Doors to Worlds Vol.2

ハニッサは異世界が好きだった。

かなたから、妖精の王子がやってきたから。

雨季のオアシスに育つ灌木のようにほっそりした姿態で、乾季のはじまりに飛ぶ風花のごとく軽やかに踊り、美しい曲を奏で、千頭の山羊を持つ砂漠の首長より気前よく贈りものをくれた。

軽くて色鮮やかな筆箱、数字と図形でいっぱいの謎解きの本。どれもいつのまにか壊してしまった。もちろん最後にもらったお気に入りの、クマのぬいぐるみだけは別だった。名前はクマックマ。ふっくらして、やわらかい毛並みを備え、抱いて眠るだけで、見知らぬ妖精の国の、幸福な幻を魂にもたらした。

だから、おとなになってからも、つかれはてて臥所につくたび、同じ景色を見たいと願った。

けれどもう、まどろみのうちにあらわれるのは、剣と魔法。血と肉の呪いに満ちた、現実の記憶ばかりだった。


一番多いのは、剣の夢。父の夢。

深更。あまたの松明が照らす広場に、水晶の柄の剣をたずさえてたたずんでいる。刺繍入りの帯はなくし、布地の少ない、悪魔の好みそうないでたちをしている。

むきだしになった藍の肌には艶がなく、紺の瞳には光がない。のぞきこんでも、魂がどれだけ残っているのか、分からなかった。最初からなかったのかもしれない。

だが技は正確無比だった。容赦もなかった。

合図とともに、立ち合いが始まる。銀の義指がついた手が、ひょうをはなつ。ハニッサの一門がなりわいとするようになった護衛の仕事の、名の由来ともなった暗器、飛び道具。

ハニッサはぬきはらった得物で一本目を弾くが、同時に飛んできたもう一本が、片目に突き刺さる。

双影鏢。一門につたわる奥義。すでに習い覚えているのにかわせなかった。腕も脚も鉛のように重い。食いしばった歯のあいだからうめきをもらし、すべてを教えた親が、間合いを詰めてくるのを残った瞳でとらえる。

水晶の柄の剣がけさに斬り込んでくる。泥を泳ぐがごとき緩慢さで、かろうじて受け太刀を返す。悪手だった。父がふるう家宝は、別名を“剣食つるぎはみ”といい、切り結んだ武器ごと敵を断つ。

左腕が灼けつくように思え、肘から先の感覚がなくなる。とびすさりながら、残る右で鏢をはなとうとして、また遅れる。喉と眉間を狙うのはたやすいはずなのに、どうしてもできなかった。

鋼の牙がまたハニッサの手を食いちぎる。切り株から深紅をこぼしながら、叫んで相手の側面に回り込もうとするが、体の均衡をうまく保てない。

たちまち連撃が襲って、今度は両の足を奪っていた。だるまになったハニッサは、ぶざまに倒れる。

遊んでいるのだ。まるで子供が虫の肢をもぐように。父ではない。かつて父だったあわれな木偶ではない。傀儡師。銀の肌と銀の瞳を持つ影の群。勝負の結果を笑いさざめきながら見守っている。

だが一太刀報いるのさえ、かなわない。星のない天に、地の篝からはぜた赤い火の粉が舞い上がるのを、あおいでいるしかない。

ふいに涙がこぼれる。

失った目から真紅の、残る目から透明の筋が、紺碧の頬をつたいおちる。

譫妄におちいった脳裏に浮かんだのは、ひどくたわけ考えだった。クマのぬいぐるみ、クマックマを、二度とだきしめられない。もう二度と。


二番目に多いのは魔法の夢。悪魔の夢。

片目と手足のないハニッサは磨いた石の寝台によこたわっている。

五つの柱が取り囲んでいる。円筒の輪郭が徐々に人のかたちをとる。銀の肌、髪、瞳。古代の彫刻のように完璧な造作。最も小さなひとつが、子供の姿になってほほえみながらすすみでる。

白魚のような指が、勝負に敗れた剣士の鎖骨のしたあたりに触れ、青く輝く渦を抜き取り、指輪にはまった同じ色の宝石に閉じこめる。次いで、五人の悪魔は順番に蒼玉に口づけし、ねぶりあげる。つど、女の体の芯をくるおしいほどの官能が疾りぬける。

“随分あっさり負けたな。よほど我等のものになりたかったの?”

