銀の砂嵐が走り、過去は幻となって甦る。水鏡のように澄んだ液晶の面で、微細な素子が瞬き、災いと邪悪の化身を影像に結ぶ。 テロリスト。世界の敵。あらゆる秩序の破壊者。ターバンを巻いた殺し屋が、録画装置越しに、不遜な態度で観客を睨みつける。銃で無差別に人を撃ち、平和な日常を爆弾で破壊する、狂信しか知らぬ醜い化け物。誰からも忌み嫌われる者達は、どうして尚も存在しつづけるのか。 正義の担い手たる国々は果断な決意をもって、叛徒の故郷を叩き、一族を屠り、領土を焼き払った。曠野は擂鉢型の爆発孔に覆われ、隠れていた連中の肉片すら残っていないが、山脈の洞窟には、毒ガスに巻かれ聖典だけを抱いて死んだ若者の、枯木のような骸が転がっている。およそ地上の争いとは縁遠い筈の、大海原の底にさえ、殺し屋共の船が沈んでいる。 しかし彼等は蛆虫のようにしぶとかった。駆除しても駆除しても、その屍から次の世代が湧き出て、抵抗の叫びを放つのだった。狩りに赴く特殊部隊がどれほど勇敢でも、天を駆ける爆撃機が如何に強力でも、人々の心に棲む闇だけは討てなかった。 今一人のテロリスト、いや正確には、テロルのファトワを放つ一人の聖職者が画面の前に立ち、燻る石炭のような瞳を、瞬きもせずカメラに注いでいる。身長は成人男性の半分しかなく、顔はターバンと覆布にすっぽりと覆われていた。内なる狂気に相応しい畸形の外見である。 不意にカメラの前へ、ずいとマイクが突き出された。インタビュアーという正常な世界の代表者が、異常な犯罪者に向って質問を投げるシーンだ。 「インシュマーさん…貴方がたが無差別に人を殺すのは、神の意志に従っているからだそうですが」 「貴方がた、とは誰かね」 声は嗄れ、冥府の底から聞こえてくるようだ。だが明瞭な日本語である。 「貴方が自爆を命じたテロリスト達です」 「私は命じていない。彼等の決意が主の教えに背きはしない、と証しただけだ。それに、あれは無差別ではない」 「ご自身に責任はないと?」 「私は主に対して責任を負う。そして教えに従う者全てに」 「殺された合衆国の人々には?」 「彼等が正しき教えに従うのなら、責任を負うだろう」 謎めいた喋り方。はぐらかすような言い回し。宗教は人殺しを誤魔化す隠れ蓑なのだ。インタビュアーは鼻白みながら、怒りを押し殺して先を続ける。 「どうして自分の教えの正しさに、そこまで自信が?同じチェアラム教の聖職者の大半は、貴方を批判しているそうですが。無辜の市民を殺戮し、平和を破壊するのは教えに背くと」 「私はそうは思わない。聖戦は必要だ。戦わなければ、世界の四分の三は、残りの四分の一の奴隷になる。奴隷の多くが信仰の民だ。これを捨て置くのは主の教えに悖る」 「確かに奴隷制はチェアラム教の国々で復活しています。しかし、それがどうしてあなたが、非チェアラム教の国々でテロを称揚する理由になるのですか」 「奴隷の主人達の首には、別のくびきが嵌り、くびきからは紐が伸びて、大バビロンの商人達の門口へと連なっている」 「例え話は、私達のような日本人には良く解りませんが…」 返事をする代りに、狂気の聖職者は、懐から拳大の布包みを取り出した。手袋をした指が丁寧に布を開いて、中から薄汚れ、割れた注射器を露にする。 「それは中国製だ。見付かったのは、重慶の医療品工場から西へ何千キロメートルも離れた土地だった。これで麻薬を打った十三歳の少年は死んだ」 「はぁ…その国というのは、もしかして世界一の麻薬輸出国として有名な国では?」 「そう。