Touta Vol.1

肉の焦げる匂い。手が女の腹にめりこむ感触。学校を火の海に変えながら叫ぶ、幼馴染の歪んだ顔。

いつもの夢から覚めると、間宮兜太まみやとうたはすぐに寝床から離れ、トイレへ行って吐いた。そうだ。そうしながら脳の奥に灼きついた記憶をまさぐり、心の傷の存在を確かめる。そうだ。自分は鈍いのではなくて、遅いのだ。痛みはいつも、少し遅れてやってくる。

あの日は、忘れられない。学校で、恋人になるはずだった女子を殺し、親友だったはずの男子と決別してから、家に帰ってちゃんと布団を敷いて寝た。

何故あんなに平然と受け容れられたのか、後から省みてひどく寒々となった。もしかしたら、頭がおかしくなったのかと考えもした。でもやっと分かった。遅いだけだ。いつも遅いだけ。その遅さのせいで、大切な二人を失った。

洗面器で汚れた口をゆすぐと、手の甲で唇を拭ってから、掌を開いて、じっと見つめる。しばらくすると皮膚のあいだから、煌めく金属の切先が生える。まるで手品のようだ。ナイフ。文字通り我が身と切り離せなくなった刃物に対する理解も、関心も、しかるべき時よりも遅くに訪れた。研ぎ師の父が期待したよりずっと遅く、兜太は学び始めた。だから、すべてをしくじった。

五本の指を固く握り締めると、鋭利な尖端はどこへともなく消え失せる。

取り返しがつかなくなるまで、遅さに焦った経験がなかった。親や友人に守られ、何があっても支援を得られたから。両手から滑り落ちていく機会を掴み取るために、状況に対して敏感であろうとしなかった。

「…そうだ」

今さら吐いても遅い。弓美里ゆみりを突き刺す前なら、明良あきらと敵になる前なら、幾らもどしても、泣いても喚いてもよかった。だがもう意味がない。だから便器を蹴ったり、ドアを殴ったりしない。おおげさに覚悟を決めたような顔を作ってみても、生来の遅さがすぐ治る訳ではない。

しかしもう、どんな些細な疑念も、気懸りも放っておいてはいけない。何が背後で起きているのか推し量り、調べ、確かめねばならない。面倒を避けようとしたり、傷つくのを恐れて距離をとってはだめだ。遅さをすぐに矯められないなら、せめてできるだけ自分から問題に食いついていき、常に渦中に身を置く生き方をしなくてはいけない。

兜太は頬を軽く叩くと、トイレの扉を開けて出た。

昇り日の光が目に入り、どこかで小鳥の鳴く声が聞こえる。重苦しい胸の塞がりは溶け消えた。冷えた空気を吸って吐くと、四肢には活き活きとした力が漲る。いくら思い詰めてみても、悲しみも怒りも長続きしない精神の働きをやや恥じる。しかし無理に深刻ぶっても仕方がなかった。きちんと考え続けるのと、不幸の演技をするのは違う。

もう一つ深呼吸をすると、少年は静かに歩いていった。次の地獄へ。


ユースホステルの朝食まで間があったので、ジョギングに行ってこようと決めた。ジャージの上下に着替えてズックを履き、八重にくねった坂を駆け降りていく。路幅は狭いが、まだ早いので車の心配はあまりしなかった。それでもフロント(広岡さんという礼儀正しい中年の女性)は下の県道まで出ると危ないと注意し、あとは車よりも野生の猿の群にぶつかると恐いので、見かけたらすぐ引き返すように助言してくれた。

四方は一面の緑だった。まだ狭霧の裳裾を引く杉林は青々と茂り、針葉からかぐわしい香りを放っている。樹々の連なりはどこまでも続くかに見えたが、時折、緑の壁の切れ間から覗く彼方の山肌は、中腹の辺りに無惨に焼け爛れた跡を拡げていた。

この郡では過去三カ月に十五回の山火事があり、過疎の村が三つ呑まれたという。海の向こうならよくある話かもしれないが、気候の湿潤な日本では珍しい。警察と消防は沢山の職員を繰り出して原因を探ったが、確かなところは分かっていなかった。

人死に構わぬ窃盗目的の放火というのが、捜査関係者の非公式な見解だった。焼け残った倉庫や店舗からは決まって大量の物品が持ち去られていたのだ。被害は燃料から食料、雑貨にいたるまで多様だった。しかし、どこにも犯人の痕跡がなかった。

死者の数が二桁を超え、おまけに近くに珍しい野生の猿の棲息域があるため、しばらくマスコミもうろちょろした。だがろくな手がかりが得られないとなると、片田舎で次にいつ起きるか定かでない付け火を待つ根性はなく、例によって当局の記者発表に任せて退却してしまった。都市部で起きた少年少女の行方不明事件が、テレビや新聞でより大きな話題を呼んでいたせいもあるだろう。あとは公僕が地道な巡回を続けるだけだった。

「火を使っての人殺しなら、明良の手口」

と判断できる証拠はなかった。だが網を張るだけの価値はある。ここを案内した入船院家の連絡員(菅沼さんという中年の真面目そうな男性だった)はそう説明してくれた。入船院というのは勢力のある旧家で、政治の世界にずいぶん顔が効くらしく、県警と消防本部から情報を吸い上げて、奇縁から付き合いを持つようになった兜太に教えてくれた。

入船院の親切に思惑があるのは察していたが、しかし今回は甘んじて協力した。かつての同級生が放火に関与しているなら、ほかに選択肢はなかった。

思いを巡らせながら、白い息を吐いて、急な曲がり道を回る。すると、すぐ先に一台のスポーツカーが停まっていた。木漏れ日の下に佇む鋼の流線形。ひどく場違いだった。かたわらを走り抜けながら詳しく観察する。日産製の、新しくはないが有名なモデルで、よく手入れされている。

足が止まった。スポーツカーのフロントドアに誰かがもたれている。背の低い、よく肥えた、中年にさしかかったばかりの男で、空を仰いでぷかぷかと煙草を吸っていた。どうでもよい、普通ならおよそ興味を惹かれない人物。

だが兜太は注意深く眺め入った。もちろん一瞥して素性をを見抜くような洞察は持ち合わせていない。しかし、わずかでも気にかかった以上、できるだけ心を騒がせたものの正体を突き止めるつもりだった。

