Hell on the Earth Vol.4

戦いの嵐のあと訪れた凪。荒れ乱れた古城の一画。空き部屋に寝台を運び込んだだけの、にわか造り施療室に、一つの家族が集まっていた。

母の手が、子の額に模樣を描く。もつれからんだ蔓草のように、複雑な曲線の重なりを。いとけない顔は瞼を閉ざし、規則正しい寝息とともに、奇妙な装飾を受け入れている。

「これで、しばらくは大丈夫だと思います」

ロンダルキアの闇后は、顔料に染まった指をシドーの肌から離すと、振り返って告げた。背後に控えていた王は組んでいた腕を解き、昏々と眠る長男を眺めやった。隣には次男が立ち、張り詰めた面持ちで、片割れのようすを窺がっている。

ズィータの硬い表情から、濃い懸念を読み取ったトンヌラは、静かに言葉を補った。

「また…邪神の像の波動が強まれば、僕の魔法では抑えきれないかもしれません」

「そうか」

夫がぽつりと呟くと、妻は小さく息を吐いて問いを返した。

「魔族の皆は…」

「動ける奴は里に戻らせた。デビルロードどもは正気に戻って、サルの側に居る。暴れられないように鎖に繋いでくれ、だそうだ」

「…じゃぁ…」

「…カリーンのところには、俺だけで行く」

竜王の宣告に、妃はすぐ腰を上げた。裳裾の皺を伸ばしてから、伴侶に向き直って応じる。

「すぐ準備します」

「俺だけで行くと言ったはずだ」

「え?」

当惑する妻に、夫は淡々と述べた。

「お前は来るな」

「…どういう意味ですか?」

「今度の相手は面倒だ。いつもと同じって訳にはいかねぇだろ」

「だったらなおさら二人で…」

ズィータは歯を食い縛ると、連れ合いを引き寄せ、耳孔へ突き刺すように囁きを注いだ。

「分からないのか?足でまといになるって意味だ!」

「なっ…」

「つくづくにぶい女だな…だから、破壊神を産む穴ぼこ代わりに使われてもへらへらしてられんだろうがな」

一句一句、軋るような台詞を聞くたび、トンヌラは黄金の髪をかすかに揺すって、おののいた。思わず身をもぎ離そうとしかけたが、背中にフォルの不安そうな視線を感じると、どうにかこらえて、小さく唇を咬む。

