Green House Effect

"The Predecessor got his Death."

 尻に当る粘って水っぽい感触で、老爺は浅い睡みから覚めた。また夜の間に大便を漏らしたらしい。

 瞬きをして、上方に広がる虚空へと視線を投げる内、眠気は冷たい潮の如く引いていく。後に残されたのは、恥と怒りとどうしようもないみじめさ。体の自由を失うと共に沸き起こり、長らく頭の奥を占めていたために凝って、もはや和らげられも忘れられもしない黒々とした情念の岩場。

 深く窪んだ鎖骨の下で肋を動かし、長年の酷使に傷んだ肺を圧すと、弱々しく咳をして喉から大きな痰の塊を追い出した。ようやく新鮮な酸素が気管に入り、血がざわめいて意識がはっきりと澄む。だが息を吐こうとすると、胸の内側を、針で刺すような鋭い差し込みが襲った。

 ぜぇぜぇと呻き、きつく瞼を閉じ、下唇を丸めて歯の抜けた口を噤む。大丈夫だ。堪えられる。

 何も解らなくなるよりましだ。最近は、夢から抜け出ても、己が誰で、どこにいるのかを把握できないまま、寒々とした不安に苛まれる時があった。まるでほんの五つか六つの子供か、あるいは、母猫から引き離されたばかりの仔猫にでもなったかのように。

 ともかく今朝は違う。少なくとも、この薄暗い寝室に力無く横たわる、痩せ衰えた人物が誰なのか解っている。広岡源三。七十五歳。生物学、遺伝子工学、動物行動学修士。元エデン財団人類研究所特別研究員。元バベル大学特別客員講師。代表論文は、原/新人類の遺伝子異同に基づく行動様式の類似性に関する諸問題、ほか。八年前息子夫婦と死別。血縁者は十歳になる孫娘が一人…。

 無機的な事実や、専門用語、固有名詞を足がかりに、意識の幽冥から現実へよじ登ろうとする。そう、ここは自宅の寝室だ。厚いカーテンを通して染み込む淡い陽射しはまだ、霞んだ目にとって部屋の様子を覗うのに充分な光源とはいえなかったが、闇の彼方にある壁や天井は、沈黙によって空気を重く淀ませていて、視覚によらずとも存在を確かめられるようだった。

 不意に激しい関節の痒みが訪れ、自我を再び混乱に陥れる。この頃しじゅう彼を悩ませる原因不明の症状の一つだ。本能の命じるまま四肢の筋肉を動かし、肘と膝をシーツに擦りつけようとすると、ベッドはまるで水銀の池になってしまったかのように捕えどころなく変形し、丁度太った母親が子供を抱き締め、たっぷりした贅肉の間に埋めさせるが如く、骸骨のような身体にまとわりついた。

 どこかの有名な医療機器メーカーの手になる、床ずれ防止用ジェル化ポリウレタン素材の敷布。先端技術を駆使して作られた製品は、企業が謳うたいそうな宣伝文句「寝たきり高齢者の生活をいつでも快適に」にも関わらず、泳ぐに不快きわまる泥沼のような代物と化していた。

 なおもしばらくのたうったが、ただ疲労だけが増して、起きたばかりだというのに、何かを為そうとする気力が萎えていく。やがて筋肉が弛緩し、ぐったりとまた動けなくなった。

 その間も皮膚の奥で痒みの菌糸は広がっていくので、耐えかねて、口をもごつかせると、人間離れした鳴き声が漏れた。まるで病み果てた豚だ。

 湧き上る恐慌の発作を辛うじて堪え、理性というより習慣に導かれるまま緊張を解くと、関節を蝕む痒みついてはなるたけ考えぬようにしながら、短く呼吸し、肉の落ちた右腕にだけ、あらん限りの力を集める。

 凍りついたように硬直していた指が小さく痙攣し、のろのろとではあるが、盲探しに掛け布団の下を弄り始めた。決して皺を作らない合成繊維の布地を掻き分けると、飢えた蜘蛛の如く危うげに這い回りつつ、とうとうベッドの縁まで辿り着いて、置いてあるブザーを押す。

