Jade in Sands Vol.2

 オアシスエルフの隠れ里を支えていたのは、汲めど尽きせぬ地底の水だった。清々と繁る木々は、街じゅうを網目状に走る暗渠に根を漬しているお陰で、死の渇きを知らずに済んだのである。厚い礫層の下方、固い岩盤を貫いて滔々と流れる暗闇の川こそは、不毛の土地がかつて緑なす原野だった頃を忍ばせる縁であり、今は荒々しい自然を生きる人々にとっての命の源だった。

 見えざる大河は、沙漠に染み込んだ天水を集め、遥かな海まで繋がっている。燃え立つ太陽の届かぬ深みには、幾つもの支流が走り、地表に露出する箇所では、オアシスとなっていた。厳しい旅の疲れを癒してくれる清冷な泉は、巡礼によって大地母神リティヴィの慈悲と称えられ、隊商や遊牧民のみならず、追放者や盗賊団のような輩からさえ、等しく感謝の祈りを奉げられていた。

 実を言えば、こうした貴重な水場を創造したのも、女神ならぬオアシスエルフであった。縹渺たる黄褐色の広がりの只中に、たまさか水精ウィンディーネの気紛れの如く湧く浅池を、彼等が果樹や砂防林で固め、慰安と憩いの場として整えたからこそ、誰もが利用できる野営地になったのである。

 凡そ水と土を扱う業において、エルフに比肩しうる者は無かった。赤髪の妖精は、ただ知識に富むばかりでなく、華奢な外見からは想像もつかぬほど忍耐強い働き手だった。

 各氏族は初め、終わりのない仕事のために常若の生を惜しみなく挺し、皮肉を炭に変え骨をも焼くような日照りにも、千里を薙ぎ払う竜巻の群舞にも倦まず苗を植え続けたが、やがて個々に為した成果だけでは飽き足らず、沙漠全てを元の森に還さんとする希望を抱くと、また人間ならば気の遠くなるほど多くの歳月を費やして、互いの集落を秘密の道で結び、間に標として無数の井戸を穿った。

 伝承に"エルフの井戸"と呼ばれるこれらの設備を線で繋げば、塵芥の海底を縦横に走る地下水系の、完全な図が描けただろう。尤も大半は、同族以外の目に付かぬようカムフラージュを施されおり、約400年に渡って、造り手を除けば、注意深い遊牧の民砂漠族サーディアンのごく一部にしか位置を知られていなかったが。

 賢い砂漠族は、屡悪名高い略奪の徒でもあったが、しかし決して、木々の司が住まう処を暴こうなどとはしなかった。ただ耐え難い旱魃が訪れた年に限り、羊の群をエルフの井戸へ導き入れ、乾期をやり過すだけだった。井戸は、どんな暑い夏にも涸れず、1つにつきサーディアンの1部族を潤せた。

 だが皮肉にも、この偉大な発明は、最後の最後で翡翠の都を滅ぼす原因となった。

 異邦の騎士が、有りもせぬ財宝を狙って寄せた際、エルフの井戸は人馬の飲料を賄い、案内板の代わりを勤めた。指揮者である"赤い男爵"ことグノーフ・タンタクス卿は、オアシスエルフから妻を娶りながら、戦に臨んで彼女を拷問し、井戸の秘密を聞き出したのだ。 

 侵略軍の実体は沙漠の外縁に領土を接する人間諸侯の連合であり、総数は1800を数えた。太り返った腹の貴族は、サーディアンとは異なり、辺境の厳しい暮らしになど何の興味も無かったが、ただ長命種に対する盲目的な嫉妬と憎悪から、大規模な遠征を企み、エルフの習俗に詳しいタンタクス卿を司令官として、先遣隊を送り込んだ。

 かつて自身冒険者だったというこの奇人は、預けられた兵力をおよそ100〜150人程度の分隊に再編成すると、エルフの井戸を野営の拠点にし、次々飛び石のように伝わせる全く新しい行軍方式で、不可能と言われていた焦熱地獄の踏破に成功した。

 美々しい紋章つきの鎧を纏った盗賊の群は、翡翠の都の手前に集結すると、砂嵐が過ぎるのを待って森へと攻め入った。かくて都の住人は、実に森の誕生以来初めて、外敵に直面することになったのである。