「カリーンのことを一番に考えて下さい」

「分かってる。あいつは大事な破壊神の器だ」

「いい加減にし…」

つい言葉を荒らげる妃を、王は冷たくにらみつけて黙らせた。

「だから!ハーゴンの手下如きに渡す訳ねえだろ。奴等だってカリーンを傷つけたりはしない。必ず無事に取り返す」

「変ですよ…どうして…そんな…」

「俺は…最初から何も変わっちゃいない…何もな。いいな。お前はここにいろ」

「嫌です!」

「命令だ。主人から奴隷へのな」

「っ!…卑怯です…」

「ああ。知ってただろ?」

夫は、項垂れる妻の両肩を腕で掴み、ゆっくり遠ざけた。次いで、固唾を呑んで見つめる息子を眺めやる。

「フォル。言っとくことがある」

「はい父様!」

「お前な。嫌なら王位なんて継がなくていいぞ。シドーもな。国なんて住んでる奴等が、適当にまとめ役でも選んで、話し合いで治めさせときゃいい」

「父…様?」

「だから船乗りだろうと、冒険者だろうと好きなものになれ。ま、親兄弟は大事にしておけ。あんまり手に入らんものだからな」

「な、何だよそれ!父様…!変な話しないでよ!」

「とりあえず今は覚えてだけおけ。じゃ、ちょっと行ってくる」

ロンダルキアの君主は、薄く微笑むと、家族のもとから足早に去っていった。


天を摩す山々に抱かれた宮殿から遥か、地底深き迷路の奥、瘴気に覆われた祭壇の下で、悪魔神官は供もなく、竜王の進撃を待ち受けていた。

濃い隈に覆われた双の眼を閉ざし、迫る対決を前に、降り積もった疲れをわずかでも洗い落とそうとするかの如く、淡い夢を貪っていた。

倦んだ心は、安らぎを求めて記憶を遡り、遠く幼き日へと辿り着く。

甦るのは別の情景。寒さとは無縁の常夏の島。眩い陽射しと、純白の砂浜と、黒々とした影を投げる椰子の木立ち。

けれど、あの時も独りきりだった。貧相な少年として、汀に打ち寄せられた流木に腰を下ろし、潮風を頬に受けながら、涙を流していた。

「どうしました」

低く、柔らかな声が尋ねかけきた。振り返ると、丈高い青年が、くたびれた法衣をまとって立っている。

「ハーゴン様…」

「何故泣くのです。我が弟子よ」

見習い神官はうつむいて、爪先を砂に捻じ込むと、声変わり前の喉から、ひどく子供っぽい高音で答えた。

「悔しいんです」

「どうして」

ハーゴンと呼ばれた若い師匠は問い返すと、童児の傍らに座った。そのまま前方にうねる紺碧の海原を展望しながら、のんびりと返事を待つ。

弟子は肘と肘がかすかに触れ合うのを感じて、大きく息を吐くと、また訥々と喋りだした。

「だって…ハーゴン様の…お気に入りの二人は…もう大きくなって…前線で戦っているのに…僕だけ…小さいままで…いつまで経っても…」

「そのことですか」

シドーの大祭司は手を尖った顎にやると、微かに瞼を伏せて、穏やかに語句を紡いだ。

「前にも教えましたね。それは、あなたが小さな頃から竜の血を味わったため。ローレシア太后の毒味役として、長く若返りの薬を摂らされていたからなのです」

「…こんな…出来損ないなら…救って頂く価値なんかなかった…僕は…役立たずです…」

苦しげに吐き出す少年に、側に腰かけた青年は困ったような笑みを浮かべる。

「結果として、あなたを作ったのは私です。あなたが出来損ないだとすれば、私の責任ですね」

「いえ!そんな…」

弟子が慌てて手を振ると、師匠は厳かに諭した。

「あなたは出来損ないなどではありません。若い脳は、綿が水を吸うように物事を学べるのです。あなたは、ほかの人の倍も、修練の時間が与えられているのですよ」

「でも…」

「あの姉弟は私の忠実な手、教団の強き両腕。しかし、あなたは無尽の智を蓄えた頭脳となるのです。ロンダルキアに戻った暁には、あなたは王の補佐、宰相として働いてもらいますよ」

少年はぱっと顔を明るくすると、立ち上がって勢いよく頷いた。

「はい!ハーゴン様が王になられるなら!僕はきっと…」

「おやおや誤解しているようですね」

「え?」

「王になるのは私ではありません。別の方です」

「…どういう意味ですか?」

ハーゴンは足元に眼差しを落とすと、どこかぼんやりと呟いた。

「…私にも分かりません…しかし予感がするのです…きっと…ロンダルキアは…再び相応しい主を戴くでしょう…古の竜王の如く…武威と叡智と、仁徳を併せ持った…そんな…誰かが…」

「ハーゴン様より偉大な方など居られるはずがありません!」

「…もっと賢くなりなさい。情に溺れず、理で判断するのです。真に仕えるにふさわしい相手を選ぶのです…今ならまだ…間に合います…あなたは…生きなさい…未来を…」

はっと悪魔神官が顔を上げると、シドーの大祭司は、悲しげに微笑みながら、消えていくところだった。同時に辺りの明るい光は徐々に薄らぎ、漆黒の闇に彩られた洞窟が再び視界いっぱいに広がった。


睡みから覚めた青年は、濡れた頬を拭うと、懐から仮面を取り出してしっかりと被った。

「…受け入れよというのですか…あなたを殺めたあの男を…いいえ、できません。あなたのいない未来など、欲しくはない。この地にハーゴン以外の主など在ってはならないのです…もしロンダルキアが奴を認めるのなら、私はこの国…この世界…すべてを滅ぼしてみせます!!」

