乾いたグラウンドを囲んで立つスピーカーが、存在しない鐘の音とともに刻を告げ、周囲に谺を跳ね返らせる。数分の静けさを置いて、鉄柵とコンクリートの校門から色とりどりのランドセルが道に溢れると、角々に立つ青い制服と黄色い旗の指導員に駆り立てられ、さざめきつつ散っていった。 人気のなかった昼下がりの街並みを一時の賑やかさが満たす。けれど、路面に描かれた通学路の標識が尽きる当たり、辻に建つ焦茶のマンションまで来ると、児童の姿もほとんどなくなる。わずかに一人、古めかしい黒の通学鞄を背負った四年生ぐらいの子供が、やけにのろのろと歩いていた。 八葉製薬社員寮、とプレートに刻印のある集合玄関を入り、うつむいたままエレベーターの横を抜け、狭い階段を登って、二階の廊下まで辿り着く。 突き当たり奥、207号室とある表札まで進むと、立ち止まってランドセルを揺すり上げ、もたつきながら鍵を取り出した。ノブに差し挿れて回すと、金属の噛み合う耳障りな響きに、年寄りくさく顔をしかめてから、僅かにドアを引いて暗がりを窺い、すぐ閉じて短く溜息を吐く。 もう一度、冷たい把手を掴もうとして、ためらうようにまた痩せた腕を降ろした。 すると唐突に側で空気がふくらみ、バターの匂いを含んだそよ風となって吹き付ける。 「あら章一様」 声に振り向くと、隣の206号室とある扉が開き、エプロンをつけた背の高い女が顔を覗かせていた。 「おかえりなさい。今日もお母様遅いんですか?」 章一と呼ばれた子は、上目遣いになって、わずかばかり頷く。 「ですよね。うちの主人も。仕事忙しいみたいだけど、晩御飯の時間も分からなくて…」 長身の主婦は宙を仰いでぼやいてから、不意に表情を明るくした。 「どうせ夜までお一人でしょう?よければ今日も寄っていらして。丁度お菓子ができたところなんです」 そう誘うと、相手がたどたどしく断りの文句を返そうとするのも構わず、素早く腕を捉えて、意外に強い力で招き入れる。 少年はよろけながらタイル張りのたたきに踏み込んだ。背後で戸が閉まり、オートロックがかかる音を聞くと、ぎくりと肩を竦ませたが、仄かな焼菓子の薫りに気付いて力を抜き、屈んで靴を脱ぎそろえてから、勧められるままスリッパを履いて案内に従う。 艶やかにワックスのかかった木目に沿って歩きながら、先を行く方は肩越しに省みて尋ねかけた。 「鞄と上着、預かりましょうか?」 後に続く方はかすかにためらってから、今度はできるだけはっきり首を横に振る。 「大丈夫です」 居間に入ると、窓から眩しい陽射しが差し込んでいた。、部屋の主は目を細めて、小さな客にソファーへ腰掛けるよう促す。 少年は鞄を降ろし、ジャンパーを畳んで上に置くと、膝に拳を握って待った。すぐに花模様をした盆に載って苺のパイと紅茶が二つずつ運ばれてくる。白いカップと皿、銀のフォークと匙がガラスのテーブルに並ぶと、女がにこやかに隣へ腰を下ろした。 「お上がりになって」 「…ぃただきます」 フォークをとって口に運ぶと強く洋酒が香る。章一はとまどいながら顎を大きく開き、ブリーチのはまった歯を覗かせ、最初の一かけにかぶりついた。たちまち慣れない苦みが舌に広がり、慌てて紅茶に手を伸ばすと、添えられた濃いミルクを加えてすすり、味を和らげる。 もてなし役はといえば己の分には手もつけず、じっと様子をうかがっていた。視線に気付いた少年は急ぎ残りを平らげて、おずおずと口を開いた。 「ぉいしいです」 「よかった。うちの主人、甘いものあまり好きじゃなくて。章一様だけです、喜んでくれるの。あとね。実は紅茶のミルクも変えたんです。こっちは主人にも好評で…」 作り手はあれこれと指さして楽しげにさえずりながら、小さな味見役のそばに身を寄せる。