「おはようございます」

挨拶すると、向こうはぎょっとしながらも軽く会釈を返してきた。少年は勇気を出して歩み寄ると、できる限り真剣な口調で語句を紡いだ。

「きれいな車ですね」

男は煙草を足で踏み消すと、疑わしげに兜太を見つめたが、やがて薄く笑った。臆病そうなところがあった。

「いや古い車だから」

少年はじっとスポーツカーを窺った。多分、故障しているのだろう。

「車、どうかしたんですか?」

「あ。後輪にロープか何か巻き込んだみたいでさ。どうしようかなと思って」

そわそわしている。こういう時、自分で対処できないならロードサービスというのを呼ぶはずだった。到着を待っているのだろうか。しかし何か腑に落ちなかった。

「見てもいいですか?」

「え?何で?」

「こういうの得意なんです」

許しを待たずに屈み込んで、タイヤとフェンダーのあいだを覗く。狭く入り組んだ空隙をゆっくり端から端へと見ていく。てきぱきとはいかない。遅い。でも兜太にとってはこうして調べる方が性にあっていた。

あった。黒い索だ。奥に絡み付いている。よく事故にならなかったものだ。安全装置の精妙な働きに感心しながら、車体の下に右手を入れる。もちろん届かない。でも構わない。要は腕を隠せればいいのだ。誰にも見えないところで指先を鋭く長い刃に変え、切先からまた別の刃を生やすと、のたうつ鋼の茨と化して奥へ這わせ、縄を断つ。次いでナイフの腹の部分で端を挟むと、すぐに引っ張り出した。

「取れました」

「うそっ!」

汚れた索を差し出すと、男は激しく瞬きしながら眺め入った。

「どうやって?」

「端っこをつかんだら取れました」

「そうか」

ふとロープから立ち昇るかすかな香りに気付いて、鼻を近付けて嗅ぐ。

「あのこれ。においが変ですけど」

「え?あぁこれ。灯油だなぁ」

灯油。放火とつながりがあるだろうか。男の面差しがひきつるのを、兜太は慎重に窺った。向こうも同じように考えたか、あるいは事件に関係しているのか、そう疑われたら嫌だと思っているのか。

「これ、どこで引っかけました」

「さぁ。この辺だと思うけど。ちょっと引きずった感じもあったから、もう少し上の方かなぁ」

「いつ?」

「えーと…一時間くらい前か…ていうか君何?」

「あ…あの…間宮兜太と言います。この上のユースホテルに泊まってて」

「え゛?男かよ!?」

怒鳴られて、兜太はじりっと一歩退く。そういえばしばらく髪の毛を切っていなかった。でも、幾らなんだって女と間違えるとは。ちょっとむかっときたが、すぐに心を落ち着かせた。

小学校のころはよくあった。明良と歩いていると”可愛い妹さんね”と呼ばれたりもした。声変わりしてもあまり低音が出ないし、骨格も余りしっかりしていない。相手も若い異性が話しかけてきたと思ったから気安く応じたのだろう。別に損はない。少しでも他人と間合いを詰められるなら、容姿は便利な道具と割り切ればいいのだ。

「はい」

「ふぅん。可愛いのに」

言いながら両手の親指と人差し指で四角を作って、こちらへ向けてくる。

「はぁ」

以前なら聞き流す台詞だが、ちょっと考えてみる。騙されたと怒っている訳ではないようだ。むしろ好意を持ったようだ。おかしな人だ。勿論、山道に大型のスポーツカーを乗り入れているのだから、変わっているのだが。

かすかに目を細めて、ずんぐりした短躯のどこかに、危険を示すような印はないかと探る。もし人の道を外れてしまった輩なら、どんなに正常を装っても、はっきり読み取れるはずだった。だが、何もない。

少年は半ばほっとし、半ばがっかりして、視線を下に落とした。勘違いだったかと恥ずかしくなる。ふと手に持ったロープに目がいった。とにかく、この品がどこから来たのかは突き止めなくては。

「あの、ロープを引っかけたとき、周りにおかしなものはありませんでしたか?人は?」

「え?さっきから警察みたいだね」

「…っ…すいません」

だめだ。どう質問したらいいだろう。まだ大人との会話には慣れない。

「よく分からないけど…そんなに気になるなら、案内しよっか…お礼ってほどでもないけど」

おずおずと男が申し出ると、少年はぱっと顔を明るくして問い返した。

「本当ですか」

「ちょっと待ってね。一応、俺の車が変になってないか確認してから」

兜太は肩の力を抜いた。何とか食い下がれた。たまたま与し易い相手にぶつかっただけかもしれない。容姿に助けられた面もある。それでもうまくやれたのが嬉しかった。


滑川和彦は顔にこそ出さね、有頂天だった。壊れた被写体モデルを捨てに行った帰りに、新しい、極上の被写体が手に入るというのは、いささかできすぎな感じもしたが、助手席に座った少年の妖精のような美貌を盗み見ていると、瑣末な事に思えた。

いや、禍福はあざなえる縄のごとしだ。昨夜から不運には十分ぶつかってきた。登りは開けていた道が、降りる段になって倒木や土砂に遮られており、カーナビもさっぱり役立たない山間の路を迷った挙句、車がロープを巻き込んで立ち往生。しょっちゅう利用している捨て場だというのに、夜が明けると妖怪にでも化かされたようにあんな所にいた。

しかし、おかげで涎が出るような上玉が手に入った。五時間ほど前に、腐葉土を深く掘って葬った少女も縹緻で劣りはしなかったが、生きているうちは年相応に朗らかで軽薄で、お喋りが悲鳴に変わるまでは、撮影対象としては退屈なだけだった。

兜太と名乗った獲物は、奇妙なひたむきさ、どこか熱に浮かされたような過剰な真剣さで話をする。恐らく大きな不幸でもあって、精神の均衡を失っているのだろう。滑川にもそういう時期があったので親しみが持てた。

