宮殿宛のお使いを頼まれることも多かったのだ。
最初、物堅いムーラはミタムン王女がいくら子供じみているとはいえ少年と口を利くのを不快に思った。キャロルが増長するやもと警戒もした。
ところがキャロルのほうがムーラに困り切って相談したことから、ムーラもキャロルに積極的ではないにせよ好意を持つようになった。
「ムーラ様。僕はルカ様の従僕です。ミタムン様のちょっとしたご用をたまわるのは構いません。でもルカ様のおつとめが疎かになるようなことはしたくありません。
正直、困ってるんです。
それに・・・僕は男なわけですし、王女のお側近くにありすぎるのは王女のご評判にも傷が付くのではないかと思うわけです・・・」

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ムーラは少年っぽい潔癖さをむき出しにして、眉間にしわを寄せて訴えるキャロルに安堵を覚えた。この従僕は王女の好意を勘違いして受け取って増長するような輩ではないらしい。
「そなたの言い分はよく分かりました、キャロル。そなたの方から言い出してくれたので私もミタムン様にご注意しやすいというものです。
まぁ、王宮とはとかく口さがない者の多いところ。そなたも今まで以上に自重してルカ殿にお仕えしなさい。
・・・他の女官や侍女たちにも、そなたに構い過ぎぬよう注意をしておきます。でもまぁ・・・皆、そなたがまだまだ子供だから安心して気安く使っているらしいことも覚えておいでなさい。特に若い侍女たちは男の召使いには気後れするらしいから、子供のそなたのほうが親しみやすいのでしょうよ」
(そんなこと言ったって、私は皆の注目を浴びたくないのよ。後宮の女の人ってどうしてあんな風に人をからかうのかしら?むしろ気後れするのは男の召使いでしょう?)
キャロルは苦々しく思いながらムーラの前を下がった。少年のふりをしているせいでもないだろうが思考まで思春期の恥ずかしがり屋の男の子じみてきている。

表宮殿に通じる廊下を行くキャロルに明るく声をかける女性があった。ミタムン王女その人である。
「キャロルっ!ちょっとこっちに寄っていきなさい。持っていって欲しいものがあるのよ!」
女主の屈託のない明るい声に唱和するのは、年若い侍女たちの忍び笑いや囁き声だ。
「キャロルったらあんなに赤くなってかわいいっ!」
「あら、新しい上着じゃない?ルカ様のお下がりね。きっと」
キャロルは急ぎ足で王女の許に参上する。
「何かご用でございましょうか、王女様。僕、ちょっと急いでいるのですが」
「これね、出入り商人が持ってきたお菓子よ。お兄さまに差し上げたいの。・・・たくさんあるし・・・もしルカがお兄さまと
一緒にいたらこっちの包みを渡してやってもいいわ。いなかったらお前がお食べ」
王女はキャロルに、砂糖煮の果物と蜂蜜を練り込んで油で揚げた菓子の包みを渡した。何やら頬が赤い。
畏まってキャロルは我が儘な王女のご用を承り、世継ぎの王子の居室を目指した。

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王子付きの召使いに王女からの預かり物を渡して、さっさと下がろうと思っていたのだが、王子の居室に行ってみればその部屋の主はちょうどルカと打ち合わせでもしていたようだ。
「どういたした、キャロル?」
ルカは茶色に染めた柔らかな巻き毛を無造作にまとめた小柄な少年に声をかけた。
「お仕事中に失礼いたします。ミタムン王女様よりイズミル王子様宛に贈り物でございます」
キャロルが差し出した包みをルカが受け取り、王子に渡した。その様子を観察していた王子はキャロルの手が驚くほど小さく華奢であるのに驚いた。激しい労働や武具の扱いに慣れていないことが見て取れる手。あの細い手首はどうだ。
頭が良いのは日頃を見ていれば分かる。しかも何かの拍子にミタムン王女より女性らしいのではないかと思ってしまうことがある。
(馬鹿馬鹿しい。私には稚児趣味などないものを。ミタムンがじゃじゃ馬すぎるだけだ)