エプロンごしに柔らかな乳房が華奢な体を押すと、最前まで菓子を頬張っていた容貌はほおずきのようになり、うなだれて呟きを漏らす。 「ぁの聡子さ…」 「ごめんなさい。料理の話、つまらないですよね。そうだ。この前のビデオの続き観ましょう」 聡子と呼ばれた女が軽く壁のテレビに指で合図をすると、すぐ画面が明るくなり、アップテンポの洋楽が流れ出す。章一がつられて顔をあげると、視界いっぱいに裸身が飛び込んでくる。 ぐったりした四肢がベッドに大の字に伸び、中心ではたわわな胸鞠が珠のような汗を浮かべつつ緩やかに上下している。肌を隠すものはほとんどないが、首から上は口の周りを除いてすっぽりと黒い革のマスクで包んでおり、ルージュを引いた唇の鮮やかさを際立たせていた。 ポニーテールに結った髪が頭の後ろから出て、蛇のように白い寝台にうねっている。肉付きのよい太腿の付け根は、錠前のような飾りが付いた面積の小さな下着で隠れてはいたが、前と後ろにそれぞれごつい円筒形の盛り上がって、淫靡な玩具の蠢きをかすかに伝えていた。 昼下がりのリビングには、まるでそぐわない映像だった。画面に釘付けになった少年の耳元を幾分かすれたささやきがくすぐる。 「ほらほら、お気に入りの奴隷の子」 BGMに合わせてカメラがあられもない姿ににじり寄ると、フレームの端から注射器が現れる。鈍く光る針が柔肌に近づき、浅黒い乳房の先へ左右順番に透明な薬を打ってゆく。覆面の口元が何かを堪えるように、食いしばった白い歯を剥き出す。 「ね。すごく気持ちよさそう。初めの頃あんなに嫌がってたのに」 言葉を合図に、テレビの向こうで覆面の雌が手首を反り返らせ、爪先を折り曲げ、シーツを掴んでもがいた。同時にたわわな胸から象牙色の滋液を噴きこぼす。犬のように舌を突きだして喘ぐ様は、苦悶しているようにも、強すぎる快感を持てあましている風にも見える。 画面の外から撮影している誰かの腕が伸び、小馬の尾のような毛房をつかんで引きずり起こす。続いて剥き出しの男性器が現れ、マスクの鼻面を小突いた。根元から先端まで無数の珠を埋め込んだ、奇異な形をしている。 視覚も聴覚も塞がれた奴隷は、匂いをかぐ素振りをしてから、おもむろにおとがいを開いて剛直をくわえ込む。口をすぼめ、首を激しく前後させながら喉奥まで受け入れると、深紅に塗った唇の端から泡と先走りを零しながら激しく扱き立てる。 いつしかリビングには、うだるような暑さがこもり始めていた。部屋の主は空いた皿や茶碗を盆に戻して静かに立ち上がると、早足でキッチンに入り、すぐ取って返した。トレイは持ったままだが、上に載っているのは録画の女が着けているのと同じ覆面だ。そっとテーブルに置くと、座ったまま縮こまっている客へ近づく。 「さ、章一様も脱いで下さい」 「っ…だめっ」 掌を突き出し、指を広げて制止する少年に、若妻は笑いながら首を横に振ると、顎で画面を示してたしなめた。 「そろそろ慣れて戴かないと。あの子にふさわしいご主人様になるためですから」 とたん、呪文にかかったように抵抗が止む。ほっそりした女の手がこれ幸いとハーフパンツをつかんで腰を浮かせ、下着と一緒に器用に引きずり下ろすと、たちまちいきりたった秘具が跳ね上がった。発育のよくない痩躯には不似合いな、隆々とした屹立。全体は淡い鴇色で、先端はまだ皮を被っているが、液晶画面を占領している剛直と遜色がない大きさをしている。 女は目を細めてから、黒革のマスクを取ってすっぽりと被ると、唇を三日月にゆがめた。滑るような光沢を帯びた無貌の面は、豊満な膨らみを包む地味なエプロンと、不思議な対比を為している。 「ふふ。章一様の大好きなあの子とおそろい♪それではご奉仕させていただきますね」 「ぁっ…ぁっ…」 章一は焦点の定まらない両眼で、画面と眼前、二つの覆面を交互に眺めやりながら、蛇に睨まれた小鳥のように動けないでいた。 