その少年の名は刑部亮平といった。 泉谷中の1年1組の出席番号3番、身長はクラスの前から4番目、体重では男子のまんなか位で、1学期の間にいじめっ子連中がつけた仇名はブッキー。 ちなみに1年1組には学年で最も性質の悪いいじめっ子グループが居たので、的にかけられた亮平は終業式になってもまだ友達が独りも居なかった。 頼みの綱の刑部夫妻は、残念ながら大変頭の出来がお粗末で、ドラマを見て涙を流す以上の感受性は持ち合わせていなかったため、息子が学校で毎日太った身体について嘲られ、繁華街で買ったというメリケンサックで殴られ、道場で習い覚えたという空手の技で蹴られ、先輩から貰ったというナイフでちくちくと刺され、カラオケに行くというので金や物を脅し取られているのに気付かなかった。 よしんば気付いても気付かぬふりをし続けたか、何らかの行動を起こしたとしても、精々「お前がしっかりしてれば虐められないんだ」と説教する位で、結局役立たずだったのは間違いない。 ともあれ実際はというと、2人には去年国立大に合格した長男がおり、いずれは法曹界に入って立身出世するという夢に溺れていたので、あまり成績の良くない次男については低脳さに苛立ちこそすれ、勉強以外の問題で苦境に陥っているなどとは想像だにしないでいたのだ。 別にそういう鈍い親も居るというだけの話で、だからといって亮平は、別の家族と取り替えたいなんて1度足りとも真剣に考えたりはしなかった。どんな親でも、子供にとっては受け入れるしかない支配者であり、同時にかけがえのない存在なのだ。 もう1人、亮平を救えたかもしれない大人である担任教師については、口癖が「先生だって人間です」だったと述べれば充分だろう。付け加えるなら、授業の3分の1弱を自習にして研修に勤しんでいたにも関わらず、試験に受かって昇給したり、教頭や校長になるだけの利巧さには欠けた人物だった。 従って、少年は大人にもクラスメートにも、というか社会全般に対して絶望していた。死んだ方がましだと考えたりもし無くは無かったが、自殺や自傷にロマンや救済を感じるほどおめでたいナルシストでもなかったので、ただ首を低くして災難に耐え、屠殺場に連れてゆかれる家畜のように、毎日登校し、掃除が済むと脱兎の如く門を駆け出て、中途でいじめっ子の誰かに合わないようびくつきながら帰路に就くのだった。 彼にとって「子供は無邪気だ」「悩みを知らない」「幸せだ」などといった台詞は、殆ど哀れなほど愚かな決り文句だったが、特に反論する必要も感じなかった。なぜなら、"比較的"無邪気で幸福で悩みを悩みを知らない同級生は沢山いたし、それはそれで本当だというのは何となく把握できたのだ。 逆に「子供は怖い」「子供は残酷だ」という台詞も、まったくやるせない幼稚さを帯びて聞こえた。残酷さや異常さにおいて大人に勝るものはない。だがまぁどうでも良かった。結局テレビや、テレビの受け売りをする大人の意見は、彼等自身を納得させたり楽しませたりするものであって、こちらは適当に頷いてさえやれば、向うは満足するのだ。 大切なのは生きること。 興奮しすぎたいじめっ子が勢い余ってこちらを殺そうとしないよう、出来る限り気を使って学校生活を生き延びることが、彼にとって1番の優先事項だった。 両親や教師はその方法を少しも教えてくれない。本や漫画やインターネットにあるのは、まことしやかで薄っぺらな嘘だけ。だったら孤立無援でやるしかない。 唯されるがままになるのでもだめ、かといってあまり反抗的になるのもだめ。時と場合によって卑屈さを調節しながら、なんとか攻撃を躱す。