『 アラブの宝石 』 21 「なるほど、あなたは率直だな。しかし不思議に不快でも腹立たしくもない」 ラフマーン氏は笑った。ライアンは戸惑った。 「あなたの申し出は分かった。財閥の利害と切り離して家族を大切にされる真摯な姿勢もだ。さて。まず一夫多妻だが、アフマドに関してはそれがあるかも知れぬし、ないかも知れぬとだけしか答えられない。 キャロル嬢がアフマドに相応しく、アフマドを愛し、その愛情故に息子の心を独占できればアフマドは何があってもキャロル嬢を裏切るまい。 アフマドの縁談だが、それについては息子は年寄り山羊のように頑固でしてな。あの年まで独り身だ。だがそれもキャロル嬢ゆえであったかな・・・?」 ライアンは、ほうっと安堵の吐息をついた。ラフマーン氏は怜悧でバランス感覚に富んだ性格らしい。 「失礼を申し上げた若造に丁寧なご返答痛み入ります。どうか私の失礼をご寛恕頂きたい。 そうまで言っていただけるなら、無論、私としてもアフマド君のような男性に妹を託せれば安心ですと申し上げられる。しかし妹はまだ子供です。私はあのこの幸せを願っています。全てはあの子に決めさせたいのです」 「まだ子供であるとあなたは言われたが? 子供の幸せを用意してやるのが大人の務めではないかな?」 「妹はまだ経験の少ない子供ではありますが、愚かではないと思っております。あの子には自分の最善の道を選ぶ分別があります」 ラフマーン氏はますますこの兄妹が気に入った。 22 アフマドは上機嫌でキャロルの姿を探した。昨夜は父親から自分の結婚に対して許しを貰った。そしてその3日後の今日はライアンから待望の返事を貰った。 「何事もキャロルの心次第だ。キャロルが君を選ぶなら僕は何の反対もない」 ライアンの言葉を心地よく反芻するアフマド。視線の先にはキャロルがいた。 (俺は今まで欲しいものは全て手に入れてきた。今、そしてこの先ずっと生きている限り、俺が心から望むのはキャロルだ) 「アフマド兄さん、おはよう!」 庭で花を眺めていたキャロルは今朝は欧米風の洋服を着ていた。無邪気にアフマドを「兄」と呼ぶ少女に、召使いの女達が面白そうに目配せをしている。 「おはよう、キャロル。今日は洋服かい?」 それはいつかアフマドが似合うと言ってやったワンピースだったが・・・。 「せっかく俺の国にいるんだ。着替えておいで。さぁ・・・」 「アフマド兄さんったら!」 抗議するキャロルを無視して召使いに淡い緑色の一揃いを着せるように指示するアフマド。建物の中に入っていくキャロルを見送りながら召使い達は囁き交わした。 ―おや、アフマド様はどこであのようなことをお覚えになったのか― ―やはりあのお嬢様が第一夫人におなりなの?ラフマーン様もお気に入りの異国の方― 着替え終わったキャロルはアフマドに伴われてテラスに出た。召使い達が甘いお茶や菓子類を置いて下がっていく。 「やっぱりアラブ風の衣装の方が似合うよ、キャロル」 「そう?でもアフマド兄さんったら強引なんだもの。どうしたのかと思ったわ。召使いの人は笑うし・・・」 「笑わせておけばいいさ。ところでキャロル。僕のことをアフマド兄さんと呼ぶのはやめにしてくれないか?」 23 キャロルは驚いたふうにアフマドを見た。 「じゃあ、どう呼べばいいの?アフマド様、とか若様、とか?」 「それは,召使いの呼び方だ。ただアフマド、でいいよ。君だっていつまでも小さい女の子じゃないんだしね」 「でも年上の人を呼び捨てだなんて。せめてシェイク・アフマドでは?どうしてアフマド兄さんと呼んじゃいけないの?」 「だめ、アフマドでいいんだよ。君になら呼び捨てにされてもいいんだから」 アフマドは内心、自分の性急さに驚きながら話を一方的に打ち切った。あとは少しぎこちない雰囲気の中で雑談が続く。 その気まずさを救ったのはライアンの出現だった。妹思いの兄はアフマドがどうするつもりか偵察に来たというわけ。 「ライアン兄さん!」 あきらかにほっとした様子でキャロルは兄の腕に縋った。あまり外見の似ていない兄妹の姿にアフマドは軽く嫉妬を覚えた。「兄」と呼ばれるからこそキャロルは慕ってくれたのでは?一人の男として存在した場合、初なキャロルは無邪気につきまとってくれるだろうか? 