階段を一つ一つ踏み締めて登ると、頂に横たえられた少女の裸身に視線を落とす。

「…間もなく…破壊と再生の神は顕現する…創始の姿で…大いなるジェノシドーとして…」

合図をすると、暗がりから僧服の同胞が幾たりが進み出る。統領たる悪魔神官は順繰りに仲間を眺め渡し、かつての師と同じように穏やかに下知した。

「目覚めの時まで、決して巫子を脅かすな。姫君の心に恐怖や憎悪が生じれば、ジェノシドーはただ殺戮の相のみを映じ、我等を滅ぼすだろう。いかなる危害も加えてはならぬ。ただ温かな眠りのうちに留めておくのだ」

神官たちは承った証に次々に聖印を切った。

「…この命に換えても」

「大神の依代を守ろう」

「頼んだぞ…」

青年は告げ置いて、踵を返すと、足音もさせずにきはざしを降りていった。だが最下段まで来て、不意に誰かが近付く気配を察し、さっと頭をもたげる。

「ローレシア人…」

剣の国の密偵が、洞窟の壁に這うやもりのように密やかに忍び寄っていたのだった。しばらく目を離していたあいだに何があったのか、顔に包帯を巻いているが、いたって闊達そうなところは変わらない。

「くく…さすがにピリピリしてるねぇ?俺に気付くなんてさぁ」

「ここに立ち入るな…儀式は重要な段階にあるのだぞ…」

「とか言ってぇ…ご馳走から俺を遠ざけておく方便じゃなかろうなぁ?」

「…この…愚かものめ…」

神官がうんざりして首を振ると、戦士は含み笑いして語句を継いだ。

「それより…来たみたいだけどなぁ?…怖い怖いドラゴンが…」

「そうか…」

掠れた声で呟く青年に、壮漢はにやつきながら台詞を続ける。

「洞窟中から魔物の気配がなくなったぜ…あのメタルハンターとかキラーマシンとかいうからくりどもまで、目をちかちかさせておかしくなってやがる。勝ち目はあるのかい?ズィータ相手にさぁ」

「ある…こちらにはアトラスが居る」

「あんなでくのぼうを操ったって、どうにかなるとは思えないがなぁ」

「…さてな…兎に角、貴様は大人しくしておけ」

不敵に応じる邪教徒の長に、ローレシアの元剣術師範は面白がるような眼差しを送る。

「そうさせて貰うがねぇ…まぁせいぜい頑張ってくれよぉ?…俺としちゃぁ、お前さんよりぃ、ズィータが死んでくれた方が嬉しいからさぁ…」

未来の妻、トンヌラを手に入れるためにも。密偵は内心そう独りごちて悦に入る。

シドーの祭司は、ほとほとうんざりと協力者を眺めやってから、長衣を翻して、迷宮のほかの部屋へと続く戸口へ向かった。そこから曲がりくねった隧道を抜けた先は、魂を奪われた巨人アトラスが守る広間。竜王との最後の決斗の舞台だった。


百匹のドラゴンさえ容れられそうな、地下の円蓋。炎の精霊、フレイムが松明代わりにぐるりと壁際に並び、だだ広い闘技場を照らしている。

中央に立つのは長身の騎士。濃紺の鎧をまとい、破壊の剣を手に、黄金の双眸を、まっすぐ大空洞の一端、黒々と口を開いた横孔へ投げかけている。

待ち構えるのは、雲つく大鬼。橙の肌に毛皮の衣をまとい、巨樹の幹をそのまま引き抜いてきたかのような棍棒を携え、虚ろな単眼を、本来の主君に向けている。足元には、ハーゴン教団の正式な戦装束を着け、両手に棘だらけの鉄球を持つ、悪魔神官の姿があった。

「よく来たな竜王」

「カリーンを還せ」

二人の男は、抑えた口調で言葉を交わす。

「できんな。あの方はまもなく神として目覚める」

「ふざけるなっ!!がきだぞあいつは!!」

ロンダルキアの君主が叫ぶと、シドーの祭司は幽かに身動ぎした。

「そ…れがどうした。この世の地獄を舐めてきた我等だ。目的のためなら手段など選ばぬ!王子としてぬくぬくと育った貴様には分かるまいがな」

「…くだらねぇっ」

「ほざくな。我等は…貴様等ロトに…家を…親を…兄弟…奪われた…邪教徒、穢れものとして…出自のすべてを否定され…奴隷として偽りの人生を押し付けられた…」

神官は淡々と述べながらも、歩みを始めた。側を守るアトラスも地響きをさせながら床を踏んでいく。竜王も応じるように進み出た。双方のあいだに殺気が膨れ上がる。言葉をぶつけ合わせながらも、双方は先制の機会を窺がっていた。

