二体のデビルロードは流れるように動いた。トンヌラが呪文を形にするより疾く距離を縮めると、左右から密着して、四肢をからませる。続いて両側から同時にうなじへ息を吹き込み、舌を伸ばして鎖骨のあたりをくすぐった。 たちまち双生の王妃は背を強張らせる。編んでいた術は終りまで誦えきらぬままに掻き消えた。かさにかかった妖猿のニ姫は、それぞれのしなやかな手を伸ばすや、獲物のたわわな乳房や、臍の回りを掴み、やわやわと揉みほぐしていく。 「はうう…ちょっ…本当に操られてるんですかぁ!?…ぁっ…もっ…」 「何やってやがる…」 見守る夫が不興げに呟くのを、耳ざとく聞きつけた妻は、頬を染めつつも新たな魔法を練り始める。だが肌を這いまわる二十の指の巧みなくすぐりに、どうしても意識を集中できない。 「くぅ…魂の深源より…んっ…言葉の網もて言葉を捕え…はぅっ…」 喘ぎ混じりの詠唱など怖れる風もなく、銀髪の姉妹は艶めいた笑みを保ったまま、女主の耳へ唇を寄せた。 「我が命、魔力に換えて滅びの焔と為さん…」 「この魂、敵とともに冥府へと趣かん…」 「?!」 陸言の如く囁きかけられた不吉な詩句に、闇の后は双眸を丸くすると、口遊んでいた文節を端折り、半ば強引に術を発して先手を打った。 「マホトーン!!」 「メガンテ!!」 王妃が放った封魔の法は、左右にしがみついたデビル族が炸裂するのを辛うじて防いだ。不発に終わった禁呪の反動で、二人の内侍はぐらりとよろめいて倒れ伏す。 トンヌラは呆然としながら、侍女であり友達でもあるデビルロード達を眺め下ろした。 「そんな…まさか…メガンテを使おうとするなんて…」 「自爆しようとしやがったのか」 ズィータも流石に鼻白んだようすで、伴侶に追いつくと、無事を確かめるように抱いた。 「…俺がやるべきだった」 「ううん…大丈夫…おかげで二人を傷つけずに済んだんだし…ズィータ様が、僕ならできるって分かってたから、ですよね?」 妻が震えながら微笑むと、夫は視線を逸らした。肩を怒らせ、関節が白くなるほど拳を硬く握り込んでいる。 「…急ぐぞ…」 云いながら、竜王は眉を顰めた。ロンダルキアの急所を突かれたと悟ったのだ。守りの要である魔族が、すべて敵の意のままになっているとすれば、城は丸裸にされたも同然だ。 足を早めて先へ進むうちに、暗い確信を深めざるを得なかった。そこかしこで、魔族が人間を追い詰め、抑え込んでいた。王の発する鬼気を受けると、たいていは獲物を放して倒れるか、怯えて逃げていったが、アークデーモンやシルバーデビルのような剛強な戦士は刃向おうとするものもあった 若き君主はあえて武器を構えず、伴侶の魔法が正気を失った叛徒を無力化するに任せながら、飛ぶような疾さで脚を運んでいく。 「…ズィータ様…」 「何だ」 傍らを走る后が呼ぶのへ、振り向かずに応える。相手は息を乱しながら、短く言葉を区切って、小声で述べた。 「おかしいです。魔族の皆」 「見れば分かる。いかれちまってる」 「でも。誰も人間を傷つけてない。その気になれば…」 とうに阿鼻叫喚の地獄絵図が広がっていたはずなのだ。闇の封土たる雪国にはもともと人間の兵士はあまりなく、せいぜい戦えるのは神官ぐらいだが、残っているのは穏健派で、ハーゴンに忠誠を誓う武闘派と異なり、攻撃呪文はあまり操れない。城の守りを預る魔族がいっせいに襲い掛かれば、あっというまに殲滅されてしまうはずだ。だが、ギガンテスからスライムにいたるまで、暴れはしても、流血は避け、あくまで宮廷を麻痺状態に留めおくためだけに働いているようだった。 「…目的は」 「え?」 「トンヌラ…操ってる奴等の目的は何だ」 「…え…ズィータ様…じゃないとすれば…シドーたち!?」 「…続きをやるつもりかよ…」 ズィータが始め、完結しないままに放擲した計画。王家の血を引く子に、滅びの税を宿し、地上に降臨せしめ、万物を打ち拉ぐ猛威となす、破壊神降臨の儀式。かつて抱いた野望と復讐の意志の産物。目を背け、忘れようとしていた、負債。 「っがあああああ!!…」 青年は牙を剥いて吠えた。