仮初めに盲い、聾となった聡子は、映像の中の雌とそっくりに鼻をうごめかせ、すぐに張り詰めた性器を探り当てて、顔を近づける。幼い牡の匂いをいっぱいに吸い込んでから、巧みな指使いで亀頭を露にすると、すっぽりと唇で包み、わざとらしく音を立てて先走りをすすった。続けて雁首の辺りを舌でくるむようにして唾液を塗り込め、丹念に舐め上げてから、おもむろに頬張る。 全身で最も敏感な器官を襲う激しい刺激に、未熟な姿態は細かく震え、次第に呼吸を浅く早くしながら、なすがままになっていった。 大きなテレビのこちら側と向こう側で、そろって顔を隠した雌がそろって剛直をしゃぶり、ねぶり回す。二重写しの光景に、奉仕を受ける方は虚ろな瞳で瞬きを繰り返しては意味のないままやきをこぼす。二人が一人にも、また別々にも想え、すべてが霞み、朧になり、ただ腰から背筋にかけて寒けに似た熱が迸って、脳を焼き付かせた。 「ひぐっ…ぅっ…」 小振りな尻がクッションの上で跳ねた刹那、年齢離れした巨根がしたたか欲望のしるしを放った。女はおびただしい迸りを苦もなく口腔に収め、名残を惜しむようにゆっくりと硬さを失った肉筒を離す。唇と亀頭のあいだに銀の糸がつながって、窓から斜めに差し込む金の陽射しに妖しく煌めいた。 一方、画面の向こうの雌はぶざまにむせ返り、白濁を鼻からも唇からも溢れさせ、母乳の滴る肉鞠に零すと、咳き込みつつ逸物を吐き出した。粘液にてかる臙脂の唇を開き、荒く息を吐いてから、ようやく舌に絡んだ雄汁をカメラに晒して無言の媚びを示す。またフレームの端から男の手が伸びて、黒革で覆った頭を慰めるように撫でた。 奴隷は感謝するように結った髪を揺すって口を閉ざし、歯を磨いた後で漱ぐように左右の頬を順番に膨らませ、ゆっくり嚥下する。それから少しのあいだ俯いて肩をわななかせていたが、やおら四つ這いになり、双臀を重たげにもたげて何かをねだるように振りたくった。 男の平手が画面を斜めに過ぎって、白い尻朶を勢いよく叩く。覆面の女が背を弓なりにし、ポニーテールを揺する。尖ったおとがいが悲鳴を上げるように大きく開いたが、やかましいドラムやベースに紛れて何も聞こえなかった。 よく脂肪の載った双丘が腫れ上がり、ベッドに就いた両膝が今にも崩れそうに震えるようになって、ようやく打擲が止む。次いでいったん撮影者の手はカメラが捉える視界の外に退き、すぐに小さな鍵を摘んで戻ってくる。 先端の平たい銀の棒が、飾りのように思えた錠前に刺さって回ると、腰に食い込んでいた革の下着がゆるみ、たちまち前と後ろを塞いでいた玩具が抜け落ちる。菊座から現れたのは、子供の握り拳程もある球の連なりで、不規則に蠕動しつつ、順繰りに直腸の粘膜をめくらせて行く。同時に子産みの穴からも、無数のいぼが付いた極太の張型が暴れのたくりながら転び出た。 綺麗に整えた叢の芯に、ぽっかり二つの穴が開いて、僅かに伸縮しながら、腸液と愛液、ローションの混ざりものを垂れ流していた。 液晶ごしに演じられる荒淫の景色に、少年は呼吸を忘れ、言葉を失って、ただ魅入った。双眸は血走って濁り、射精したばかりの陽根はまた無毛の股間に勃ち返って、窪んだ腹を拍っている。 ややあってカメラが切り取った視界に、逞しい男の影が写り込むと、結った髪房を踊らせる女のなだらかな背に被さった。奇形じみた長竿が拡がりきった花芯を易々と貫くと、大きく分厚い掌がとうに朱に染まった尻を容赦なく撲ち、がっしりした腰が力任せの抽送が始める。 「章一様…どうぞ」 狂ったように上下するギターの旋律に、ふと爛れた誘いの言葉が滑り入って、霞のかかった少年の意識を、午後のリビングに引き戻した。 