「ライアン兄さん、アフマド・・・兄さんったらひどいのよ。急にアフマド兄さんって呼んじゃいけないなんて言うの!呼び捨てなんて私が呼びにくくて嫌だわ」 「・・・アフマドめ、さっそく亭主風を吹かせているのか」 「え?」 「何でもない。アフマドがそう言うなら、そう呼んでやればいいさ。そうだろう、アフマド?」 ライアンは未来の義弟になるかもしれない親友に目配せすると気を利かせて離れていった。 24 しばらくアフマドは四方山話を続けた。だがやがてキャロルが言った。 「アフマドにい・・・いえ、アフマド。何だか変よ?」 「・・・別に変じゃないさ。いや、少し変かな?ねえ、キャロル。俺の国は気に入ったかい?」 「? ええ、もちろんよ。とても美しい国。皆、親切で気持ちの良い人たちだし。外国人を歓迎しない砂漠の中の誇り高き首長達の国って最初は怖かったのよ。でも杞憂だったわ。もう帰国なんて残念」 アフマドの目が光った。 「本当にそう思う?」 「ふふっ、でも我が儘はいけないわね。ごめんなさい。今回の入国だって特例なのでしょ?綺麗なものをいっぱい見られたし、あなたのご一族の女性方ともお知り合いになれて親しくお話していただけたわ。本当に夢みたいだった」 アフマドがキャロルの手首を掴んだ。 「君が望むならずっと俺の国にいればいい。俺もそれを望む。俺の国が君の国になる」 「あ・・・アフマド・・・兄さん?何を言っているの?」 強い力、真剣な口調、まるで相手の意志を奪って縛り付けるような。 「キャロル、俺の妻になって欲しい。俺の妻になって生涯側に居て欲しい。 親父を始め、俺の一族は俺の意志を尊重し歓迎してくれている。ライアンも賛成してくれている。 キャロル、どうかあなたを妻とする男に許諾の返事を与えて欲しい」 キャロルはがたがたと震えだした。アフマドのことを初めて怖いと思った。 (何?け、結婚ですって?私とアフマドが?ラフマーン氏も・・・・ライアン兄さんまで許しているですって?どういうことよ、一体!) いきなりアフマドの顔が近づいてきて、キャロルに接吻をした。それは深く情熱的な口づけだった。ジミーとのそれなど児戯に等しい大人の接吻。 「キャロル・・・?」 「いやっ!大嫌いっ!」 キャロルは自室に駆け戻って行った。 25 明日は帰国という夕方。キャロルは物憂く黙り込んだまま、送別の宴に出席するために身支度を整えていた。 「お嬢様、お顔の色が冴えませんわ。ご気分でも・・・?」 「いいえ、何でもないの。・・・ええ、宴には出席します。せっかくラフマーン様が催して下さったのに」 キャロルは召使いが差し出してくれる装身具を身につけながら答えた。豪華なアンティークの装身具の一揃い。ラフマーン氏の贈り物だ。 (こんなもの身につけずにすんだらどんなにいいかしら? こんなことをされては私、どんどんアフマドを断りにくくなる。せっかくの訪問なのに、アフマド兄さんが変なこと言うから私・・・) アフマドの唐突強引な求婚はおとついのこと。ショックを受けたキャロルは今まで部屋に籠もりきりだったのだ。その間もアフマドは何だかんだと見舞いの品をよこした。砂漠の国にはあるはずもない花。果物。女性好みの綺麗な小間物、装身具類。 どれも高価なものでキャロルはライアンに窮状を訴えたが、はかばかしくない。それはきっとキャロルが、自分にはジミーがいるのだとか何だとか口走ってしまったせいだ。 「おお、ライアン殿、キャロル嬢。この国より去られるあなた方のためにささやかな宴を設けた。どうか心ゆくまで楽しんでいただきたい」 ラフマーン氏の謙虚にすぎる言葉で豪華な宴は始まった。一族郎党が集い、アラブ風の装束に身を固めたリード兄妹を見守った。じき自分たちの一族に加わるのであろう異国の兄妹を。 ―あれがキャロル嬢か。なるほどラフマーン様のお眼鏡に適うだけの器量の持ち主らしいな。ライアン・リードの妹ならば俗な馬鹿な女ではあるまいよ― ―しかしアフマド様にはヤスミンがいるではないか?キャロル嬢とヤスミン、どちらが名誉ある第一夫人になるのだろう?― 26 宴もたけなわの頃。 キャロルは目立たぬように席を外し、涼しいバルコニーに出た。人々の好奇の視線や、先走った祝いの言葉が腹立たしくうっとおしかった。 (帰国してしまえば全部なかったことにしてしまえるわ。アフマド兄さんの勝手な気まぐれも、ラフマーン一族の勘違いも。 私が好きなのはジミーよ。私に初めて好きだと言ってくれた人。ああ、ジミー。あなたに会いたいわ!) その時。 「キャロル。こんなところで何をしているんだい?」 「アフマド・・・兄さん」 後ずさるキャロルの手首をアフマドは掴んで、いきなり抱き上げた。 「アフマド兄さんっ!何するの!降ろして!」 「静かにおし、キャロル。俺が言ったようにアフマドと呼べば降ろすよ」 「わ、分かったわ。分かったわよ、アフマド!さあ、降ろして」 アフマドは苦笑して軽い身体を降ろした。でも逃がさぬように手首は掴んだままだ。 「どうして俺を避ける?」 キャロルは藻掻きながら言った。 「だってアフマドが私をからかってひどいことするから」 「からかった?俺が?」 アフマドの心底驚いた顔がキャロルの怒りに火をつけた。 「とぼけないでよ!私と結婚しようなんて言ったじゃない!ライアン兄さんまで巻き込んで勝手に決めて!わ、私は結婚なんてしないんだから!」 「・・・」 「・・・・・そりゃアフマドのことは好き。でもそれはアフマドが私の“兄さん”だからよ。結婚なんて・・・。私には好きな人もいるのよ?」 「ジミー坊やか」 アフマドの目が不吉に光った。 「あんな坊や。あの子は君を愛しちゃいないね。言ってみれば良き理解者、良きスポンサーとしての君を好きなのさ」 「ひどいこと言わないでっ!ジミーはそんな人じゃないわ。あなたなんかと違って優しい人・・・きゃっ!」 アフマドはいつの間にか生意気にも反抗することを覚えた唇を塞いだ。自分の唇で。 27 「君はまだ子供だ。だから大抵のことは大目に見てやらなければならないことくらい分かっている。だが目に余る時はお仕置きが必要だ」 キャロルは必死にアフマドを押し返そうとするが逞しい体は微動だにしない。 「君に分からせてやる。誰が君を愛している人間か。君が愛するべきなのは誰なのか」 アフマドの体がキャロルの身体に密着する。アフマドの男がキャロルに熱く触れる。アフマドはキャロルが怯えるのも構わず、反抗的な白い身体を抱きしめた。 「君に教えてやる。愛されると言うのはどういうことか」 アフマドの動作はいつの間にか男女のことに慣れた男のそれになってきた。強靱な指が柔らかな身体にのめり込み、確かめた。舌が無遠慮に絡められ、脚は図々しくキャロルの膝を割り、もっとも男性と異なる秘密の部分に押しつけられた。 「痛っ!」 不意にアフマドがキャロルから離れた。アフマドの巧みな仕草に意識もおぼろになりかけていたキャロルが、やっとの思いで彼の舌を噛んだのだ。 「アフマド兄さんなんて大嫌いっ!」 罵声を浴びせて自室に逃げていく少女を見送るアフマドの唇の端から血が流れた。 「それでも・・・君は俺を愛するようになる」 しかしキャロルは兄ライアンと共に無事、帰国することができた。アフマドはその気になればキャロルを帰さずにいることもできたのだが、宴も果て酒気も抜けた朝になれば、アフマドの理性も戻り、愛しいと思ってその成長を見守ってきた少女への悔恨の気持ちも芽生える。 「アフマド、君はキャロルに何をした?キャロルはずっと塞いでいる。まさか・・・」 「ライアン、君の妹を・・・・・俺の妻になる女性を辱めるような真似は神に誓ってしていないよ。ただ驚かせ過ぎただけだ。ライアン、俺は彼女を妻に迎える。この絆は両家に大きな恵みをもたらすだろう」 ライアンは全面的に信頼する友人に頷いて答えた。 28 休暇は終わり、キャロルには日常が戻ってくるはずだった。 しかし全ては何だか違って見えて微妙に調子が狂っていた。 ライアンも家族も知っているはずなのに何もアフマドとの縁談について口にしない。 アフマドは何も連絡をよこさなくなった。 そしてジミー。彼は以前と同じように屈託無く親しげにしてくれたが、キャロルを戸惑わせ、喜ばせたあの強引な情熱は影を潜めていた。キャロルとしては心のどこかでジミーに全てを押し流すように忘れさせて欲しいと思っていたのに。 ジミーの傍らにはドロシー・スペンサーがいた。休暇中の発掘調査の首尾を尋ねたキャロルにジミーは答えた。 「うん、いい発掘だったよ。