この張りつめた横顔が官能に崩れ、苦痛に痙攣するシーンを想像するだけで、ズボンの下で性器が固くなり、運転するのが辛くなるほどだった。

「間宮君は今、学校には行ってないんだ」

「はい。休学中です」

「ふぅん…保護者の許可とかはとってるんだ。ここには独りで?」

「友達が一緒です」

「ユースホステルにいるの?」

「いえ、ほかの所に行ってます。調べもので」

「もしかして放火事件の?」

「いえ…ええと…あの…野生猿の」

詰まった。苦労して覚え込んだ模範解答を度忘れしてしまったかのように。本当は友達などいないのかもしれない。

「あはは。まじかよ。しかし放火は困るよね。猿も困るだろうけど人間も。警察とか消防がウロウロしてさー。やりにくくなったよ」

「そうなんですか?」

興奮のあまりつい舌が回り過ぎた。少年がじっと見つめるのに、やや居心地の悪い思いをしながら慌てて語句を補う。

「あ、俺ほら写真やっててさ。あちこち行くんだけど、職務質問とかうっとうしくて」

兜太は納得したのかしないのか、考え込んだように前を向く。滑川は獲物を掌中に収めるといつも示す楽観と大胆さから、快活そうに台詞を続けた。

「そうだ。魔法瓶にコーヒー入ってるから飲みなよ。紙コップもあるでしょ」

「いえ…」

「いいからいいから…」

少年がまた見つめてくる。何かを探すような目付き。顔色を読み取ろうとしている。というのでもない。まるで危険人物は皆、どこかに識別できる印が捺してあるはずだとでも言わんばかりのようすだ。滑川は横目でちらちらと助手席の被写体を窺いながら、乾いた笑みを作って話し続ける。

「もしかして汚いと思ってる?ショック…」

「あ、いえ、いただきます」

さほど頑固ではない。むしろおっとりした性質なのだろう。それを変えようと努力しているのが分かるが、却っておかしな大胆さ、無防備さにつながっている。思春期を迎えた内向型の子供によくある。滑川が一番”モノ”にしやすい、お気に入りのタイプだ。

少年はこくこくと白い喉を鳴らして、強い薬入りの飲み物を干した。ちょろい。所詮は中学生だ。効き始めるまでに十分ほどかかるが、時間は稼げそうだ。

「この辺りかな」

車を道の脇に寄せて止める。屍の隠し場所からそう離れていなかったが、特に不安は覚えなかった。

二人が車外へ出ると、周りにある森の気配が急に強く感じられた。遠くから甲高い鳴き声がする。そう。良く覚えている。さっき通った時は窓を締め切っていても、猿がうるさかった。ここであの索を引っかけたのだろう。

少年は、はたからすると笑ってしまうほどの真剣さで周囲を検分している。本当に放火事件の探偵役をやるつもりなのだろうか。子供は思い込むと夢中になるから、ありえなくはないが。

「…多分、ここはユースホステルの風上になりやすいでしょうね」

「え?ああそうかな」

唐突な問いかけに、相槌を打ってやると、向こうはまじめくさって頷き返し、近くの杉の幹へ近付いた。

「燃えやすい木ばかりだし…どこかに…」

呟きながらさっさと藪へ入っていく。どういう神経なのか。流石に滑川は呆れつつ、愛用のコニカミノルタ製デジタル一眼レフをとって後を追った。すぐに下生えの枝がひっかいてくる。昨夜の作業のために登山用の身なりをしていたのが幸いだった。

「ちょっと…あんまり行くと迷子に…」

しばらく進むと先導役は急に止まり、木々のあいだの虚空を睨んで立ち尽くした。

「あった…」

そう告げる少年の視線の先をたどると、幹と幹に黒い索が張ってあった。先ほど車が巻き込んだのと同じだ。なるほど、こうして林業か何かで使っていたものが、たまたま切れて道路に落ちたのかもしれない。だとしても灯油の匂いだけは不審だったが。

「これ…あっちから…あっち…あそこで交差してますね…」

「ああ…」

確かに黒い索は木々のあいだを複雑に行き違っていた。

「上から見たら、ちょうど火の魔法陣になる」

「ん?ん?」

「火をつけたら燃えやすい形に縄張りされているんです…車が引っかけたのは…多分、導火線。どうして千切れたのかな…ガードレールにこすれたのかも…」

空想好きらしい。滑川が苦笑いして首を振ると、兜太はジャージの胸ポケットから薄い携帯電話を取り出した。馬鹿な。通報するつもりか。

「いっとくけど圏外だよ」

「あ、大丈夫です。これ衛星電話なんで…す…ぐ…」

ぐらりと上半身を揺らして頽おれる少年に、男はほっとした笑みを浮かべてにじり寄った。爪先で手を踏んで携帯を離させると、苦痛と困惑のうめきを快く耳にしながら拾い上げる。

「LG電子の新型か。やっかいなもの持ってるよな最近の子は。えーと…」

外部から遠隔操作ができるたぐいの端末はバッテリーを外すのが一番確実だった。裏蓋をいじっていると、頭上でひしるように獣が啼く。ふと首を反らせると、一匹の猿が片手でロープにぶら下がっていた。人間を恐れるようすはなく、もう片手にかなり大きな石を握って、つぶらな瞳をきらきら憎悪に光らせている。

「何だ?」

携帯電話を持った手を狙って、礫が飛んでくる。いたずらにしてはあくどかった。慌ててかわしながら、急いで端末の蓄電池をとると、無力になった精密装置をポケットに押し込む。省みるともう、猿はいなくなっていた。

「ち…うぜぇ猿だな。ま、いいや。兜太くん。場所を変えてゆっくり撮影しようね?久しぶりに…じっくり映したい子にあったよ。肌も綺麗だし。セーラー服とか似合うかな」

「…なっ…堕刻…は…ないのに…」

「ダコク?本当に不思議ちゃんだね」

くすくす笑う男を前に、少年は、悔しいような、情けないような色を浮かべた。たちまち地を這うジャージの右袖が波打って、頑丈な合繊の裂ける音がする。だがそれ以上は何も起こらず、華奢な四肢はぐったりと動かなくなった。

滑川は狐につままれたようすで獲物を眺めやっていたが、不意に後頭部に衝撃を受けてよろめいた。

「なんっ…」

再び枝々を仰ぐと、いつのまにかロープには猿が鈴なりになり、手に手に石を掴んでいた。さらにはるかな梢には、ひときわ大きな狒々、いや人間に似た何かが、じっと踞っている。朝の輝きさえくすませるような凶々しい殺気が、毛むくじゃらの巨躯からにじみ出ていた。

「ひっ…」

殺人犯がごくんと唾を呑むより早く、硬く重い死の雨が一斉に降り注いだ。


”いいの…これで、あなたの心に一生残るから”

”兜太、殺してやる……必ず!”