 ジゼルは、枝から枝へ飛び移り、赤炎と黒煙の逆巻く方へと急いだ。腰に吊るした銀の細剣レイピアが喧しい鞘鳴りを立てる。だが少女の長い耳は、火事に混じる殺気だった物音に注意を向けており、ぴんと真直ぐになったままだ。

 興奮していなかったといえば嘘になる。赤髪に隠された明晰な頭脳は、当然ながら危険を認識していたし、自分が勝手な行動が、長老達を怒らせるだろうことも弁えていた。だが若いエルフの血潮は冒険の期待に沸き立ち、刺激を求める心は、上辺だけの理性などでは抑制できなかった。

 いよいよ熱が膚に感じられる辺りまで辿り着くと、いきなり目の前の枝を栗鼠の群が駆け抜け、ジゼルに足を止めさせた。周囲の雑木林はすっかり混乱と恐怖に満ち、置いていかれた野鳥の雛の怯え返った叫びに、獣達が下生えを踏み分ける音や、焦げた空気に噎せ返る息が交じり合っている。

「ひどい…誰がこんな…」

 答えは直に解った。眼下に5人ばかり、重装備の兵士が現れると、潅木の茂みに斧を入れ始めたのだ。切り刻んだ細枝を積み上げ、ある程度の山になった所で、ぱちぱちと爆ぜる松明を近づける。疑い様も無く放火の現場だった。

「あいつら…よし、火の精サラマンダーよ、不届き者の兜を焼け!」

 エルフの娘は、低く呟くと、そちらに向かって指を突きつける。枝に燃え移った炎は一気に勢いを増し、激しく逆巻いた。相手のやった事をそのまま相手に返してやろうというつもりだった。火柱が脅すように伸び上がり、兵士達を押し包むと、忽ち恐怖の悲鳴が上がった。

 にやりとするジゼル。だが次の瞬間炎は向きを変え、大きな緋色の手袋を形作り、真直ぐ彼女を指差し返した。慌てて身構えると、火柱からふいごのように掠れた声が漏れる。

"あそこだ、あそこに居るぞ、敵が居るぞ!"

 鉄兜の群が一斉に此方を窺う。慌てた少女はいそいそと木々の奥へ引っ込んた。

「ボクの魔法が、失敗するなんて…」 

 臍を噛みながら、取敢えず退却する。冒険の出だしからヘマをしたのでは何とも幸先が悪い。と、意識が脇へ反れていた性か、後に下げた踵が張り出しを踏み損ねた。妖精も木から落ちるというか、身の軽いジゼルにしては柄にもなく地面に落ちて、尻餅をついてしまった。

「うっ、最悪…」

 腰をさすりながら起きると、四方の茂みが葉擦れを立てる。危険を察したジゼルは目にも留まらぬ速さでレイピアを抜き放った。すぐに前方の茂みから、鉄具足の男が姿を顕し、彼女を一瞥するや忽ち野卑な笑いを浮かべる。

「ひょぉ、居るじゃねぇか。別嬪さんがよ、男爵様の仰った事もまんざら嘘って訳じゃねぇな…殿様方、エルフ娘ですぜ!」

 続いて鉄兜が1つ、2つ、3つ、4つと頭を出す。内2つは房飾りと面頬をつけている。騎士と従士、其に領土から連れて来た郎党という所か。暑さに汗みずくの顔立ちはどれも田舎臭く、鎧を脱いだら身分の区別はつきそうもない。

 剣呑な状況ではあったが、少女は些かも臆せず、ただがっかりしたように溜息をついた。物語に出てくる騎士とはまるで違う。当然といえば当然だが、何となく裏切られた気分だった。碌な連中ではなさそうだが、しかし一応目的は問い質しておかねばならない。

