Neighbor Vol.2

真昼時。存在しない鐘が、何万回と繰り返してきたように刻を告げる。

黒鋼の校門を出た学童の群は、縦横に交差する街路へ無秩序に広がるように見えながら、それぞれ決まった道筋を辿って帰途に就いていった。

けれど艶かな烏羽色のランドセルを背負った少年は、独りいつもと違う通りへ向かった。家を避けるようにぐるりと大回りをし、二つ、三つの交差点を渡り、河川敷を望めるサイクリングコースまで足を運ぶ。

周囲を眺める訳でもなく、どこか目的地に急ぐ風でもない。毎度の如く、同級生の誰とも言葉も、目線も交わさず、うつむきがちに歩く。いや普段よりももっと周囲に注意を払わず、横合いから自転車の軋むブレーキが聞こえても、背後から徐行の自動車が舗装を噛む音が近づいても、立ち止まったり、脇に寄ったりしようとさえせず、黙々と地面を踏みつけていく。

「お、キチガイくんじゃん。何してんのー」

「あー。まじだキチガイくーん」

コンクリートの格子模様で固めた土手の下から、楽しげな呼びかけがあって、初めて少年は外界への反応らしい反応を示した。歯を食いしばり、通学鞄の肩ひもを両手でそれぞれ掴んで、姿勢をいっそう前に傾けると、進みを速める。

「何無視してんだよ。おーいキチガイおめーに言ってんだよ」

「あいつまじムカツクな」

追いすがる声の棘が次第に強まり、途切れたかと思うと、小石が一つ、虚空を過ぎり、長袖シャツの二の腕当たりを打った。コントロールの良い、勢いのある投擲だった。やせっぽちの躰が衝撃で斜めに倒れそうになり、辛うじて無事な片手を地面に突いて支える。

「やっべストライクなんですけど!」

「まじすごくね?」

真似したようにもう一つ、二つと礫が飛んだが、いずれも狙いを外した。子供はうずくまって、噛み合わせた歯のあいだから息を吐く。双眸は開き、縁の当たりが血走って、頬は痙攣していたが、数回胸を上下させると何事もなかったかの如くゆっくり立ち上がり、怪我を庇うようにしながらまた歩き始める。

「お、不死身だ」

「キチガイくんすごーい」

「もいっぱつ行く?」

「やめとけってキチガイパパ呼ばれんぞ」

「もう逮捕されてんじゃん」

嗤いが唱和した。

ハーフのカーゴパンツから伸びた脚が、とうとう規則正しい交互の動きを止める。穏やかな風が吹いたかと思うと、サイクリングコースに立ち尽くす少年の側を、瑠璃に塗った真新しいセダンが走り抜けた。窓が開いているのか、通り過ぎしなカーステレオが激しい洋楽の切れ端を叩きつけていく。

矮躯が硬直し、やおらランドセルを脱ぎ捨てると、いきなり河川敷へ駆け下りた。喚き続けていた二人、どうやら上級生らしい男児等に向かって突進し、猿の如く跳ねて一方に襲いかかる。相手がとっさに防げないほどの素早さで地面に押し倒すと、首に指を巻き付けて、卑弱そうなうわべに似合わぬ強さで締め上げた。片割れが脇腹を蹴りつけるが、びくともせず喉輪を掛け続ける。

「っざけんな渡瀬、てめぇ殺すぞやめろっ、やめろっ」

名を呼ばれても、渡瀬章一は気を逸らさず、ただ腕に込める力を増した。唇はめくれてブリーチの付いた歯列を露わにし、口角からは唾液が数多伝い落ちて、押さえつけた標的の顔にかかる。

どこかから、また音楽が聞こえた。最前と同じ曲だが、ほとんど終わりにさしかかって、単調なドラムのリズムが次第に小さくなっていく。半ば獣じみて獲物に食らいついていた子供は、途端に糸が切れた操り人形よろしく四肢を弛緩させた。横合いからスニーカーの爪先がもう一度胴を抉ると、仰向けに転げる。