「それを救ってくださったのが…ハーゴン様だ…あの方は…ズィータ…貴様を王に迎えるつもりだったのだ。もし…初めからあの方に戦うつもりがあれば…貴様など!!!」

「はっ!奴はひいひい喚きながら死んだぞ」

「ズィータ!!」

シドーの祭司が掲げた二つの鉄球のあいだを光が結ぶと、ロンダルキアの君主をめがけて閃光が迸った。ベギラマの呪文を詠唱なしで放ったのだ。

だが騎士は易々と一撃を躱すと、剣を振りかぶって神官のもとへ肉薄する。

刹那、横合いから棍棒が唸りを挙げて襲いかかり、竜王の足を止めさせる。金属と木質が噛み合って、不快な軋みを立てた。

邪神の像の妖力により、常の節義を失い、兇暴さを増したアトラスの打ち込みを、ズィータは完全に受け止めていた。それぞれの踏み締める足元から岩盤に蜘蛛の巣の如く亀裂が広がる。スドラゴンと巨人。いずれの膂力も拮抗するかに思われた。

「ルカナン!!」

均衡を破ったのは神官の術だった。腕が弱るのを覚えたロンダルキア王は、素早く得物をねじって、棍棒を傍へ逸らすと、飛び退ってから構えを突きにあらため、再び床を蹴った。刃を合わせずに素早く敵を屠る、容赦のない強襲。だが巨躯の脇腹を抉らんとした切先は、またしても阻まれた。

「スクルト!!」

淡い光の被膜が死の嘴を鈍らせる。シドーの祭司が唱える矢継早の魔法は、正確に騎士の戦術を読み、凌駕していた。呪文の抵抗にあって、微かに動きを遅らせたズィータの胴を、アトラスの武器が薙ぎ払う。青い鎧をまとった痩躯が宙へ舞い、重い響きをさせて背から地に墜ちた。

「がぁっ…!!!」

「バギ!!」

あおむけに倒れた竜王の上に、容赦なくかまいたちが降りかかる。ズィータは転がって躱し、素早く跳ね起きた。口から流れる真紅の筋を拭って、犬歯を剥き出すと、麻痺をもたらす咆哮を浴びせかけ、今度は自ら虚空に躍る。

大鬼の脳天へと振り下ろした剣は、先ほど受けた痛手のためか、僅かに狙いを外し、右肩へ埋まった。鮮血がしぶいて、黒髪を塗らす。頭部を潰せはしなかったものの、致死の一撃と見えた。

「ベホマ!!!」

だが割って入った回復の術が、瞬くうちに傷を塞ぐ。アトラスの筋骨は、しっかりと刃を咥え込み、根を生やした木の如くに固定してしまった。騎士が武器を引き抜こうと腕に力を入れるより早く、羽を広げたドラゴンフライほどもある分厚い掌が伸び、甲胄に守られた首を掴むと、高く釣り上げた。

「…あぐっ…!!」

頚骨が軋みを立てる。竜王は柄を握る手を離すと、拳を固めて、一角獣族の丸太のような腕を撲りつけた。

たまらず、巨人が獲物を放り捨てる。だが騎士が宙で受け身を取るより先に、またしても神官の朗誦が響き渡った。

「イオナズン!!」

呪文を避ける方法のない空中。爆炎が四方からロンダルキア王を押し包み、打ちのめす。

痩躯は岩盤の上に幾度も弾んで転がった。身を起こすいとまも与えず、さらにバギ、ベギラマ、イオナズンといった術が怒濤の如くぶつかる。

”がぁああああ!”