 神経に障るビープ音が響き、一瞬、眩暈で世界が揺れた。

 齢に蝕まれ、床に臥すほかない男は、助けを待つ間、敢えて屈辱を噛み締め、ぶつけるべき相手のいない憎悪を呼び起こす。言葉にならぬ呪詛が脳に溢れ、こめかみを焦がした。

 途端、枕の横に置かれたモニターが赤く点滅する。血流測定装置が、主人の覚醒を検知し、興奮による頚脈の圧迫を警告しているらしい。

 周囲を取巻くこれらの機器は皆、かつて源三が熟慮を重ねて選び、据え付けさせたのだが、もし叶うなら、もうまとめて叩き壊してやりたかった。右手でブザーを掴み、握り潰そうとでもいうように力を込める。だが指はつるつるとプラスチックの表面を滑り、部屋の外と己とを繋ぐ唯一の絆を取り落としてしまう。

 悔しさに身動ぎすれば、また臀部にはりついた汚物の感触が甦った。

 「…うふっ…ひふひゃはふはひゃひ…」

 水屋さんは何をしとる。そう怒鳴ろうとして呂律が回らず、息切れが酷くなり、後ろ半分は続かなかった。介護士を呼んで叱り飛ばすという、虚しい憂さ晴らしさえままならないのだ。

 扉が開く気配がする。

 ぼやけた視界の隅を、かなり上背と横幅のある誰かの影が過る。体の重さで床を軋ませながら、しかし驚く程静かに機器の間を擦り抜けて、ベッドへと近付いて来る。見舞いの品なのか、胸には柔らかな薄紅をした焔の塊を抱いていた。

 目ほど悪くなっていない老爺の鼻は、嗅ぎ慣れた熱帯植物の芳香で正体を察した。切ったばかりの筏葛いかだかづらの花だ。

 「はひゃほひゃ…」

 花子か。現れると予想していた介護士ではなく、屋敷の掃除や炊事などを担当する家政婦で、去年数えの十歳を迎えた年頃の娘だ。同い年の異性と変わらぬ堂々たる体躯と、不思議と草花を好む心根のために、遠くからでもすぐ解った。

 彼女は鮮やかな色の渦を寝台の側の庶務机に運び、空の瓶に活けると、向き直って、壁に埋め込まれた箪笥から、新しい紙オムツと消毒済みの布巾を取り出した。

 無言のままベッドの裏へ回ると、身を乗り出し、小さく了承を取るようにうなずいて、源三の寝巻きを優しく脱がせる。動作は素早く、しかし細やかだった。がっしりした両腕が硝子細工を扱うような慎重さで、シーツの上の足首を掴んで左右に広げ、糞まみれの下着の留め金を一つ一つ外すと、しなびた尻を露にし、布巾で丁寧に拭い浄めてから、清潔な物と交換する。

 老爺は、世話をされる間中、抗うそぶりをしなかった。どころか、先刻までと比べれば随分落ち着いた風で、家政婦の仕事に身を任せきっていた。

 やがて花子は、汚れた下着と布巾をゴミ袋に包んで、機械だらけの寝所を離れる。

 扉が閉まると、残された主人は、激しく波立っていた気持が凪ぐのを感じて、ほっと息をついた。だいぶいい。花子は忠実だ。介護士の水屋のように人を赤ん坊扱いしないし、独り善がりな御託で神経を逆撫でしたりもしない。彼女が来てくれて良かったかもしれない。

 そもそも、水屋を雇ったのも花子の訓練の為だ。自分が手本になれる庭仕事や機械類の整備と違って、介護の技能は教育に専門家を招く必要があった。だがもう充分だ。身内の家政婦が一人前になった以上、あの役立たず女の方はクビにすべきだろう。

 再び扉が開き、花子が片手で車椅子を押して入ってきた。別の手には水を満たしたガラスのコップを持っている。中で入れ歯がくるくると動いているのを認め、源三は微笑もうとしたが、出来たのは渋面と泣き顔を半々にしたような奇妙な表情だった。