だが数十年前まで、あの国にあれほど大きな罌粟畑は無かった。今は合衆国製の無人耕作機が地を耕し、自動精製工場が収穫を求めて動き回っている」 「先進国の工業製品が麻薬栽培を助長していると?しかし、結局機械を買う側に問題が…」 「あそこは貧しい土地だ。麻薬で巨利を得る北方部族の長さえ、本来何千万ドルもする機械は買えない。彼等が手に入れられるのは商人達が格安で寄越す銃や弾薬ばかりだ」 インタビュアーは混乱して口を噤んだ。どうもこの異国の老人は呆けているらしい。話に取り止めが無さ過ぎる。だが老人はマイクを下げられても喋るのを止めなかった。高性能な集音機器は、嗄れている割に良く通る聖職者の声を拾ってしまう。 「金も物も他所から来る。現地で恥知らずにな仕事に手を染める者達は、所詮外国企業の使い走りに過ぎない。それを拒んだ政府は破壊され、今の政府は金と脅しに言いなりになった」 「明るいニュースもあります。首都では女性達が自由な暮らしを謳歌できるようになりました。貴方の教えに従えば罪深いようですが、実際彼等は喜んでいます。自由化や新たな工業製品の導入が一時的な混乱を齎しても、経済が活発になれば以前よりも良くなるかもしれない」 「それはいつだね?強姦や殺人は何十倍にも増えた。喜んでいるのは首都に暮す一部の富豪に過ぎない。彼等の多くは、外国からの金を使ってせっせと奴隷を作っている。自由化は他の多くの貧民にとっては災いの源だ」 「ですが女性達は、以前は経済的な格差よりも、宗教のせいで学校に行けませんでした。自由化の前は小さな児女の権利が踏み躙られて居たと、数多くの人権団体が報告しています。」 「貞節の教えを守る田舎の方が首都より強姦殺人は少ない。私が人権と呼ぶものは、西洋人が言うそれとは違う。私にしてみれば、西洋人や、君達日本人の方が、子供を蔑ろにしている」 勝手な言い分に腹を据えかねて、カメラマンが気違い野郎と、罵りを零す。インシャラー老人は耳が遠いのか、何も聞かなかったかのように淀みなく言葉を紡いでいく。 「このホテルに案内される間、沢山の看板を見た。どれも裸に近い女の写真が映っていた。その下を年端もいかぬ少女達が"自由"に歩き回っている。強姦を嗾けているようなものだ」 「千夜一夜に比べればましだと思いますが…」 「何だね?」 「いえ。日本の治安の良さはご存知でしょう。殆どのチェアラム教国より、性犯罪は少ない」 聖職者は懐から別の包みを取り出した。開くと、今度は新聞の切れ端が幾つか入っている。どれも子供がらみの性犯罪ついて書かれた記事ばかりだった。 「年に三百という件数は、少ないとは言えない。私は常々疑問を抱いてきた。多くの国では、子供が陵辱される理由の大半が部族間の血讐だ。ところが日本では、殆どの人々は同じ言葉を話し、同じ考え方をする。何故無惨な犯罪が止まないのか」 「手厳しいですね」 「商品を売る為だ。君等は商品を売る為なら、裸を描いた看板やチラシどころか、ほんの十四、五の子供にテレビで膚も露な格好をさせる。口先で女子供を守れと言い乍ら、一方では、女子供を淫らな目で見るよう自らを仕向けている」 「日本人の女性も皆覆布をつけて生きろと?広告やテレビの娯楽番組を禁止せよと?」 「女の覆布も、男の髯も、信仰が伴わなければ、強制しても意味がない。虚妄に金を払って飛びつくのは、心が満たされていないからだが、それすら自ら悟らねばどうしようもない」 「我々をチェアラム教徒に改宗させたいのですか」 「いいや、私も信徒達も、己を守るので精一杯だ。