ズィータが奔らせる苦痛の叫びは、最早人間のものではなかった。

「そうだ!変身しろ!魔族となり、邪神の像に屈するんだな!」

悪魔神官は嘲りながら、鉄球を回して輝きを迸らせ続けた。両手にぎっしりと嵌めた祈りの指輪が次々砕けていくのに構いつけもせず、命を削りながら新たな術を編んでは憎き仇へ注ぎ込む。

「どうした竜王!それがハーゴン様を斃し、三騎士を従えたという貴様の実力か!?」

”グルルルル…”

もうもうと立ち昇る黒煙のあいだから、半ば鱗に覆われた顔が現れる。鎧の継ぎ目を轢ませながら、盛り上がった四肢が窮屈そうに動き、前へ前へと進む。ローレシアとロンダルキアの血を共に受け継いだ玲瓏の面差しは、ひどく歪んで、疑いもなく長虫の特徴を帯びていた。だが山吹の瞳だけはまだ、傲慢な意志の光を失っていない。

悪魔神官はおののきながら、逃げ出そうとする足を抑えて、太古の霊長に相対した。

「来い…竜王…変身しろ…そうして貴様と私の意志…どちらが勝るか…試そうではないか」

”…くそったれ…”

ロンダルキア王は唇を歪めると、シドーの祭司など目に入らぬように、頭上はるかな円蓋の頂を仰いだ。

”打撃と呪文…一緒に相手にすると、こんなに…面倒だとはな…やられてみるまで…分からないもんだ…俺だけ…剣だけなら…こんなものか…”

「まだ…理性が残っているのか…」

”一人で…勝ってきたつもりは…なかったが…な…ここまで…”

竜王の独白に、叛徒の長はかすかに逡巡して手を止めた。

ズィータは咳き込みながら笑うと、躊躇う敵に眼差しを戻す。

”俺が…竜になったら…邪神の像で抑えるつもりだったのか…”

「そうだ。もう貴様に選択肢はないぞ。このまま死ぬか。本性をさらすか」

”城の連中を皆殺しにするつもりはなかったんだな”

「…当り前だ」

”甘い野郎だ。てめぇにハーゴンの真似は無理だ。もうやめとけ”

「何を…!!」

”…カリーンさえ無事に返すなら…殺されてやってもいい”

静かに申し出た竜王に、悪魔神官は凝然として後退った。

「何の…つもりだ…古の竜王の…取引のまねごとでもする気か…」

”どちらか一つにしろ。神降ろしか、竜殺しか。両方ってのはむしがよすぎるだろ”

「黙れ!…ハーゴン様の悲願は…」

”あいつは言っていた。俺が、神降ろしをしたと知った時、『何と罪深い事を』とな”

「…!!?嘘だっ…」

”サマルトリア生まれの頭のゆるい半陰陽を利用して、孕ませたがきを破壊神の器にするなぞ、幾らあのいかれ坊主でも思いつかなかっただろうな…そういう意味じゃ…てめぇはハーゴンより俺に近い訳だ…”

「そんな…ハーゴン様は…私は…」

シドーの祭司の喘ぎを聞き流して、ロンダルキアの君主は歌うように続けた。

”欲しいのは俺の命だろう。あとはどうでもいいんだろうが?計略の立て方が投げ遣りだしな…途中で死んでもいいと思っていたはずだ。失うものもないし、どんな汚名を着せられようと…困る身内もいない…”

「知ったようなことを!!」

”何もかも失くし、生きている理由もなく…だが、ただ自殺するだけじゃつまらない…せめてできる限り大きな爪痕を、この世界に残していきたい…そうだろうが”

「うるさい!変身せぬならそのまま焼き尽くしてくれる!」

竜王は剣を投げ捨てると、あっさりと巨人の脇をすり抜け、神官のもとに辿り着くと無造作に肩を掴んで揺すぶった。

”俺と同じになりたいのか!!”

「ぐぅ…」

”カリーンを還せ…てめぇと俺と、ハーゴンの件は二人で片をつければいいだろうが…”

「私は…」

”お前は、本当にあんながきを犠牲にして平気でいられるのか!?あ゛ぁ゛!?”