それよりさ、今度ドロシーのお父さんのスペンサー・グループが大規模な考古学展をやるんだ。僕のお祖父さんが監修をつとめてる。リード財閥の古代エジプト展のような華々しいものになるよ」 「ジミーにも準備に参加して貰っているの。若い人の視点から考古学の魅力を伝える方法を考えるのよ。ジミーは素晴らしいわ! うちのパパが気に入ってね、ジミーに援助したいなんて言っているのよ!」 キャロルに謂われのない競争心と敵愾心を抱いているらしいお金持ちの令嬢はジミーを見やって媚びるようなあでやかな笑みを浮かべた。 「そう・・・。素晴らしいわね、ジミー。楽しみだわ」 それ以外にキャロルに何が言えただろう?みじめな気持ちのキャロルは心の中であまりに短く滑稽だった自分の初恋に別れを告げた。 アフマドの言葉―ジミーは良き理解者、良きスポンサーとしての君を好きなのさ―が蘇る。 自分がどうも裕福な家の娘であるがゆえに求められ、もっと気前の良い娘とその一族の前にあっさりと忘れられたのだという屈辱にキャロルは涙も出ないような情けなさと哀しさを覚えた。 29 「ふーん・・・。スペンサー・グループの『古代の世界展』ねぇ」 ライアンは上質の紙に印刷された招待状を見ながら不機嫌に呟いた。なりふり構わぬやり方で最近のし上がってきたスペンサー・グループをライアンは快く思っていない。若造めがと何かにつけ自分を目の敵にする脂ぎった男をライアンは好きではなかった。 「どうだい、キャロル。招待状が来ているけれど、お前も来るかい?」 ライアンは優しく妹を誘った。招待状に同封された案内状を見れば、ブラウン教授とジミーが監修者として名を連ねている。教授が今度、クレタで大規模な発掘を行うこともライアンは知っていた。大口の出資者スペンサー氏が白紙の小切手を渡したからだ。 教授にその幸運が舞い込んだのは孫のジミーとその「恋人」ドロシー・スペンサーのおかげだということを学者先生は知らないだろうが・・・。 (キャロルはずっと気丈に振る舞ってはいるが、頭のいい子だ。何故、ジミーが離れていったかを察してさぞ傷ついただろう。キャロルのためにはこれが一番いいとは思うが) だがライアンはジミーに今更立腹する気にもなれなかった。それに今度の『古代の世界展』にはアフマドも来ると言っている。 (アフマドのことをキャロルが「夫となる人」として好きになるかはともかく、彼ならばジミーのように無神経にキャロルを傷つけることもないだろう) ライアンは同行すると答えた妹の笑顔にほっとしながら考えていた。 30 スペンサーグループの考古学展はなかなか派手な催しだった。学術的、というよりは万人受けする、といったほうがいいかもしれない。招待客だけに公開される今日は財界人、各界著名人の他に芸能関係者の華やかな姿も見受けられた。 スペンサー氏はライアン達を見つけるとにこにこ笑いながら自慢たらたらの挨拶をした。 「今回の催しでは若い人たちにも考古学を親しみ深くアピールしたいと考えましてな、ブラウン教授のお孫さん、ジミー君に特別監修者をお願いした。 彼は優秀で将来有望な若者だ。いやはや、あんな若者は近頃珍しい!」 財産も地位も権力もある彼は、カネにもならない学術的なモノに何やら貴族的なものを感じ、手許に欲しいと渇望している。容姿も頭も良く、野心的なジミーが娘のお眼鏡にかなったとは全く素晴らしい! それに・・・ジミーやドロシーの睦まじい雑談の端々から、かつてキャロル・リードがジミー・ブラウンにお熱であった様子もうかがえる。ところがジミーが選んだのはスペンサーの娘、ドロシーではないか?!そうに決まっている! 「さぁ、リードさん。どうかお楽しみくださいよ。私は客人の接待がありまして」 「ありがとう。じっくり拝見させていただきます」 ライアンが慇懃に返答したその時に新たな「客人」が現れた。 「おお、ラフマーンさん!お待ちしておりましたぞ。この展覧会を通じて我がスペンサー企業のことにもっと興味を持っていただきたいものです」 有望な投資家として熱い視線を注がれているアラブの青年は黒い瞳で中年男を一瞥すると、旧友のライアンとの「偶然」の再会をことさら喜んで見せた。 スペンサーにも、その一族郎党にも何の興味もないことを誇示するように。 |