夕食は、自分を好いてくれる女の子が丹精込めて作ってくれた手料理。
 ね? こうやって言葉だけ見れば羨ましく思うでしょ。
 …現実はさにあらず。
「今日はセンパイの好きなものを中心に献立を組んでみました。最近の中では会心の
出来だと思います。さめないうちにどうぞ」
「レオ、今日のおにぎりは特別だぞ。先週実家に戻った時にとっておきの食材を用意して
おいたんだ… きっとレオの口に合うと思う。楽しみにしてくれ」
 乙女さんがいるせいだろう。普段外で見る感じのなごみと、何だかよくわからないけど
自信満々な乙女さん。おにぎりは以前出されていた量より… あきらかに多い。
 んで。どっちを最初に食べようかとおにぎりに手を伸ばそうとすればなごみがふいっと
そっぽをむいて切なげな視線を送ってくるし、反対に乙女さんは『それでこそ我が弟』
みたいな感じでやたら嬉しそうな顔を見せる。
 じゃあとばかりになごみの作った料理に、と箸を手にとればその逆。
 どないすれっちゅーねん。
「…あの、そんなに見られると食べづらいんだけど……」
「なに、お姉ちゃんのことは気にするな。早く食べて感想を聞かせてくれ」
 なごみは何も言わなかったが、おそらくは同じだろう。表情を見ればよくわかる。
 …食事がつらいと感じたのは、カニが作った時以来だぜ…… まあ、あの時は肉体に苦痛を
与えるタイプのつらさだったから、それよりはマシかもしれないけど。
 まあ、フカヒレならこの状況も喜んで受け入れるだろう。ある意味羨ましいぜ。
 フカヒレになりたいとは死んでも思わないけどな。


 レオがどうにか二人の食事を平らげ、よたよたとキッチンを後にする。
 後片付けをしている椰子と、椅子に腰掛けて腕を組み、その背中を見つめる乙女。
「満足しましたか、鉄先輩?」
 視線を動かさぬまま、椰子が先に切り出してきた。その声音は完全に『線の外』の人間に
むけられるそれと同じだった。
「満足? 私が何に満足したというのだ?」
「センパイは別に、鉄先輩のおにぎりが私の手料理より良かったから先に選んだわけじゃ
ないですよ? ただ単に、ああも迫られてはセンパイに選択の余地はなかった。それだけの
ことです」
「椰子よ、お前もまだまだ子供だな。私はそんなことで喜んでいたわけではない」
 ふふん、と見えない相手に軽く鼻を鳴らす乙女。
「残念ながら私の腕では椰子の作る料理には遠く及ばない。それでもレオは私のおにぎり
を全て食べてくれたのだ。今は、それだけでも十分というわけだ」
「はぁ…… 鉄先輩はおめでたいですね。センパイが最後の方に残していたおにぎり3つを
苦しそうにほおばっていたのを見てなかったんですか? 他人が食べる分量も考えずに
作るだけ作っておいて全部食べ切るまで見ているなんて、意地悪としか思えませんよ」
「なっ… そ、そうなのか?」
 一瞬で表情が曇る乙女。ある意味椰子よりも考えていることが表情に出やすい。
「し、しかし私の為に気合で食べてくれたと思いたいな。レオは昔からそういう奴だ」
「(……昔から…)」
 椰子がその一言にぴくりと反応する。
 少し前に蟹沢に言われた言葉を思い出し、ばれないように小さなため息をつく。
『ま、レオと付き合いが極めて短いオメーには、わからないだろうけどね』
「(カニに言われたことはむかつくけど… 確かに鉄先輩もカニもあたしの知らないセンパイ
を知っている。センパイと過去の時間を共有している…… あたしには、それは… ない)」
 椰子の心が微かに揺れる。


 今の俺の家には、安住の地が二箇所しかない。
 一つはトイレ。とくればもう一つはいわなくても分かってもらえると思う。今俺がいる場所。
 浴室。俺の部屋じゃないところがミソ。
 というか、どう考えてもおかしいよね? 5月までは玄関さえ開ければそこは俺の安らぎの地。
 時々カニやフカヒレ、スバルが来るけど、それさえも緩やかに流れる平穏な時の中の出来事。
 それが、乙女さんが現れてから一変した。自堕落な生活に慣れきった俺を叩き直す為に
両親から送り込まれた刺客… いや、教育係とでも言うべき存在。
 年頃の女の子とは思えない言動や行動力。幼い頃の記憶を無意識に封印させるほどの
体験を俺に味わわせた従姉。
 そんな人が、俺のことを好きだと告白してきた。
「やっぱり… ありえないよなぁ……」
 カニの場合は、俺的にはひょっとしたら、くらいのことは心の片隅にいつもあった。幼馴染な上に
いつも寝ているところを起こしにいく間柄。なんだかんだで毎日顔をあわせては色々話したり、
時には遊びに出掛けたり。
 今になって思い起こしてみれば、なんとなくそれっぽいモーションがあった気もする。
 なごみと付き合うようになってからは、嫉妬やあてつけのような行動をしてきたことも。
 カニとは正直バカばっかりやってきた仲間なので、悪いが好きといわれてもピンとこない。何の
前情報もなければ、割と可愛いとは思うけどな。
「俺…… どうしたらいいんだろう…」
 なごみは… 俺にとってもうかけがえのない存在だ。万が一なごみを今放り出すようなことが
起きたとしたら… 恐ろしい結末しか想像できない。想像すらしたくない。
 だから、なごみを悲しませるようなことは絶対にしたくない。
 でも、できることなら…
 なごみがそばにいて。
 厳しくも優しい乙女さんが俺を叱ってくれて。
 いつもバカやって笑いあえるフカヒレ、スバル… そして、カニがいてくれれば。
「だけど… きっと、もう叶わない気がするんだよな……」
 不安だけが、俺の予想通りに進んで、やがて予測を上回っていくんだ… 
 あの時のように。


