「あー中島さん、こんばんわ」
大好きな友達と離別する決意、幸せとおもいでがたくさんのこの場所を発つ意志。それを告げる言葉のはじまりはあたりまえの挨拶から。
「約束の有効期限までまだ時間あったよな?」
いきなり率直に本題に入っていればそれは心を失っている証明だったのだけれど、今のスバルはちゃんと地に足がついている。
「オレなりに考え抜いた結論なんだけどな」
夜空を仰いでスバルは笑う。
晴れやかにのびやかに。それはまるで、目的地へ向かう旅人のように。
「オレ、そっちのガッコ行くことにするわ」
/
子供の頃すでに、父親はとっくにろくでもない人間になってしまっていて。そんな父親のそばになど居たくないから外へ出た。
父親は有名人だったから悪評が広まるのも早かった。街を歩けばスバルの身体には好奇の視線。そのくせ近づけばこちらが危ないものであるように身を避ける。
自然、心は荒れて。そんなスバルから周りはさらに遠ざかった。だからスバルが父親や自分を敬遠する他人に見切りをつけたような気持ちになるのも無理はなく、自分はこのままずっとひとりでいなければならないと思ってしまうのも当然のことだった。
そんなスバルに、ひとつの出会い。
――――蟹沢きぬ。
女の子のくせに木登りなんかをやりたがるような溌剌とした彼女は沈んだスバルの心など知らず無邪気に彼へと歩み寄る。
母親に「評判の悪い子供と遊ぶな」と言われてもきぬはスバルから離れはしなかった。彼女は親の言葉すら関係ないと切り捨てる。
だがきぬは気にしなくてもスバルは気にした。たとえ父がスバルにとってどんなに唾棄すべき人間であってもやはり親という存在が心を占めるウェイトは大きい。子供であればなおさらだ。そんな存在を軽々と無視できることがスバルには信じられなかった。
そんなスバルにきぬはただひとこと。
――――すばるとはなしたことないのに、なんですばるのわるぐちいうんだろうね。
バカは偉大だ、とはよくある言葉だけれど。スバルは本当に彼女を偉大だと思う。
スバルと遊ぶのが楽しい。スバルという名前はかっこいい。スバルの心の真ん中を貫通する、なんの飾りもない言葉。
たったそれだけのことで、きぬはスバルに大きな大きな救いを与えてくれたのだから。ただただ、それが表も裏もない彼女の本心であったが故に。
だから、スバルはそんな彼女を好きになった。自分と友達であることが当然だといってくれるきぬとずっと一緒にいたいと思った。
月日が経って対馬レオと出会い鮫氷新一と出会い、ひとりぼっちだったスバルにも親友と呼べる男友達ができた。そしてきぬとの関係も良好のまま、彼女が友達で居てくれるままの心地よい時を過ごす。
いつまでも父親との関係は相も変わらず最悪だったけれど。レオたちとつるんでいるときはささくれ立った心を癒すことができた。みんながそばにいてくれることが、本当に尊かった。
やがて、その関係が崩れはじめる時がくる。月日が経つということはそれは誰もが成長するということ、誰もが変わっていくということだ。
スバルの、きぬへの尊敬や友情や感謝の念はやがて異性への思慕へと移り変わってゆく。
そしてそれはスバルだけではなく、兄妹の延長のような関係であるレオときぬのふたりも例外ではなかった。レオがきぬへと恋をして、きぬがレオへの恋を自覚したのだ。
スバルは激しく動揺した。レオやきぬのことが好きであるということに偽りはない。そのふたりがくっついて幸せになるということはスバルにとっても喜ぶべき事柄のはずなのに。
レオはスバルに気を遣ってくれた。でもそれはとても不器用で稚拙で、きぬにもスバルにも痛みを与えてしまうような、そんな遠慮。
なんてことはない。スバルもレオも子供だったのだ。ふたりとも自分のためにいつまでもなにも変わらないままでいたかっただけ。