 「ひへひゃを」

 求めに応じて、口腔に人工のあぎとが嵌め込まれると、入れ歯から染み出した薬液が表面張力を働かせ、接着剤代わりに位置を固定した。

 「乗せてくれ、それと眼鏡を」

 ふわっと軽い身体が抱き上げられ、車椅子に座らされる。これで曲がりなりにも、脚を取り戻し、耳障りでない喋り方もできるようになった。次いで、鼻に老眼鏡がかけられ、事物の輪郭がはっきりすると、目覚めた時のみじめさは大分解消する。だが痒みは収まらない。やはり水屋を探さなくては。薬に関する一切は介護士だけが管理しているのだ。

 「水屋さんはどこに居る」

 花子は解らないと応えた。だが声が喉にこもった調子を帯びているのは、嘘のしるしだ。

 「また温室か」

 返事がなかった。どういう訳だろう。花子に介護士を庇う理由などないはずだが。あの女が良く仕事をさぼって温室に入り浸っているのは周知の事実だったし、屋敷の者とて見て見ぬふりはしながらも、誰も裏では快く思ってはいなかったろう。

 だが同時に召使い達は秘密主義でもあり、特に源三が調子を崩してからは、家内で起きる問題を隠す傾向が強まっていた。仲間に告げ口と取られるような行為はどんな瑣末な件にせよ避けたがっているのかもしれない。

 ともかく怠慢は怠慢だ。介護士が果たすべき職分を、家政婦にさせてはならない。主人が秩序を維持せねば、苦労して築き上げた全てがばらけ、無に帰してしまう。

 まずは正直に話をする相手を探さなくては。

 「まどかは?」

 孫娘のまどかなら、頼りになる。小さくても、賢くて、屋敷中に良く目配りのできるあの子が居なければ、とても、"病院"だの何だのといった外の連中の手を借りずに暮らしてはいけなかっただろう。頭の回転が速い分、大人の命令に従わないのがたま瑕瑾きずだが。

 ところが花子は彼女の名前を聴いても沈黙を守ったままだった。車椅子を抑えたまま、首をすくめ、軽く腕の毛を掻く姿は、至極泰然としており、動揺のきざしすら読み取れない。

 忠実だと信じていた家政婦にまで、かくも徹底して知らんぷりを決め込まれたのには、いささか傷つけられはしたが、些細な不服従に苛立ちを表わした所で、却って侮られるだけだ。

 「あの子も温室か?」

 花子は頭を掻いて顔を背けた。若い娘の肢体は、短く揃った体毛を煌かせると共に、筋肉の戦慄きを伝える。

 源三は納得した様子で頭を揺らすと、背凭れに肩を預けて、酸欠になった金魚のように唇を開いた。なるほど、まどか本人に口止めされているのか。お転婆な孫が、不始末でもしでかしたのだろう。まぁ、やり方はある。

 「まどかは、勉強部屋には居らんのだな?」

 家政婦は勢い良くうなずく。やっと応えられる質問を貰ったのが嬉しいらしい。

 「外庭にも、居らんのだな?」

 また肯定の合図。

 「水屋さんも部屋に居らんのだな?」

 そうだという仕草。両の掌を叩きあわせてはしゃいだ大声を上げる。何年もかかって慎ましさを学ばせたのに、いざとなると子供っぽい所作を止められないのだ。

 老爺は向こうが冷静になるまで、会話を止めようと決めた。とはいえ、ただ口を閉ざしてだけ待っていると、関節の痒みに耐えられなくなるので、指を震わせながら、車椅子の肘掛の末端についたボタンを弄り、モーターの電源を入れ、室外に通じる戸の傍らへと前進させる。

 「付いて来い」

 車輪が廊下にかかると、右折して、奥の突き当たり白く光の差す方へ向かう。ギアを上げる度、振動が背骨に走った。強力なニッケル水素電池によって命を与えられた車椅子の制御系が、油圧を調節している。どんな刺激だろうとないよりはましだ。肘と膝の骨に、千もの蟲が巣食っているようなおぞましさが、多少なりと紛れた。

 入れ歯を噛み合わせながら、眩い明りの方へと華奢な乗物を駆る。歩けなくなってすぐ、通路の段差はすべからくコンクリートで埋め、緩やかな勾配に変えてあったから、好きなだけ速度を出せる。行き届いた管理のお陰で、屋敷の空気は、埃っぽさやかび臭さとは無縁だった。かといって肺が呼吸を楽にできる訳ではないのだが。