笑いながら、銀の仔は愛らしいかんばせを近づけてくる。あらがうすべはない。蛇のように長い舌が入り込んで歯列をねぶり、頬を内側からなぞり、唾液を混ぜ合わせる。

初めての接吻。

すぐに別の、飢えた狼のような相貌をした青年が入れ替わり、噛みつくようにまた唇を奪う。乳房に指が食いこむ。痛みとともになにかがしみこみ、快さをもたらす。また別の怜悧な男がひどくやさしく、しかし執拗な愛撫をしてくる。ぞっとするほど美しい女もいた。

相手が変わるたび、腰の芯にともった火をかきたて、次第に四肢を欠いた体は熱を帯び、汗みずくになって、冷たい盤のうえでぶざまにもがいた。

“ふぁ…あふっ…”

あえぎをもらすと、最初に接吻をした少年がまた進みでて、真紅の髪を指でくしけずった。

“じょうぶだが、感じやすい。きっとよいはしためになる”

待ちうける運命をおぼろに感じて、ふるえがはしる。だが火照りはさめないだどころか、高まっていく。

“ぅ…ぁっ…”

“うれしいか”

“うれしい…です”

舌が勝手にほぐれ、主人が望むままの台詞をかたちづくる。銀の仔はにっこりしてから、いきなり頬をはたいた。掌が鞭のようにしなって、並の痛みになら耐えてきた青い女が悲鳴をもらす。電が打ちすえたかのような衝撃と、恍惚。

“もう一度だ”

“ひっ…はしために、なれて、うれしいです”

“ひねりのない。まあ口のききかたはだんだん覚えればよい”

告げてからまた唇をうばう。ほかの悪魔も笑いさざめきながら、とめどもなく同じ遊びに興じる。

しだいに変化があらわれてきた。誰かが火酒を口移しで飲ませているあいだに、ほかの誰かが乳首や陰核をつまんで甘噛みし、青い肌に舌をはわせ、四肢の切り株をねぶり、眼窩のまわりをなぞり、秘裂からこぼれるとすすり飲む。

めくるめく感覚に奴隷はむせび、歯を鳴らし、背を弓なりにそらせる。だが手足のない身では何の意味もなかった。

獲物に絶頂が訪れても、かまわず玩弄はつづいた。二度、三度と気をやり、四度目には低くうなりながら失神しかけたが、かすかなあざけり笑いだけが得られた反応だった。

“ぁっ…ぎぃっ”

“なさけない雌だ。もう肉の歓びぐらい知ってるだろう?”

少年のかたちをした化生は、呆れたふりをして尋ねても、女はただ半ば白目をむいてみだれた息をするだけだった。

“答えよ”

声変り前の喉が、青い耳に命をそそぐと同時に、かたちのよい指が伸びて、濡れそぼった赤いくさむらをかきわけ、器用に紅蕾の包皮をむいて、ようしゃなくひねりあげる。

“ひぎぃいい!!!?…あぎっ…知らな…ぁっ?ぅぎぃい?”

“もしや未通か?接吻もさきほどが初めてとか?”

しびれた脳に次々と刺激が伝わる。耐えがたいつらさと心地よさ。同時に胸の奧がきしむ。心臓のあたりが刺すように痛む。だがおとがいは開いて、また意志とはかかわりなく返事をかたちづくった。

“は…い…”

悪魔は笑う。

“なぜ?引く手あまただったはずだ”

“たいせつなひとと…むすばれたかった…”

“そやつの名は?”

舌が止まる。ようやくと。一秒、一秒に全霊をこめ、ハニッサはあらがった。銀の仔は困ったように首をかしげてから、いきなりまた腫れあがった花芯をねじった。

“ぎぁああぅうう!!?”

小水の孤を描かせながら、瑠璃の女はまないたに乗った魚のごとくはね、舌をつきだしてまた苦悶と喜悦の涯に達する。涙と洟と涎で汚れ、くずれた面差しを、銀の双眸がのぞきながら、唄うように尋ねる。

“名は?”

“ケイ…”

なくした魂がどこかで悲鳴をあげていた。かつての剣士は、うしなったはずの手足の指先が冷えていく、奇妙な錯覚にとらわれて、わなないた。だが、幼げな主の質問はやまない。

“なにものだ?死んだ鏢師のひとりか?”

“妖精の…王子…”

まのぬけた返事に、たちまち人外の少年がのけぞらせて笑った。ほかの四たりの同族も和す。

“そやつのために、みさおを守っているのか。物語の姫君のごとく”

“はい…”

浅い呼吸がわずかに落ち着き、四肢を欠いた奴隷は、無表情にうべなう。

銀の仔はうなずくと、そっと己のやせた下腹をなぜた。たちまち華奢な体躯に似合わぬ、いぼだらけの逸物が隆起し、へそのあたりで鼓を打つ。

“やめ…ろ…やめて…やめてください…おね、がい…します…ぅぐうう!?”

うつろに懇願するハニッサに、悪魔はあくびをすると、またほほをたたいてだまらせてから、いまだ開かれたためしのない門に剛直をあてがい、強引にねじ入れていった。

“い…ぎぃっ”

肉の鉾はゆっくり、しかし確実に膣をこじあけていき、根元までうずまった。産道をいっぱいにひろげ、子宮を押し上げる圧迫に、奴隷はえづいた。だが、やおらすべてがねじれて、官能へと変じる。

“ひっぐぅ…ぅっ…ぁ?”