だが願いは叶わず、移ろう心をとめる術など誰も持ち合わせていない。結局、スバルはレオと衝突する。
一番真摯にきぬを見続けていたスバルだから、きぬがレオを好きでいることはずっと以前からわかっていた。
大人の世界を知っているスバルだから、好きな人たちとずっといっしょにいられて、仲たがいすることもなくいつまでもなにも変わらない、なんていう幻想はいつまでも続きはしないとずっと以前からわかっていた。
それでも、人はその幻想に憧れずにはいられないのだ。
衝突の結果、幻想はレオに破壊された。破壊した残骸から背を向けて、レオはきぬのもとへと走ってゆく。
スバルは寝っ転がりながら、遠ざかる親友の背中をずっとみつめていた。
「ったく……お互い、まわり道しすぎだな……」
自嘲する。
殴り合いのさなかにレオはスバルに訴えた。「いつまでもこのままでいたかった」。お互いまったく同じ事で悩んでいたくせに、行き着いたのはこんな争いごと。
自分が大人であったならば、もっとスマートに事を運べたのだろうか。
「さて、決心が鈍らないうちに……」
スバルもまた、破壊された幻想の残骸に背を向けて前を見つめる。
壊れて住めなくなった居場所に執着していても意味はない。もう、ここにとどまる必要はない。
長いまわり道をして、ようやく自分はスタートラインへと辿りついたのだ。
「あー中島さん、こんばんわ」
そうして一歩、スバルは足を踏みだした。
/
旅立ちの送りはささやかに。出立の直前になってはじめて親友たちにここを去る旨を伝えた。
出発間際に、スバルは乙女に話しかける。ついこの前、自分たちだけの空間に入ってくることになった異邦よりの客人へ。
「乙女さんは、オレ達が夜くっちゃべってるのをくだらない集まりだとか言ってたけどよ。
オレにとって、あそこは神聖な場所だったんだ。聖域ね。わかる? あいつらと話すとオレの心が落ち着くんだよ。
だから――――」
――――だから、くだらなくなんかない。
別れはさびしくて、かなしい。名残惜しさはどうあっても消すことはできない。だからわざわざこんなことを喋ってしまっているのだろうか。
「私にとってお前たちの話し声は時に騒音だったからな。あの発言をわびるつもりはないが。
自分にとっては他愛のないものでも、他の人にとってはそれが何よりも重い場合がある、ということは身をもって学べた。
これからは少し発言に気をつける」
乙女は素直にスバルの言葉を受けて、返した。
「……いや、こっちこそすまねぇな。過ぎたことをウダウダと。ただそれだけは言っておきたかったからな」
身をもって学べた、などと思ったより大げさな賛辞が面はゆくて、レオたちの世話を頼むことにかこつけて頭を下げて視線をそらす。
言いたいことは言い終わったと乙女に背を向けたそのとき。思いっきり背中に平手をくらった。
「痛――――ッ! 背中思いっきり叩……」
「行ってこい! 思いっきりやれ!」
突然の痛みについての驚きとほんのちょっとの怒りは、清々しい乙女の表情にかき消えた。
――――当時さ、あの乙女さんに比べたらスバルは全然怖くなかったってわけだ。
ふと、レオがそんなことを言っていたのを思いだす。
きぬがなにげない言動でスバルに影響を与えていたように、乙女は乙女にとって当然の、なにも特別なところのない言動でレオに影響を与えていたのだろう。それはまわりまわっていまのスバルにも行き着いている。
わけもなくおかしくなってうれしくなって、笑いがこぼれた。
「……ははっ。さすが体育会系。スゲェ気合いもらったぜ。頑張るよ」
/
オリンピックでメダルを取るまではもう戻らないとゴールを設定してスタートを切ったあの日から何年もの時を経て。ようやくゴールテープが見える位置に立っている。
心臓は早鐘のようにうるさく動いているのに指先の血は冷たい。自分の緊張状態を把握してスバルは舌打ちする。硬くなりすぎだ。