 カニこと蟹沢きぬは自らの部屋で考え事をしていた。深く考えることは決して得意では
ない彼女だが、それでも今は普段あまり使っていない頭をフル稼働させる必要があった。
「さて、勢いでつい言っちまったワケですが…」
 レオのことは当然嫌いではない。普段はヘタレだのなんだのととかく馬鹿にはしているが、
それはあくまで幼馴染だから。レオをよく知っているからこそ敢えてネタとしてそう言っていた
だけのこと。
 じゃあ好きなのか? と問われれば。
「…やっぱり『スキ』、なんかもしれないなぁ…… ココナッツの野郎がレオの近くにいるだけで
なんかむかむかするし、最近は何かにつけてレオのことが気になってるし。うーん、認めたく
ないけど、これってモロ嫉妬なんだろうなぁ」
 認めたくはなかった。
「構図としてはオカシーんだよね。可憐な一輪の花であるボクがレオに嫉妬されるならともかく、
何故かヘタレオに群がるバカ女… 主にココナッツに対して…… ぐおおおお! 何か考えた
らものすげームカついてきた!! ぬぅぅあのボサボサ一年坊めええぇ」
 まくらを抱いたままベッドの上をごろごろ。
「つーかあいつはキタネーよな。一年坊とは思えねー身体してるし、ツラも黙ってりゃそこそこ。
料理の腕はオアシスのテンチョーも認める程。んでもってこれはボクの予測だけど… あいつ
はレオにしか見せねー顔を持ってる…」
 正直な話、あの時は単にいつもの調子で椰子とレオを冷やかし半分にからかってヒマを潰
そう。そのくらいにしか考えていなかった。
 カニミソ垂れ流し二歩手前くらいのハプニングはあったが、まあ大した問題ではなくて。
「あんとき乙女さんがあんなこといわなきゃ、ボクだってつられはしなかったのにな… 恨むぜ
乙女さんよぉ」
 とはいうものの、今更『あのセリフはつい勢いでした』ともいえない。言ったところで蟹沢が望む
関係に戻る可能性はあるとも思えない。
 蟹沢は知る由もないが、丁度いい言葉がある。
 『賽は、投げられた』のだ。
「こんなことスバルやフカヒレにも相談できねーし… こうなりゃ前に進むしかねー、か……」
 蟹沢は知らない。知っていてもどうしようもない。彼女が今決断しようとしている道がどれほど
細く険しく、先の見えないものなのかを。


 ドアの開く音がするとビクッとする自分がいる。
 ビビってるわけじゃないけど… 正直情けない。悪いのは俺じゃない。開けた奴だ。
 そうさ。俺は何も悪くないのさ。
 ……やべ、完全にダメな人の思考回路になってる。やめよう、このことを考えるのは…
「あの… センパイ?」
 半分ほど開きかけたドアからなごみがひょこっと顔だけ出している。わずかな時間の葛藤
が顔に出ていたようで、心配そうな視線を俺に向けている。
「ああ、いや。なんでもないよ。ちょっと考え事してただけ。それよりもなごみ、あんまりドア開け
たままだとお湯が冷めちゃうよ。入るなら早く入ってきたら?」
 半分だけのぞかせてる顔がぼっ、と耳まで赤くなる。うーん、かわいいなぁ。
 これで本当に入ってきて背中でも流してくれれば嬉しいんだけ『は、はい…』
 ………?
 おずおずとしながらだが、なごみが浴室に入ってきた。しかも全裸。
 あーいや、普通風呂に入りに来てるんだから全裸なのは当たり前か…
「な… なごみさん?」
「うう、やっぱり凄く恥ずかしいです…」
 恥ずかしいなら入ってこなきゃいいのに… などという野暮なツッコミはちりかみにくるんで
ポイだ。
「センパイ… もう身体、洗っちゃいましたか?」
「んー、これからだけど……」
「あ、それじゃあ私に背中、流させてください」
 非常に嬉しいシチュエーションだ。なごみと同じ時を過ごしていく中で、一度は体験したいと
思っていたこと。なんだけど… 何故だろう、素直に喜べない自分がいる。
 あ、言っておくけど勿論背中というか、身体中洗ってもらうつもりだけどね。それはそれ、これ
はこれってやつだ。
 湯船から上がってなごみに背を向ける。なごみはボディーソープを俺愛用の乾かした糸瓜の
タワシで泡立たせ、良い力加減で俺の背中をゆっくりと洗い始める。
 となるはずだった。


 さあレオ、こんな時は得意の状況整理だ。
 俺が風呂に入っていると、なごみが背中を流しにやってきた。よし、ココまでは大丈夫だな。
 で、湯船から出てなごみに背を向けて座ったのだが… 俺の背中に触れたのは使い慣れた
糸瓜のタワシなんかじゃなかった。
 なんていうか、一言じゃ形容しずらい。
 暖かくて柔らかくて、それでいて弾力もある。すべすべとしている中にしっとりした感触も
ある。丸いボールのようなもののようにも思えるけど、質感の違う、尖ったような部分が確か
に感じられた。
 そして、その推測を証明する、俺の身体を背後から抱きすくめる両腕。
「なごみ……?」
「センパイ… あたし、センパイのこと信じてます……」
 声が微かに震えていた。
「あたしにとって、センパイは全てです。センパイは居場所を失ったあたしを優しく迎え入れ
てくれました…… あれほどセンパイのことを邪険にしていたのに… あの時のあたしの想
いは、とても言葉だけじゃ表せないけど… センパイ、愛してます。今までも… これからも
ずっと……」
 なごみの言葉は、そこで止まらなかった。
「だけど、センパイは優しすぎます。その優しさに救われたあたしが言うのもなんなんです
けど… センパイには、人の心を惹きつける力があると思います。センパイが関わった人は
みんなそれを知っていると思います。だから…… 不安なんです」
 いや、それはないんじゃないか? どう考えても俺、優しいタイプの人間じゃないぞ。カニ
やフカヒレには平気でキツいこというし、余計なことには極力首をつっこまない。そりゃ女の
子には優しくするだろうけど、そりゃ単に男だからだ。しかもそれだって… いや、これはや
めておこう。
「センパイ、あたし… センパイにお願いがあります」
「お願い?」
「はい…… センパイ、あたしを一人にしないで下さい。線の内側の人をこれ以上失いたくない
です。 …実は、もしセンパイがいなくなったらって、夜中に考えてみたことがあるんです……
 その時は、怖くて怖くてちょっと泣いちゃいました。あんな想いをするのは、想像でも二度とし
たくないです…」
 言葉がでなかった。