硝子のテーブルに半身をあずけた主婦が、ジーンズをずらし、ボリュームのある双臀を差し出している。画面の向こうの奴隷とよく似た、錠前付きの下着を穿いているが、背面は丸く刳り抜いて、ほぐれきった菊座を覗かせていた。下生えを刈り込み、内側を清めた蕾が、物欲しげにひくつき、林檎のパイに浸んでいた洋酒を何倍も濃くしたようなフレグランスを立ち上らせる。 章一はふらつきつつ立ち上がると、テレビ越しに見た行為を真似て、硬くなった秘具を菊座へ押し当て、沈み込ませていった。溶けた飴のようにぬらつく肛腔が、待ち構えていたように包み込み、きつく締め付けると、声変わり前の喉からか掠れた喚きが漏れる。 熱く脈打つ塊が臓腑をえぐる感触に、聡子もえづくように呻いて、卓上に倒れ込み、エプロンのかかった己の乳房を押し潰しながら、赤い舌を伸ばして虚空を舐めた。 「ぉ゙っ、深ぁっ…」 女の嬌声に煽られるように、少年は若柳のごとくたおやな腰を引くと、精一杯の力で打ち込む。充血した双眸は、映像の中で乱れ狂う雌と、現実に組み敷いたもう一匹とのあいだをさまよっていた。ふっくらした子供らしい唇は獣じみてめくれ上がり、金属の矯正が嵌まった皓い歯を剥き出しにして、細い顎からとめどなく唾液の筋を伝わせていた。 「おひりっ、たたぃてっ!!っぁっ…あの子みたぃに゙っ!!」 上ずった主婦の懇願に従って、童児の骨ばった腕が上がり、初めはぎこちなく、やがて強さを増し、ししおき豊かな太腿に折檻を加え、陶磁のような肌に紅葉を散らせる。たちまち小さな掌も蘇芳に染まり、腫れ上がっていったが、まるで痛みなどないかのように振り下ろし続ける。 昼下がりの居間に、腰と腰とがぶつかる響き、幼い手指が熟した臀肉を拍つ音、洋楽の忙しい旋律が一つになって跳ね返った。鏡映しのような覆面の女二人は、ともに首を揺すり、胴をねじり、四肢を撓めて、膣と腸を抉り削るような打ち込みに咽び啼き、足の指先から頭の天辺までを漣の広がるが如くに震わせて、ひたすらに官能を貪るようだった。 やがてガラスのテーブルに折り重なった大小の体を、瘧のような絶頂の戦慄が駆け抜けた。画面の向こうでも、ベッドの上でもがく奴隷が止めの一撃を受け、ひときわ激しく痙攣する。 撮影者は疲れを見せず、頽れた被写体をさらに二三度突き上げ、たっぷりと精液を流し込んでから放り捨てる。少年もまた二度目とは思えないほどの量を女に注ぎ、しばらくその背にしがみついていたが、ややあって後ろへ滑り落ちるようにして離れた。 萎えかけた秘具が粘った筋を引いて抜けると、白濁を含んだ菊座がつぐみ、赤らんだ双臀が微かにおののく。テレビの向こうでは、うつぶせに倒れ込んだ奴隷が、開いた両脚の付け根からだらしなく子種を垂らしていた。 テレビから流れる洋楽は終わりにさしかかり、単調なリズムを残して徐々に遠のいていく。ぺたんと尻餅をついた章一は、それを聞くともなく、画面のあちらとこちらでそれぞれ被虐に溺れる二つの肢体を、ぼんやり交互に眺めていたが、ややあって無意識にカーペットに掌を突いて眉をしかめ、膝立ちになった。 「大…丈夫、です…か?」 おずおずと、すぐそばに伏す相手に呼びかけたが、反応がないのを見て取ると、急いで近づき、後頭部にあるファスナーに指を伸ばし、おくれ毛を巻き込まないようそっと開いて、ゆっくり脱がせていく。むっとする熱気とともに、汗の匂いと微かなシャンプーの残り香が昇った。奴隷の装いが剥がれた主婦が首をもたげ、涙の跡に汚れた面差しを晒す。 少年は唾を嚥み、ずり下がったハーフパンツを覚束ない手つきで探ると、アニメ柄のハンカチを引っ張り出し、無言で渡した。女は陶然としたままべたつく額をこすり、形の整った鼻、薔薇色に染まった頬を清めてから、ふと握った手巾に眼差しを落として口元を緩める。 