「貴方達は何?なんでボク達の森に火を点けてるのさ」

 答えの代りに、げらげらと神経質な笑いが返った。響きに篭った何かがジゼルを警戒させる。声の甲高さに反して、彼等の目は、少しもおかしそうではない。

 突然、房飾りをつけた鎧武者のうち、年長の方が剣を鞘走らせ、年若い方もすぐ倣った。残りは手斧を構えたままぐるりと獲物を取り囲むように広がる。

「殺すな…いいな…」

「ちょっと本気なの?オアシスエルフに手を出したら、沙漠中の水に口をつけられなくなるよ…」

「黙れ小娘が。貴様等蛮族共の土地に長く留まる用があるものか。お前達を狩り尽したら故国に、帰るまでよ」

 斧兵の1人が、黄色い歯を食い縛りながら、じりじりと間合いを詰める。

 生まれて初めて剥き出しの殺気を受け、ジゼルの白蝋のような膚にぽつぽつと粟が生じた。

「いいよ、本気なんだね」

 乾いた舌を舐めて、切先を斜に構える。左手を上げて、すっと空に泳がせると、膨らんでいた恐怖は消えていく。何度となく修練した剣技の型が、冷静さを取り戻させてくれた。

 雄叫びとともに男が手にした斧を横薙ぎに払う。退けば、後ろに回った敵の餌食になると解っていたので、跳躍して躱すと、宙で身を丸め、回転しながら鎖骨の近くに浅く斬り付けた。刃は過たず肩当の隙間に食い込むと、太い血管を切り裂いて、真赤な飛沫を噴かせる。そのまま軽業師か猫のように相手の背後へ降り立ち、呆気に取られた残りの敵に向って軽く舌を出した。

「わああ!!血が!!血が」

「手当てする時間は上げる。でも、とっとと失せるんだね。君達が何人居るか知らないけど、その腕じゃ痛い目を見るだけだよ」

「魔女め!」 

 憤怒の喚きに次いで、今度は年嵩の、恐らくは隊長格であろう騎士が、幅広の大剣を振り回して襲い掛かって来た。まるで豚のダンスだ。頭を軽く下げただけで、切れ味の悪そうな錬鉄の塊をやり過すと、きめの粗い鎖帷子に覆われた膝を一突きして、脇をすり抜ける。

「あはっ、のろまぁ…お前達なんかに、森を焼かれるなんて長老達も案外間が抜けてるな」

 蹲る甲冑姿を尻目に、軽やかな笑いを放って走り去る少女。すばしっこさでは叶わぬと見た従士は、急いで角笛を咥え、高々と吹き鳴らした。仲間を呼ぶ気だ。5人程度なら軽くあしらう自信はあったが、流石に援軍の面倒までは見られない。後は大人に任せよう。

「じゃぁね!」

 さっと近くにあった大樺の幹へ駆け登る。だが枝に手を掛けて樹上へ逃れようとした刹那、火をのついた矢が幾つも葉群を掠め、すぐ側にあった檜の張り出しに並び刺さった。慌てて振り返ると、すでに弩を携えた一部隊が到着している。

「逃げられんぞ小娘!」

 大陸共通語も、猛り狂った人間の口から聞くと野獣の咆哮のようだった。急いで緑陰に潜り込もうとする彼女に向って、さらに火矢が雨霰と撃ち込まれる。

「いい気にならないでよ!銀時雨ニードル・レイン」 

 樺の梢から、魔法の矢が応戦する。普通の娘なら怯え切ってしまう所だろうに、実に果敢な反撃だった。弦音が止んで、また禽鳥のような悲鳴が響く。

「焼け、焼き払え!」

 指揮官らしき者の号令に、ジゼルは舌打ちした。炎の回りが異常に早い。正体不明のプラーナの働きによって、生木が冬を寝かせた薪のような激しさで燃えてゆく。樺は何時の間にか灼熱の壁に取り囲まれていた。

「見よ!赤い男爵の守護が在るぞ!いずれあの雌猫めも燻り出されるわ」

 歓喜に満ちた叫び。赤い男爵という言葉が口にされるや、兵の間で一斉に鬨が上がる。

 エルフの少女はレイピアの血を拭って鞘に戻しながら、不審そうに眉を寄せた。赤い男爵といえば、幼馴染リフォルの嫁ぎ先、グノーフ・タンタクス卿の異称ではないか。オアシスエルフの外戚であり、盟友でもある貴族の名を何故、あの浅ましい襲撃者共が口にするのだ。

