ダークエルフの戦士は、暗黒の森をむささびの如くに飛び渡っていった。一族に伝わる戦装束に、使い慣れた斧。人間の作った便利な機械は一つも身につけていない。 結局、携帯電話による誘導は受けないと決めた。相手は機械から放たれる波動を探知する装置を持っているかもしれないし、菅沼が持つ通信端末はどれも本格的な戦闘には耐えられない、という話だった。まともな装備はすべてユースホステルとともに灰になってしまったのだという。 孤立した入船院の連絡員から得られた最大の支援は、目的地である黒鍬谷周辺の地形と今後数時間の天候、これまで敵がとってきた殺しのやり方に関する情報だった。 テナガアシナガ。呼び辛い名前を、声には出さずに反芻してみる。風凪での身分は低いが、改造人間の刺客としては異常に長い寿命を誇る。つまり強靱で、狡猾で、必ずしも組織に従順ではない。いかなる陣営にあろうとも、生き残り続ける兵は異端だ。まともな仕掛け方も、迎え撃ち方もしないだろう。心してかからねば。 リムマーヤは大楠の張り出しを蹴って、葉を揺らしもせず次の足場へと移る。枝から枝へと伝いながら、素早く呪文を唱える。子供の頃に学んだ狩りの術だ。刹那、周囲の濃い闇が薄赤く染まる。瞼を閉ざすと、本来の視界より広い領域で、熱を持った存在の動きをとらえられた。昔はよく仲間と梟や山猫を脅かして遊ぶのに使ったものだ。あれは結局、夜戦のための訓練だったが。 辺りには大小無数の赤い光点が散らばっている。足元には野鼠の家族。それを追う狸。通り過ぎた椎の洞には眠る栗鼠。 少し進むと、敵の縄張りに入ったのが分かった。木を十本ほど隔てたところに、数匹の猿が固まっている。見張りのつもりだろうか。さほど夜目は利かないはずだが。 始末すべきか。気取られぬよう通り抜けるべきか。女戦士は、いつものように無駄な殺しを避ける方を選び、ぐるりと迂回する道をとった。側を過ぎる時、獣の一匹が仔を抱いているのが分かった。 多分、トウタならこの判断を喜んでくれるだろう。わずか二日ほど離れていただけなのに、少年の顔を随分長く目にしていない気がする。 うなじがちりちりする。あのカメラに映っていた淫らな画が、脳裏に焼きついていた。 トウタ。いつもは陽だまりのように温かな光を宿した双眸が、冷たい硝子玉のようになって、毒々しい紅を引かれた唇は、普段ならありえない、ふしだらで、いとわしく、甘やかな咽びを泄らしていた。 「…くっ…」 ほんのわずかのあいだ、空中で平衡を失い、張り出しを踏む足が乱れる。腕を伸ばしてそばの枝を掴もうとしたところで、指が何か別のものに触れた。索だ。真黒なロープ。 たちまち森全体が震えたようだった。木という木が葉擦れをさせ、大風に煽られたかのように揺れる。少女はとっさに茂った椎の葉のあいだに滑り込んだ。 だが騒ぎは治まらず、眠りを破られた鳥が鳴き、あちこちで猿が吠え哮って、警戒を呼びかける。何というしくじり。歯噛みする少女の真正面で突如、眩い光が弾けた。掌をかざして庇ったが、視界の端が緑にぼやける。 懸命に眼を瞬き、指のあいだから覗き込むと、輝きの源が見えた。 松明だ。 立ち木をまるごと一本使った火の柱だった。枝を払って布団を巻き付け、下からロープで編み上げるようにして縛ってある。たっぷり油を染ませてあるのだろう、炎の勢いは激しかった。回りの木も枝を落としてはあるようだが、風が一吹きしただけで燃え移ってもおかしくない。 姿を現さずに、焼き殺すつもりか。息を殺し、瞼を閉ざして周囲の気配を探るうちにも、明かりは強さを増してくる。どうやら近くで次々と同じような篝が灯されているらしい。 リムマーヤは慌てまいと下唇に前歯を食い込ませ、脚をたわめてばねをためた。逃げるだけというならまだ、いかようにも逃げられる。敵の出方を待つのだ。 「よく来たな異界の女!楽しもうではないか!!」 風に乗って、暗示の力をこめた挑戦の言葉が届いた。気流を制御して音を運ぶ術も学んでいるようで、声から敵の位置を掴むのは難しかった。だがこちらに気付いたのがロープに触れてからだとすれば、風の速さから彼我の距離を逆算できる。 まだ眼を開けないままにして、木を二十本以上隔てた所にある赤い光点だけに意識を集中する。頭の中に浮かぶ一つ一つの命の印を、内なる視覚で覗き込み、輪郭を拡大する。猿、梟、猿、睡みから覚めたはぐれ鹿、猿、猿、猿。居た。右前方、木を二十三本隔てたところに、人間らしき大きさのもの。 炎と闇の狭間、踊る木々の影を縫って、ダークエルフの女戦士は虚空を翔んだ。音もなく斧を抜き放ち、はるか彼方の敵にひたと眼差しを据えて、わずか三つ心拍を打つあいだに間合いを詰める。 「やああああああああああっ!!!!」 しなる樫の梢を蹴って、高みに跳ぶと、重い刃を振りかぶりながら鬨を上げる。”硬直”の念を込めた雄叫びだ。 だが標的の女はさっと頭を上げると、斧が落ちかかるせつな、かすかに嗤いを返した。 だしぬけに熱と烈風が横からリムマーヤを襲い、太い楢の幹に叩きつけた。そのまま、まっさかさまに落下しそうになるのを、猫のように回転して、どうにか足から着地する。