もちろん楽ではなかった。面白半分にも、でぶ、でぶと言われれば涙が出る程悔しいし、全身に唾を吹き付けられながら、黙って家に帰ると、決まって風呂場で何度も嘔吐した。 けれど、歯向かって殴られるよりはまだましだ。ボールをぶつけられて指の骨を折られたり、膝にひびが入るまで蹴られたり、そういった肉体の苦痛に比べれば。 どんな時もプライドを捨てないなんてほざく奴等は、本当の恐怖を知らない。彼等だって痣だらけになり、鼻血を出してのた打ち回りながら、偶々いじめっ子達の瞳を覗き込んでしまい、純粋の喜びしか見出せなかったら、「勇気をもって立ち向えばなんとかなる」なんて絶対、云えなくなるだろうに。 だから亮平は我慢し続けた。将来他人に弱虫と呼ばれようが、負け犬と呼ばれようが、臆病と呼ばれようが気にすまいと決めていた。何故っていじめっ子達こそ、好んでそういう言葉を使ったから、もう慣れてしまった、ということにしていた。 だからといって、いつも目論み通りに厄介を凌げるとは限らなかったが。 「それ、定期買う金なんだよ!」 亮平が目の前の丸めた1000円札に飛びつくと、青い紙切れのまとまりは、ひらりと後ろへ退いた。すかさず誰かの足が、彼の大きな尻を蹴っ飛ばす。ずんぐりした身体が舗装道路に突っ込みかけ、慌てて掌をついて支えると、柔らかい皮が擦れて、痛々しい赤剥けを作った。 中学校から団地へと向かう通学路の間にある、古い屋敷街でいじめっ子に捕まったのは、不運としか表現し様がなかった。道の両隣に並ぶのはいずれも、だだ広い前庭を持つ邸宅で、戦車がキャタピラをガタガタさせながら通っても、住人には聴こえっこなかったに違いなく、まして子供の喚き声などでは小鳥のさえずりほどにも気になるまい。 確か右の高いブロック塀を登ると、森みたいな庭の奥に銀色のドームが突き出ているのが見えるはずだ。まるで魔法がかけられでもしているように、いつもしんと静まり返っていて、小学生の頃は側を通る度、中を見てみたいと願ったりもしたけれど、今ではこの周辺は、逃げ場もなければ、巡回の警察官も殆ど通らぬ、最悪の"危険地帯"でしかない。 「テーキカウカネナンデチュー」 「ギャハハ、似てるし!つかブッキー、塾とかいってんの?」 「知んねーの?こいつの兄貴が国立行ってんだぜ」 「ブッキー兄が!?豚なのに?やばくねその大学?」 楽しげで明るい笑い。元気溌剌な中学生。おかげでこっちは死にそうだ。 5時の街はまだ明るい。顔を上げると斜めの陽射しが汗と共に目に入った。いけにえの少年は、のろのろと身を起こすと、懇願するように両腕を差し上げる。 「返してよ」 「うっせーんだよ、汚ぇ手近づけんな」 札を摘んでおどけていた背の高い少年が、習っている空手を誇示したい衝動に駆られてか、鋭い上段蹴りで顎を狙った。亮平は、見かけによらぬ素早さで首を引いて、直撃を躱す。 格好よく技を決めたつもりが、あっさり避けられのが気に障ったらしく、かっとなった相手は、今度は無防備そうな腹を殴りつけて来た。 ぽっちゃりした両手は、辛うじて衝撃を受け止めたが、打撲の痛みについたたらを踏む。動きが止まったところで、脇から太腿へ蹴りを入れられ、筋肉が軋んで立っていられなくなった。 「うわ、べとべとしたもん触っちゃったよ」 「ブッキーの汗やばいって、伝染るよ。ブタ菌が」 亮平の腿を蹴った少年が、自分の脛を顔に近づけて、大袈裟に鼻をつまむ。 「臭っ、なんかすんげーニオウんですけど。ちゃんと風呂入ってる?」 「なになに、どんなニオイがすんの?」 