 確かにタンタクス卿は、炎の魔法を良くし、翡翠の都の長である"緑の手"のラファーロと並んで大陸に名高い魔導師であったが、温厚で学者肌の人物だ。彼が自分の軍団を火焔で守護して、妻の故郷に破壊や略奪を齎すなど、ありえようか。

 訝しむ間にも赤い舌は樹皮を舐めて伸び広がり、葉を縮らせて行く。徐々に煙が立ち込めて、息苦しくなった彼女は、かくては為らじと脱出のための魔法を唱えた。

浮揚フライ・クラウド」 

 華奢な肢体が重力から解き放たれ、ふわりと枝々を泳ぎ渡る。意志を集中させると、まだ火の手の及ばない若いブナの方へ、そのまま滑っていく。

 しかしこの浮揚の術には弱みがあった。宙を漂う状態では機敏に動けない。仕方なく煤に姿を紛れさせ、咳き込みながら、のろのろと進んで、やっとの思いで木と木の中間までたどり着く。

 不意に、膚を焦がしていた熱い空気が退き、視界が開けた。周囲の煙が不自然な形に捩れ、少女の姿を露にしたのだ。

「居たぞ!格好の的だ!撃て撃て!」

 ジゼルは初めて冷汗を掻いた。経験の浅い彼女は同時に2つの魔法を操れない。今矢を射掛けられたらどうしようもなかった。癪に障る話だが、見事に燻し出されてしまったようだ。

 必死になって速度を上げようとしても、所詮は半人前、亀の進みに変わりは無い。耳元や肩口を油っぽい色の火矢が掠め、唸りを残していく。

「馬鹿者!首から下を狙え!落すのはいいが、殺してはならぬ」 

「そんな無茶な…」

「女は殺してはならぬとのお達しだ。いいか、下だ、首から下だぞよ」

 助かった。あの脳たりん共が何を考えているかは知らないが、弓の狙いがでたらめだ。エルフの射手なら、第一矢で仕留める所だが、ぶきっちょな人間には無理な芸当らしい。

 何か嫌味を言ってやろうと首を捻じった瞬間、集中が切れて術が破れ、下降が始まる。

「この開きめく…らぁっ…!!?」

 落ちたら死ぬ。高さがさっきとは違う。恐怖に駆られ、早口に浮揚の呪文を繰り返すジゼルの元に、ひゅっと蔦の蔓が巻きつき、凄い勢いで炎と煙の中から引っ張り出す。

「逃げるぞ!あれは何だ!魔物か!」

 頭上を仰いで指差しあう射手達の足元で、今度は大地が波打った。灰と炭の散らばる土壌がまるで水のようにうねり、盛り上がり、凹み、ぱっくりと口を開く。

「ああ、木の根が、か、絡み付いてくる」

「くそっ、エルフの魔法だ。落ち着いて切り払え!ぐわぁっ」 

 斧を振り回そうにも、巻き付かれているのは己の胴だ。まさか二つにする訳にはいかないので、自然勢いが鈍る。もたもたしている内に、大地から飛び出した木の根は錦蛇のように鎧を絡めとリ、暴れる手足を封じ込めてしまう。

「ならば焼け!これも焼け!男爵のお力で、火が我等に燃え移ることはない」 

「と、とても出来ません…ああ、だ、ダメ、そんなとこ入ってこないで〜!」 

 むさ苦しい男が、揃ってくねくねと身を捩りながら悶える光景は、些かグロテスクであったが、根は彼等を絞め殺す代りに、あちこちから新芽を吹いて、瞬く間に花を咲かせた。爽やかな芳香が溢れ、いきり立つ軍勢を優しく包み込む。

「いかん…毒だ、毒霧だ、吸うな、焼け…焼けぇ…ぐぅ…zZZ」

「違う、眠り花だ、エルフの眠り花だ、吸うな、全部焼き払…すぅ…zZZ」 

「うーん、むにゃむにゃ、母ちゃん」 

 兵達を魔睡に陥れると、木の根は次に燃え盛る木の幹に巻きつき、引き倒し始める。焦土と化した側へ横たえると、延焼を防ぐ為に土を被せ、他方で即席の防火壁を盛り上げていく。