「立派なご主人様になるにはもっと厳しくなさらないと」 笑い諭しつつ、壁にかかった液晶に視線を転じる。録画の中では、撮影者のごつい手が被写体の柘榴に色づいた臀肉を執拗に抓り叩いていた。依然顔を隠したままの雌は、汗塗れの肩を痛みに竦ませながらも、躾の行き届いた犬よろしくうずくまったまま、雄の印にしゃぶりつき、後始末に勤しんでいた。赤く閃く舌を太幹に這わせ、無数の突起が付いた亀頭に巻き付けては、欲望の残滓をこそいでいく。 「そうだ。章一様のお掃除もさせていただきますね」 思い出したように呟いた人妻が、テーブルに肘を衝いて振り返り、数分前までつながっていた華奢な下半身にくすぐるような一瞥をくれる。童児はとっさに片手で露わな鼠蹊部をかばい、裏返った声で叫んだ。 「い、いいです!」 もう一方の手でポケットからティッシュを取って、しなだれた性器を拭うと、間を置かず穿いていたものを腰まで上げ、ボタンを嵌め直し、ジッパーをきちんと上げる。 「素早いですね」 聡子が乱れた髪を直しながら感心した表情を浮かべていいたが、だしぬけにテレビからのどかなオルゴールの音が流れるのを聞いて真顔になった。 「あら大変」 短く呟くと、覆面を盆に載せて背に隠し、章一も顔負けの速さでジーンズを直す。粗い布地が痣の浮かぶ尻を擦る感触に、一瞬頬を引き攣らせたものの、また穏やかな面持ちに返って、手櫛で鬢を整えて、エプロンの皺を伸ばしてから、画面に指を振った。 テレビに浅黒い青年が現れる。花崗岩を粗く彫り削ったような厳めしい造作で、縹緻は整っているものの、どこか未完成の像のようだった。太い眉を八の字に下げ、薄い唇を少し尖らせたところは、頑是ない童児めいた印象も与える。 “やぁハニー” 巨きな金管楽器を思わせる、低く深みのある声が届いた。録画ではない。たった今どこか遠い場所から発したごく親しげな挨拶。聡子は小首を傾げて、顎に指を当てると、優しく尋ねた。 「どうしたんですかダーリン?」 “やっぱり九時までに帰れそうにないよ。またミスが見つかってね。うちのシュガー…渡瀬主任にカバーしてもらったんだけど、もう大変さ” わざとらしい程に身振り手振りをまじえて話す男に、女は泰然と答える。 「最後の詰めですから。仕方ありませんよ。ご飯ちゃんと食べて下さいね」 “うん。ケータリングの中華か何か…ああ、ハニーの手料理が食べれないなんて” しょげかえった台詞に、くすりと小さな笑いが応じた。 「軽めのお夜食用意しておきますから」 傍らの少年は、夫婦のやりとりを交互に眺めながら、白昼夢に陥っていたかのように幾度か瞬きする。ふと眼差しを落とすと、トレイに載った革のマスクが飛び込んできた。すぐ隣には優美な丸みを隠したジーンズの後ろ姿がきちんと正座している。 帆布の袋に丸く大きな果実を二つ詰め込んで膨らませたように曲線を描く輪郭の、ちょうど谷間あたりは、うてた果肉から汁が沁みたかの如く濡れていた。数分前に直腸に注がれた精液が零れ落ちた印だ。 黒ずみは徐々に広がっていたが、主婦は何事もなさげに伴侶と他愛のない睦言を交わし続ける。 「アップルパイもありますよ。今日のは自信作です」 “オーケイ帰ったら試してみよう。ところでそちらは?” 画面の向こうの声が不意に疑問の調子を帯びた。 章一は、肋の奥で心臓が跳ね上がるのを感じ、思わず拳を胸に押し当てた。だが横にいる聡子はといえば、相変わらずの上機嫌で説明する。 「お隣の渡瀬さんところの章一様。パイの味見をお願いしたんです」 “ああシュガー…主任の。どおりでキュートだ。どうも初めまして。柳井浩介です” 皓い歯を覗かせて笑う男に、少年はおっかなびっくり頭を下げ、それだけでは足りないと分かるとか細く挨拶を述べる。 「わ、たらせ章一です。