同じく腿を蹴った別の一人が、笑いながら尋ねた。 「自分の嗅いでみ?」 彼も相棒のそっくり真似をして、また鼻をつまむ。 「うわなにこれ、なにこのニオイ、くっさー」 「ブタ臭?」 「ってか脂肪臭」 「まぁそれらの全部混ざった強烈なオイニーですね」 彼等の中では素晴らしい冗談だったらしい。つぼに嵌った少年達は爆笑しながら何度も鼻をつまむ真似をした。 亮平もうずくまりながら釣られて薄笑いを浮かべた。と、それを認めた最初の少年が、無表情にまた脇腹を蹴りつける。低い呻きが漏れた。 「テメェは何ワラッてんだよ」 「ワラってたの?あっちゃー、いっちゃってるね」 「てかまじ気持悪ぃーこいつ、殺してぇ…」 「あ、俺も…」 やばい。 殺したい、という言葉が本気でなくても、切っ掛けになって攻撃がエスカレートする可能性は大きい。命の危険を悟った小太りの少年は、うつぶせたまま顔を路面に擦りつけるようにして、止まらない涙をセメントの罅割れに注ぎ、必死で感情の昂ぶりを鎮め、頭脳を働かそうとした。どうにか、切り抜けなくては。 「おらブッキー立てよ」 蹴られる。肋が痛む。だが団子虫の姿勢でいれば、まだ何発か貰っても、深刻な怪我にはならない。だから、だから。よし、必死で泣きを入れれば見逃してもらえるかもしれない。金を諦めさえすれば。いや駄目だ。あれは夏期講習に行く定期代だ。奪われたらとても穴埋めできない。親に誤魔化せない。 でも殺すって。 「立てっつてんのがきこえねぇの?」 頬と首筋の間を蹴り飛ばされる。歯同士がぶつかって、頭が真白になる。 「あんま蹴ると、靴に沁みちゃうよブッキー汁が。棒とかにしなよ」 「ギャハハ、ブッキー汁!くっせーのな!」 咳と共に血が吹き溢れる。また頬の内側を切ったらしい。幾らなんでも酷すぎる。亮平はふらつきながら立ち上がると、衝撃に引き攣った舌を動かして、何とか単語を形作った。 「くせーのはテメーラの足だろ」 いけない。そうじゃない。何故余計な口答えをしてしまったんだろう。安いプライドのせいでぼろ雑巾みたいにされてもいいのか。 「あ゛っ!?」 「なんつったコラ、もっぺん言って見ろよテメェ!!」 いじめっ子達の殺気立った勢いに、少年は背筋に氷を押し込まれたような懼れに襲われた。 「あ、あし、か、嗅ぎ、嗅ぎっこしてんじゃねーよホモ」 くそ、なのにまだ減らず口を叩いてしまう。だけど、いい気分だ。 刺々しい会話は断ち切られ、張り詰めた空気が場を支配する。 沈黙に耐えきれず、喋ろうとした途端、いきなり拳が飛んで来た。壁にたたきつけられ、磔にされて胸と腹を殴られる。畜生、痛い、口先だけでは痛みからは決して逃げられない。 1発鎖骨の下に入る。他の奴等は踝のあたりを蹴ってる。背にした塀の所為で攻撃できる場所がほかに無いからだ。馬鹿め。だが痛い。靴の中で足首がねじれそうになる。 助けて、死ぬ。 本当に死ぬ。 誰でもいいから助けて。 「死ねよ、ブタ」 止めの横殴りを受け、亮平はずるずるとへたり込んだ。身体の正面が千切れそうだった。 「おい、こいつ泣いてるぜー」 「うわだっせー」 「ってか克ちゃんまじ強ぇー」 反応できなかった。どうやっても手足が動かない。怖い。本当に動かない。死ぬ前兆なんだろうか。 少年の一人が、眺めている内、不安に駆られて呟いた。 「なーもういいよ。その金でゲーセン行こうぜ」 「お、いいねぇ」 「じゃぁなブッキー、ちゃんと死んどけよ。2学期、お前の机にアレ、花瓶置いといてやるから」 「俺からも頼む。死んどいてくれ」 死ぬか。絶対死ぬか。