 時は若干戻り、椰子と乙女がまだキッチンで火花を散らしている頃へ。
 後片付けを終えた椰子が茶を淹れて乙女に勧め、テーブルを挟んで真向かいに腰かけた。
 だがそこからは互いに何を語るでもなく、ただただ時が流れてゆく。語るきっかけを失ってい
るだけなのか、そもそも語るだけの言葉は必要がないのか。いずれにしてもその場を静寂が
支配していた。
「椰子… お前にはまず、謝らなければいけないな」
 いつまで続くかわからない静寂を破ったのは、乙女の一言からだった。
「謝ったところで、何か解決するんですか?」
「う…… その、なんだ。今のは話し始めのきっかけとしてだな…」
「きっかけなんていりません。鉄先輩がどういう経緯でセンパイを好きになって、告白するに
至ったかなんてどうでもいいことですから」
 ぴしゃりと言い放つ。話の腰をぼっきりと折られた乙女は文字通り言葉に詰まって小さく呻い
たが、すぐに持ち前の負けん気が発動したのか、めげた様子は殆どみせなかった。
「私はな、なにもお前にあてつけたりするつもりでレオに告白したのではない。私なりに悩んで、
悩み抜いた上で、ありったけの勇気を振り絞ったのだ。いくら私でも、既に彼女がいる相手に後
から告白をするなんてマネはできればしたくなかったのだからな」
「じゃあしなければよかったじゃないですか。そのせいでこんな面倒なことになっているんですよ?」
「わかっている! それでも…… それでも私はレオの事が好きなんだ。こんな想いになったの
は初めてで、どうしていいか全く自制が効かないんだ…」
 現状だけをみれば、椰子と乙女には決定的な差がついている。だが人の心ほど不安定なものは
ない。特に男女関係なんてふとしたことで当人すら思いも寄らぬ方向に転がることだってあるのだ。
 椰子はレオを信じていた。だが、レオの持つ優しさがいつ自分以外に向けられないとも限らない。
押しが強いであろう乙女のアプローチを始終受け続けて、どこかでぐらりと心が揺さぶられてしまう
かも知れない。不安要素は、出来る限り排除しておく必要がある。
 そんな折、ふと二人の耳に音が飛び込んできた。


 それは、キッチンから扉をはさんだ向こう側から聞こえる、微かだが水を使う音。どうやらレオが
浴室を使っているようだ。
「さてと……」
 わざとらしく前置きをして、椰子が席を立つ。
「…まだ話は終わっていないぞ」
「あたしは別に話したいことも聞きたいこともこれといってありませんから。 …それじゃ鉄先輩、お
風呂お借りしますよ」
「ん? 風呂なら今レオが入っているんじゃないか?」
「そんなことは知ってますよ。センパイの背中を流してあげようと思ってるんですから」 
「なっ?! レオの、背中をだと…」
 乙女の頬が朱に染まる。
「それは… あれなのか? 服を、脱いでなのか?」
「何言ってるんですか? お風呂に入るんですから裸になるのは当たり前じゃないですか」
「ふ、不健全な! そういうことは私が許さん!」
「許してもらわなくていいです。プライベートで鉄先輩に指図されるいわれはありません。それに…」
「それに、何だというのだ?」
 乙女の中で色々な感情が渦巻く。椰子の言動に頭がついていけてないようだ。
「あたしにとって、鉄先輩はセンパイの従姉かもしれませんが、結局は『線の外側の人』。どうな
ろうとあたしの知ったことではありません。そして… センパイは今のあたしにとって全てです。
鉄先輩には、自分の一方的な感情のためにあたしの全てを奪う覚悟は…」
「無論だ!」
 椰子の言葉を遮るように、乙女は真っ直ぐ椰子の瞳を見据える。そこに先ほどまでの逡巡は
既になかった。
「お前、わたしをなめているだろう? 自分は心も身体もレオと繋がっている。他人の入り込む
隙などどこにもない、と」
 予想しなかった回答に忌々しげな表情をみせる椰子。
「…ここまで堂々と他人の彼氏を奪おうと宣言するなんて…… 嫌な女ですね、鉄先輩」
 吐き捨てるように言い残して、椰子はキッチンを後にした。


 乙女は冷めた茶を一口だけ飲んで喉を軽く潤すと、小さなため息をついた。
「…レオ、お姉ちゃんは嫌な女だ。お前の気持ちを半ば無視して、お前から椰子を引き離して
自分がそこに収まろうとしている…… 正直、私の初恋がこんなことになるとは思わなかった
ぞ。お前は罪な奴だな…」
 聞こえるはずもない相手に想いを告げ、乙女は寂しく微笑んだ。