邪教の仮面が剥がれ落ち、青年の血の気のない面差しが露になる。無理に使い続けた呪文のせいで、眼窩は髑髏の如くに落ち窪んで、肌は紙にようにかさつき、唇は蒼くなっていた。

「……っ…よし…よかろう…いずれにせよ私の儀式は…あの方とジェノシドーの不完全な結びつきを安定させるためのもの…あのままでは…暴走が始まっていたのだぞ」

”何だと…”

「貴様もロンダルキアの伝承を身につけたようだが…所詮は独学…城に留まった神官どもも秘儀には精通しておらんようだな…あの方はあと一晩は眠り続け、夢のうちでジェノシドーと一つとなり、目覚めた時には破壊と再生の両面を持つ神となられる…だが…姫君だけを起こし、神は眠らせ続けるように、儀式を変えられる…結びつきは不完全なままだが…以前よりは安定するだろう…」

”本当だろうな”

竜王が訊ねるのへ、悪魔神官は憮然と応じた。

「ハーゴン様ならともかく、貴様に私の知識を疑われる謂れはない。貴様こそ…約束を違えるなよ…あの方を還した暁には…その命正式に貰い受ける…」

”ああ。だから、さっさとカリーンのところへ案内…”

いきなり、ズィータが膝を就いて頭を抱えた。神官がぎょっとして手を伸ばしかけたところへ、傍らのアトラスが霹靂の轟くが如き唸りを迸らせる。

よろめいたシドーの祭司の胸元から、異形の竜を象った呪具、邪神の像が転げ落ちると、まるで生あるもののごとくのたうち、暴れて、翼をばたつかせてから、泥と化して溶け崩れた。

「何だ…これは…」

答えはすぐに訪れた。人間の耳にもはっきりと聴こえる、ジェノシドーの産声が、ロンダルキアの大洞窟すべてに谺したのだった。


カリーンは夢の中で、不思議な竜と向き合っていた。六本の腕を持ち、醜い顔をして、深く瞑想にふけるようすでうずくまっている。母が物語ってくれた父、紫竜の姿とも、兄達が教えてくれた、祖母たる白竜とも似ていないようだった。

ただ、山のような躰から母のような温かさと、父のような厳めしさが流れ込んでくるのだった。

”あなたは誰?”

問いは声を伴わずに届いたようだった。すると相手は薄ら瞼を開いて、答えた。

”我はシドー。シドーのもう一つの現れ。破壊か。再生か。汝はいずれを選ぶ”

カリーンはびっくりしてから、おずおずと返事をした。

”にいさま?”

”汝の兄よりも尚、強く激しきもの。より優しく穏やかなもの。それが汝にして我。ジェノシドーなり”

”え?え?”

”選ぶがよい。破壊の力か。再生の力か。世界はいずれを求めている。汝の覗く世界は”

”…どっちもいらない…だって…みんな、ちゃんと…やってるよ。たいへんなことばっかりだけど、ちゃんとやってるもの…だから、だいじょうぶだとおもう”

すると異形の竜はまた目を閉じた。

”ならば、また眠るとしよう。世界が破壊か再生を必要とする時まで、次の世紀。あるいは千年紀まで”

ロンダルキアの姫君は急に悲しくなって、鱗に覆われた肢の側へ駆け寄った。

”さみしくない?”

”我は満ち足りておる”

”そうなの…?でも…ながいあいだ、ねてたら…ひとりぼっちで…わたし…さみしい…”

”小さき化身よ。汝の気性はむしろ再生に向くであろう。願わくば、次の目覚めの時も、我が化身が汝のようなものであらんことを…では…”

”ま、まって…あの…もうちょっとだけ…おはなし…しませんか?め、めいわくでなければ…ですけど”

再び睡みに戻ろうとするジェノシドーを、カリーンはすがりついて引き留めた。まるで父と母が一度に居なくなってしまうような、心細さに襲われたのだ。

”構わぬ。汝の囀りは、我にとりて永劫のうちの一瞬に過ぎぬ”

”ほんとう?やった!”