生きる、これまでだって生きて来た。いじめで死ぬなんて嫌だ。血塗れのまま、心の中でだけそう繰り返す。 背の高い少年は、自分はやりすぎにびびってなんかいないというアピールか、軽く爪先で亮平の足を蹴ると、傍らに投げ出された鞄に目を留め、唇の端を吊り上げた。 ひょいと、鞄を掴み上げ、美しいフォームで塀の向うに投げ込む。 「おほっ、克っちゃん容赦ねー!」 「まじ鬼だね」 「うし、行こうぜ」 気配が遠ざかっていく。残された少年は塀から落ちたハンプティ・ダンプティよろしく、ぐったり壁に凭れたまま、彼等に聞かれ嗜虐心を煽り立てぬよう、声を抑えて嗚咽し、長い間小刻みに震えていた。 子供がいじめをやるのには立派な理由がある。獲物を集団で叩きのめせばのめすほど、内輪の連帯意識や友情が強まるのだ。 実際に暴力を振るわないにしても、大人だって1度は、会社の同僚や親しい友達数人と組んで、中の特定の1人を笑いものにしたことはあるだろう。いじめはそれをちょっとばかり過激にしたレジャーに過ぎない。いじめられっ子を獲物に、狩りの時間を共有するという、原始の頃から続く喜びこそが肝なのであり、戦利品として入る金品など、おまけである。 だからいじめられっ子の境遇から抜け出すための、最も確率の高い方法は、金より何より、誰かほかの獲物を連れて来ることだ。そうして、いじめっ子達に彼を差し出し、自分もいじめる側になって、連帯意識や友情を培えば良い。 といっても、いじめられっ子に転落する危険がなくなった訳ではないので、元いじめられっ子のいじめっ子達は、より上位の仲間の視線を気にしながら、積極的にいじめを実行する汚れ役になる必要がある。 人死が出たとかでいじめが警察やマスコミ沙汰になった時捕まるのはこの悲しい下っ端だ。 黒幕になる子供は、いつも取巻きに囲まれ、下っ端をけしかけながら、決して直接手を下さない。彼がいじめを通して満喫するのは、他の連中のような単に弱い物を踏み躙る快楽だけではなく、集団を意のままにしているという、権力の感覚である。 こうしたプチ独裁者は、一見して他の取巻きと区別がつかず、群に埋没して限りなく社会の裁きからは安全で居る。だがいじめられっ子だけは、そいつが誰で、いつ獲物を求めて触手を動かすのかが解りすぎる程良く解っている。 12歳かそこらの子供が、かくも複雑なヒエラルキー・システムに沿って行動するというのは、俄かに信じられないかもしれない。特にいじめっ子にも、いじめられっ子にもならず、"普通の生徒"として学校生活を送った諸氏は、 「うちの学校にはそこまでヒドイいじめはなかったな」 とか、 「っていうか皆仲良かったし」 とか、無邪気だった青春の頃を思い起こしては、現在との落差に首を傾げる。 いや、それはそういうものだ。何の問題も無い。 尤も、いつの時代だろうと、クラスの中で初めから、"いじめっ子"、"いじめられっ子"、"普通の生徒"が分れている訳ではない。子供は皆、いじめっ子の黒幕や下っ端、そしていじめられっ子に成る素質を眠らせている。 格別勉強やスポーツのできる"特権階級"を例外にすれば、世の元"普通の生徒"がまともな学校生活を送れたのは、暗い淵の上を目隠で渡りおおせるといった程度の、"幸運"でしかないのだと、そして自分の子供もまた暗い淵の上を目隠で渡る運命にあるのだということ位は、知って置いた方がいいのかもしれない。 亮平は、暗い淵を渡り損ねた子供だった。第1に、勉強もスポーツもできなかった。第2に、他の誰かを身代りにするという手段を拒否した。