咳き込んで身を起こした上級生が、逆にのし掛かって殴りつけようとしたところで、低い男の声が割って入った。

「オーケイそこまで。ツートゥーワンはフェアじゃないな」

振り返った二人組の面持ちが強張る。見上げるほど丈の高い青年が、ひどく厳めしい表情でねめつけていた。

背広をまとった巨躯は引き締まっていたが、肩幅は広く、胸板は厚く、昔の海外漫画の主人公に出てきそう迫力だった。電話の着信メロディなのか、うるさい演奏が腰の辺りから流れて、やがて切れる。

「どうやら君等がバッドガイ、その子がグッドガイだな。とっとと行きたまえ。次にこんなことをしたら見逃さないからな」

上級生二人は、目の前の大人の図体と、ひどく冷たい眼差しに臆して退ると、無言で駆け去った。河川敷の石を踏む軽やかな響きが次第に遠ざかり、辺りには凪いだ静けさが沁み入っていく。

後に残された章一は、弓なりに反り返って喘いでいた。どこかで鳩が鳴き、次いで幾つもの羽搏きが重なって起こる。水の流れる音がやけにはっきりと聞こえた。


二つの影が彼方に消えるのを見送ってから、若い男は鼻を鳴らし、不意ににっこりすると、倒れたままの子供に近づき、手を差し伸べた。

「立てるね?」

返事を待たず、腕を掴んで引き起こす。手負いの少年は眉根にきつく皺を寄せ、息を詰まらせたが、前屈みのままどうにか重心の均衡をとって、首だけを縦に動かして礼をする。

「いつもこんなハードなストリートファイトをしてるのかい?」

頭上からかかる笑い交じりの質問に、痛みを堪えるよう目を細めてから、小さく身振りで否定した。

「初めてか。ふうん。兎に角、お医者さんに行ってお母さんにも電話した方がいいね」

青年が唇をすぼめ、顎に拳を当てながらそう勧めるのを、章一は慌ててまた首を左右に動かし、次いで掠れた喉から言葉を紡いだ。

「いいです」

男は苦笑して頷いた。

「じゃあこうだ。うちで手当だけしよう。ハニーがケアする。他のことは君と僕の秘密だ」

「あの」

少年が断ろうとしたところで、また耳慣れた曲が始まって、言葉を途切らせた。巨漢は携帯電話を取り出すと、素早く耳元に当てる。大きな手がつまむと、銀の端末はまるでミニチュアの玩具だった。

「柳井です…あ、いえちょっと運転中で。いえあと1時間で戻れます。はい…はい、本当に申し訳ありません…はい…はい…」

ちっぽけな機械をしまうや、短く刈り込んだ髪を掻いて唸り、また視線を戻す。

「君のお母さんに急かされちゃった。実は忘れ物を取りに帰る途中でね。さ、行こう。車で送る」

「いえ」

「おいで」

大人の掌が敏捷に動いて子供のそれを握り、有無を云わせず引っ張った。

刹那、章一は背筋を強張らせて喘いだが、逆らわずに歩き出す。柳井は大股で土手を上がると、空いた手でランドセルを掬い取り、セダンの傍らで立ち止まると、頭を後ろに回した。

「君はやっぱりお母さん似かな」

「え?」

「さっきはお父さんに似ていたから自信なくなっちゃってね」

どう答えていいか分からないでいる少年に、青年は微笑みかける。

「会社の先輩。君のお母さんと同じくらいすごい人で、僕の憧れだった」

「でも」

子供が疑わしげに上目遣いをすると、大人は真剣そうに見返した。

「あいつらのたわごとなんかナンセンスさ。さ、乗って」

二人がシートに腰を落ち着けてベルトをかけると、車は滑るように発進した。また大音量で例のメロディがかかったが、運転手はすばやくカーステレオに停止を命じてから、申し訳なさげに呟いた。

「ソーリー。ハニーが好きらしくてね。僕はまだ曲名も覚えられないんだけど、海外赴任先で買ってから家でもどこでもこれさ」

告げざま、調子の外れた口笛で旋律をなぞり出す。助手席の少年は首を竦め、拳を膝に置いて黙りこくった。

信号待ちのところで、青年はドアポケットを探り、チューインガムを一枚取って差し出した。

「噛むといい。痛みが紛れる。うちの会社のだけど」

「いえ」

「噛みなさい」

やや強い口調で繰り返すと、章一は受け取って口に入れ、機械仕掛けの人形めいて顎を動かす。柳井はじっとその横顔を見詰めていたが、やがて正面に向き直ってアクセルを踏んだ。