 まるで森が自ら火事を消し止めようとしているかのようだ。

 蔦にぶら提げられたジゼルは難が去ったと見るや拍手喝采、ついでにあかんべーをして溜飲を下げる。ややあって、すぐ傍の張出しが揺すれ、葉群を抜けて小柄なエルフが現れると、抑えた声音で耳元に囁いた。

「ジゼル様!何と危険な真似をなさるのです!相手は人殺しの兵隊ですよ。幾ら剣の腕が立つとは言え、独りで立ち向うなんて無謀すぎます。此方が間に合ったから良かったものの、あのままでしたら火に焼かれるか、矢に刺されるか…」

 くどくどしい喋り方も、今の彼女には福音である。花のような微笑を浮かべて、救い主の方を振り向くと、急拵の枯葉衣を身に付けた男の子が精一杯厳しい顔をしようとして、ぎゅっと眉根を寄せながら此方を見返していた。

「はいはい、ありがとレフィ。でもさ、意外にやるじゃない。ボク、君のこと見直しちゃったな。森の魔法ってのも悪くないね」

「とんでもない、こんな邪道な使い方など…さぁ他の兵隊が来る前に、戻りましょう。きっと木霊の林ドライアド・ウッズで父様や長老達が待っています」

「うん」

 少女は年下の少年の助けを借りて、蔦から抜け出すと、手を繋いだまま地面に降りた。灰を払おうと髪を揺すってから、服についた煤に気付いて顔を顰め、悔しそうに呻く。

「でも、こいつら何なのさ?格好は騎士みたいだけど…やることは最低だし…」

「解りません。長老達ならご存知でしょう。今は安全な所へ戻る方が先です」

 手を引いて足早に歩き出すレフィ。連続して魔法を使った為に、精神力をすり減らせたジゼルは、僅かによろめいて後に従う。少年は痛ましげな面持ちになって立ち止まった。

「辛いのですね」 

「平気だよ。レフィこそ顔色悪いよ。根っこを操ったりで、大きい魔法使い過ぎたんじゃない?」

 強がってみせるジゼルの仕草に、益々胸を締め付けられたレフィは、軽く膝をつくと、彼女の震える手の甲に接吻した。暖かいプラーナが少女の腕から胸へ伝わって、倦み果てた筋肉に活力を甦らせる。

「わっ、なに…」

緑の祝福グリーン・ブレス、簡単な回復の魔法です。きちんと勉強していれば、去年には習得なさっていた筈ですよ。今回のこともそうですが、ジゼル様の魔法は派手好みに偏りすぎます。もっと基礎を押さえて…」 

「あ、はいはい…」

 折角素直に感謝したい気持になっても、お説教が附いて来るのでは、げんなりさせられる。少女が疎ましげな目つきで睨むと、少年は尻窄みに言葉を打ち切って、また歩き出した。いつもならもっと粘るのだが。

「ねぇ、ボクより、レフィは本当に大丈夫なの?」

「ええ…ちょっと…ただ、森が…」

 声が震えている。ジゼルはすぐに合点が行った。森を焼き討ちされた所為だ。他所から翡翠の都に預けられた彼女から見ても、人間達がやったのは、"酷い事"なのだ。生まれてからずっと此処で暮して来た少年には"耐え難い事"なのかもしれない。

「レフィ…」 

「あの樺も、隣のブナも、全部名前を知っていました…いずれ暇を見て、ジゼル様にもお教えしたかった。彼女達は…とても気立ての良い樹で…沢山の雛を巣立たせて…餌を運ぶ母鳥の歌を良く知っていたんです…つまり…」

「うん」

「翡翠の都で樹が育つには、とても、とても長い時間が掛かります。彼女達は、都がまだ小さなオアシスだった頃も覚えていて、良く物語ってくれた…もし無事だったら、これからも、ずっと…なのに…あの、最後の悲鳴が…耳に…」

 樹が悲鳴を上げるなど想像もつかないが、レフィの耳には、兎に角もそう聞こえたのだろう。ジゼルもオアシスエルフではあったが、"翡翠の都"の住人達が持つ、樹木への愛情には、驚かされるばかりだった。