第3に、結局安いプライドを捨てられなかった。 将来社会に出ても成功しないタイプだったろう。この3つこそ、力の無い者が、世間でやっていくために必要な智慧ではないか。 塀の側でいじめっ子達の命令通り内出血で死んでしまうというのも、存外先行き暗い人生を手早く劇的結末で飾るには、良い案だったかもしれない。ところが、あれほどの痛みにも関わらず、彼のぽっちゃりした身体は命に関わるような深傷を負っていなかった。 また、ふてぶてしい中学生の精神は、自分がいじめられっ子で、社会に出てもうまくやれないからといって、死ななければいけないなんて理屈を受け容れるつもりも毛頭無かった。 少年は美味しいものを食べるのが好きだった。テレビアニメを観るのが好きだった。ゲームボーイを長時間やりまくるのが好きだった。ドッジボールやケイドロが、がきっぽいながらも好きだった。トランプの大貧民やナポレオンが好きだった。小学5年までは嫌いだったが、その年の夏に白帽をとってからは水泳も好きになった。自転車で突っ走るのも、ゲーセンのエア・シュミレータで遊ぶのも。 なんで、いじめなんかの為にそれを諦めなければいけない。 どこかで金管楽器に似た鳥の鳴き声がした。腫上がった瞼を開き、ゆっくり背を塀に凭せながら、身体を引き上げる。 さぁ、戦いを再開しよう。 午後6時の鐘が響く。もう塾には間に合わない。でも焦るな。1つ1つ、やらなければいけないことをやるんだ。まずはシャツの袖で顔の血を拭い、膝の擦り傷についた砂利を払い落とす。 次は鞄だ。あいつ等が塀の向うへ投げ込んだ。取り戻さなくてはいけない。正門に回って住んでいる人を呼び出してみようか。それとも、監視カメラみたいなものがないようなら、塀をよじ登って中に入り、素早く鞄を取り戻してまた立ち去るか。 亮平は塀の左右を確かめると、さして迷わず後者の方を選んだ。 「んしょ」 と掛け声を出して、忍び返しに飛びつき、短い足をばたつかせると、小学生の頃と比べて随分重くなった身体を、苦労して引き上げる。上までたどり着いたところでバランスを崩し、お腹に忍び返しの先端を突き刺しそうになった。慌てながら、危うい足場で踏ん張ると、慎重に跨ぐ。 ざーっと夕暮の先触れとなる強い風が吹いて、頬の傷に沁みた。屋敷の方へ頭を巡らすと、傾いた太陽の光と、半ば緑に埋れた銀色のドームの眩しい照り返しが瞳を灼いた。 「うわっ…」 掌をまなびしの上に翳す。銀色じゃない。透明だ。ドームは硝子で出来ていて、中には、大きなヤシの木のシルエットが見える。何だろう。面倒事でいっぱいの状況なのに、ちょっとわくわくもする。そういえば、こんな破目にならなければ、ここへ本当に入り込んで見ようなんて気にもならなかったろう。 「っせっ」 塀の内側へと、そろそろと片足づつ降り、最後は完全に忍び返しにぶらさがると、急に息が詰まった。怖くて手が離れない。ほんのちょっとした高さだというのに。 「ウホッ!」 いきなり頭に何かが当たる。びっくりして右腕で頭を抑えた途端、左腕が痺れて、まっさかさまに屋敷の敷地へ落ち込んでしまった。 どしんと尻餅をついて、腰をさする。当惑した少年は頭上へ怪訝な眼差しを投げたが、誰もいないようだった。幻聴?じゃあ頭に当たったのは? いや、それより鞄だ。周囲を窺うと、近くの草むらの上に筆箱が蓋をあけていた。急いで近付き、拾う。空っぽだ。中身は、鞄を投げられた時に飛び散ったらしい。 木と木の間で、何かがきらりと光る。はっとして走り寄ると、彼のシャーボだった。結構気に入ってる奴。