君達自身が悪徳と手を切ってくれると信じるしかない。そうして貰わねば困る」 「はぁ…」 インタビュアーはうんざりしてカメラマンに目配せする。帰ろう。説教されに来た訳じゃない。矮躯の異国人の方も、二人の無感動ぶりに溜息を漏らす。だが尚も話は続ける。 「早く決心する事だ。私も信徒達も、日本から外へ垂れ流される害毒を、長く我慢できない」 少し興味を惹かれた様子でカメラが老人のアップを撮る。 「警告ですか?日本がチェアラム教化しないとテロを起こす?」 「今はまだそこまでは望まない。だが、君達が快楽を貪って暮す為に、どれだけ多くの奴隷が必要かを見給え。化学物質まみれの農場や養殖場、水や土を汚す工場、臓器移殖用のドナーキャンプ。君達が合衆国に従って"自由"に"普通"に生きるため、世界中に作ったものだ」 「日本の企業は、現地の政府と契約を結んで事業を行なっていますが」 「その為に腐敗した政権にたっぷりと賄賂を贈り、反対する者達を力づくで抑え込む。色と欲の娯楽で人の心を麻痺させ、物を買わせる。自由化に逆らう国を合衆国が叩けば、ただ喜々としてお先棒担ぎをする」 「それがテロを起こす理由ですね?」 「私の名簿には沢山の日本人が載っている。だがかつて日本は無神論の大悪魔や、合衆国とさえ戦った国だ。戦争に敗れた後も、信徒の為に戦ってくれた人々を大勢知っている。彼等は形の上では信仰を拒んだが、魂は主の義に従っていた。希望は常に残っている」 「それは…どうも…」 老人の、淡々としながらも切実そうな口調に気付いて日本人達はたじたじとなった。 「すいません、今日は取材時間を大幅に過ぎましたので…また…」 「そうか。ではなるたけ、多くの人々に伝えてくれ。決めるのは君達だとね。今の状況に甘んじて居る限り、日本人は誰も無辜の市民などではない」 「あ、はい、貴重なお話を有難うございました」 画面がぶれる。カメラマンの押し殺した嘲笑。銀の嵐が吹き荒れ、影像は途切れる。暗転。 インシュマーは、取材に来た日本人の車が走り去っていくのを、窓から見下ろしていた。しばらくして、背後の扉が開くと、矢張りチェアラム教徒らしき出立ちの、長身の青年が入ってくる。彼はもじゃもじゃした髯をしごきながら、朱儒の方へ歩み寄り、気遣わしげに声を掛けた。日本語ではない。 『少しは話が通じましたか』 『いいや。あれは頭の足りない下っ端だ。向うの新聞社は私のインタビューを使う気はないな』 『我々にこんな危険を冒させておいて?』 『多国籍軍のダマス侵攻が早まって、風向きが変わったのだろうな。予想できた事だ』 『では何故招きに応じたのです?』 『ターランとダマスに関するファトワを出す前に、日本人の性根を確かめて起きたかったのだ』 青年が肩を竦め、警戒するように室内を見回す。老人は安心させるように手振りをした。 『大丈夫だ。私を呼んだ事は新聞社にとっても綱渡りなのだ。警察や、情報局、軍部には伝えて居まい』 『しかし』 『ハシーム。お前にはこれを預けておく』 聖職者は一枚の金属板を差し出すと、長身の若者が恭しく受け取る。 『"主なるマーの名において、七つ目の門を開け"。万が一私が捕らえられ、お前だけがシンガポールのサイードに会ったらこの板と今の言葉を伝えよ』 『七つ目の門とは?』 『ファトワだ。占領軍に加わる日本の兵士を、他国の兵士と区別せず殺せというものだ。連中には何も期待できないと解ったからな』 平然と述べられた言葉に、髯の青年は顔を顰めた。 『今の記者達の態度から決心されたのですか?』 