また炎の記憶。熱い。熱い。体の芯に真赤な火箸を突き込まれたように。焼けつく。喉が、胸が、臓腑が。自己嫌悪の渦巻く焔に。いつもの吐き気はない。ただ、何か飲みたかった。冷たい水を。

けれど、口に押し当てられたのは苦い液体。押し退けようとすると、知らない女が飲めと命じる。一口すすると、熱さは一瞬収まるが、すぐに倍増しになった。

「飲め、飲め、面白いからすべて飲め」

楽しげな声。しかし残虐な声だった。闇に堕ちた輩特有の。抗おうとすると、唇を唇で塞がれ、唾液とともに流し込まれる。何度も何度も。それから形も大きさも異なる錠剤を数え切れないほど嚥下させられる。

「よしよし。いいぞ。これで堕刻使いは毒を盛られるとどうなるか知れる」

まだ熱い。いや寒い。背筋は凍りつきそうで、腰から下は血が煮えたぎるようだった。ジャージもシャツも下着も脱がされ、代わりに死臭と血の匂いがする薄ものを着せられる。首には輪、手首には錠。危険。危険。

兜太は重い瞼を開いて、敵をとらえようとした。長身痩躯の女が視界に映る。豊満な乳房や砂時計型をした胴は、陶磁の如き光沢があったが、異様に尺のある手足ははびっしりと剛毛に覆われ、狒々のようだった。整っていてもどこか荒々しさの勝った相貌が、左右非対称の笑みを浮かべている。

「面白いだろう。ほら、あの男の撮った写真とそっくりだ」

デジタルカメラのモニターを、こちらへ向けてくる。首輪と手錠とセーラー服を着けた高校生くらいの少女。陰部と尻が大写しになって、玩具が刺さっているのが分かった。

「あの…おと…こ…」

「三つの市で起きた行方不明事件の犯人よ。屍鳥羅は、お前を嵌めるついでに仲間に加えて来いと言ったが、電話から電池を外すなど、つまらぬ真似をするので始末した。臆病で視野の狭い小物よ。だいたい、まだ喰える屍を、周りに知れるのが怖くて土中に隠すのもいけ好かぬ。あの程度の狂気では世間を掻き回す役にも立たん」

滔々と弁じ立ててから、異形の女はぽんと、大きめのサッカーボールのようなものを蹴り上げて、掌に載せた。兜太が朦朧とした眼を瞬かせて見つめると、さっきまで車に乗せてくれた男の首だと分かる。

「あ…ぁっ…」

「お前は面白い。狂気を引き寄せる。しかし気付くのは遅い」

まただ。また遅すぎた。何故同じような間違いを。声もなくうめく少年に向かい合って、女は殺人鬼の首を投げ捨てながら微笑んだ。

「儂もお前が気に入った。猿ばかりでなく、みめよい堕刻使いの召し使いも欲しかったところよ。かわゆいのう。薬で死なねば飼ってやる」

「くす…り…」

「あの男の持ち物だ。興奮剤に幻覚剤。脱法薬の類を随分と車に溜め込んでおった。適当に飲ませたから激しい反応が出るやもしれん」

女の内側に文字が見える。あの日に死なせた同級生の中に見たのと似た形。凶々しき護符”堕刻”に魅入られ、超常の力を得た魔人の徴だった。

「研究所の連中は色々と小難しい実験をしたがるが、何、儂はこういうやり方が性にあっておるのよ。ふふ。相済まんなお喋りばかり。猿とばかりおると人と話すのが楽しくてなぁ。さて」

手と同じ程に長い指をした脚が伸び、兜太の穿かされたプリーツスカートをめくる。下には薄い茂みと半勃ちになった若茎があった。

羞恥を覚えるだけの理性は残っていなかったものの、反撃の機会が来たのだけは察せた。少年は右腕を変形させた。だが旋回する刃で手錠を粉々にしようとした矢先、深く響く声が告げる。

「咥えろ」

兜太はあっさりと手を元に戻すと、素直にスカートの端を歯に挟んだ。土の味がする。埋められた少女の服だったのだろう。

「ほう。薬で意識を散らしておけば、暗示の効きも悪くない。やはり堕刻は相性だな」

するりと、もう片方の毛むくじゃらの脚が伸び、女郎蜘蛛のような十指で少年の秘具を捉えると、乱暴に捏ね始めた。痛みとともに凄まじい官能の波が股間から脳天へ打ち寄せる。

「ぅ゛あ゛あ゛あっ!!!」

「ふふ。澄まし顔をとりつくろっても無駄無駄。すぐに泣きべそをかかせてやろう」

器用な指がバナナでも剥くように包皮をはがすと、亀頭をこすり、幹をつねり、裏筋を撫でて、扱き上げる。鈴口から先走りが溢れると、一方の足はぬめりを性器全体に塗り広げ、もう一方の足は左右の陰嚢を重さを計るように交互に持ち上げ、やわやわともみほぐす。

はじめから、腰が跳ねるのをこらえるのは難しかった。感じやすい尖端を集中して責められると、喘ぎを押し殺すのもほとんど不可能になる。

「ほうら、もう涙がこぼれたぞ。”刃”の堕刻使い」

執拗な責めを続けていた足の片方が、すっと性器から離れて、親指で頬を流れる滴を拭ってみせた。

「ぅっ…」

「そろそろこちらも限界かな」

ぎゅっと陽根の尖端をひねられて、兜太の背筋をぞくぞくするような快感が駆け抜ける。女の足捌きは巧みで、男を弄ぶのに慣れきっていた。根元から引き抜かんばかりに性器を引っ張られ、少年はあえなく達してしまった。