 暫くすると、少年は我に返り、弱々しく微笑んでから、また脚を動かし出した。

「…過ぎたことを嘆いても仕方ありませんね。樹は兵隊が去った後で植え直せばいい。あと、300年もあれば元通りになりますから…ジゼル様が、樹木の知識を学び終えてから、いつかまた此処へ戻ってこられるなら…きっと背の高いブナや樺を見られますよ」

「あ、うん」

 すっかり気を呑まれ、少女は大人しく相槌を打つばかりだ。会話しながらも、エルフ達の足取りは速い。羚鹿か野兎宜しく、潅木や茨の藪、滑り易い茸や苔を避けて、獣道を辿っていく。

 ジゼルは、先程の回復魔法が効いたのか、多少大股になってレフィの隣に並んだ。 

「レフィはさ、リフォルみたいに、外へ出たいって思った事ないの?」

「どうしてですか?」

「だって…割と魔法も使えるしさ、何なら将来ボクのパーティに加えて上げてもいいかなって」

「ジゼル様のぱーてぃ?冒険者の話ですね。争いは苦手ですし…あ、でも、東のディセファラスには珍しい草花があると聞きました…ご一緒させて貰えるなら、いつか見てみたいな」

 照れながら呟くレフィの横顔は、結婚の夢を語っていた頃のリフォルと良く似ていた。ジゼルはこそばゆい感じで、話の接穂を見失ってしまう。幼い2人は、初めて互いの気持が通じ合った事に、幾分戸惑いを覚えていた。やがて少年は頭を擡げ、木に刻まれた印を読み取ってから、連れに宣言する。

「そろそろ木霊の林に入ります…ここまで来れば、長老達の力で…」

 突如前方の木々の奥で、爆発と閃光が起り、台詞をみなまで言わせなかった。2人はぞっとして顔を見合わせる。炸裂音は正に木霊の林の方角から聞こえた。

 人間達の別働隊が、2人より先に木霊の林へ到達していたのだ。












 赤い男爵は、嘆かわしげに頭を振りながら、捕虜の前を左右に往復していた。消炭のようにになった木々の間では、マッドゴーレムの素焼きや火矢に射落とされた猛禽の屍が無言の内に激戦の跡を物語っていた。

 半壊したエルフの館の玄関には、長老達が、縄を掛けられ、首を低く据えられていた。何れも美しい女ばかりで、淡い黄緑や控茶色のドレスを纏い、虫食いのようにあちらこちら黒い穴の空いた裳裾を、地に垂らしている。

 だが真紅の甲冑を纏ったグノーフ・タンタクスは掠り傷すら負わず、マントに煤さえつけていない。元々戦いを好まぬオアシスエルフが何人集まろうと、戦闘に慣れた元冒険者の魔導師に勝てる筈も無かった。

「ええと、鳥の司、獣の司、薬の司、水の司、樹の司で長のラファーロ君は亡くなったので、風の司、最長老の土の司と。ご婦人方、はい、その、全員お揃い、ですよね?」

 薄ら気の無い愛想を使う優男が、しかしとんでもない毒蛇であることは既に判明した通りである。だが囚われの乙女達は、死んだラファーロのようには怒りを露にせず、ただ冷たく澄んだ凝視で応えただけだった。

「あー、何か、まぁ、お話をね、そう、しましょう。こう、間が持たない、と、気まずい、ですから」

 グノーフが困ったように訴えると、中で独り、鷹のような目をした女が、淡々と云う。

「これ以上何を話すことがあるのです。炎の運び手よ」

「おお鳥の司のリュフェール。相変らず、はい、お美しい。どうでしょう?貴女の、夫の、思い出、とか。娘さんの、はい、近況とか?」 

「若いラファーロは貴方の計略に乗せられて死にました。1対1で戦えば決して負けなかったでしょうけれど。娘は、リフォルは…お前に死より酷い目に合わされた…満足ですか?」