おじゃま、してます」 “はは君のホームのつもりで過ごしてくれよ。うん、やっぱりお母さん似だね。そう思うだろハニー” 膝の上で拳を握ったまましゃちこばる子供を、側の若妻はちらりと盗み見てから、小首を傾げて少し困ったように返事をした。 「さあ、まだ分かりません」 “おやおや。そうだ。主任も遅くなるし、晩ご飯はうちで食べていってもらったら?” 「章一様さえよければ」 弾むように進んでいく大人同士の会話を、黙って聞いていた章一は、やおらジャンパーとランドセルを抱えて腰を上げた。 「帰りますっ」 叫ぶように告げると、頭を下げたまま逃げるように早足で玄関に向かう。呼び止められはしないかと動悸を速めながら、靴に爪先をねじ入れ、踵をはめるのももどかしく、ノブに飛びつくと扉を肩で押した。半身を外へ出し、ふと立ち止まり、腰をひねって廊下の奥を省みると、もう一度口を開く。 「お邪魔しました」 後は鼬か貂の如くするりと戸口を抜けると、わずか五メートルと離れていない207号室の扉を掴んで素早く鍵を回し、半分も開かないうちに滑り込んだ。分厚い金属の板がしまり、オートロックがかかるのと同時に、大きく溜息を吐き、仄暗がりにうずくまる。 電灯も点けずにじっとしたまま、心臓が十か二十か打つのを聞いただろうか。腹の芯から奇妙なくすぐったさが膨らんで、肺を圧しやがて喉をひっかくと、甲高い笑いの発作になって噴き出した。ランドセルを抱いて丸まったまま、肩を幾度も扉にぶつけながら、酸欠になりかけるまで横隔膜をひくつかせ、ややあって宙を仰いで深呼吸をする。 ふと頬に生暖かさを覚え、無意識に手首の付け根の当たりでこすると、濡れた感触が伝わってきた。 よろけつつ立ち上がり、さっきまで訪なっていた家とそっくり同じ間取りの廊下を歩くと、脚の高いテーブルと椅子が置かれただけの、がらんとした居間に入る。卓上で古めかしいタブレットが緑色に点滅していた。 そっと手をかざすと、メールが一通開く。 “今日も遅くなる。先にご飯食べて寝てて” 飾りのない文面を睨んでから、少年は椅子を引いて飛び乗った。膝から下を何度かぶらつかせてから、テーブルに腕を組んで枕にすると、頬を載せてまぶたを閉じる。重い疲労が布団のように痩せた肩にのし掛かり、たちまち睡みが意識に闇の帳を降ろした。 日付けが変わる前、207号室の扉は静かに開き、独りの影を飲み込んで、静かに閉じた。オートロックだけが喧しく鳴る。 長い指がまっすぐ降りてパンプスのかかとを外し、形のよい足を抜いて、二つそろえてそっくり同じ色柄の靴の隣に並べた。灰青のスーツが掠れた衣擦れをさせ、ビニール袋が乾いた音を立てる。 「ただいま」 誰かに聞かれるのを恐れるかのような囁き。 屈んでいた背が伸び、頭が上がると、肩にかかる碧髪が揺すれる。廊下の向こうに明かりが点いているのを認めると、急ぎがちに進んで、居間に入る。 部屋の中央にあるテーブルには宿題のプリントと鉛筆、消しゴム。計算用紙で作ったらしい、できのよい折り紙の虎。ゲームオーバーの画面が浮かんだタブレット。半身をうつぶせていた子供が不意に跳ね起きて、頬に算数のドリルを張り付けたまま振り返る。 「んぉ…かえり…お母さん」 ろれつのよく回らぬ舌で出迎えの語句を紡いでから、顔についた邪魔っけな紙切れを剥がして、のろのろと片付けを始める。 母は軽く首を振って、手にした買い物袋を卓上の空いた部分に載せる。 「起きてたの章一」 「うん」 頷いた少年はバインダーにプリントをいい加減に挟むと、慣れた手つきで文具を筆箱に入れ、椅子の下に置いたままだったランドセルにまとめて放り込んだ。 もう一度首を振った女親は、別の椅子を引いてから、上着を脱いで背にかけ、腰を降ろした。 「ごはんは」 「食べてない」 「あれ。