「ぅあぁっ!!」

白濁を爆ぜさせると、女は足を入れ替えて、汚れた爪先を虜囚の口先に押し付ける。

「口で綺麗にしてもらおうか。逆らえばお前の逸物をねじ切る。種汁の代わりに真赤な血を噴く羽目になるぞ」

「う…くっ…んっ…」

薬に脳を曇らされた虜囚は、魔性の囁きが促す通りに指を舐め、己が放ったものを味わった。最低の気分なのに体は興奮していた。舌を使って拙く女の指の股をねぶっているあいだも、秘具に加えられる責めは止まなかった。

女は一方の足で未熟な生殖器官に赤い跡を付けながら、もう一方の指を蠢かせて獲物の舌をつまみ、頬肉の裏側を掻き、歯茎をしごいて、若い口腔を存分に楽しむ。ややあって唾液まみれになった爪先を引き抜くと、今度はまた両足をそろえて秘具への責めを強める。

しばらくすると嬌声は抑えを失い、少年の喉は歓喜と苦悶の歌を交互に囀らせるようになる。

刃の堕刻使いが、あどけない面差しを蕩かせ、セーラー服をまとったまま幾度も果てるのを、異形の女は嗤いながら、戦利品のデジタルカメラで撮影していった。不様に死んだ元の持ち主も、これを拝めばさぞかし満足したに違いない、という痴態の数々を。


女は手長足長と名乗った。そして特に屈服を求めようとはせず、延々と獲物を嫐った。射精させるのに飽きると、腕時計の替えベルトのような革帯で秘具の根元を縛って戯れを続けた。また気紛れから虜囚に浣腸を施し、猿の群の前で排泄させた。腸内の掃除が済むと、間抜けな殺人鬼の遺品である錠剤を詰め込み、少女の屍に入っていた珠数状の玩具で栓をすると、母猿が仔を運ぶように抱え上げて、森を散策した。

散策といっても、猿の群を連れてすさまじい速さで移動するのだ。梢から梢へ跳ぶ度、膨らんだ腹を揺すられて、セーラー服の少年はあえかに鳴いた。

劇物のカクテルが効いたのか、刃の堕刻使いはもう、さしたる抵抗は示さなくなっていた。二度ほど投薬が切れた際、右腕を剣呑な武器の塊に変えて斬りかかってきたが、我に返ったというより、身に宿す魔性の護符に駆り立てられての反射行動といってよかった。

代わりに、うわごとをままやいた。夜になり、女があぐらを組んだ足の上に少年を座らせ、口移しで猿酒を飲ませていた際、壊れた機械が唐突に録音を再生するように呟きを始めたのだった。弓美里と明良という二人に謝罪し、懇願し、叱咤し、説得を試み、最後はうめく。まるで目の前に相手がいるかのように腕を伸ばして空を掴む。こうなると暗示も通じなかった。

そういえば、”風”による言霊という興味深い技をはっきり形にしたのは、件の弓美里という娘だったと、手長足長は思い起こした。風凪の上層部は是非とも傀儡使いの力を再現しようと試み、先祖代々猿を操る業を学んできた下人に、似た種類の護符を与えたのだ。なるほど、こうして一応は同じような使い方ができるようにはなった。しかし未だ数百人を一度に殺し合わせるような芸当はとても無理だ。

「もったいない。さぞや凄まじい狂気を飼っていた娘だろうに。あたら入船院をからかう種に使って死なせるとは。屍鳥羅は人材を見抜く眼がない。何かを”感じ”はしても”分からぬ”のよ。周りにぼんくらばかりが集まっても、理由が”分からず”苛々している。のう」

「ユミリ…だめだ…アキラ…だめ…」

「哀れよなぁ兜太。お前は狂気が足りぬ。人が狂うほど焦がれる気持ちを”分かり”はすれど”感じ”はせぬ。故に遅れる。お前が刃を選んだのもどうせ、親か師か刃に焦がれる誰かを”分かった”に過ぎぬだろう。真底”感じる”には狂気がいるのだ。だが…もう儂の玩具として”感じて”おればいい。何も”分からず”ともよいぞ。その方が楽だ。屍鳥羅のようにな」

くつくつ笑って艶やかな黒髪を撫でてやる。少女の髪留めをつけた兜太は、スカートの前を膨らませる屹立さえなければ、とても男には見えなかった。ルージュを引かれた唇が震えて別の名前をつむぐ。

「リム…」

やっとだ。これが出てくるのは譫妄の泥濘から這い出て、理性を取り戻そうとする予兆だ。放置しておくと闘う意思を取り戻すが、幽明のあわいにある今は逆に最も暗示がかけやすくなる。

「兜太。そろそろ昼に練習したおさらいをせねばな」

あぐらを解くと足で少年の胴を抱え、スカートを撥ねて秘具を剥き出しにし、左右から挟んで、これまでになく荒っぽくに弄ぶ。苦痛に歪む幼げな面差しに、笑みを作るように命じて、両腕を挙げさせ、人指し指と中指をVの字にさせる。

「ほら。視線はあちらだ。トウタの女優ぶりを大事なリムに余すところなく見て貰え」

「うぁっ…」

猿が一匹、デジタルカメラを動画モードにしてまっすぐ構えている。少年はそちらに向かって虚ろなスマイルとダブルピースを向けると、刷り込まれた口上を諳誦する。

「ごめん…リム…僕…捕まって…風凪の女の人の玩具になっちゃった…黒鍬谷までリム一人で助けにきてくれないと殺さ…殺…ぐ…ぅ…くっ…リム、来るな!この人は僕が倒す!」

虜囚の右腕が千の刃に変わる刹那、手長足長は白いうなじに手刀を送って意識を奪った。

「名演だったぞ兜太。台本にない即興も含めて、女心をうまくくすぐってくれる。か弱い人質がああも健気に振る舞えば、助け出す側は矢も盾もたまらなくなろうな。ああ、まだ時間は残っているな。異界の女に相棒が何をされるのか、よく教えてやろうぞ」

少年を逆さに返すと、小振りな双臀を剥き出しにして、アナルパールを見せつけるように引きずり出す。同時に鋭い犬歯を柔肉に食い込ませ、太腿から尻朶にかけて真珠の皮膚に緋色をした支配の印を刻んでいく。