 感熱センサーが働いて、天井のLEDライトが点り、また消えてゆく。電気屋はきちんと手入れをしているようだ。あらゆるものが正常に機能している。最前覚えたいびつさは、勘違いに過ぎなかったのだろうか。

 記憶の糸を手繰る。電気代や水道料金、保険料、不動産税、所得税、都市税は一括してネットバンクから引き落とされている。パソコンが達者になったまどかが、二週間ほど前にオンラインで確認し、祖父の代わりに決済を終えたと、得意げに説明していた。

 食糧は月初めに生協のトラックで搬入された分で、まだたっぷり余裕があるだろう。玄関前に山と積まれた発泡スチロールとダンボールのケースを、園芸師の大助と電気屋の銀太、警備員の黒丸が皆して中へ運び込んでいた。あれで足りないはずはない。

 勤め先だった研究所からの定例連絡が遅れているのだけが妙といえば妙だが、春からアメリカ本部とヒト遺伝子組み替えの新企画に取り組んでいるという機関紙の報告を鑑みれば、多忙のあまり退職した人間の面倒には手が回らないのだろうと推測できる。

 どちらにせよ、隠居暮らしにはもう大して関わりはあるまい。特許使用料と著作権使用料はきちんと半期ごとに支払われているのだし、雀の涙ほどの年金とて滞っていないのだから。

 遺漏いろうはなかった。寝たきりのままでいても、万事は順調に処理されている。

 老爺は眉をひそめた。つまり、もう、采配を振るう主人など要らないのか。とすれば、それこそが、花子の豹変を説明するのではないか。いや、いや、僅かな証拠だけで召使いの謀反だと結論するのは飛躍が過ぎる。

 孫のまどかはどうなる。介護士の水屋については。まずは温室の具合を調べてからだ。

 考えを巡らせていると、眼前の宙空にいきなり、赤い逆三角形が浮びあがって、道を塞いだ。彼はブレーキをかけ、溜息を吐くと、背後の花子が追いつくのを待つ。家政婦は、四つの手足全てを使いながら急いで主人の元へ走り寄ると、隣へ並んだ。

 源三は腕を擡げて何かを指示しようとしてから、疲労に負けて、口頭での命令に切り替えた。

 「開けろ」

 花子が壁に近付き、レバーを引く。

 しゅっと気密の破れる音がして、湿った風が顔へと吹き付けた。逆三角形の模様は真中で二つに割れて、左右の壁へと吸い込まれていく。硝子に遮られていた空気が交じり合って、あおいきれが鼻腔を擽った。屋敷と温室のドームを繋ぐ硝子張りの回廊が開かれたのだ。

 金属のアーチを幾つも連ねて伸びる円筒は、野外から差し込む朝の空から注ぐ光箭をでたらめに反射し、束ね、老爺の乾いた双眸を貫く槍の穂先と為して、視界を暗い緑に霞ませた。幾度も瞬いて、漸く白く染まる通路の奥を透かし見ると、ドームの入り口を閉ざす透明な扉の向うでも、樹々の濃い影がたゆたい、蒸気に形のぼやけた葉群が豊かに繁る間で、白金の陽射しが煌いている。

 花子が腹から太い声を出して、無邪気な喜びを表わした。屋敷でばかり働いて、ここには夜眠りに就くまで戻れない彼女は、太陽の恵みを一杯に吸い込んだ温室の景色を眺めると、取分け素晴らしい心映えがするのだろう。

 曙に回廊を渡るのは、さながら巨大な万華鏡の芯を潜っているような気分だった。だが多彩の洪水などまだ序の口だ。真の驚異は、ドームの中にこそあるのだから。

 心拍が胸をのぼり、うなじを脈打たせ、鼓膜にぶつかって、いやにはっきりと聞える。幾星霜を経ても、失われないときめき。かつて愛し、まだ愛し続けている、楽園の夢。

 家政婦が先に立って、扉の側柱につけられたレバーを引くと、背後で空気が遮断され、正面の扉が開いた。熱帯の気候が、かさついた膚を押し包む。

 鳥の鳴啼がつんざくように広がり、棕櫚しゅろの梢をざわめかせた。人工の森の命の息吹に、四肢の痒みを暫し忘れ、恍惚と香りと色の奔流を呼吸する。入口側には白とほのかな朱に染まった筏葛の花。下には方形の植木鉢が並び、弁慶草べんけいそうの亜種が厚く艶やかで丸みを帯びた葉の脈に沿って露珠を溜めている。