『いやもっと前、幾夜か、この町へ出てみた間にだ。日本人の大半は侵略戦争への参加を喜んでいる。言葉にはしないが、暮し向きが悪いから、鬱憤を晴らす相手が出来たという所らしい』 『信じられない、この前のカスピ戦では核が使われたのに…ヒロシマやナガサキは…』 『死んだのは原理主義者だから、当然の報いだそうだ。今度また日本兵が女子供を撃ったら、ターランとダマスを守備する義勇兵に彼等全員への復讐を許すつもりだ』 『いつ発ちます?』 『明日の安息日が終ったら、福岡経由で船を使う』 『先に行って準備をしておきましょうか』 『頼む』 ハシムと呼ばれた青年は、インシュマーに信徒同士の礼を交わすと、部屋を後にした。使命感に硬くなった若々しい背を見送ると、聖職者はまた窓へ向き直った。 ぽつんと、豪奢なホテルの室内に立ち尽くす。戦場にいない時は、殆ど護衛を侍らせないのが習慣だった。どんなに英雄風を吹かせ、獅子とか虎とか呼ばれる男でも、大抵は武装した腹心を側に控えさせるのだが、彼は違った。 無論独りでいれば常に暗殺の危険がある。インシュマーは合衆国や、社会主義連邦、人民共和国で一級のお尋ね者だったし、味方である筈のチェアラム教国に在ってさえ、王侯や聖職者会議から、蛇の様に嫌われていた。反政府主義者の黒幕とされていたし、チェアラムの二大宗派である正統派と規範派のどちらにも与しなかったからだ。 しかし死はたいした障害にはならない。朱儒はそう考えていた。むしろ恐ろしいのは不名誉や悪い噂だ。精神的指導者は、実際には面識のない人達の敬愛に支えられているからだ。 合衆国が今期の生贄をダマスに定め、世界的な緊迫が高まっている状態で、降って沸いたかのような日本行きの話。政敵の罠だとすれば、暗殺よりもむしろ、スキャンダルによって彼の権威を失墜させ、開戦時の抵抗運動の勢いを挫く方が在りそうだった。 数年前、規範派の高名な法学者が、麻薬組織から個人的な寄付を受けていたという事実を暴露され、社会的な地位を剥奪された。逮捕されるまで強硬な原理主義者だった法学者は、ダヴィデ共和国という合衆国の属国を批判していた。またつい最近でも、やはり規範派に属する別の法学者が、親族が高利貸を営んでいると書きたてられ、破滅した事件があった。平和主義者で、インシュマーとは主義を異にしていたが、国連の「臓器と食糧の交換」計画に反対する活動家だった。 彼自身も、幾度か挑戦を受けた。経営する病院の一つで、提供者不明の血液による輸血が行なわれていたとすっぱ抜かれたり、飢餓地域に寺院を通じて提供している食糧に、清浄でない材料が使われていると噂を流されたりした。 大体において上手く躱した。病院では輸血を命じた若い医者を追放し、聖職者会議の委員を招いて、食糧生産の全工程を調べ上げ、不浄な要素はどこにもないと文章化して、新聞に公表した。スキャンダルで最も致命的なのは、本人や家族に関するものだったが、妻や子供、孫は全てカリブ海にある合衆国の特別収容所で殺されていたし、汚職や背信には縁の無い暮らしを送っていたので、誰にも付け入る隙は無かった。 齢百を越えるというこの法学者は、薄汚い噂を流されても決して苛立たなかったし、疲れも見せなかった。彼が自棄になって迂闊な行動を取るのを待つ相手は、いつも肩透かし食らった。 今日、異教の地にあってさえ、インシュマーの心は深く水を湛えた湖のように穏やかで、奥底でどのような想念が泳ぎ回っていようと、表に出るのは稀だった。覆布をつけていれば、余計読み取り難い。