夕飯代あったよね」 「うん」 章一は食器棚に走っていくと抽斗を開けて紙幣を取り、駆け戻る。母は手振りで元のところにしまうよう促してから、また尋ねる。 「よく我慢できたね。おやつ食べたの?」 「うん…ううん…ちょっと寝てたから」 「そう。私もお腹減ったから。お寿司買ったんだ。スーパーのやつ。一緒に食べる?」 手元に袋を引き寄せながら問いかける女親に、息子は軽く飛び上がって答えた。 「うん」 「じゃあお吸い物作るから待ってて」 「やる!お母さんが待ってて」 宣言するや今度は台所に急ぐと、やかんに水を入れIH調理器にかけ、システムキッチンの抽斗をあちこち開けて覗き込み、勢いよく閉めて次の場所を探す。 「左の抽斗の奥。赤い入れ物に入ってる」 騒がしさを聞き咎めた母が教えると、少年はようやく銀の袋を二つ引っ張り出して調理台に置き、食器棚からプラスチックの椀を二つ取ってくる。湯気の立つ透明な吸い物を両手に、危なっかしくリビングに帰って来る頃には、卓上にはパックが広げられ、赤や橙や白をした握りや巻物がきちんと並んで、LED照明の光に薄ら煌めいていた。 「運ぶときにはお盆使いな」 「うん。食べても良い?」 注意に生返事をしながら、子供の視線はもうテーブルに吸い付けられている。 「お箸使いな。わさび入ってないのはこっち」 「うん。いただきます」 割り箸を分けて、あまり上手とは言えない持ち方で握ると、さっそくかっぱ巻きをつまむ。醤油もつけずに口に入れて細い顎を動かすようすに、女親はまた首を振った。 「それでおいしいの?」 「んぅ…うん。もっといい?」 「いいよ」 しばらく食事の音だけがする。十五分もすると、二パックの寿司がきれいになくなり、最初に子供が、次いで大人が椀を空にする。 「ごちそうさま」 「ごちそうさま」 片付けの機先を制して、息子はごみを掻き寄せると、椀を取って重ね、ふんと小さく鼻息を吐いてまた台所に持ち去っていく。 後ろ姿を見つめた母は急に顔を背けると、右の拳を口元に当ててから、脇に寄せてあったタブレットの上に左の掌を薙ぎつけた。 「章一」 「なに?」 「それ終わったらちょっと来て」 「うん」 洗って拭き終わった食器を棚に収めると、少年は女親の横に早足で近寄り、まだ僅かに濡れた手をテーブルに載せて重みを預けた。数秒のあいだ相手の顔色を窺ってから、液晶画面の方に眼差しを落とし、樹々に包まれた建物の写真と、学校法人といったロゴが映っているのを認める。 「これ?」 「前にここ面白そうって言ってたの覚えてる?」 「うん」 母は目の前のタブレットを注視したまま話を続ける。 「今転入生募集中なんだって。試験あるけど、受けない?」 語尾は奇妙に尾を引いて谺し、後には沈黙が落ちた。 キッチンにあるゴミ箱の方から、ひしゃげたプラスチックが弾ける音がする。少年は卓に両腕を立てたまま、床を蹴って、幾度か上に乗りかかるようにしてから、天井を仰いだ。 「ここに居たら迷惑?」 女親は息を呑んで、タッチスクリーンを暗転させた。 「そういう意味じゃない」 流れる黒髪が面紗のように青ざめた容貌を隠し、長い指がその中に潜り込んで表情を覆い隠した。 「また今度にしようか」 くぐもった声が告げると、章一は後退って、かたえを向き、のっぺりした壁に呟く。 「お風呂入れる」 返事はなかった。そのまま踵を返してリビングを後にすると、年に似合わない重い溜息を吐くと、洗面所に逃げ込む。浴室へ入ろうとして、ふと鏡台に視線を投げると、ひどく怯えた子供が見えた。 「お前死ね、馬鹿」 声変わり前の喉が吐き捨て、小さな拳が曇り硝子の戸を殴った。居間に聞こえないよう加減して。 |
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