しかし立て続けの衝撃に、全身の骨はばらばらになりそうだった。 「…く…」 斧の柄を伸ばして構え直す。不意打ちは失敗だった。しかも訳の分からない妨害を受けて。魔法か。考えるいとまはなく、猿が飛び掛ってくる。 薙ぎ払う寸前で、切迫した危険を感じて飛び退る。狙いを外して着地した猿はそのまま爆発した。土と落ち枝と葉が撥ね飛び、再び耳をつんざく轟きが起こる。 「おのれっ…」 閃きと、焔硝の匂いと、爆音。五感が鈍る。だが獣の群は休む間もなく、次々に襲いくる。爆弾を抱えて。 入船院の連絡員、菅沼は車の中でパソコンとにらめっこをしていた。増援が到着するまで待機していてもよかったのだが、虫の知らせというか、おかしな不安に駆られて、盗まれた物品をもう一度調べ直していたのだ。 「番号四十八…これ…農薬じゃないですね。水耕用の化学肥料。県警の確認ミスですよ多分。ええ」 ”それがどうしました” 電話口に出た本家の夜番は迷惑そうだった。菅沼が検めていたのは、ある農協の倉庫だった。火に呑まれた集落の一つに在り、年老いた管理者は焼け死に、台帳も灰になってしまったので、持ち去られた品の照合にいくつか不確かな点が出ていた。 「…そちらに急いで調べて欲しいんですが、多分、硝安じゃないかな」 ”え、硝安ですか。調べてみますが、時間はかかりますよ” 「すいません。なるたけ早くお願いします」 通話を切りながら、嘆息する。まずい。灯油は相当な量が盗まれている。手長足長は幾らか妖しの技にも心得があったはずだから、雷管代わりの発火の術符を用意するなど造作もないはずだ。 「あの女…」 二百匹以上の猿が自爆テロの実行犯に変わる可能性というのを想像してみる。あまり楽しくはなかった。 まわりくどい。けれんの多いやり方だ。風凪なら日本国内のどこへでも、望むだけの高性能爆弾や洗脳したテロ要員を配備できる。しかし実験だとしたら。堕刻使いが、徒手空拳でどこまでやれるかという。 猿を人間。木々をビルに替えてみればいい。例えば、警戒の厳しい外国の首都や重要な軍事基地のある町に、ごく普通の旅行客を送り込む。堕刻を帯びている以外は武器も道具も一切持っていない。そいつはさしたる準備もなく、時間もかけずに、地元でどっさりと手下を調達する。子供が妥当だろう。山の中にいる猿がそうであるように、町の中でうろちょろしていても目的を疑われにくい。あちこちで爆弾の材料をちょろまかして、ばれてもいたずらで済む。用意ができたら、小さな下僕に死の玩具を抱えさせ、任意の標的を襲わせる。 「考えすぎか…」 そうであって欲しかった。額をこすって、仮眠をとるべきか迷う。しかし今この瞬間にもリムマーヤが戦っていると思うと、さすがに気が咎めた。 欠伸を噛み殺したところで、いきなりフロントガラスに黒い影が落ちた。ボンネットに重い物がぶつかる音がして、やかましいきしり声が続く。 猿だ。 「くそっ…」 急いで車をバックさせようとして、屋根にも何かが落ちる音を聞いた。一つ、二つ、三つ。いつのまにか取り囲まれていたらしい。 菅沼がドアを開けるより早く、複数の爆発が同時に車を襲った。 「どうした。動きが鈍くなってきたではないか」 風凪の刺客がにやつきながら尋ねる。 妖精族の娘は斧をはすに構え、無言でにらみ返した。褐色の肌は返り血と土に汚れ、傷だらけになっていた。疲労の色はあったが、足はまだしっかりしており、猿の骸を踏みつけて、真直ぐ立っていた。 獣の屍はあちこちに散らばっていた。肉屑となりはてているものもあれば、まだ首や胴の判別がつくものもある。さらには爆発で幹をへし折られた樹がそこかしこに倒れ、地面には発破の穴が無数に開いていた。 何匹仕留めただろうか。年老いた猿もいれば仔猿もいた。どれもつい数カ月前までは、戦いなど知らず静かに暮らしていたに違いない。だが殺すしかなかった。自爆される前に、なるたけ素早く、確実に。 「下衆め!自分でかかってこい」 「遠慮する。その斧だか鶴嘴だかは、堕刻の力を奪うと聞いた。うかつに近寄れん」 けたけたと嗤うと、手長足長は口笛を吹いた。すぐに新たな猿の群が現れる。寄り集まって団子になり、何匹いるのかにわかには見分けられない。 「疲れてきたようだから、儂が元気の出るものをみせてやろう」 風凪の刺客が掌を打ち合わせると、毛皮の小山は散って、中からセーラー服をまとった華奢な体が現れる。蒼褪めた容貌と、暗く沈んだ双眸が、ぼんやりと宙に向けられていた。 「トウタ!!」 「可愛い兜太。おいで。恋人のもとへね」 二番目の声に反応して、少年はとことこと主のそばへ寄った。 憤怒を漲らせるリムマーヤを眺めながら、手長足長は親しげに兜太を抱き寄せる。 「さて。あの娘をどう始末してやろうか?」 「トウタ!目を覚ませ!私だ!助けに来たんだ」 馬鹿な台詞。分かっていても、少女は叫ばずにいられなかった。少年は大人しく愛撫を受けながら、かすかに肩をわななかせ、無言で相棒の方へ眼差しを返す。 ものうく澱んだ瞳は… (2)すでに心の芯を打ち砕かれた徴があった。 |
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