「どうしたんだよカニ。急に呼び出したりしてさ」
「察するに、レオには話せないことらしいな」
 蟹沢の親友であるところの伊達、鮫氷の両名はいつもの集合場所であるレオの部屋ではなく、
二人に連絡をいれた蟹沢の部屋に招かれていた。
「オイオイスバルさんよぉ、アンタ読みが鋭すぎだぜ。あんまり気がつく男は女の子に嫌われ
んよ?」
「カマかけたつもりだったんだが、図星だったらしいな」
「なんだよ、スバルはもう何か知ってるのか?」
「いんや。ただまぁ、なんとなくな」
「何となくでも感付けるお前が羨ましいよ。俺にゃさっぱりだ」
 軽く肩をすくめる鮫氷。
「とりあえず、ココでしゃべったことはぜってー誰にもいうなよ」
 そう前置きをして、蟹沢はゆっくりと話し始めた。
「昨日、レオん家に遊びにいったんだけど… ボク、レオに告白したんだよね……」
「?!」
 …ゆっくりじゃなかった。いきなりの核心発言に口にしていた缶コーヒーを思わず吹きそうに
なったのは、伊達だった。同じく缶コーヒーを飲んでいた鮫氷がそうするかと思っていた蟹沢
だったが、彼は意外という表情を見せるだけに留まっていた。
「カニ… 本気で告白したのか? だってレオにゃ椰子が……」
「んなこたわかってるっつーの。はじめは単にココナッツとレオをひやかしにいっただけなんだ
けど、乙女さんが乱入してきてさ… 乙女さん、レオにいきなり告白したんだ。そのやりとりを
見てたら、ついというか、なんというか… ボクもしてしまったというワケさ」
 本当はもっともっと深刻な出来事のはずなのだが、つとめて軽くいってのける蟹沢。彼女
なりに友人を気遣ったのかもしれない。単に考えてないだけかもしれないが。
「んで、オメーらを呼んだ本題はこっからなんだ……」
 別に誰に聞かれるというわけでもないのに、蟹沢は声のトーンを落とす。必然的に三人は
顔を寄せ合う形になるのだが… 
 今度は伊達ばかりか鮫氷までもが、驚きの表情で蟹沢を見るのだった。


 夜の松笠。暦の上では秋でも、まだまだ昼間は暑い日が続いている。この時間ともなれば
随分と過ごしやすくなってきているが、行き交う人の服装にはまだ薄着が目立つ。
 鮫氷はそんな人々の中でいつものようにギターを弾く。彼にとってそれは既に生活の
一部となりつつあり、心休まる一時でもあった。最初はやはり違和感があったが、今の鮫
氷は夜の松笠駅前を彩るに足るだけの場数を重ねていた。
「(さて、今日はこのくらいにしておくか。明日は学校だしな…… ?)」
 そろそろ片づけを、と思った矢先。鮫氷の視界の端に見覚えのある顔が映った。長い
黒髪が緩やかな海からの風に揺れているのが遠目にもよくわかる。
「よっ、椰子じゃん。珍しいじゃんこんなとこで」
「どうも…」
 そう答える椰子の表情に覇気はない。鮫氷の脳裏に八月頭のあの時が甦る。
「なに、とうとうレオに愛想尽きたの? なんなら… ウチくる?」
 途端、物凄い勢いで椰子が鮫氷を睨みつける。そんなことを言えばどうなるかくらいわかっ
ているはずなのに言ってしまうあたりは、実にいつもの彼らしかった。
「ヒィッ?! な、なんだよー。いつもの冗談じゃないか〜 レオと付き合うようになって少し
は丸くなったと思ってたのに、椰子は相変わらずなんだな」
「余計なお世話です。消えてください」
 ふいっと視線を戻し、後は無言。
「聞いたぜ。 …というよりは聞かされた、って言った方が正しいか」
「センパイから… ですか?」
「ま、古い付き合いの奴から頼まれちゃイヤとはいえないからな」
 敢えて言葉をぼかす。バカ正直に答えれば会話はそこで終わってしまうので、鮫氷は彼な
りに考えて言葉を選んだ。嘘はつかず、さりとて肯定もしない。
「そうですか…… でも、これはあたしとセンパイの問題です。できれば放っておいてもらえる
と助かるんですが」
 しかし椰子は、というか椰子にしてはやんわりと断ってきた。彼女にしてみれば必要以上に
線の外側の人に問題を引っ掻き回して欲しくないというのが本音のようだ。
「なんとも椰子らしい答えだな。ま、大方そんなことだろうと思ってたよ。わかった、俺はもうこれ
以上お前らの問題に首をつっこまねえよ。だけど…」
「…?」
「ココで俺が勝手にひとりごとをしゃべる分にはいいよな?」


 椰子は内心うんざりしながらも、線の外から聞こえるノイズと割り切って無視を決め込む。
 その様子をみた鮫氷は心の中でほっと一息つき、言葉を紡ぎ始めた。
「まず正直な話、レオは羨ましいよ。メッチャ美人の椰子を彼女にしたばかりか、乙女さんや
カニにも好かれてる。世の中不公平だと切に感じるぜ。だけどな、多分レオにとっちゃ今の境
遇は幸せじゃない気がするぜ。あいつはいつもクールに振舞おうとするくせに、肝心な時に
限って感情に任せて行動しちまうんだ」
 残念なことに、鮫氷のひとりごとは椰子の興味を惹くには充分な内容だった。
 相変わらず視線はそのままに、耳だけは注意深く鮫氷の言葉を拾ってゆく。
「普段から感情に任せて行動するのがイヤだからって、自分が当事者のくせにコトが深刻に
なるまで傍観して、結局これ以上放置したらもうどうにもならないってトコまでいって初めて
それに気づいて、慌てて行動し始める。人のこといえた義理じゃねえけど、どーしよーもねぇ
ヘタレだ、レオはな」
「(センパイをフカヒレ先輩なんかと一緒にしないで下さい…)」
 危うく出掛かりそうになる言葉を無理矢理飲み込む椰子。
「多分、レオはぎりぎりの状況に置かれるまでは、なるべく今のままで居続けようとするんじゃ
ないかな? 椰子という彼女を持ちつつも、乙女さんという姉の存在やカニや俺ら幼馴染とも
うまくやっていきたい。そう考えてると思うぜ。ったく、贅沢というか甘チャンというか… レオにも
困ったもんだぜ。出来ることなら俺と変われっつの」
 鮫氷はそこまで話したところで一つため息をつき、一度椰子の横を離れる。
 さして時間を置かずに戻ってきたが、その手には缶コーヒーが二本。そのうち一本を椰子に
差し出すのだが、勿論椰子は受け取ろうとするそぶりすら見せない。
「おごってもらう義理がありません」
「いーからいーから。別に缶コーヒー一本くらいで義理もないじゃん。椰子は構えすぎ」
「…フカヒレ先輩もお節介な人ですね。あたしに何か求めるだけ無駄ですよ」
 仕方ない、といった表情をありありと見せつけながら缶コーヒーを受け取る。
「椰子が心配なんだよ。俺も… スバルもさ」