空気を震わす咆哮に、前を塞ぐ妖魅の群は次々と卒倒し、道を開ける。だが臓腑に凝る、黒く重い慚愧の念は、決して消えようとしなかった。 ロンダルキアの世継ぎたる男児等は無事だった。シドーは裸身を双子の胸に凭せたまま眠り込んでいた。フォルは木剣を握り締めたまま、魔族の遊び友達が身動きするたびに、ぽかんと殴りつけて、静かにさせていた。最も瘤が多かったのはデビル族の少年、シルバーで、平素の造作とは見分けがつかぬほどひどくでこぼこした顔になっており、駆け付けた両親は我が子より先に、哀れな仔猿の心配をせねばならぬほどだった。 幼い跡取りはといえば、右に赤く染まった鈍器をしっかと持ち、左に兄弟を抱いて、緊張の解けきらぬ面持ちで、まっすぐ父王を見上げ、誇らしげに告げた。 「…僕…頑張ったよ」 「ああ、よくやった」 青年は真剣な表情で労うと、小さな頭に手を差し伸ばし、己によくにた黒髪をくしゃくしゃにした。少年は目を細めると、不意に肩を落とした。 「ほ、本当は…シドーが…助けてくれたんだけど…途中で具合が悪くて…眠っちゃって…」 「…それだけか?」 「え?え?う、うん…そ、それだけ…だよ」 「そうか…ならいい…トンヌラ、とりあえずお前は二人を見てろ。俺はカリーンのところへ行く」 金髪の母は、シルバーデビルに施していた治癒の手を止めて、さっと面を上げた。 「僕も行きます」 「いや、こいつらと一緒にいろ…シドーが…何ともないか見てろ…フォル。トンヌラとシドーを守れ」 「うん!」 「よし」 言い置くと、ズィータは別棟へと疾風の如く馳せた。床を蹴る靴先が乾いた音を立てるごとに、こめかみに冷たい汗の粒が噴いた。あそこは城内でも特に警備の行き届いた一角。裏を返せばほぼ完全に魔族に囲まれた場所だった。王女の護衛として配した選りすぐりの兵が、寝返って押し寄せれば、側仕え神官ではとても支えきれないだろう。 娘の居室の前へ辿り着いた時、懸念は図に当たったと分かった。入り口は凄まじい力で砕かれ、あちこちに石の破片が散らばっている。踏み込むと、末の子にねだられてととのえた可愛らしい調度や家具が無惨に壊れ、がらくたと化していた。絨毯には小量の血がつき、刃こぼれしたまさかりが転がっている。 歯噛みした竜王は、ふと立ち止まった。どこからか、微かな嗚咽が聴こえる。首を巡らせると、部屋の隅に、毛皮の套衣にくるまった少女が二人、震えながらうずくまっている。 「…お前等」 確か、カリーンの付き添い役として選んだ悪魔神官見習いの姉妹だ。どちらも主君を目にするや、寒さ防ぎの覆いから抜け出て、白い裸身を足元に投げ出して平伏した。 「へ…陛下…」 「申し訳ありません…」 「カリーン様を守れませんでした…」 「お手討ちになさって下さい…うう…うわああああ…」 「やめなさい!泣いてどうするの…うっく…うう…」 ズィータは眉を顰めると、床に落ちた套衣を拾って、あらためて娘等に着せ掛けた。 「…お前等に護衛を任せたつもりはない。何があった。ゆっくり、順を追って話せ」 若き尼僧たちは涙で濡れた顔を上げると、深呼吸し、手をもみあわせて、懸命に落ち着きを取り戻そうとするようだった。 「…最初に…突然、骸骨族が現れました。私どもの知らない…部族です…統領は…ハーゴンの騎士…とても強くて…ほかの魔族はおかしくなってしまったし…あっというまに攻められて」 「この部屋まで追い詰められました…でも…バーサが…やっつけてくれて…」 竜王は、小さなバーサーカーの精悍な横顔を思い起こして頷いた。悪魔神官見習いは、頼りになる仲間の名前を口にしてから、また激しくおののいて、どもりながら呟いた。 「…つつ次にアトラス様が来て…バーサも安心して…でもあああアトラス様は…バーサを…」 「痛めつけて…操られているみたいでした。もう一人…アトラス様のうしろに神官がいました。でも私どもの宗派では…あれは…ハーゴン派だと想います…」 「…そいつ等はカリーンを攫っていったんだな」 主君が尋ねると、少女たちは相次いで首を縦に振った。 「はい。恐らく。