 右手奥には蘆薈ろかいが棘だらけの怪獣の舌とでもいったような肉厚な葉を十数枚も広げ、隣には、秋から冬にかけてだけ葉が真紅に染まる猩々木しょうじょうぼくと、逆に一年を通して黄色と茜の鋭い羽根状の花を咲かせる極楽鳥花ごくらくちょうかの叢が刈り込まれている。左手には化石木を組んだ高価な蔓棚が設けられ、黄金蔓おうごんかづらの仲間が何巻きもして、斑の入ったハート型の葉をびっしりと茂らせていた。

 さらに向こうには巨人のうちわのように良く育った芭蕉ばしょうや、土壌が合わなかったのか哀れに枯れかけた象竹ぞうたけの密生も見られる。だがそれらは端役でしかない。中央に注意を転じれば、本当の王者がどれかは一目瞭然だった。高さ十メートルを軽く超すような椰子やしがぬっとそびえて温室を睥睨へいげいし、周囲には、太い幹が軋むほどボリュームのある実を成らす南果なんか、かぶれやすいが薫り高い勾玉状の果物がとれる潅木菴羅ばんら、電球のように真丸で汁気の多い実をつける蕃石榴ばんじろうといった樹々が傅いている。

 北アフリカ、大西洋諸島、インド洋、中国南部、インドシナ半島、ポリネシア諸島、カリブ湾岸、南米、その他ありとあらゆる場所から材料を寄せ集めて組み上げられた、仮想の森。

 高さ十八メートル、直径四十八メートルの穹隆きゅうりゅうに覆われた空間の外には、どこにも存在しない場所。熱帯とも亜熱帯とも温帯ともつかぬ気温と湿度、何百種もが生存を試みられ、僅か一握りだけが根を張るのに成功する、残酷な植物の闘技場。

 しかし何というエデンの庭だろう。

 「まどか!」

 老爺が孫を呼ぶ声は、掠れ裏返っていたにも関わらず、御椀型の天蓋に韻々と響き渡った。菴羅の枝から、小鳥の影が八方へ散り、一羽は何を血迷ったか彼の車椅子が停まる太桃の枝下へと飛び込む。

 翼ある訪問客が激しく羽搏き、宙を叩いて浮遊する様に、源三はぎくりと凍りついた。

 フィンチだ。生物学の徒なら、高校生でもそうと悟れるような、馴染深い特徴を備えている。しかし図鑑にあるどの亜種よりも大きかった。鋭く曲がった嘴と、長い鉤爪は、家庭で飼われる十姉妹じゅうしまつ金華鳥きんかちょうとは似ても似つかない。猛禽めいた要素が混じるようで、どちらかといえば同じスズメ科でも、鴉に近い印象を受ける。だが羽毛の色は陰気な黒の代わりに目の覚めるようなコバルトで、目立つ橙の斑が入っていた。

 温室に入れた覚えがない。首を傾げると、眼鏡から涙のように水雫が滴って、膝を濡らす。曇り止めに塗った酸化チタンのせいだ。フィンチの姿が歪み、きちんと観察するのが難しくなる。湿度を上げすぎだ。電気屋の銀太に注意しなくては。

 「おじいちゃん?おはよー」

 蕃石榴の木陰あたりから声がすると、折れた剣を地に植え込んだような鳳梨あななすの茂みが割れ、しなやかな肢体が跳ね出す。

 源三は不思議な小鳥から視線を逸らして、そちらを振向いた。

 亜麻色の髪をショートカットにした快活そうな少女。背は低いが、胴に比べて手足が長いので大人っぽく見える。ただ服装の方はいつも介護士の水屋が顔をしかめるようなひどいもので、今日も黒いタンクトップと、腿の半ばまで詰めたアーミーパンツといういでだちの上、目の下に赤いフェイスペイントまでしていた。黒丸か大助を相手に戦争ごっこでもやっていたのだろうか。