「いえいえ、そんな、あの…では、ええと、土の司ルハゥレア、貴方の息子さんの、立派な、散り際など?」

「名前を呼ばれたくないわ。がらんどうの心を持った人間よ。ラファーロは、愚かで、短気で、人を信じやすい性質でしたが、お前に侮辱されるような子では無かった」

 鋭い剣突にも、男爵は全く怯まなかった。義理の祖母や母を前に、相変らず八の字に曲げた眉を蠢かしながら、短く2度手を叩く。召喚に応じ、木々の陰から、妊婦のように膨らんだ腹を持った女エルフが姿を顕した。

 乳首や陰核にピアスを嵌め、凝乳のような膚に返り血と愛液を浴びて、妖しく笑っている。彼女はリフォル、かつて翡翠の都の花と呼ばれた姫君のなれの果てだった。

「リフォル、お母様や、お祖母様を置いて、んん、何をしていたんだい?」 

「うひっ、ごにんのおばさま、ろくにんのいとこと、じゅうはちにんのはとこ、えへへ、それからぁ…」 

「こらこら、それは、なんか、何の数字なのか、まぁ、うん、皆に、解るように、説明、そう、説明してくれないかな…」 

「ひゃい、わたしが、いま、ぶるーすらいむをうみつけた、おんなのこたちの、すーじですっ!みんな、くるっちゃって、むこうで、ぐちゅぐちゅに、だきあってるの。おとこたちの、したいの、よこで、ばかみたいに、ゆみとか、けんのつかとか、あそこにいれてぇ」

「そうか、じゃあ、やっぱ、もう、充分だろうね?」

 夫の問い掛けに対し、妻は力一杯首を振って否定した。自分で秘裂と肛門を押し広げ、腰を屈めると、甘ったれた声で先を続ける。

「だめなのぉ、もっとうむの!うみつけるの、だってうみつけるそばから、どんどんどんどん、ぶんれつして、まえよりおなかくるしくなっちゃうんだもん」 

「でもね、いや、此処には、もう、君のお母様やお祖母様しか、なんていうか、残ってないんだ」

「だって、うみたい、うみたいもん!」

 やれやれと言った表情で、グノーフが長老達を振向く。

「どうでしょう、その、妻が、ああいって、居るのですが」 

「その子を少しでも近づけて御覧なさい。私達は舌を噛んで死にます」

「やだぁ!おかあさまひどい!」 

「そうですね。どうでしょう、その、お祖母様は」

 土の司を務める最長老は黙して答えなかった。歳月が、彼女に悲惨と向き合うだけの強さを与えていた。孫娘の哀れな姿は心を掻き乱したが、上古の破神戦争の記憶を止める数少ないエルフには、全てが"起り得ること"であった。

「グノーフ・タンタクス…お前のような者が絶えない限り、大陸は滅びの道を歩むでしょう…」

「あー、長上の、ご意見として、その、謹聴…いたします。しかし、その、何が?」

「かつてこの沙漠を作り上げたのも、魂砕きの魔薬を生み出したのも人の業。エルフが緑を甦らせる努力も、魔薬を追放した苦悩も、後から生まれたお前のような者によって容易く覆される…もし人がエルフを滅ぼしたら、世界を建て直そうとする種族は居なくなるでしょう…滅ぼすだけのお前達は、その果てに何を見出すのでしょうね」

「はは、何か、その、勘違いを、しておられる。古いものをね、保つだけのエルフと違い、人間はね、つまり、新しいものを、発明し、失われたものを再発見する、うん、そうですよ。沙漠さえ生み出す力、素晴らしいじゃないですか?エルフには、ええ、絶対に出来ない。魂砕き、これだけ精緻な薬を、長生きだけが、いってみれば、取柄の種族が、作れますか?」 

 ふっと、年老いた乙女は笑った。それは、にがく、重苦しい笑いだった。

「人が生み出した物。或いはそう自慢したがる物。それが破壊以外の何を齎したというのです。お前達は己の意志で破壊を止められない、出来損ないの種族、大地母神の鬼子です。何れ気付くでしょう。海も山も河も、取り返しのつかない程傷つけた後でね…」