私どもはラリホーにかけられて……眠りから覚めたら…バーサも…カリーン様もいなくて…ただ…」 悪魔神官見習は、はっとして真向かいの壁を示した。ズィータが省みると、石積みの表に瑠璃に輝く古代文字が浮かび上がっている。 ”ハーゴンの使徒より竜王へ。汝の娘、大神の器たる姫は我が手にあり。取り戻したくばロンダルキアの大洞窟へ来れ” 竜王は黄金の双眸に灼け付く火を点して、黙りこくったまま流麗な走り書きを凝視した。するとやがて壁にはひびが走り、細かな欠片を散らすと、終には音を立てて崩れ落ちた。 悪魔神官は、暗闇の中で首を竦めた。地底深くの隠れ処にあって、十分な防御を整えているはずだというのに、だしぬけに差し迫った死の危険に感じたのだ。剣呑なドラゴンの雄叫びが耳の奥に響いている。幻聴だろうか。そのはずだ。 ロンダルキアの城を奔雷の如く襲った手勢は、時を措かずに引き揚げ、予定通り何の妨害も受けずに、安全な砦へと入った。すべては順調だった。大神官の術がなお息づく無限回廊のかなた、迷宮の真央にあって、忠実な弟子を脅かす敵などあるはずはない。 今のところは。 視線を下ろすと、閃緑岩の祭壇に、幼い少女の姿があった。肌の透ける薄い布ごしに、玩具の人形の如く小さな四肢や胴が見える。あどけない容貌は、秘薬のもたらした睡みに安らいでいるが、肌の隅々までを覆う蛇のような呪紋が、淡く光を放ち、どこか痛々しい印象を与えた。 唇を咬むと、瞼を閉ざし、現在から過去へと考えを逃す。 「…ハーゴン様…もうすぐです…ロンダルキアは…教団のものに還る…我らの手で真の楽園を…この地に…」 「中々いい趣味だよなぁ。その落書きぃ。そそるねぇ」 横合いから響いた粘りつくような声に、ぎくりとして向き直ると、いつもの如く、暗い翳りを張り付かせた男が立っていた。気配すらさせずに近付いて、高台に横たえられた姫宮を鑑賞していたらしい。 「まだちょっと小さいけど、肉は柔らかそうだよなぁ。約束通り味見させてくれるんだろぉ?」 「貴様は、それしかないのかローレシア人!失せろ!この方は偉大なるシドーの器。貴様ごとき穢れた下界の民が触れてよい訳がなかろう!」 剣の国の密偵は含み笑いをすると、無遠慮に距離を詰めて来た。 「また強気になったなぁ?見事な手並みだったのは認めるがねぇ」 「貴様は…戦いが終わってから現れるとは…それでも騎士か…ことここに及んで、そちらの要求を呑む理由などない。下がれ。さもなくばザラキの餌食にしてくれる」 吐き捨てると、相手は糸のように細い両眼をかすかに煌めかせて囁いた。 「約束を破るって訳かぁ…嘆かわしいねぇ…各国に散らばるシドー教徒どもをすべてロンダルキアに呼び寄せるまで、俺と喧嘩はしない方がいいと思うがねぇ。ま、ここじゃお前さんが大将だぁ。じゃぁ…せめて、ここで別の楽しみぐらい見繕っても構わんかねぇ…」 「…好きにしろ!せいぜい洞窟のドラゴンに喰われんようにするんだな!」 「おやそうかぃ?話せるねぇ…ちょいと試したいものもあるんでねぇ。じゃぁあとでなぁ同志ぃ」 ローレシアの男が嗤いながら影の帷に隠れていくと、悪魔神官は疲労を露にして祭壇の傍らに建つ柱に背を預けた。あらためて虜囚の無邪気な寝顔を一瞥し、じっと虚空を仰ぐ。 「…私は…奴とは違う…奴とは…すべては大義のためだ…ハーゴン様…どうか…お守り下さい…どうか…」 シドーでもラーミアでもなく、亡師に祈りを捧げながら、まといつく寒けを振り払うように頭を振り、硬く握り合わせた拳を繰り返し額に打ち付ける。応えなど得られるはずもないと、知ってはいたが。 ローレシアの元剣術師範、現在は諜報のまとめ役をこなす壮年は、久しぶりの愉快な任務に満足していた。主君から受けた命令は、単にシドー教徒の動向を見張れ、というものに過ぎなかったが、好きなように拡大解釈し、敵地まで潜入していたのだ。勿論、個人としての楽しみのためもある。役得がなければ汚れ仕事などやっていられない。 けちの付きはじめは、手取り足取り武技を教えていた第二王子に疎まれたことだ。