十字路を折れて幾度か曲がると、ほどなくして社員寮に到着する。中型車の数台しか置けそうもない駐車スペースの端にセダンを入れてから、また大人が子供の腕を取って歩いていった。いつも使う階段は避け、エレベーターを選ぶと、二階の最奥へ足を急がせる。

206号室の扉に鍵はかかっていなかった。

「ハニー、アイムホーム」

戸を開けながら、夫が快活に叫ぶと、リビングから妻が柔らかく返事をする。

「おかえりなさいダーリン。メモリーはテーブルです」

「サンキュー。そうだ。そこで渡瀬君と会ってね。ちょっと転んで怪我したみたいだから見てあげてくれるかな」

青年は依然としてつないだ手を離さないまま、幼い連れを導き入れる。出迎えた主婦は一瞬だけ目を丸くしてから、たちまち相好を崩した。

「章一様こんにちわ。災難でしたね」

男は両の拳に握っていたランドセルとその持ち主を、伴侶にゆだね、忙しげに居間へ行って、卓上に載った薄片を見て取る。即座に器用に摘み上げ、携帯電話に差し込んで画面を確認して、舌鼓を打った。

「うん。それじゃもう行かないと。彼を頼むよ」

「行ってらっしゃい」

あくまでのんびりと応じる妻に、夫はふと肩の力を抜いて、玄関に向かっていた巨躯をくるりと反転させた。一歩で伴侶との距離を詰めると、いきなりたおやな肢体を抱え上げ、深々と口付けする。

大きく太い五指が、緩やかなスカートにしっかり食い込み、捻り上げるようにして丸みを帯びた輪郭を浮かび上がらせた。一方で、半ば開いて重なった唇と唇のあいだに、互いの舌がちらつき、口腔を貪り合うさまを垣間見せる。

唐突な接吻の光景を、少年は初め虚ろに眺めていたが、次第に呼吸は早まり、額は汗ばんで、頬には微かに紅が差していった。

やがて銀の糸を引いて接吻が解ける。瞳を潤ませる伴侶を、巨躯の青年は丁重に床へ降ろし、あらためて額に軽く唇を押し当ててから告げた。

「今日はそんなに遅くならないさ、ハニー」

「おいしい晩ご飯を作っておきます、ダーリン」

男は親指を二本立てて破顔し、頑丈そうな歯を見せてから、突進する戦車の如き勢いで出掛けていく。女は玄関までついて行き、招き猫のように片手を挙げて握ったり、開いたりして見送ると、軽やかに身を翻し、丈の長い花柄のスカートを舞わせてから、スキップでリビングへ戻った。

「手当をしましょう。服を脱いでいただけますか」

弾んだ調子で促すと、承諾の代わりに、密やかな衣擦れの音がした。


常と変わらず、少年はソファーに座って大きなテレビを観ていた。靴下を穿いて、右肩と左の脇腹に湿布が貼ってある以外は、何も着ていない。非力そうな矮躯の芯で、奇形じみて魁偉な性器だけが、桜に色づいて屹立していた。

液晶の奥から、覆面の雌が懸命に訴えかけている。もちろん声は届かない。凄まじいベースとギターが響くだけ。

女の手足は折り曲げた状態で四方に広がり、マスクと同じ素材の拘束具で固定してあった。背は海老反りになり、たわわな胸をカメラに向かって突き出している。ちょうど、腹を蹴られて無様に河川敷に転がっていた章一と同じ格好だった。

無防備な股座がアップになると、フレームの外からごつい手が伸びて、刈り整えた茂みを掻き分け、紅蕾を捉えて包皮を剥く。続けて今度は、別の方向から注射針が伸びて突き刺さる。さらに続けて豊かな左右の乳房を拡大すると、それぞれのしこった尖端に同じく薬を打った。