王子は妹王女の贈り物に目を細めた。妹が可愛らしくてしょうがないのだ。
「ふふっ、何かと思えば。キャロル、ご苦労だった。
・・・しかしルカの従僕であるそなたを自分の小姓か何かのように使うのは感心せぬな。そなたも困っているだろう」
王子の鷹揚で思いやりのある言葉に我知らずキャロルは赤くなった。
「いえ・・・とんでもないことでございます。困るなどということはありませぬ。王女様はそれはよくしてくださいます」
低い落ち着いた声の持ち主が自分の顔をのぞき込むようにしているのが分かった。細かく砕いた赤土を塗りつけて色を変えた自分の顔は今、どんなふうになっているだろう?ライアンによく似た男性はキャロルを困惑させる。兄と同じその慧眼で全てを見透かしそうで。
「そうか・・・。そう言ってくれるとありがたいな。
ところでキャロル。今、ルカに命じていたのだが、そなたの主は私の命でちと遠出をしてもらうことになった」

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「王子!何もこのような軽輩相手に御自ら!」
「良い、ルカ。私からも言い聞かせてやった方がいいだろう」
王子は驚き恐れ入るばかりのルカを尻目に、幼子相手にするようにキャロルに言い聞かせた。
「これから申すことは他言無用のことぞ。そなたの主は単独でさる調査を行う。3ヶ月ほどは留守となろう」
言葉を切った王子を静かに見返しキャロルは従順に頭を下げ、次の言葉を待った。
(単独調査・・・。つまりは隠密ってことね。どこに行くのかしら?今・・・エジプトは新王国時代。ヒッタイトは国境問題でエジプトと緊張関係にあるし、地中海諸国の動きも目が離せないはず。オリエント方面だって・・・。
でも単独調査ってことなら、そう遠くには行かないわよね。地中海諸国あたりかしら・・・?)
キャロルは自分の知識と、周囲の人々の話からかき集めた情報―ヒッタイト国王はクレタに興味をお持ちのようだ―を動員して考えを巡らせていた。
一方、ルカと王子はそれぞれにそんなキャロルの様子に驚いていた。
無知な従僕であれば、ただ阿呆のように王子の次の言葉を待つだけだろう。
あるいは心細さをむき出しにした顔をしてみせるとか、好奇心を抑えようともせずに子犬のような顔でもしてみせるか。
ところがキャロルは落ち着き払って次の言葉を待っている。ただ待っているだけではなく何やら考えを巡らせているらしいことが見て取れる。
王子は思わずこの少年に、何を考えているのかと詰問したい衝動に襲われた。だが敢えてそれを押さえると話を続けた。
「そなたはルカに付いていくことは叶わぬ」
「えっ!で、でも僕はルカ様の従僕です」
キャロルは今度こそ驚いて目の前の二人の男性を見つめた。

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「そなたは留守居をいたせ」
王子が言い、ルカが続けた。
「旅慣れぬそなたはかえって足手まといになるゆえ、置いていくのだ。だが何も心配することはないぞ。もったいないことながら王子が、私が留守中のそなたの処遇についてちゃんと考えてくださったのだ」
キャロルは落ち着かなげに身体を動かした。これまではルカが守ってくれると思ったからそれなりに落ち着いて暮らせた。しかし庇護者にして彼女が異世界から来たことを知るルカが居なくなったなら?
イズミル王子の声が続けた。
「ルカがおらぬ間、そなたは読み書きを学び、簡単な武具の扱いや乗馬を習え。そなたは兵士がするようなことより、役人がするようなことのほうが向いているようだ。医術の知識は玄人はだしであるしな。
私はそなたがゆくゆくは一人立ちできるようになれば良いと思っている。いつまでも従僕で居るわけにもいくまい。無論、そなたが努力をし、そして私が向いていると思ったならば役人なり何なりのきちんとした職に就けることもあろう」
キャロルは破格の言葉に目を丸くするばかりだった。留守番の間に勉強をさせてもらえるという!よそ者の、何の後ろ盾もない自分なのに。出自・身分に関わらず優れた者を取り立てるという進取の気質に富んだ世継ぎの王子がまさか自分にこれほどのことを言ってくれるとは・・・?
生きた考古学の勉強ができる喜びと同時に、恵まれすぎている今の状況が恐ろしいほどの重みでのしかかってくる。
「そなたが自由身分の出身だということは王子に申し上げてある。王子はアランヤ出身のそなたや私のことをもお心にかけてくださる」
「も・・・勿体ないことでございます。でも僕のような者が・・・」
「無論、そなたは貴族の子弟などではない。ただ勉強だけをしていればいいというものではない。
勉強をする以外の時間はムーラの監督下で小姓として働け。ちょうど先任者が辞めて後任の者が欲しかったところだ。そなたは声変わりもまだの子供だし、心映えもよく、ミタムンはじめ、女達の受けも良いようだ。もちろん同輩の男性ともな。よいな」