 土の司の言葉は、予言の響きを帯びていた。信じようと信じまいと構わない、だが真実であると、そう告げていたのだ。彼が誇りとする知性の働きや、生命への情熱を、丸ごと否定するような言葉だった。あたかも、人類という種族全体が世界に毒を撒き散らし、破壊の大きさによって自ら悦に入る、醜悪極りない虫けらだとでもいうような。男爵は強く歯を噛んだ。

「無駄口が、ええ、過ぎましたね。妻が、焦れています…おやり」

「もう、むずかしーはなしばっかりするからぁ、そのあいだに、ぶるーすらいむまたふえちゃったんだから」 

 空気をぱんぱんに詰めた風船のような腹を抱え、リフォルは長老達に近付いていく。母は猛禽の双眸を怒らせ、青褪めた顔で叱咤を飛ばした。

「リフォル、お前が近付けば、私は死にます!」

「ちかづかないよう…みててね、おかーさまにはつかえないまほーだよ♪ほつれ根タングル・ルート」 

 大地が波立ち、木の根が突き出した。白樺のような乙女達の細い手足を、黒土に塗れた根が捉え、あでやかな衣装を破りながら内側へと侵入する。何か叫ぼうとした鳥の司の口元へ一本の根が押し入り、顎をしっかりと固定した。もう自決も不能である。

「えへへ、しっかりささえててね。まずはおかあさまからだよ。あーんしてねー」 

 数本の根がぎりぎりと頤を開かせる。娘は母の真上を跨ぐと、腰を落とし、濡れ爛れた下の口で、上の口にキスをした。はぁっと排泄の恍惚にも似た喘ぎを漏らし、膣内のスライムを口腔へと分娩していく。

「んんー!!んっぐぉぉほっ…」

「おかあさまは、さいごまでわたしのけっこんに、はんたいしたよね。ばつとしてー、みんなのにばいうみつけまーす」 

 女は水鳥のような喉を痙攣させて、望まぬ異物を嚥下していく。吐き出そうと嗚咽しても、スライムは自ずから食道へと侵入し、胃の腑へと滑って行った。

 麻薬の効果はすぐ現れた。縛めを引き千切るようにして、女の身体が跳ね、滅茶苦茶に首を振り始める。娘は母の狂奔を満足げに見下ろすと、ゆっくりと腰を上げた。

「つぎは、おばあさま。いつもきれいで、おちついてて、ふふ、でもすこしきびしいおばあさま。おばあさまがくるっちゃうところ、わたしみたいな♪」 

 最長老は何も出来ないまま、死よりも悍しい運命を受け入れるしかなかった。彼女は遠い昔に、同じスライムを植え付けられた友人を剣で殺した経験があった。それは慈悲の行為だったが、今は自分にも同じことをしてくれる誰かを望まずには居られなかった。

「こわいかおしないで?きもちよくなるんだから、なにもわるいことないよ」

 リフォル。彼女も嫁ぐ前までは、快楽よりも大切なものがあることを良く心得ていたのに。自由な意志や尊厳を失うならば死の方がましだというエルフの矜持は、魔薬の前に脆くも崩れ去ったのだ。

 孫娘が後孔を広げ、無理矢理唇に押し付けて来る。舌に、ぬめった、ねとつく感触があって、絶望に形を与えたものが入り込んだ。眼底から脳の奥へ痺れるような快感が走り、理性は水を被った砂の城のように、ぐずぐずに崩れる。最後の光が消え去る寸前、彼女は心の中だけでそっと、昔失った愛人の名を呼んだ。

「おばあさまったら、した、いれて、たべてるよ。すらいむたべちゃってる。くいしんぼうさんだね。どうしようグノーフさまぁ。ほかのひとたちのぶんぜんぶたべられちゃう」

「はは、簡単だよ。お母様と、えと、お祖母様の、縛めを解きなさい、ね?2人にさ、要はね、他の4人の、長老を、わかるだろ?植付け、そう、植付けさせれば、いいんだよ…リフォルには、もう、あの、新しい、仕事、仕事が、出来たしね」

「なになにぃ?」

「うん、今ね、その、僕のさ、ほら、結界があるだろ、それにね。新しく2人、獲物が掛かった、みたいなんだ?ひとりは、ジゼルちゃん、じゃないかな…捕まえに行こうよ?ね?」

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