中学生になってからは、いじめっ子から金銭の要求が増す一方、文房具などは滅多に取られずに済むようになったから、今まで無事手元に残っていたのだ。失っていたらショックだったろう。戦友に再会した気持で、ふっと溜息が出る。 筆箱に仕舞う。残りの文房具も近くにあるといいが。 視線をさ迷わせると、奥の木陰に、白い消しゴムが落ちている。 拾うとまた先に、赤ボールペンが転がっているのが見えた。 駆け寄ると、今度は向うの大きな丸石の側に、買ったばかりのルーズリーフが1束、ビニールから飛び出した紙片の端を、手招きするように風にはためかせている。 暗くなる前にと懸命に探しながら進む内に、亮平は次第に庭の深くまで入り込んでいった。 肝心の鞄だけは見付からない。胸にノートや筆箱を抱えて、少し覚束なげに歩き続けていると、とうとうあの硝子張りのドームの前まで着いてしまった。 木々と建物の少し間を開けるように、短く刈られた芝生が青い絨毯を広げており、緋に染まる景色の中で、とてつもなく大きな透明球は、不時着した宇宙船か何かのようでもあった。 「うっそ…」 彼の鞄は、信じられないことに、その分厚い外板を突き破り、不思議な植物の生茂る中に、鋭く尖った破片とともに転がっていたのだった。 いくら巧く投げたとしても、届くはずが無い。 でも、鞄は間違いなくあそこにあった。 2、3歩後退って、瞼を擦る。すると迂闊にも指で傷に触れてしまい、痛みに飛び上がりそうになった。腰を曲げて歯を食い縛る。そうしている間にも日は翳り、大気は湿気を残したまま、僅かに涼しくなってきているようだった。 気付くと、硝子の割れた場所のすぐ横には、把手つきの扉があった。同じように透明で、把手まで硝子で出来ているために最初はわからなかったのだ。 亮平はごくりと唾を飲み込み、ぷっくりした頬の汗を、そっと拭った。他人の家の庭に忍び込むだけでも、かなり、いじめられっ子らしくない無茶をしているのだ。まして勝手に建物の中に入るなどは、怖くもあったし、やましくもあった。 諦めて引き返し、鞄を無くした言い訳を考えた方がましかもしれない。怒られるだろうけど。独りごちると、母の鬼のような形相が脳裏を掠め、余りぞっとしなかった。 待った。鞄はあそこにあるんだ。ちょっと入って、ちょっと取って出ればいい。あの硝子扉には鍵がかかっているかもしれないじゃないか。試してみるだけだ。 そろそろと音をさせぬように扉の前ににじり寄り、硬質の把手を掴んで、ゆっくりと回す。驚く程あっさりと扉は開き、むわっと濃い蒸気が顔にあたった。 抜き足、差し足、鞄の方へ向かう。硝子の破片を踏まぬように気をつけながら。 後1mもないという所で、擦れた鳥の声が鼓膜を打った。面を上げ、咄嗟に声のしたヤシの梢へと向き直る。さっきも聴いた覚えがある。あれは…。 と、右の尖った葉の茂みの中を、巨きな影が走る。目を凝らそうとした所で、背後からいきなり5本の太指が彼の首根っこを捉え、高く持ち上げた。万力のような凄まじい締め付けに、少年はぐっと噎せこんで、か細い悲鳴を漏らす。 「ナイス黒丸!今度は殺さなかったじゃん!」 高く渡された枝々の間から響く、鈴を転がすようなガールソプラノ。亮平が手足をもがかせながら目を丸くしていると、すぐに葉擦れがして、目の前に幼い少女が降り立った。 「へー、きったないコブタ…ま、いいけどぉ…えーと、ドロボウさん?ようこそあたしの温室へ。とりあえず硝子の弁償はしてもらうから」 |
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