続けて、すっぽりと頭を覆うレザーの中で唯一露になった口の部分が大きく映り、何かを激しく喚いている様子が見える。再びカメラが引くと、自由の利かない肢体が必死にもがきくねり、脂汗で肌をてからせているのが分かった。

間もなく鞭が襲って、ふくよかな胸鞠や、しとどにそぼった太腿の付け根を目掛け、容赦なく緋の線を刻んでいく。奴隷は舌を突き出し、痙攣しながら小水と愛液をともどもに零した。

「ぃたい」

画面を凝視していた少年がぽつりと呟く。するとソファーの裏から、なよやかな腕が回ってその頭を抱き寄せ、たわわな乳房に凭させた。

「まだ痛みますか?」

熱い息とともに耳元へ注がれた問いかけに、子供は我に返って首を横へ振る。背後の人妻は喉の奥で笑って、まっすぐ腕を伸ばして指し示した。

「ああ。痛いのはテレビのあの子ですか?でもご覧なさい」

場面が切り替わる。マスクの女はもう縛られてはおらず、筋骨隆々とした男に跨って、激しく腰を跳ねさせ、ねじり、肉杭に膣を抉らせている。刹那、再び暗転があって、今度はすんなりした脚を八の字に開いた格好で、十指を己の臀肉に食い込ませ、割り広げて雄を誘う痴態が現れる。

さらにはルージュを引いた唇に鞭を咥え、膝を揃えて坐ったまま仕置きをねだるようすや、どこか屋外で裸身を晒してカメラにポーズをとるところも映った。やたらに丸石が転がる足場の悪い場所に、折れそうに細いピンヒールの踵を合わせて蹲踞し、ロングコートをはだけてレンズに素肌を露出させ、両手でピースサインを作って、黒革の覆面から覗く口許にぎこちない笑みさえ浮かべている。

見覚えのある景色。少年は思わず乗り出してテレビを凝視したが、すぐにシーンは室内に移ってしまった。

「あれでもまだ、あの子が痛がってるって、思います?」

聡子が手櫛で髪を梳りながら聞くと、章一は唾を嚥んで答えた。

「あの、はい」

「本当に?」

重ねて尋ねる囁き声の主を、少年は振り返れないままに頷く。

「だったら方法は一つだけ。章一様があの子のご主人様にならなくては。章一様があの子に会って、主人に相応しいと証明して、手に入れれば、どうしようと自由。慈しむのも、いたぶるのも、解き放つのも」

「ときはなつ」

芝居がかった台詞の末尾を、幼い聞き手は鸚鵡返しにした。

「そう。本当に会ってみますか?」

人妻は、柔らかな子供の耳を甘噛みしながら歌いかける。

「章一様もご主人様の貫禄が出てきましたし。もし強い気持ちがあるなら、試せます。ただし機会は一度だけです。一度だけ」

息を吸おうとした章一は、脇腹の痛みに眉を顰めてから、訊き返した。

「いつ」

すると聡子は抱擁を解いて、身を引いた。

「来週の土曜ではいかがですか。章一様はきっとまたお一人でしょうから」

録画の中では、相も変わらず、たおやかな雌の肢体が、厳の如き雄の巨躯にしがみつき、舌と舌でキスをしながら番っていた。二匹とも顎の回り以外は暗がりに隠れている。リビングのスピーカーからベースが重く唸り、ギターがひしり泣いて、ドラムがけたたましく鳴り続けていた。

「はい」

裸身の少年が視線を落として肯うと、女は正面に回って小首を傾げた。

「ところで、これ、どうにかしないと、帰れませんね」

人差し指を曲げて、包皮から覗く鈴口をつつく。

今になって初めて服を着ていないのを意識したかの如く、章一は突然耳まで朱に染まると、きつく瞼をとざして顔を背けた。聡子はしかし、亀頭に当てた指をひねるようにしながら、尚も言い募る。

「してもよろしいですか」

「っ…ぃ…」

「こっちを向いてきちんと返事をしていただかないと。立派なご主人様らしく」

あどけない容貌が目をつむったまま前へ直り、ややあって薄らと睫の隙間を開いた。だが、嫣然と微笑む人妻と、画面の彼方で涎を垂らす覆面の奴隷とを二つながら認めた途端、血走った瞳を丸くしてまた釘付けになる。