彼は窓辺に立ったまま、黒く重たい視線を、分厚い硝子板の向うへ投げ、灰色の町並みを眺めていた。 曇天からは、ちらほらと、白い羽が舞い降りはじめている。 『雪か』 呪わしげな一言が漏れる。空調を入れない部屋はかなりの寒さだったが、外は増して冷え込んでいるだろう。だが遥か遠くの沙漠では、勝目の無い戦に備えるチェアラムの戦士達が、息さえ凍てつく気候と、厳しい飢えに耐えているのだ。 『主よ、どうか彼等に…』 何を願えるというのか。空からダマスの地を焼き、万物を塵と化す爆弾の雨を防ぐ方法など皆無だ。遠隔操作され、動くもの全てを狙う無人飛行機や無人戦車には命乞いさえ通じない。猛毒の霧、じわじわと蝕む放射性物質、何よりも破壊の後にやってくる疫病と飢餓。ターランが攻められた時、インシュマーが送り込んだ医師、技師、運送業者は良く働いたが、野火のように広がる戦禍の前では、素手で鋼の巌に打ち掛かるようなものだった。 細々と営んでいた事業は、子供が積木細工を崩すように粉々になってしまった。灌漑、植林、土壌の脱塩化、学校・病院・水道・道路の敷設。政府の承認を得、村々の長老を説得し、砂を噛むような思いで働いた数十年の成果は、わずか数日で灰に変わった。 おかしな話だ。あそこに見えるバベルの塔が破壊されても、二年とおかず甦ってしまうのに。 『主よ、どうか…彼等に答えて下さい。私の下で銃を持つ若者達が訊ねます。何時ジャヒリーヤは終るのかと。もうすぐだと、私は答えますが、預言者が忌んだ部族同士の血讐は日増しに多くなっていく。影で信徒内部の争いを操り煽る者が居て、中には恥知らずな似非信徒さえ含まれています。仲間は減りましたが、まだ戦えます、しかし…』 口篭もる。間違いだ。志半ばに倒れた先達は皆、弱音など吐かなかった。常に使命を果し、疲労と絶望を退け、喪失は従容と受け入れて来た。聖句を唱え、内側の濁りを追い出す。 『インシュ・マー(主の御心のままに)』 そうだ、希望はある。必ず有る。信徒が、家も土地も誇りも失おうとも、主の教えだけは取上げることは出来ない。自ら投棄てない限りは、決して。 聖地に向って額ずく朱儒を他所に、雪はいよいよ津々と降り始め、瀝青と煉瓦の景色に、薄い白化粧を施していった。 ひとしきり思索を終えてから、短い仮眠を取っていた聖職者は、幽かな金属質の響きを耳にして、現に返った。 床から身を起こすと、じっと戸口の方を見遣る。鍵穴の発条が針金で抑えられる音だ。息づかいが四つ、一つは良く訓練されている。二つはまだ不十分だ。最後の一つは子供のもの。 「誰だ」 問い掛ける。物盗りならば、此方が目覚めていると知れば引き上げるだろう。尤も、新聞社が殆ど軟禁用に確保したこのホテルは高級な部類で、保安設備もしっかりしているようだから、他の目的で来たと考える方が妥当だったが。 答えのないまま把手が回り、四組の足音が床を踏んで入ってくる。やはり独りは成人の女、二人は少年か少女、後一つは子供。暗殺者ではなさそうだ。 「何の用か」 「インシュマー師でいらっしゃいますね?」 甘ったるい作り声だった。若い女、二十歳前後、健康で、喋るのに慣れている。 「夜分にお邪魔してすみません。私達は、貴男を天国へ連れて行く、フーリー…そうお考え下さいな…異国の無聊をお慰めするよう、仰せつかりましたの…」 三つの呼吸の不規則さが際立つ。鼻腔を擽る強い花の香に、嗅ぎ慣れない薬品の匂いも混じっていた。 「…こんな真っ暗では話も出来ませんわね。明りを点けましょう。秋音」 蛍光灯が、侵入者達の姿を照らし出す。