冷たいレンズが凝視する中、狂宴は続いた。手長足長は嬉々として凌辱に勤しみながら、異界の女の憤怒を想像し、にんまりと唇を歪めた。


「…さて話を戻しますが、これが、先ほどのペンションで唯一無事だった監視カメラの画像です。ここを見て下さい。動物、恐らくは猿の影が映っています」

「ふぅむ」

キャンプ場の外れの、がらんとした駐車場。くたびれた背広の男が指さす粗いプリントアウトを、褐色の肌をした長身の少女が、難しい顔をして睨んでいた。長く尖った耳に、琥珀の瞳。SF映画やゲームに出てくる異人のようだ。聞いた話では妖精族の女戦士だとか。俄には信じ難いが、名前はリムマーヤ。いかにも考え深げに写真を検めているが、本当のところは機械の仕組み一つ理解しているかどうか。魔法とやらのせいで日本語だけは恐ろしく堪能だが、ほかは何も知らないのだ。

土地の案内役を務める入船院の連絡員は、冴えない中年サラリーマン然とした面立ちをかすかにしかめた。未開の蛮族に対して、高度な科学技術が可能にした情報収集の方法を説明する作業に、段々と徒労感を覚えていたのだ。

もう一人の少年はずっと”分かり”がよかったのに。同じ日本人だから当然かもしれないが、あの子が相手だったら、わざわざ画像を紙に刷るなどいう手間は無用だったし、それ以前にカメラの構造について一時間かけて図入りで教えたりせずに済んだ。

ひどい貧乏くじだ。本家の姫がこの異人の娘と曖昧な協定を結んだために、入船院の末端は皆、へつらいの芝居をする次第になった。だからといって選りに選って己が、右も左も分からぬ山出しの世話を押し付けられるとは。つい溜息を吐きそうになって、任務を始める前に本家の幹部から受けた説明が脳裏に蘇った。

”姫は色々言ったがな、あのリムマーヤというのはただのおまけだぞ、菅沼。小僧の方に堕刻使いを食いつかせるために、少し引き離しておけ。だが丁重にな。機嫌を損ねると面倒だ。そういうのは武張った連中より事務方が向くだろう”

抗議しようとしたところで、肝腎の姫は海外旅行で留守だし、今回の仕事もあとから割って入った別の幹部が掻き回してこじれた観がある。上つ方の政治の駆け引きに巻き込まれるのも御免だった。役目は役目。果たせばいい。

「猿は恐らくカメラを避けるよう命じられていたのでしょう。しかしこのカメラだけはたまたま、猿の死角にあった訳です」

「サルに、命じるだと」

「風凪には犬や猿、鷹を操る下人がいました。廃れた技とされていましたが、この画像と焼け跡で確認できた幾つかの痕跡から、本家では、風凪が何らかの目的で復活させたか、どこかから埃を払って持ち出してきた、と考えています」

「それは、堕刻とかかわりがあるのだろうな」

当り前だ。菅沼はむかっ腹が立つのをこらえて、先を続けた。

「操るといっても、獣を燃え盛る火に向かわせたり、大騒ぎの最中に複雑な行動をとらせるのは、普通無理です。これは堕刻の力とみていいでしょう。その目的は…」

「操りの力を試している」

だが馬鹿ではないのだ。このリムマーヤは。いや、むしろ切れるのかもしれない。

「そうです。恐らくは訪礼弓美里ほうれいゆみりが発揮した、強大な暗示の力を再現しようとしている、というのが本家の考えです」

話しているうちに、相手の浅黒い顔立ちに翳りがよぎった。弓美里という名前が、悲しみを呼び起こしたらしい。確かリムマーヤは例の事件に居合わせたのだ。

「当代の風凪は後先を考えていません。危険な力を試すのに、海外の紛争地帯へ行って秘密の作戦をとるとか、規模の小さな実験を目立たぬように繰り返すという配慮はしない。思いついたら即実行。あとは力ずくで揉み消すというのが定石になりつつあります」

屍鳥羅の所為だ。他を圧する残虐さ故に風凪の長となりおおせた魔人の。あの狂気の暴走に対処するために、入船院も定軌を逸した気性の姫を統領に戴く羽目になったのだが。

「それはイリフネインも同じだと思うが」

内心を言い当てられて、菅沼はやや鼻白んだが、咳払いをして話の向きを変えた。

「とにかく。一連の山火事には風凪の実験があるとみてよい。ただし暁明良あかつきあきらは関係していない。使われた堕刻は”風”の類であって”火”ではない。というのが本家の分析です」

「分かった」

どこか安堵したようすの少女に、男は首を傾げた。当てが外れたのではないのか。暁明良が目的だったのではと。しかし異郷の娘は、容易に察しがたい理由から、例の事件を引き起こした炎使いがこの地に居ないのを喜んでいるようだった。

「さて。今後の計画ですが。暁が居ない以上、あなたと間宮君には…」

菅沼の胸ポケットの携帯電話が震える。開いてみると、緊急警報が出ていた。連絡員のただならぬ表情を見てとった娘は、すぐに問い質した。

「どうした」

「いえ…間宮君の携帯電話の電池が外されたようです」

「トウタに何かあったのか!」

どこか無邪気さのあった異人の容貌が、たちまち殺気立つ。まるで仔を奪られた母虎だ。男はちょっと息を呑んでから、急いでASUS製のモバイルノートを開き、携帯電話をつないだ。耳元では今にも食い付いてきそうな雌獣の唸りが聞こえる。

「おい、答えろ!」

「…待って…場所を地図に出します…ユースホステルからほとんど離れていない。大丈夫です。あの施設はフロントから清掃員まですべてうちの者に入れ替わっています。異常があればすぐ…」

「つなぎを取れ。早く!」

分かっている。ちょっとまごついただけだ。菅沼は眉間に皺を寄せると、携帯から仮想専用線で仲間に発信する。間髪を置かずに応答があった。が、音声がはっきりしない。

”キッ…”

「もしもし、お疲れ様です。菅沼です」

”…ッ…”

「もしもし、広岡さん。聞こえてます?」

”…”

音声がうまくつながっていないのか、答えがなかった。

「広岡さん。もしもーし」

”キ…”

「あの」

”キキィッ……キィッ!キッキッキ!”