「しても、よろしいですか?」

「っ…はい」

白魚の指が太幹に巻き付いて莢を剥き、楽器を奏でるような繊細さでなぞり、くすぐってから、突然乱暴に擦り立てた。ほっそりした腰が後ろに引け、下に敷いたクッションが軋む。荒々しい洋楽に混じって、裏返ったボーイソプラノが零れるのを、穏やかなアルトが咎める。

「あまり可愛く啼いてはいけません。あの子を手に入れるには、もっと堂々と…ほらまた」

たしなめを受けても喘ぎを抑えきれない少年の唇を、女は接吻で塞いで、秘具をいっそう速く扱き上げる。息苦しさについ遁れようとする細頸を空いた手で掴んで、強引に舌を挿れ、矯正の嵌った歯列をなぞり、唾液を混ぜ合わせる。

くぐもった呻きとともに未熟な肢体がわななくと、屹立を弄んでいた掌が天辺を包み込むようにして、炸けた白濁を受け止めた。しかし鴇色の亀頭が間欠泉の如く二度、三度と子種を噴くと、指の隙から溢れて手首を伝い落ちそうになる。

聡子は名残惜しげに口付けを終えると、腕に絡む半透明の粘りけに舌を這わせ、猫が毛繕いでもするかのような格好で舐め取った。青臭い汁を余さずこそぐと、喉を鳴らしてから、手で口を覆って呆然としている章一に眼差しを返し、忙しく瞬きをする。

「もしかして、初めてでした?キス」

子供は口を噤んだまま微かに涙ぐみ、ソファーの上に畳んだカーゴパンツを掴んだ。例によってポケットティッシュを出して残滓を清め、元通り服をまとおうとして、脇腹が疼いたのか、また凍り付く。

「無理をなさらないで」

片えくぼになった人妻は、ガラステーブルにある紙箱からウェットティッシュを抜いて己の腕を拭うと、テレビを消してから、小さな客のシャツや下着を取り上げて差し出し、身につけるのを助ける。

ままごとめいた着替えを済ませると、少年は痩せた胸にランドセルを抱え、とぼとぼとリビングを後にした。情欲の火が消えた稚い顔立ちは、外に居た時よりいっそう虚ろだった。

女は瞼を伏せがちに、足音もさせず付き添う。玄関まで来ると子供靴をそろえてやってから、扉を開いて通りやすいよう支えた。だが相手が黙って戸口をくぐり過ぎようとする刹那、耳元にいたずらっぽく囁きかける。

「ミント味でしたね」

よろけた章一は、共用廊下の外壁に頭をぶつけそうになってたたらを踏んだ。靴音がいやに響いて、また首を竦めてから、振り返ると、ドアはしまろうとしている。

「では来週の土曜に」

歌うような台詞を結びに、206号室は閉じた。

しばらく立ち尽くしてから、大人びた咳払いをすると、ほんの数歩進んで207号室の鍵を開け、滑り込む。

たちまち馴染みのある暗がりが出迎えた。怪我したところを刺激しないよう、ゆっくり身を折ってスニーカーのマジックテープを剥がし、脚を一本づつ抜いてから、隣家よりずっと家具の少ない居間に入る。

テーブルに通学鞄を置いて、息を吐くと、卓上にあるタブレットを無造作に薙いでタッチスクリーンを明るくする。光が照らした容貌は、まだ能面のようなままだったが、双眸は幾らか光を取り戻しつつあった。

心臓が八つか九つ拍つまでじっとしてから、丸まっこい指先を走らせて、ダイヤルパッドを開く。一、一、〇と数字を入力し、発信しようとして、ためらう。

何かを待つかの如く固まっていると、液晶の縁に新着メールを示す点滅が現れる。とっさに人差し指を伸ばして叩くと、すぐに画面が切り替わった。

“今日は早く帰れる。食べたいものある?”