 今日は変な夜だった。
「(フカヒレ先輩や伊達先輩がどうしてあたしの心配をするんだろう? センパイの心配をするの
ならともかく、あたしにまで気を遣う必要なんてどこにもないのに…… 変な人たちだ)」
 貰った缶コーヒーを飲むわけでもなく、プルタブを爪で軽くひっかいたりする椰子。その顔には
明らかに戸惑いの表情が浮かんでいた。
「椰子っていっつも他人を避けてるけどさ、お前が思うほどみんな嫌っちゃいないんだぜ? そりゃ
しゃべりはキツいし、態度はふてぶてしい… って、だからそーやって睨むなよぅ。お前のその眼は
ねーちゃんに似ててこえーんだってば」
 『余計なことをいうと潰すぞ』オーラを察知して思わずカタカタと震えだす鮫氷。
「……ま、まああれだ。ぶっちゃけちゃうと、本当に心配なのはレオなんだ。スバルならレオの力に
なってやれると思うけど、俺じゃダメだ。ヘタレだからな」
「そうですね」
「ンなとこ同意すんなよなー、ヘコむだろ?」
 すっかりひとりごとじゃなくなっていたが、お互い気にはしていなかった。
「ま、椰子らしいけどな… っと、やべーやべー。もうこんな時間じゃん。わりーな椰子。ちょっと
のつもりがこんなにだらだらしゃべっちまって」
 ふとみた携帯電話の時刻表示はすでに月曜になっていた。いそいそと帰り支度を始める鮫氷。
「そんじゃ先帰るぜ。レオのこと… しっかり頼むぜ」
 そして心の中で蟹沢に詫びる。今のお前の力にはなれない、と。
 ………
 再び一人になった椰子。手には少し温くなり始めた缶コーヒー。鮫氷におごってもらったという
わけではないが、どうにも口にする気にはなれなかった。
「(センパイはあたしが守ってみせる…… カニからも、鉄先輩からも… 必ず)」
 人ごみに紛れてゆく鮫氷の背を横目で少しだけ追ってから、椰子は心の中で強く想う。
 この想いがある限り二人に譲る道はない。そして、センパイはあたしだけをみてくれている。
 そう、信じて。


 朝は、それでもやってくる。思いを留めることはできたとしても、時は止まらない……
 誰かがそんなことを言っていた気がする。
「どうしたレオ、元気がないぞ?」
 上機嫌でおにぎりを握っている乙女さん。乙女さんは朝から元気だなぁ…
「そんなときはしっかりご飯を食べるんだ。ほら、にぎりたてだ。うまいぞ」
 目の前に握ったばかりのおにぎりを差し出される。心のなかはもやもやしてるというのに、
おにぎりはとっても美味しそうだ。なんというか、人間って現金だなぁと思う。
 手にとってもそもそと口にする。うん、最近はすっかりなごみの料理に舌が慣れてたけど、
やっぱり乙女さんが握るおにぎりも美味しい。
「レオ、ところでだな……」
 きた! 思わず身構えそうになる。いつきてもいいようにと心の準備だけはしてきたつもり
だったけど、やはり実際となると緊張感が違う。
「今週末… そうだな、土曜日あたりはどうだ?」
「どうだ、って?」
「しばらくぶりに、二人でどこか出かけないか? 一学期、夏休みとそれほど遊びに出かける
機会も多くなかったしな。レオたち二年生は修学旅行が近くに控えているだろうが、それほど忙
しいということもあるまい」
 首を縦に振れば… 後からなごみとカニに詰問されるのは目に見えている。特になごみにどう
答えていいかなんて言葉すらみつからない。
 首を横に振れば… それだけの十分な理由をつけなければ乙女さんは納得しないだろう。嘘
をつけば、ばれた時がヤバすぎる。
 ……いやまてよ。とりあえず乙女さんには俺と出かけることは黙っていてもらって、なごみとカニ
にはボトルシップの鑑賞会にでも行くといえば、さすがについてくるとは言わないだろう。うまく
この事態を切り抜けるにはコレしかないな、うん。
「む、やけに考え込んでるな。そんなに私と行くのがイヤなのか?」
「あ、いや… そんなことはないよ。土曜日ね。いいけど、一つだけ約束してくれる?」
「約束?」
「うん。このことは、当日まで二人だけの秘密にして欲しいんだ」
 『秘密』という言葉に反応したのか、乙女さんの頬が赤らむ。
「わかった。私と、レオだけの秘密だな… 確かに約束したぞ」
 凄く嬉しそうな瞳で俺に笑顔を向ける乙女さん。ちょっとだけ、胸が痛んだ。