 「どーしたの」

 にこやかだが、祖父の目を見ない。老爺は瞼を半ば瞑るようにして、囁くように問い掛けた。

 「おはようまどか。水屋さんはどこだね?」

 「え、知らない」

 嘘をついている。孫娘にまで欺こうとされるとは。源三は関節の痒みに叫びたくなりながら、うわべだけはなごやかな面持ちを保って呟いた。

 「温室以外には居ないと、花子が言ったんだがね」

 幼い両の瞳にぱっと怒りの火が瞬く。刹那、少女は家政婦をねめつけ、やがてむくれた様子で俯いた。

 「知らなーい。あたしあのオバサンと仲わるいもん」

 水屋はまだ若い女で、彼から見れば殆どまどかと変わらないのだが。この子がこういった喋り方をするのは前々からで、咎める気力もおきなかった。追々諭せば良い。自分に対する警戒を除くのが先決だ。

 「そうか。今朝は薬を貰ってなくてな。痒くてたまらんのだ」

 たった十歳の子供に同情を惹く台詞を投げるなど、情け無いにも程があった。だがどうしようもない。あどけない容貌が翳り、口元から頑なさが退く。幾ら傍若無人な育ちをしていても、肉親の困窮には憐みを催すのだ。

 「あたしとってきてあげよっか?」

 「場所が解らんだろう」

 「あの人の部屋でしょ?」

 他人の居室を荒らしてはいけないと躾なかったろうか。つい叱りつけそうになってから、言葉を飲み込む。解らない。彼が倒れてからというもの、まどかはオンラインの電子教材による講習と召使い達の世話しか受けなかった。だが痒み止めの件を片付けるまでは口論して喧嘩になりたくない。

 「それより水屋さんを呼んだ方が早い。お前でなくても誰か…居場所を知っているだろう」

 「えー、いいよ。あのオバサンまたおじいちゃんが温室にいるとぐちゃぐちゃ言うしさー。あいつまじむかつくんだよ。あたしに家のこと、しつっこく聴いてさー。おじいちゃんが、どうやって大助達を作ったのかとか、知りたいっぽい」

 源三の頭に血が昇った。世界が赤く染まり、ぐるぐると回転を始める。何だと。薄笑いを浮かべる孫娘を凝視しながら、唇が問いを紡ごうとして、不様に唾液を垂らした。関節の症状が激しくなり、錐を突き刺したような痛みになる。

 「うわキタナッ、ちょっとおじいちゃーん?膝にヨダレついちゃうよ?」

 「ま、まどくぁ…おばえ…あ゛ぁっ…なにをいってる」

 「え、だからさ、水屋ってさー、頭わるすぎなの。作ったとか思い込んでてさー。しかもぉ、昨日なんてとうとう銀太に変な注射しようとしてんの!やばすぎ、それでもう黒丸にやっちゃっていいよって…っ…おじいちゃん具合悪い?だいじょーぶ?」

 毛穴が開き、信じられない量の汗が噴き出す。鳥肌が立ち、吐気がした。なぜだ。まどかが知っているはずはない。いくら賢くてもまだ十歳なのだ…書斎には入らないよう厳しくいいつけて…パソコン?

 そうか。だがどうして理解できるのだ。塩基配列、酵素、ウィルス搬送、失敗、失敗、助成金の打ち切り…この場所の…偶然の発見…エデン財団…四十年かかったのだ。彼の温室が完成するまで。息子にさえ打ち明けなかった秘密を、何故今になって小さな女の子が…。

 「はなこ…皆をよべ」

 「え、待っ…花子だめ」

 花子が胸を膨らませ、おらぶ。巨嘴鳥と白椋鳥が恐怖に飛び立ち、硝子の天球にぶつかって硬い響きをたてる。谺の消えぬ内に、南果の大枝から園芸師の大助が巨体を滑り降ろし、機関室の扉を開けて銀太が、灰色の胸を押し出して現れる。

 「黒丸、黒丸はどこだ…」

 「待ってって…」

 鳳梨の茂みの奥奥から喉を鳴らす音。やんちゃ者で黒い毛並の警備員が、呼びかけに遅れた申し訳なさで、しきりに吼えながら歩いているのだ。右手は何か重い荷物を引き摺っており、それが原因らしい。