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「キャロル、王子のお心遣いをまさか不満になど思っているのではあるまいな。そうなら許さぬぞ」
ルカはキャロルが出してきてくれたミタムン王女の「お裾分け」のお菓子とお茶を口に入れながら言った。
「そんなことありません。でも僕は王子の家来のルカのそのまた従僕にしかすぎない。ありがたいとは思うけれど目立ちたくないというか、どうしてそこまでしていただけるのか分からないし・・・そのぅ・・・小姓をするっていうのも・・・」
ルカは苦笑した。キャロルが女達に面白がられ、あれこれ構われているのは知っていた。退屈して面白いことに飢えている女達は不器用な男や、世慣れない少年を格好の標的にしてからかって遊ぶ。ルカだって昔はそうだった。
「王子には、お前はアランヤ出身で私と同じ孤児の境遇だとお話ししておいた。王子は被征服地やその民との融和というのを非常にまじめに考えておられてな。私もお前も・・・ありがたいことに王子のお目に叶ったんだろう、出世の機会をいただけたというわけだ。
王宮内に、王宮に仕える召使いの子弟や出入りする庶民階級のための学校がある。実務に必要な読み書きそろばんを教わるところだ。お前はそこに行くんだ。貴族はいないから却って居心地はいいだろうよ」
ルカの言葉から血筋にあぐらをかく貴族への反感がほの見える。
「はい。でも・・・小姓は・・・」
キャロルは無遠慮であけすけな宮殿の女達が怖かった。特にミタムン王女のからかいは苦手だった。陰湿な悪意を持つような少女ではないと思っているのだが、明るい気性と我が儘と勝ち気に裏打ちされた無邪気に鋭い舌鋒は、キャロルを困らせる。
「うーむ・・・。お前の言うことも分からぬでもないが。お前のような山出しの子供が様々なことを学ぶのに小姓職は願ってもないお役目だ。とにかく!私の留守中、王子のせっかくのお心遣いを無駄にするようなことのないように」
ルカはそう言って弟のように思っているキャロルに甘い珍しい菓子を分け与えてやった。

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様々な注意と励ましの言葉を残して、ある朝ルカは王子の命を帯びて黒海沿岸のトロイに向けて旅立った。
ルカの居室に戻ったキャロルはしばらく虚脱したように座り込んでいたが、ルカが頼んで置いたのだろう、古参の世話焼き侍女がやって来て彼女を「学校」に追い立てた。
「さぁさぁ、いってらっしゃい。学校にやってくださるなんて、やっぱりルカ様ほどのご身分になると違うこと。あなたの恥はルカ様の恥ですよ。しっかり勉強しておいで!
学校が済んだら遊び歩かずにまっすぐ戻って来るんですよ、いいですね!」

「学校」はイズミル王子の住まう宮殿の敷地内にあった。大きなものではないが書籍や教授陣は整っているらしかった。
「お前、新入りだな」「どこから来た?」「親は何をしてるんだ?」
あまり数の多くない生徒達はキャロルに声をかけに来た。皆あけすけで、妙な気取りがないところがキャロルを安心させた。ずっと年上の人々に囲まれてきたキャロルは同年代の人間に久しぶりにくつろいだ気持ちを覚えた。
キャロルは請われるままに、自分は孤児でルカの従僕をする傍ら学校にもやってもらえるようになったこと、学校が終わったら他の仕事をしなくてはならないこと―さすがに小姓だとはいいだしかねた―などを話した。
商人の子弟や王宮召使いの子弟達はそれを聞いてキャロルを蔑視することはなかった。
学校が済んだ後、遊べるような身分の子は例外だったからだ。むしろイズミル王子付きの高級将校ルカの従僕をしているキャロルの立場に羨望を感じたらしかった。

キャロルの学校生活は順調な滑り出しだった。ヒッタイトの文字は初めて習ったが、計算や外交語アッカド文字については20世紀の知識が多少なりとも役だった。
午前中だけの授業が終わり、ルカの居室に帰ってみれば世話焼き侍女がキャロルを待ちかまえていた。キャロルに身体を拭かせ―生意気盛りの少年を育てた経験のある
彼女はキャロルが一人で身体を拭けるようにしてくれた―こざっぱりした服に着替えさせ、昼食を食べ終わるまでを監視すると、くどくど細々注意をしてキャロルを新しい職場―ミタムン王女の許に(!)―送り届けた。