 学校の時間は実に平和だった。カニは意外にも普通に接してきて、とても一昨日に告白され
たとは思えないほどだった。逆を言えばあのカニが何も仕掛けてこないというのは怖い気がす
るけど。まあ、あいつのことだから、場の勢いに押されてつい口を滑らせた、ってくらいなのかも
しれないな。触れずにそっとしておけば大事にはなるまい。
 昼はいつも通りなごみと生徒会室で。相変わらずレビューは求められるのだが、正直なごみ
が聞きたいと思うような感想はいえてない自分がちょっとだけ不甲斐ない。
 勿論、放課後は生徒会室に顔を出すつもりはない。ただでさえ姫に思いっきり冷やかされた
ばかりだってのに、今度の騒ぎを感付かれたりでもしたらどんなことになるやら…
「佐藤さん、悪いけどちょっと用事があるんだ。今日は竜宮に顔出さないでそのまま帰るよ。姫
たちにはよろしくいっといて」
「そうなんだ… うん、わかった。エリーにはちゃんと伝えておくね。それじゃ、また明日」
 柔らかな笑顔で快諾してくれた。ごめんよっぴー、本当はいづらいだけで用事なんてないんだ。
「そんじゃ俺は部活へ行くとするか」
 スバルが俺の肩をぽんぽんと叩き、背を向けたまま手を振って教室を出て行く。
「あれ? ってことは… 今日は竜宮にいる男は俺一人ってこと? やべぇ! こんなところで
ボヤボヤしてる場合じゃねえじゃん。レオ、悪いけど今日から竜宮のハーレムは俺のモノだぜ。
後から来ても後悔するなよ?」


「だからどうしてお前はそうシアワセな想像ができるんだよ…」
「バカだなぁレオ。ほら、偉い人が言ってただろ? 想像できることは、人間が全ていつか実現
できるものである。みたいなことをさぁ」
「…フカヒレよぉ。オメーのそのばかげた妄想が実現するにはあと100億年くらいかかるんじゃ
ねーのか? その頃にゃフカヒレのフの字も残ってねーんじゃねーのか?」
「はっはっは。叶えられない夢など見ない! それがこの俺、シャーク鮫氷様よ!」
 諦めが悪いというか現実を直視できていないというか。フカヒレらしいとしかいえないな。
「ボクはもともと仕事らしい仕事なんて殆どないから、ボクもかえろーっと。レオー、どーせ用事
つったってサボリの口実なんだろ? ゲーセンでも寄っていこーぜー」
「だめだよカニっち。対馬くんはこうみえても『忙しい』身なんだから」
「忙しいつってもよー、ココナッツと乳くりあうのに忙しーだけだろ。ボクという美少女の誘いを
断る理由にゃなんねえよなぁ?」
どうしていきなりそういう方向に話が進むの? というか佐藤さんのその視線はなに? 
「とゆーわけでオメーはボクの気分転換につきあうこと。逃げんのはナシだぜ」
 俺の手を握ってくるカニ。ちっ、カニの分際でしっかり柔らかいじゃないか。一瞬だけドキッと
しちまったぜ。
 そしてずるずると引きずられていくようにして教室を後にするのだった。クラスの皆はよくある
風景とばかりに気にしていないようだったが、佐藤さんだけは心配そうに見ていてくれた。
 さすがだぜ、よっぴー。助けて欲しかったけどな。


「はぁ………」
 またため息が漏れた。もう何度目かわからない。少し、ほんの少しレオのことが頭によぎった
だけで胸が締め付けられるような感じに襲われる。気合を入れれば我慢はできるのだが、また
しばらくすると同じことの繰り返し。
 …いつから私はこんなにレオのことばかり想うようになってしまったのだ? 私にとってレオは
単に手のかかる弟であり、生徒会の仲間というだけではなかったのか?
 わからない。わかるわけもない。そんなものがわかっていたのなら、とうにこんなつらい想い
からは解放されているはずだ。一つだけ分かっているとすれば、こんな想いに苛まれるように
なったのは、夏休みに実家から帰ってきた、あの時から。
 それまで、レオはてっきり私に懐いてくれていると思っていた。私の思いあがりでなければ、
家族などのそれとは違う『好意』が向けられていた気がする。
「……ふぅ」
 ああ、またため息が。苦手なものは機械だけだと思っていたが、よもやこれほど色恋沙汰
に脆いとは。気合で何とかならない分、なによりも不得手かもしれないな、これは……
 今日は朝こそしっかりしていたものの、数時間レオに会えないというだけでこの有様。部活も
風紀委員としての仕事にも全然身が入らなかった。情けない。
 しかも佐藤の話では、レオは生徒会室に顔すら出さず蟹沢と遊びにいってしまったという。
 あいつ、私の気持ちを知った上でそんなことをしてるのだろうか? もしそうならその辺をしっか
り問いただしてやらんと。
 それにしても、レオは私のことをどう思っているのだろう? 考えてみればあの時私から一方
的に想いを告げはしたが、レオからは返事をもらっていない。答えを聞くのは非常に怖いが、
このままの状況が続いたのでは私の方が持たない。私ばかりがこんな想いをするのは不公平だ。
 …いや、レオの方がつらいかもしれんな。優しいレオのことだ。できれば誰も傷つけずにことを
収めようと考えているのかもしれん。
 甘い奴だ。甘いが… そんなレオに私の心は揺さぶられたのだ。
 レオへの想いを遂げたい。もし仮にそれが叶わなかった潔く……
「……できるものか。これほど募った想いを消し去ることなど…」
『ならば排除すればいい。想いを貫く障害となるもの、全てを』
 声が、聞こえた。