フーリーと名乗るだけあって美しい。二十歳前後の背の高い女、十五六で、やはり長身の少女、それより一つか二つ下の少女、性別のはっきりしない子供。まるで独りの人間を年代ごとに四つに分けたかのように似通っている。全員が足首まで裾の有る黒い外套を纏っていた。壁のスイッチを押した少女が、笑いながら話し掛ける。 「お爺さん、本当にちっちゃいね。生まれつき?病気なの?」 「失礼でしょう、この方は大切なお客様なのよ」 黙したまま観察を続ける。娼婦か。生活の苦しさから、あるいは単に道を誤まって、あるいは力づくで強制され、大人の女から少女、男や少年まで、身を売るのは珍しく無い。貧民堀で、暗黒街で、麻薬にぼろぼろになって死ぬ人の形をした抜け殻。インシュマーの孤児院や救貧院は世界で何万人もを保護しているが、全体のほんの一部にしか過ぎない。 「無粋なお説教など為さらないで下さいね…私達は今夜をとても楽しみにしていたんですから」 言い募る相手の瞳は異様な精気を佩びている。流れるような身ごなしは、細部に至るまで計算し尽くされ、高度に完成したものだった。だがどこか奇妙な歪みを感じる。 熟練の兵士の中には、人殺しを続ける内、いつしか戦いにしか生甲斐を乱せなくなる者が居た。この娼婦も、彼等とまるで同じ目をしている。答えるインシュマーの声は幾分低く、慎重なものになった。 「では好きな所へ腰を降ろしなさい。君達の声が話をするのを聞き、申し出を考慮しよう」 「お話も楽しいけれど、残念な事に時間がありませんの」 女の合図に従って、二人の少女が進み出る。衣擦れと共に外套が肩からずり落ちると、白い裸体が露になった。聖職者は目を女の相貌に据え、落ち着いて話をした。 「何故急ぐ。初見の者同士が交わす言葉は、実り多いもの、あらゆる喜びに勝るというが」 「いいえ、ずるい方。貴男は巧みな話術で人を導き、説得してしまうと聞いています…まずその危険な武器を封じなくてはね…」 手足の痺れを感じ、よろめく。信じられない思いで顔を上げると、二つの裸体から立ち昇る濃い香に、目が眩んだ。 「私の妹達、秋音と夏樹の身体に別々の香料を塗っておきました。一つ一つにはそれほどの効果はありませんが、二つを同時に嗅ぐと象も昏倒するそうですわ」 丁度、少女二人はインシュマーを挟み込むように、等距離を取っていた。どちらの芳香も彼にしか届かない訳だ。膝を就く獲物を前に、女の瞳が凶暴な光に煌めく。 「薬にも慣れてお出でとか?どの位まで耐えられるかとても楽しみですわ」 「期待には沿えんな…」 前屈みになって、手を附きながら呟く。音で女が機械を取り出すのが解る。レンズの回転音。ビデオカメラか。 「ご安心を。百歳のご老人でも元気にする薬を用意しております。代りに理性の方は保証しかねますが。さて、まずはご尊顔を拝させて頂きましょう。秋音、夏樹、離れて」 しなやかな指が覆布に触れ、いとも容易く取り去っていく。罠に嵌った聖職者は、全身の毛穴から汗を噴出し、ぐらつく関節を意志だけで支えながら、ただされるがままになっていた。 はっと息を呑む音。四人がこもごもに驚きを漏らす。 「姉さま…これ…」 「か、影武者…?」 覆布から表れたのは、まだ年若い少年の顔だった。褐色の肌が引き攣り、笑みとも、嘆きとも、怒りともつかないものを形作る。 「違う…私がインシュマーだ…しかし、君達はインシュマーを葬ることは出来ぬ」 |
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