 ぷんと血の匂いが立ち込め、源三は呻いた。

 黒丸の大きな掌に若い女の首が鷲掴まれている。頚骨は付根の辺りから奇妙な角度で折れ曲がり、裸の身体はだらりと地面についている。鋭い鳳梨の葉に刻まれて擦り傷を幾つも拵えた肌は、まだ張りを失っていず、股間から滴る血と精液の混ざり物は、魂を失った躯にエロティックな彩りを与えていた。

 介護士の水屋。そのなれの果て。

 「…はっ…はっ…何ということを…」

 何ということを?まどかがナニをしたというのだ。そうだナニをした。まどかはナニをしたのだ。これは本当に自分の孫娘か。何が起きている。召使いに命じて、気に入らない大人を殺させるような子供を育てたつもりはない。どうして知らない間に状況はおかしな路線を辿ってしまったのだ。ナニも知らなかった。誰も家庭内で高まりつつある緊張や殺意を、彼に告げなかった。

 ではここは本当に己の屋敷か。温室か?自分は主人なのか。それとも違うのか?だとしたら自分はどこにいるんだ?本当にこれは現実なのか。昨日まで生きていた女の死体を眺めながら、為す術もなく立ち尽している今の自分は何なんだ。誰なんだ?

 まどかはタンクトップのひもを直しながら、ばつ悪げに唇を尖らせ、華奢な身体の重心を右から左、左から右へと交互に移す。怯んだ眼差しが、下顎からとめどなく涎を溢す祖父と、冷たくなった介護士とを忙しく行き来した。

 「あのね。黒丸がぁ、初めてで、加減できなかったんだよ。死なすつもりなかったんだけど。でもきっとこのオバサン、なんか、スパイみたいなのだったんでしょ?」

 「…ま゛っ…」

 突然痒みが消え、ひんやりとした冷たさが指先から両手両足を這い登ってくる。涼しい。消えて行く。自分が誰なのか。何故ここに居るのか。一切が消えてゆく。

 広岡源三。七十五歳。生物学、遺伝子工学、動物行動学修士。元エデン財団人類研究所特別研究員。元バベル大学特別客員講師。代表論文は、原/新人類の遺伝子異同に基づく動様式の類似性に関する諸問題、ほか、ひろおかげんぞうななじゅうごさいせいぶつがくいでんしこうがくどうぶつこうがくしゅうしもとエデンざいだんじんるいけんきゅうじょとくべつけんきゅういんもとバベルだいがくとくべつきゃくいんこうしだいひょうろんぶんはげんしんじんるいののいでんしいどうにもとづくこうどうようしきのるいじせいにかんするしょもんだいほかヒロオカゲンゾウナナジュウゴサイセイブツガクイデンシコウガクドウブツコウイドウガクシュウシモトエデンザイダンジンルイケンキュウジョトクベツケンキュウインモトバベルダイガク…。

 「ってゆーか、大丈夫だよ。あたしが、おじいちゃんのお薬ちゃんとやるから」

 どこかが破れた。血が、脳が。痛い。頭が眼球が。死ぬ?死ぬのか。老爺の意識は支離滅裂な断片に千切れた。驚愕と衝撃が心臓と頚脈を双つながら破壊し、永遠に続くような、しかし一瞬の激痛と引換えに、免疫不全による関節の痒みから彼を解放する。

 電源が切れるように、朽ちた身体は命の灯を消し去った。

 「おじいちゃん?おじいちゃん?おじいちゃん?おじいちゃん?」

 怪訝そうに車椅子上の屍をゆする孫娘の頭上を、あのフィンチが飛び回り、死せる温室の主に弔意を示して、金管楽器のような奇妙な鳴き声を上げた。

 「あ…死んじゃった…」

 幼い唇が、医者の宣告のように乾いた事実を言葉にする。すると園芸師、電気屋、警備員、家政婦は順に跪き、前任者が長き統治を終に手放し、若き後継者にその権が渡されたのを寿ぐが如く、朗々たる合唱を始めた。

 密閉された硝子のドームの中で、木々が風に揺すられでもしたように、一斉に葉擦れを起こす。だが透明な半球の中央では、最も丈高い椰子だけが、そよとも動かず、植物と、鳥と、人と、その召使いの全てを、じっと見守っていた。

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