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「キャロル、よく来ましたね」
年若い侍女たちに囲まれて,華やかに着飾ったミタムン王女は面白そうに目を輝かせながらキャロルに声をかけた。
ムーラに付き添われて緊張して伺候したキャロルは恭しく頭を下げ、新任の挨拶をした。子供っぽい甲高い声のキャロルが一人前にしきたり通りに口上を述べる様子に侍女たちは笑いさざめいた。この新しい小姓は何て可愛らしいんでしょう!
ミタムン王女はそんな侍女たちを窘めるどころか、面白そうに微笑んでいる。ずっとずっと気になっていた少年だ。
ルカの話もじっくり聞きだしてやろう。ルカはいないし、もう私に逆らわせたりしないんだから!
「さぁ、楽にしなさいな。そうだわ、これをあげる。ひとつお取り」
15歳の王女は、自分より年下だと思っている新任小姓に小鉢を差し出した。
「おいしいわよ」
鉢の中には砕いた木の実を混ぜ込んだ小さな焼き菓子が山盛りにされていた。クッキーのようなものだ。
戸惑うキャロルに王女は侍女たちと一緒になって熱心に菓子を勧めた。ムーラはいつになく気前の良い王女に内心驚いたが、キャロルの遠慮が過ぎるのも無礼になると思ったのだろう。言葉を添えた。
「今日は特別です、キャロル。せっかくの思し召し、ありがたくちょうだいなさい。・・・王女様、キャロルは
小姓なのですから、お手飼いの小鳥や猫と同じように扱ったりしてはなりませぬよ。よろしいですね」
「分かっているわ、ムーラ。さぁ、キャロル。お前くらいの歳の男の子はいつもお腹が減るのでしょう?前の小姓もそうだったわ」
キャロルは恭しく頭を下げ、香ばしい菓子を一つ摘み上げた。その途端!
「あっ?!」
鉢の中から季節はずれの大きな蛙が跳びだした。茶色っぽい緑色の生き物に驚いた拍子にキャロルはバランスを崩し、
側にあった小卓の角に思い切り頭をぶつけた。
「やったわ!引っかかった、引っかかった!驚いた?」
手を叩いて笑いさざめくミタムン王女とその侍女たちの声はじき立ち消えた。
頭からぼたぼた血を流しながらキャロルは床に倒れ伏したままだったのだ。

20
ミタムン王女の居間は大騒ぎになった。すぐに医師が召し出され、ちょうど妹の様子を見に来ていた兄王子も頭から盛大に血を流す少年を目の当たりにして色を失った。

「もう大丈夫です。お騒がせいたしました」
起きあがろうとするキャロルを王宮主席侍医は厳しく叱った。
「頭を強く打ったばかりだというのに何事じゃ!しばらくは安静にしておれ!」
頭をぶつけた瞬間、気を失っていたらしいキャロルは気が付くと医師や王女、王子に囲まれて傷の手当を受けている最中だった。金髪であること、白人であること、何よりも女であることがばれては一大事と焦るキャロルを宥めて静かに手当を受けるよう命じたのはイズミル王子その人だった。ミタムン王女と侍女たちは泣きじゃくって手当を見守っていた。
「傷は小さいが深かった。念のため二針ほど縫っておいたぞ。しばらくは傷を水に触れさせぬこと、強い酒で消毒洗浄すること、それから薬を忘れぬように飲むことじゃ。ああ、血が多く流れた故、栄養も取るように。前頭部の傷はとかく血が多く失われるものじゃ」
侍医は顔見知りの少年キャロルにてきぱきと指示を与えた。
「若いし大丈夫だとは思うが発熱、嘔吐、激しい頭痛、手足の痺れ・麻痺などの症状が出たら危険じゃ。せめて今夜は誰かに付き添ってもらうのがいいのだが・・・」
「キャロルは今夜はこちらに泊まります。客人用の部屋があるわ。ムーラ、いいでしょう?お兄さま、お願いです。私の度の過ぎた悪戯を許してください!」
「私に謝って何とする!そなたはキャロルにひどいことをしたのだぞ。悪ふざけにもほどがある。ましてやキャロルは、ルカに仕える身であるに!
身分ある者が、目下の者をましてや臣下の忠実な従僕たる少年を傷つけるとは何事かっ!
そなたの行い、とうてい王女の身分にある者のそれとは思えぬっ!この短慮者めが!」
兄王子の厳しい叱責にミタムン王女は震え上がった。根は善良なお姫様なのだ。今回のことだって軽い気持ちで物慣れぬ恥ずかしがりの新任小姓を手荒に歓迎しようとしただけのこと・・・。

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