いつの間にか表舞台での出世の階段から遠ざけられ、騎士団内での地位も怪しくなり、閑職へ押しやられる兆候が窺がえるようになった。分けても幽閉していたロンダルキア王女、ローレシア王の秘密の正妃ヴィルタが解放されてから、状況はいっそうまずくなった。 「アレフ様に嫌われたのは痛かったねぇ…鼻の利く坊ちゃんだ…ズィータはもうちょっと素直な子だったけどねぇ…いやぁ残念だぁ」 勇者ロトの生まれ変わりと噂される世嗣の、何を考えているのか分からない怜悧な眼差しは、ローレシアに起こるいかなる異常も捉えて、無言のうちにあくまで根源を追求する。かつて好き放題にできた邪教徒の拷問も調教も最近はすっかり御無沙汰だった。 「さてとぉ…久しぶりに活きのいい玩具が楽しめそうだ」 足を向けたのは、大洞窟の一部を区切って設けた、雑な拵えの営倉だった。牢獄と呼ぶにはあまりに天井が高く、間取りも広い。本来は邪神の像の魔力によって取り込んだロンダルキアの大将軍、アトラスを繋いでおくための場所だが、思いのほか操縦が巧くいっているので、巨人を番兵に狩り出しており、もっと小さな捕虜を閉じ込めてある。 「よぅ。かわいこちゃん」 親しげに話し掛けると、両手両足に縄をかけられ、壁に張り付けられたバーサーカーの少女がとやぶ睨みの視線を上げた。 「おめか…」 「いいねぇ…あの地獄の使いの女も…最初はお前みたいに生意気そうだったけどさぁ…手足をもいだらすぐ大人しくなったなぁ…さてとぉ…」 男は目元に笑い皺を作って、優しげといっていい口調で諭した。 「よく聞きなよぉ。お前の大事なご主人様は、俺の仲間が抑えてる訳だぁ。お前が逆らうとぉ、あのちびちゃんはどうなるかぁ、分かるなぁ?素直に俺の肉便器になればぁ…まぁ傷つけないでおいてやるよぉ」 「んだか…」 蛮族の娘はしおらしくうなだれると、掠れた喉から語句を紡いだ。 「おらぁ…何すればええ」 「…可愛いねぇ…最後まであのデカブツに咬み付いて、気絶しても離れなかったガキとは思えないねぇ…何か企んでるだろぉ?」 「ちい女神様は…おらの命よりも大事だ…そのためなら…おら…せ、接吻ぐれぇなら…」 蓬髪の女戦士は首をもたげて、唇をすぼめる。どこか滑稽な仕草に、覚えずローレシアの密偵は苦笑して、顎を掴もうと手を伸ばし、少し顔を寄せた。 刹那、バーサーカーの体が発条仕掛けのように動き、相手の鼻面に頭突きを浴びせた。ごきりと軟骨の折れる音がする。血をしぶきながら、男をよろよろと後退った。頚骨が軋みを上げ、今の一撃が、単なる反抗などでなく殺すつもりの奇襲だったと悟る。 元剣術師範は激痛をこらえながら、熟練の戦士らしい冷静さで、囚れの敵を観察した。どうやら肩の関節を外して、縛られていてもある程度動きの自由をとれるようにしておいたらしい。素人の悪魔神官どもに縄目を任せるのではなかったと、舌打ちする。 一歩踏み出しかけて、ふらついて立ち止まる。脳振盪を起こしかけているのだと悟り、ぞっとして再び下がると、涙ににじむ視界の向こうに、蛮族の娘の退屈そうな表情が見えた。 「…ひゃ…ひゃるねぇ…」 「わりと丈夫だな」 若き首狩り族はうそぶくと、いきなり壁に己の肩を打ち付け出した。関節を入れているのだ察して、ぎょっとして眺めていると、平然としたようすで腕に力を籠め、筋肉を膨らませながら、縄を引っ張り始める。何のつもりかと眺めていると、次第に縄がささくれていく。 「おい…まさかぁ」 「おめは、じっとしとれ。今とどめさしてやっから」 「…ろ、ロンダルキアの女はぁ…ぶぅ…ほかよりちょいと元気がいいらしいなぁ…またあとで…遊ぼうかぁ」 男は真赤に汚れた顔を抑えながら、くるりと踵を返すと、だだ広い独房からよろめきつつ遁走した。背後から追ってくる嘲りに耳を塞ぎ、一散に洞窟の横穴を抜けて、こけつ、転びつ、幾度も石筍に頭をぶつけて、かつて味わった経験のない恥辱にいきりたちながらも、ただただ、恐ろしい少女のもとから離れようと走るよりなかった。 |
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