目をつぶる。心を平静に平坦に沈静する。思いはスタートラインに立ったあの日へと。
みんなはいま、どのような道を歩いているのだろうか。歩みはあれから誰の道とも交差することはなかった。ふり返れば必然、真っ先に彼らの顔が思い浮かぶ。
そう、あのゴールまで走り抜けたその時こそみんなと再会できる。また、みんなと交わることができるのだ。
「スバルーーーッ! じゃあなー! 頑張れよー!」
今でも耳に残響するレオの言葉。はっきり自分を送り出してくれた。
親友は対等であるべきだ。きぬを手に入れた彼のように、自分もメダルを手に彼と肩を並べよう。そして自分が歩んできた道程を不遜に堂々と胸を張ってあいつらに誇ってやるのだ。
いつしか口元には笑みが浮かんでいた。人前での思いだし笑いはあまりいいものじゃないと口を押さえる。自然な仕草が出ている自分にほくそ笑む。今度は心の中でだけで笑った。目標を見直せば身体の硬さは既に解けていた。
スタートの合図はもうすぐそこに。位置に着けばほどよい緊張が身体を包む。
「――Ready」
興奮が高まる。身体は焦りも無駄な力みもなく心は高揚。
「──Steady」
顔を上げて前を見据えて一瞬の静止、そして。
「──Go!」
ピストルの轟音と共に、足裏で瞬発力を爆発させる――――
/
そして、再会の時。暖かく迎えてくれたのは懐かしい友達。みんな変わっているようで変わっていない。いくら時間は経っていても、遠慮のない気安さはあの頃のまま。
あの頃と同じようにとりとめのないおしゃべりをする。スバルの心を落ちつかせる、スバルにとってはかけがえのない聖域を懐かしむ。
そして聖域には乙女の代わりにスバルの知らぬ新しい住人がふたり。レオときぬの二児だった。
スバルは、将来なりたいものは? とありきたりな問いをかける。
「おれ、だてせんしゅみたいなりすぷりんたーになるんだ!」
「ボクはだてせんしゅのおよめさんになりたい!」
明るいふたりの答えにスバルは目を細めた。
「おいおい、ずいぶんうれしいこと言ってくれるねえ……てかスプリンターなんて言葉よく知ってるな、いい子だぞ」
「いや、わかってねーよ多分」
きぬがあっけらかんと即否定して。
「……お嫁さんにしても普通お父さんのお嫁さんになりたがらねーか?」
「うう、パパは悲しいぞ」
レオがわざとらしく落ち込んだ。
「やれやれ」
ふたりは親になっても根本は変わっていないんだなと苦笑する。そして子供たちはまちがいなくふたりを受け継いでいるのだと思うと過ぎ去った過去を思わずにいられない。
スバルを慕う子供。ほんとうにほんとうに、いつかのだれかに似すぎている子供たち。
――――カニっちが妹で、対馬君がそのお兄さん。そのふたりのお兄さんが……
別のだれかのことばがリフレインして、視界がにじむ。
過去に置き去りにしたやさしいおもいでの残骸はかたちをかえて、ほら、こんなところに。
「お、なんか感動してるぜこいつ」
おどけるような新一の声。
うるせえフカヒレ。
「ああ、俺達の子供は世界一かわいいからな」
レオもおどけて返す。されどそのまなざしは見守るように。
そんな目で見るなレオ。見守るのはオレの方だったろ、立場が逆じゃねーか。
「なあ、スバル」
「…んだよ」
「いやー、そう言えばまだ言ってなかったと思ってさ!」
へへ、ときぬは笑って。
「――――おかえり、スバル」
言葉がつまった。
まったく、相変わらず簡潔に簡単に心の急所を突いてくれやがるんだなオマエは。
「――――ああ、ただいま」
涙が頬を伝うままに、スバルは笑う。
顔をゆがめてみっともなく、それはまるで、故郷へと帰り着いた旅人のように……
(作者・名無しさん[2005/10/30])
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