猿だ。菅沼はようやく状況を悟った。護衛は全滅したらしい。しかも敵は外部に異常が伝わらぬよう、巧妙に隠蔽していた。では何故、携帯のバッテリーを外すなど、素人のような間違いを犯しただろうか。

コンマ数秒ほど混乱したものの、連絡員は冷静になると、本家へ急を報せにかかった。だがキーボードを四つ、五つ叩いてから、傍らで羅刹の如くになっている少女に気付く。恐る恐る視線を向けると、答えるようにしなやかな指が伸びて、ノートパソコンのモニターに映った地図を指差した。あれだけ液晶を嫌っていたくせに、プリントアウトでなくても読めるようではないか。

「トウタは、ここで何かに巻き込まれたんだな」

「はい。しかし単独行動は止めて下さい。相手はあなたの数倍の戦力を持つ護衛をあっさり全滅させ…」

言い終える前に、リムマーヤは黒い疾風となって姿を消していた。

菅沼は溜息をついて本家へメールを送ると、立ち上がって通信機器をてきぱきと仕舞った。近くに停めておいたホンダの小型車に走り寄る。リモートで開いたドアをくぐって、ダッシュボードの固定具にノートパソコンと携帯電話を嵌め込み、ヘッドセットにつなぐ。運転席に座るとと、几帳面にシートベルトを締め、ヘッドセットを付けてからゆっくりアクセルを踏む。最後にやや粗野になって、”緊急時のみ”と書かれたダッシュボードの赤いボタンを殴りつける。

貧弱そうな車体は走り出して十秒も経たぬのうちに時速八十キロメートルに加速すると、そのままさらにスピードを上げて、山道を駆け登っていった。


途中、数回対向車と正面衝突しそうになり、山の斜面を走って危うく難を逃れたほかは、通行止めにも合わずにまっすぐユースホステルのある山までたどり着いた。だが強行軍も虚しく、山の周囲は封鎖されていた。中腹からユースホステルのあたりにかけてまで、広範囲に火災が起きていた。消火が終わる頃には仲間の骸は消し炭になっているだろうと推測できた。

「くそっ!」

すぐ目の前で、煤だらけになったリムマーヤが、ガードレールを蹴り飛ばしている。猛火に飛び込んで相棒を探そうとし、黒焼きになりかけて退却してきたのだ。八つ当たりされた鋼板は、くぐもった響きをさせながら、みるみる変形していく。

やはり頭は良くないのかなと、連絡員は陰鬱に独りごちた。だがどうしようもないのは入船院も同じだった。

本家はすぐにもヘリで増援を向かわせると言っていたが、あいにくと主力は姫とともに海外に出ていた。統領の留守中に事を進めて、手練れの護衛が全滅したとあっては、居残り組の幹部は次に編成する部隊に時間をかけざるを得ないだろう。

舐めていたのだ。屍鳥羅の気紛れな攻撃は、本筋以外のめくらましが多く、それこそ猫が犬にちょっかいをかけるようなもので、一つ一つに複雑な背景はない、という認識だったから、本家もマンネリになったゲームでもするように敵の数を見積もり、餌付きの”討伐”部隊を送った。ニ十人からの手練れがごっそりやられるとは。しかも猿に。

むっつりと運転席に沈み込んでいると、妖精の娘がいきなり窓にしがみついてきた。

「…スガヌマ。ここの近くで、サルの住み処とおぼしい山が分かるか」

「ええ…」

向こうが堕刻を使っている以上、猿が平常の棲息地にいるとは限らないが、何もやらないよりはましだろう。

「近いのは地松山と蛇逐岳ですね。どっちも延焼の可能性がありますが」

「サルはかなりの数がいる。食い物がいる。人間に見つからないねぐらがいる。でたらめに火を付けていたらどうしようもなくなる。イリフネインは計算が得意な機械を抱えているだろう。ここからサルが行き着けて火が燃え広がらず、十分な数が隠れられる場所を絞り込ませろ」

「ええ…ええ…」

メールを打ちながら菅沼は溜息を吐いた。この娘、やはり愚かではない。しかし怒ったところは誰かに似ている。そうだ。本家の姫だ。まったく厄介な。

「…本家は、というか本家のシステムは、地松山を含み、蛇逐岳は除いた有力候補、合計七カ所を提示しています。風凪が使っている猿の個体数をニ百以下とした場合です。もっと多いとすれば三カ所に絞られます」

「ではその三カ所を回ろう。このクルマと私とどちらが疾い?」

必要なら魔法でなく機械を頼るというのか。驚いて視線を上げると、少女が泣き出しそうな顔をしているのが認められて、男はちょっとどぎまぎした。

「あなたです。車は燃料を補充しないと、もうろくに走れません。どこかで調達してくるつもりですが」

「分かった…お前の使う、離れて話す機械…ケイタイを貸してくれ。新しい情報があればすぐ知らせが欲しい」

「…どうぞ。連絡を受け取るときは、その緑色の部分が点滅したら押して下さい。私に連絡する場合は、緑を2回押してから数字の”1”を。壊さないように」

菅沼が差し出す端末を、リムマーヤは素直に受け取った。間宮という少年が勧めても嫌がって持とうとしなかったのに。ノートパソコンの画面を突き出しても、もううっとうしがる風はない。

「山の位置はここと、ここと、ここ。拡大するとこの斜面、ここの中腹、ここは標高が低いから頂き近くです。覚えられますか」

「ああ。では行ってくる」

少女はまたしても、はやての如く飛び去っていった。しかし今度は挨拶を残して。男はぼんやりと頬をさすってから、もしかしたら自分はあの山出しを好きになりかけているのかと、ぞっとしない考えを弄んだ。


リムマーヤからの連絡は、明方近くになってからだった。菅沼はといえばそれまで、刃の堕刻使いを掠われたあげく、異世界人の女を確保しておかなかったのを本家の幹部連からなじられて、くどくどい言い訳をする羽目になり、疲労困憊しきっていた。

車内でうとうとしていたところ、パソコンの通話ソフトの着信音で目を覚まし、ほとんど無意識にキーを打つと、焦った声が飛び込んでくる。

”スガヌマ”

「どうしました」

”見つけた”

眠気が吹き飛ぶ。

「間宮君をですか」

”いや、機械だ。レンズがついているから、カメラだ。私には扱い方が分からない。変にいじると壊れてしまいそうだ”