 夕暮れの小さな公園。人の姿は殆どなく、一人で考え事をするにはもってこいの場所だった。
 そのなかに据えられたブランコに腰掛け、聞こえてきた『声』に自問自答する。
『鉄の名に誓ったのであろう? レオの目の前で誓ったのであろう? 何があろうとも、想いを
貫き通すのだと。ならば何を迷う?』
 私は思わず戦慄した。私の心にこんな部分があったのか?
 脳裡に映るもう一人の『私』。
 その眼の冷たさに我ながら驚きを隠せない。
『鉄に敗北は許されぬ。例えそれが一人の想い人を巡る争いだとしても、だ。待っているだけで
は何も手にすることはできない、そう教えられてきたはずだぞ』
 その通りだ… だけど、間違っている。人の気持ちは無理矢理どうこうするものではない。
『ならば既に椰子と思いを通わせていたレオに自らの想いをぶつけたのは何故だ? 結ばれて
いるやもしれぬ人の心を裂き、自分の居場所を確保しようとしたのは何故だ。答えろ… 鉄 乙女』
 ……答えられない。
 つまり、それが私の、本心…
 ショックだった。私はもっともっと純真な気持ちでレオと接していたかっただけなのに。
 自己嫌悪で目の前が真っ暗になりそうだった。いや、既に私の心は闇の中… 嫉妬という深い
深い闇に覆われていたのだな……


「おねえちゃん、だいじょうぶ?」
 不意に声がした。うつろに足元を彷徨っていた視線を少しだけ上にあげてみると。
 年のころはせいぜい4、5歳くらいだろう。汚れのない視線で私を見つめる男の子が心配そうな
目で見つめていた。もみじのような小さな両手には、飲みかけのジュースが。
「とってもかなしそうなかお、してたよ。だれかとケンカしたの?」
「…ありがとう。キミは、私の心配をしてくれるんだな」
「うん。だって、おかあさんが困っている女の人にはやさしくしなさいって。だから、これ…」
 手にしていたジュースを差し出してくれる。まばゆいくらいの真っ直ぐな優しさだ。
「だいじょうぶだ。実は、おねえちゃんには好きな人がいるんだが、その人にはもう別の女の人
が側にいるんだ。そんな人を好きになってしまってどうして良いか分からなくて、困ってたんだ」
 折角の好意とはいえ、幼い子供が少ない小遣いで自分のために買ったジュースを貰うわけには
いかない。少し、ほんの少しだけ口にして子供に返すとしよう。
 それにつけても、我が心の何と弱いことか。見知らぬ幼い子供にまで心配されるとは…
 心の中で苦笑する。だが、そのおかげというべきなのだろうか。胸のなかでつかえていたものが
外れたような、そんなすがすがしさが不意に飛び込んできた。
 私は万事につけて強いわけではない。そもそもこのようなことは未経験なのだ。
 ならばたとえ夢破れることがあっても糧としよう。新たな道に進むための糧と…
「ありがとう。とってもおいしかったぞ。元気がでてきた」
 自然と笑顔がこぼれた。良かった、まだ私はこんな顔を自然にだせる。よかった……
「ぼくはよくわかんないけど、おねえちゃんはとってもきれいだから、きっと好きな人と一緒にな
れるとおもうよ」
 根拠はない。だけど、今の私にはそれで充分だった。
 そうだ。迷う必要などないのだ。そうでなければレオたちの前でああ言い切った意味がない。
 後悔などするものか。
 レオ、お前がどんな返事をしようと… 私の気持ちは最早かわらんぞ。
 笑顔で手を振りながら家路につく子供を見送りながら、そう心に固く誓った。
 先ほどまで響いていた『声』は、もう聞こえてこなかった。


「いやぁー、今日も遊んだ遊んだ〜」
 夕方までゲーセンとカラオケに付き合わされ、挙句に晩飯をおごらされてからやっとカニが家に
帰る気になってくれた。本来ならカニなんぞに振り回される俺ではないのだが…
 どこへ行くにもなかなか俺の手を離さないわ、帰る素振りをみせようものなら『んだよぉ、乙女さん
やココナッツとならいくらでも一緒にいるくせに、ボクとは一緒にいたくないっていうのかよ… 不公
平だよ。ボクだけ女の子としてみてくれないんだな…』
 などとのたまう始末。つか、あんときのアレはもしかして洒落じゃないのか?
 とまあ、そんなことが頭をよぎってしまっては決断もできず、結局はこのありさま。
 そして家に帰れば。
「お帰りなさい、センパイ! 今日は、その… カニと遊んでたって聞いたんですけど……」
 満面の笑みから一転、不安でたまらないという表情で瞳うるうるのなごみがお出迎え。制服に
エプロン姿というのが激しくそそるが、今はそれどころじゃない。
「おお、帰ったかレオ。佐藤から聞いたぞ… 職務を全うせずに息抜きばかりというのは感心せん
な。お姉ちゃんはレオをそういうふうに育てた覚えはないぞ? まあ、今日は大目にみてやるが、
明日からはちゃんと顔をだすんだぞ」
「鉄先輩は厳しすぎです。そうやって家でも安らぐ時間を作ってあげないから、センパイがこんな
に疲れた顔をしてるんですよ?」
「私はレオの『ご両親』に頼まれたのだ。いわば私がレオの親にかわって育てているようなものだ。
対馬家の家庭方針にとやかく言われる筋合いは、たとえレオの彼女といえどもないと思うのだが?」
 ぶつかりあう視線から火花がみえそうだぜ。
 そんでもって、外で晩飯はすませてきていても、しっかりとなごみと乙女さんがそれぞれ作った
料理を残さず平らげる。二人が折角俺の為に作ってくれたものを残すのは、胸が痛むしな。
 で、乙女さんと体力鍛錬のトレーニングをこなして帰って来て見れば、なごみがいつの間にか俺の
家に来ていたカニにマーベラスかスプラッシュを決めていたりする。
カニが涙を流しながら『泣いてない! 泣いてないもんね!』と強がっていて。
 慌しく決して平穏ではないが、繰り返される日常がそこにあった。
 居心地は、悪くなかった。