カリーンがごつごつした竜の肌に頬擦りすると、大きな腕がおおいかぶさってきて、不器用に金髪を撫でた。

”小さき化身よ。愛を注がれ育まれしものよ。現世に汝の如き幼な児を傷つけるものが居らぬなら、地上という命の獄も、未だ滅ぼされるべき時は来ていないのだ”

”あ、はい…きずつく…っていうか…わたし、雪滑板(スノーボード)れんしゅうしてても、じぶんで木にぶつかってっちゃうんだけど…けがするまえに、バズズのおじさまとか、バーサとか、にいさまとか…かあさまとか…とうさまが…たすけてくれるから…”

”そうか。我も汝を助けるであろう。汝を傷つけるすべてを破壊し、焼き尽くし、棘なき薔薇のみを地の獄に再生するであろう”

”あ、ありがとう…なのかな?あの…それでね…このまえなんか、バズズのおじさまが…”

夢はそこで途切れた。なめくじが胸を這い回るような嫌な感触が、快い眠りを破ったのだった。両の瞼を開くと、醜くも慕わしい神の容貌は消えて、代わりに飛び込んできたのは、会った覚えの響い中年の男の、獣欲を剥き出しにした顔だけだった。

「なんだぁ?目を覚ましちまったのかぁ…まぁ、ちょっとは泣き叫んでくれた方がぁ?興奮するけどさぁ…なぁ?」

カリーンはぞっとして辺りを窺い、自らが一糸もまとっていないのを悟った。乳首の周りがひんやりするのは、なにかべたべたするものを塗りつけられたせいらしかった。男に注意を戻し、濡れた唇を見つめて、正体が唾液だと知る。

「ひっ…」

「かわいいねぇ…母親によく似てるぅ…そのうち並べて可愛がってあげるよぉ…とりあえず今日は…開通式で楽しもうかぁ…」

「いや…やめて!…誰か…」

「誰も来やしないよぉ…くく…神官どもはみぃんなぶっ殺しちまったからさぁ…」

暴漢が首をななめ後ろにねじむけて、顎をしゃくってみせた先には、僧服を緋に染めた男女が折り重なって倒れていた。

「あ…ぁ…ぁ…」

「お嬢ちゃんもおとなしくしてないと、手足をばらばらにしちゃうぞぉ?ま、だるまも悪くないけどねぇ…親子だるまってのも乙だよねぇ…くく…試してみるかなぁ?」

笑顔の殺人鬼は、身を引くと、石の寝台の縁に立てかけていた血塗れの剣をとって、ゆっくりと少女の素肌の上にさしかけた。

「どこからいこうかぁ?右手ぇ?左足ぃ?腹の肉をうすぅく削ぐのも楽しいよなぁ…?」

冗談めかした口調にこもる紛うことなき嗜虐の響きに、カリーンの本能が危険を訴えていた。股のあいだから尿がこぼれ、視界は泪に曇る。ロンダルキアの王族として、毅然とした振る舞いをすべきだと心の隅で叱咤する声があったが、四肢の震えをどうしても止められなかった。

男は恍惚としながら、少女の頬に口を近づけ、べろりと舌を出して塩辛い滴を舐め取った。

「いーい反応だ。ロンダルキアの女は皆化け物かと疑ってたが、まずはよかったなぁ…」

「助けて…助けて…バーサ…バズズおじさま…かあさま…とうさま…」

「誰も来ないってぇ…あの兇暴な雌猿は牢屋だし、抜け出せたとしても迷路に入り込んでうろうろしてるだろうし…お前の父親はぁ今頃アトラスとかいうでかぶつと殺し合いの真っ最中だろぉ?ほかの魔族はぁ邪神の像とやらの力でパァになってるしぃ…母親が来たら…くく…並べて肉便器にしてやるよぉ!!」

剣胼胝のできた指が、まだ膨らみもない薄い胸に食い込む。恐怖と苦痛と恥辱に啜り泣きながら、カリーンは心のうちで助けを呼んだ。届くはずのない、誰かに向かって。

「いいねぇ。雌の諦めた時の表情が最高なんだよなぁ!!それじゃぁいただこうかぁ!?」

ローレシアの密偵は、ロンダルキアの姫宮の細い両脚を割り広げて、無毛の恥丘を眼前に露すと、ゆっくりのしかかった。すると応えるように痩せた腕が、猪首に巻きつく。

「お?積極的になったって訳だぁ…淫売の素質十分だぁ」

”地の獄に住まうものよ…汝等は選んだ。破壊を”

少女は冷たく嗄れた声で告げると、両手で男の首をへし折り、無造作に床へ投げ捨てた。次いで起き上がり、小さな胸いっぱいに息を吸い込んでから、滅びの始まりを叫んだ。

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