「それが…間宮君と…」

”トウタの…下着といっしょに吊るされていた…”

ああ。敵は屍鳥羅の直属の手下らしい。あの化け物のお気に入りには異常犯罪者上がりとか、風凪でも忌み嫌われた異端がぞろ犇いている。

「場所は…岩殻山ですか。本家もそこに絞り込みましたよ。私も今向かってる途中です」

正確には一休みしてから向かうはずだった、のだが。だって闇に暗躍する組織の構成員が、居眠り運転で事故死したら目も当てられないではないか。アクセルを踏んでまた走り出しながら、通話を続ける。

”カザナギ…は…堕刻使いを…無駄に殺したりはしないな…”

「もちろんですよ」

屍鳥羅の手下は殺すよりもっと楽しい事があればそっちを選ぶ。特に嬲り甲斐のある、抵抗力の強い獲物には時間をかける。

”私は…トウタの父親に何と…”

「我々入船院の責任です。十分な護衛を配したつもりでしたし、間宮君には堕刻使いが見分けられるので油断していました」

”私が側にいなければいけなかった…トウタはまだ戦いに慣れていないのに…”

「兜太君の役割は単なる戦いとは別のところにあったはずです」

”おとりだな…トウタは…初めからこんな計画に乗るべきではなかった…堕刻使い同士が引き合うからといって…”

「あと三十分ほどで着きます。しばらく通信ができません」

車を路傍に停めると、。ノートパソコンをリュックに入れて背負うと、気の進まぬげに叢に分け入った。妖精のように梢を踏んで木を渡る訳にはいかないので、のろのろと歩いていく。入船院には、昔の活劇に出てくる忍のように身ごなしの軽い者もいたが、生憎と菅沼はそういう能力もなかった。

やっと目的地に辿り着くと、月明かりを受けて、妖精族の娘がぼうっと立ち尽くしていた。そのまま一幅の絵になりそうだ。しかし何と頼りなげなのだろう。

「カメラを」

菅沼にも無駄口を叩く元気がないので、さっそく作業を進める。いやに豪華な一眼レフデジタルカメラをUSBでパソコンにつなぎ、走査をかける。ウイルスはない。データも静止画と動画だけ。

「中身を見てみるしかなさそうですね。ちなみに連中は拷問だの殺害シーンだのを撮ってよこすのもいますので」

和らげた言い回しをしたところで意味がなかったので、簡略に断って再生ボタンを押す。映っていたものは予想通りだった。

もともと中性的なところのあった子だったが、少女の格好をさせられて責められる姿は色っぽかった。静止画と動画は一つながりになっており、薬と暗示を使って、玉葱を剥くように少年の尊厳を一枚一枚はぎ取っていくさまを克明に映している。リム、と繰り返し名前を呼ばせているのはこちらを煽るためだろう。だが明確に助けを求める場面はない。捕虜は泣いたり喘いだりしている時を除くと、茫洋とした表情だが、内心ではかなり抵抗しているようだ。最後の悪趣味なダブルピースとスマイルでいささか不安になったが、続く反動を見て、どうやら心は壊されていないと分かった。風凪は、ちゃんと間宮兜太を長期利用する予定があるらしい。

「大丈夫そうですね。向こうはまだ思い切った手に出ていません」

「…トウ…タ…」

リムマーヤは黒曜石の彫像のようだった。

「これならうまくすると五体満足で取り戻せますよ」

戦士の貌は凍りついている。愁嘆場は勘弁して欲しかった。こういう映像は裏仕事にかかわっていれば日常茶飯事だ。そこまで考えたところで、ああそうかと悟る。この娘は闇の住人ではないのだ。戦士ではあるが、故郷ではむしろ日の当たる側に属していたのだ。

「絶対に挑発に乗らないで下さいね。入船院の増援がついてから、対処しましょう」

無言。

いきなり一時停止していた動画が暗転する。はっと視線を向けると、カメラに魔法の紋様が浮かんでいた。しくじった。走査漏れだ。だが止める間もなく、モニターにはテナガザルの四肢をくっつけた女が現れた。

”お初にお目にかかる異界の女。儂は屍鳥羅が配下、手長足長。間宮兜太の新しい恋人だ。兜太は内気でな。はじめは恥ずかしがっていたが、素直になる薬をたんと飲んで、すっかり儂の虜だ。なあ”

嬌声とともに少年の泣きはらした貌が画面に入る。まずい。かなり”壊れた”表情だ。先ほどの映像より馴致が進んでいる。リアルタイムか。

”リム、リムとうるさかったが。もう昔の女は忘れたろう。これからは両手両足をもいで、芋虫のようにして飼うつもりだ。だが刃物が通らぬからな。力づくでねじ切るしかない。もいだ四肢は儂と猿が食う。若くて汁気が多くてさぞかしうまかろうな。ほほ。金物の味がせねばいいが”

手長足長か。菅沼はげっそりした。屍鳥羅の試練を苦もなく通り抜けた化け物だ。堕刻使いになっていたのか。屍鳥羅がこういう女まで捨石に打ってくるとは。やはり姫がいない時に動くべきではなかった。いや、姫が出かける隙に合わせての仕掛けだったのだろうが。

”せいぜい用心深くしておれ。小指の骨ぐらいは届けてやる。くく。飯のあとでな”

しなやかな褐色の手が伸び、静かにモニターを閉じた。

「安い挑発だ。堕刻使いは手足をもがれてもまた生やすだけだ。あまり頭の回る奴ではないな。テナガアシナガとかいうのは」

リムマーヤはごく平板な声で告げた。いかにも落ち着いているが、完全に風凪の術中にはまっているのは明らかだった。

「まぁそうですね。しかし先ほども言ったように」

また無言。どうにも説得の余地はなさそうだった。

「黒鍬谷は古い照葉樹林です。低層から梢の近くまで横枝が張り出して重なり合っているため、猿が待ち伏せするには最高の地形です。本家が森林戦の専門部隊を…」

「私はエルフだ。森はサルより得意だ」

「ですよね」

仕方がない。入船院の連絡員は諦め気味に呟いた。

「まぁ…お手伝いしますよ」

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