 土曜日はすぐにやってきた。
 時間はないと誰かがいっていた。時間はあるともいっていた。
 …曰く『徒に過ぎてゆく時はいくらでもあるのに、本当に大切で必要なことに費やせる時間は
ほんのわずかしかない』ということだそうだ。
「ここは……」
 朝早くに乙女さんと連れ立って向かった先は… 何のことはない、いつもジョギングで巡るコー
ス上にある河川敷だった。
 薄く立ち込める朝靄。車どおりの少ない道であることと時間が幸いしてか、川のせせらぎが良く
聞こえてくる。風は殆どなかったが、吹いていればさぞ爽やかだっただろう。
「どうだ、近所にこういう場所があるというのは新鮮だろう」
 川面に反射する陽光に目を細めながら乙女さんが口を開いた。
 俺は無言でうなづく。いつも暗い時間帯でしか見たことのない場所だっただけに、驚きは隠せ
ない。早起きはなんとやらとは、よくいったものだ。
「ここは、いわば私の『とっておき』の場所のひとつだ。この風景の素晴らしさをレオに教えてやろ
うと思っていたのが、目的のひとつでもある」
 ひとつでも、ということは本当の目的が別にあるということだ。そして、それがなんなのかはさす
がの俺でもなんとなく想像できた。よもやここまできて乙女さんと組手の実践訓練だの、屋外で
の体力トレーニングということは… まあ乙女さんならありうるけど。
 一方の乙女さんといえば、目を閉じて何度か深呼吸をしていた。
 うう、緊張する… 先に何か言うべきか? 
「…レオ」
 迷う暇はなかった。
「今から私が言うことをしっかりと聞いて欲しい。そして、はっきりと返事をして欲しい」
 まっすぐな、どこまでもまっすぐな乙女さんの視線が俺の瞳を見据える。他人から真正面に
目をあわせられると、つい少しだけ逸らしたくなってしまう。なんというか、いつのまにかそういう
習性が身についてしまったらしい。
「レオ、頼む。目を逸らさないでくれ。私の目を見て、一言一句漏らさず聞いて欲しい…」


 いつも見慣れた乙女さんの顔とはいえ、意識してしまえば綺麗な顔立ちの、年上の女性。
 緊張するなという方がムリだ。無意識のうちに逸らしてしまいそうな視線を無理矢理乙女さん
の瞳に集中させる。
 うお、こんなに見つめられるとなんだか変な気持ちになりそうだ… 落ち着け、俺。
「私は、お前の事を好きだといった。だが、それは違っていたんだ」
 ……え?
「好きなどというレベルではなかったのだ。レオ… 私はお前を愛している。心から、誰よりも…」
 俺は本気で絶句した。
 乙女さんのことは好きだ。だけどその『好き』に恋愛感情はなかったと思う。
 …多分。だから、先週の出来事もそういう意味での『好き』だと受け取ることにしていた。
 むしろ、そうであって欲しいと心のどこかで願っていた。もしそうであれば必ず時が解決してくれる、
感情に任せて勘違いしてアクションを起こすのは間違いだ、と。
 結果、それこそが間違っていたのだ。
「私の想いはいくら言葉で伝えても伝えきれるものではない… それほどレオへの想いが強く、
私の中で抑えられないほどになっているんだ。我慢の限界は既に来ている。レオ…… お前の
気持ちを教えてくれ…」
 先ほどまでの強気な視線が期待と不安の入り混じった複雑な視線へと変わってゆく。
「あ、それとな… 一つだけ約束してくれ」
「約束?」
「ああ。私はレオの『本当の気持ち』を教えて欲しいんだ。だから、自分の心に嘘をついたことだ
けは、絶対に言わないでくれ。本心を伝えてくれるなら、どんな現実も受け入れられる自信はあ
るが… 偽りの言葉だけは聞きたくない」
「………セ、センパイ?」
 少し離れたところから、聞こえるはずのない、聞き覚えのある声が耳に届いた。
 状況が状況なだけに幻聴かとも思ったが、うしろを振り返ってそれが現実であることを思い知ら
された。
「きたか。お前のことだからきっと時間通りにくるだろうと思っていたぞ」
 乙女さんの言葉が、あり得ないはずの現実をより確実なものにしてくれた。
 長く艶やかな黒髪と切れ長の瞳。自らの全てを俺に捧げると言った相手を見間違うはずもない。


「なごみ… 何でこんなところに?」
「……ごめんなさいセンパイ。実はあたし、最初から二人がここにくることを知ってたんです」
 な、なんだって?!
「そう、椰子は私が呼んだんだ」
「乙女さんが?!」
 驚きの連続で頭が段々ついていけなくなっているのが悲しいほどにわかってしまう。疑問ばか
りが頭の中をぐるぐると巡っているばかりで、何一つ片付いていない。
「うむ。私はこういう性格だ。回りくどいことはなるべくしたくない。今ここで、レオに私と椰子のど
ちらかを選んでもらえれば、それで白黒はっきりする。レオ… 聞かせてくれ。お前の、心の声を」
 乙女さんが俺を挟んでなごみと真反対の位置に立つ。距離もほぼ同じ。
 どちらかを選べば、必然的に残った一人に背を向けなければいけない。構図としては実にわかり
やすかった。選ばなかった方の顔を見ずにすむのはありがたい配慮かもしれないけど…
「レオ… おねえちゃんはいつもお前の側にいるぞ……」
「センパイ… あたしを、一人にしないで下さい……」
 覚悟を決めて凛とした表情の乙女さんと、不安で今にも泣き出しそうな顔のなごみ。
 ………決めよう、決めなければいけない。迷うことや曖昧なことは絶対にできない。
 俺は、覚悟を決めて一人に背を向けると、自分が心から愛している人へと向かって歩き出す。
 それは……


(作者・名無しさん[2006/08/15-23])


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