張り詰めていた表情はたちまち満面の笑みに変わる。暖かい春の雨に雪原が一瞬のうちに解け、下から花が咲きこぼれたようだった。少年は、今日起きた一切を忘れたかの如く、勢い込んでタブレットに叫んだ。

「お寿司!」

言葉は液晶に文章となって現れる。

またそれか、と頭を振ってみせる女親を脳裏に描きながら、少年は返信を送ると、仔兎のように跳ね、うかつな行為の代償に脇腹を庇ってうずくまる。

「いてて」

独りごちながら、にやつくのは止めず、細い肩を薄気味悪く震わせる。しばらくすると、照明も点けないままのリビングに、洋楽をまねた下手くそな鼻歌が流れ出した。


予告に違わず、母は夜の七時半に帰宅した。

夕食はスーパーで買った寿司と海藻サラダと、吸い物。よく味わおうとしても、手はつい次々に口へと運んで、あっという間に終わってしまう。けれど、デザートに枇杷が出ると、口寂しさはなくなった。

皿洗いと洗濯を一緒に済ませて、宿題を教わり、面倒な事がすっかり片付いたら、タブレットで双六をする。母が二度勝って、章一も一度勝った。もう少しとねだって、今度は折り紙で遊んでから、入浴と歯磨きの後、和室に布団を敷くと、例より早く横になる。

子供は天井の仄闇を見上げ、掛布の下でもぞつき、瞼を閉ざして、また開いた。女親がもう寝入ったかどうか、隣を窺って確かめたくなるのをこらえ、再び目をつむる。

「お母さん」

いつの間にか、唇が主を裏切って呼びかけていた。

「何?」

返事は醒めて、まだ睡みからほど遠かった。

「お父さんの病院てどこ」

尋ねてから、臍を噛む。

数秒が経ってから、落ち着いた声が応じた。

「外国」

「それどこ?」

答えが得られる都度、口の勝手な動きには拍車がかかり、次々と質問を紡ぐ。

「遠いところ」

「行けない?」

「治安がよくないから。章一がもっと大きくなったら」

「分かった」

少年は目をあけて、薄らと輪郭の分かる電灯の紐を凝視した。

「もしさあ」

「うん」

「お母さん一人だったら行ける?」

静けさが落ちたのを合図に、掛布をはいで上半身を起こし、並んで伏す母の方へ首をねじ向ける。

「もし寮のある学校行ってね。お母さん一人になったら、お父さんの病院行って、そしたらお父さん治るかもね」

「違う…」

しゃがれた喉で遮ろうとする女親に、子供は急いで言葉をかぶせかけた。長く喋るのに慣れていないせいで、抑揚がおかしかった。

「行ってみる。この前のとこ。あの、見せてくれたやつ。木がいっぱいあるやつ」

母の布団が動いた。起き上がろうとして、できずにいるようだった。

「試験落ちたらだめだけど。来週…の後、来週が終わったら、その後いつでもいいから受けたい。でもさあ」

章一はまた掛布の下に引っ込みながら呟く。

「給食だとお寿司ないじゃん」

唐突に隣から笑いが弾けた。咳き込むように始まり、やがて高らかに響き、次いでくぐもり、最後は鼻を啜る音が混じる。一分ほど続いたろうか、女親はようやく淡々とした口調を取り戻して語りかけた。

「転校の話、学校の友達とか、先生とかに話してない?」

「うん」

溜息を挟んで、語句が継がれる。

「じゃあこれからも話さないで。近所の人にも。誰にも」

「うん…?」

「絶対。約束して」

「うん。お母さん…」

「何?」

「手握っていい?」

「いいよ」

並んだ二つの布団の、盛り上がりが大きな方から、ひょいと腕が伸びる。小さな方からも同じように手が出て、畳の上で触れ合い、大きな方の指が小さな方を掴んでから、離れて、それぞれまた掛布の下に潜った。

「おやすみなさい」

「おやすみなさい」

朝までの別れの挨拶を交わすと、もはやどちらも口を利かなかった。

緊張の糸が切れたためか、疲れが少年の四肢を這いのぼり、腹から下、背筋の感覚を順に奪って、瞼を重くする。泥のような眠りに落ち込んでいく最中、啜り泣きが耳に忍び入った。夢で誰かが泣いているのか、現に自らが泣いているのか分からないまま、意識は忘我の淵へ沈んでいった。

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