“よく味わえ”

銀の細腕がひきしまった青い双臀をかかえて、勢いよく突きあげる。目の前に火花を散らせながら、かつての剣士は絶叫した。異形の凶器は粘膜を削り、破瓜の印を滴らせながら、抽送の強さを増していく。内臓をゆすり、撹拌し、押しつぶしながら、耐えがたい体験のすべてを快楽へ塗り替えていく。

“ぁ゙あ゙あ゙!!!!…ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙!!!!”

吠えたけりながら、婢は気づくと刺激をむさぼり、接吻をもとめ、ねだり、主人の華奢な胸に乳房をすりつけていた。

“よいぞ。素直になってきたな。そなたの主人が誰か。よく覚えておけ”

さんざん腰を使ったあと、少年はまるで便器に用を足すようなぞんざいさで精をはなち、痙攣する雌肉をまた石の寝台に放りだした。うつぶせになった、だるま女は、たわわな胸毬をつぶしながら、散らせたばかりの純潔から紅と白のまじった泡をたらし、もはや声もなくわななきながら、余韻にひたる。

忘我におちいりかけたところを、あらあらしい青年が入り込み、尻朶を叩いて目を覚まさせる。汚れた穴に酒瓶をねじこみ、火酒を流しいれて洗い落とすと、また挑みかかる。首をつかみ、締めあげながら、強引に太幹を押しこみ、前後させる。

すべてが甘い疼きとなって背筋をかけぬけ、脳を灼いてゆくのを、奴隷はただ受け入れるよりなかった。六人全員が四巡を終える頃には、息もたえだえになりつつ、呆けた笑いさえ浮かべていた。

ようやくとわずかな小休止に入ると、うつろに闇を見やる隻眼を、悪魔のひとりがのぞき込む。

“案じるな。子産みの穴など壊れれてもすぐつくろってやる。糞の孔も、尿ししの孔も、へそも口も眼窩もすべて奉仕できるように作り変えてやろう。いずれ都市すべての悪魔が使う厠になるのだ。我等と同じとこしえの命も与えてやろうぞ。うれしいか”

“はい…ご主人様…”

正しい答えをほめるように、なめらかな掌が、汗にそぼった緋の乱れ髪をやさしくなでた。

夢の中でハニッサは、嗚咽した。

終わりではなかった。始まりにすぎなかった。無限につづく夜と悪夢の、ほんのとばぐちでしかなかった。

悲鳴と嬌声をあげ、切り株になった四肢ではいずって逃げまわり、捕まり、絶えまなく折檻としつけを受け、わずかな安息すらもなく、ひとかけの眠り、ひとかけの慰めのため、媚を売り、品を作り、甘えかかり、最後には尻をふって情けを乞う。くりかえし、くりかえし。いくどとなく。クマのぬいぐるみも、抱くための腕さえなく。


「おはよう」

すぐそばで聞こえた、おっとりした挨拶に、剣士がまどろみから覚めた。まぶたをひらくと、鼻先のあたりに、円盤がゆったりと浮遊しているのがうかがえた。

伏せた椀と皿を組み合わせたかたちをして、発光する小さな球がいくつか目玉のようについている。みがきあげた磁器のようになめらかで、薄っすらと緑を帯びた表面はなぜか植物を連想させる。

身じろぎすると、やわらかで張りのある敷布が、うなじや肩、背、腰にあたっている。なかば液体のような弾力のある素材でできた寝台に、うずもれるようにして眠っていたらしかった。慎重に起きあがると、目の前にただよう奇妙な物体も、それに合わせてわずかに退いた。

深呼吸し、すばやく体をあらためる。長いあいだ乳首や秘部にはまっていた銀の輪がなくなり、刺青も消えている。肘と膝から先は依然として銀の義手と義肢がはまっているが、いつもより軽やかにあつかえた。疲れはとれていて、体の芯をむしばむ、うっとうしいうずきも薄れている。

燃えるような髪を藍の指でかきあげたところで、どこにいるのかをはっきり思い出した。故郷ではない。因縁が蔦のようにからみついた悪魔の都市ではない。

妖精の扉をくぐってたどりついた異世界。名も知らぬ土地にある施療所の一室だ。

今度はゆっくりあたりをながめ、首をかしげる。おかしな場所だった。壁も天井も床も丸みを帯びてひとつながりになっており、真珠のような光沢をおびている。大きな貝の中にいるかのよう。光のみなもとははっきりしないのに、まぶしすぎない程度に明るく、風もないのに空気はよどんでおらず、あたたかだった。

けだるさをふりはらい、義手と義足を操って床におりようとする。

そばにたゆたう物体が、とがめるように点滅した。

「あせらないで。まだ治療は終わってない」

「もう十分だ」

青い肌の女はいささか硬い声音で告げたが、相手はまるで臆したところもなく食い下がる。

「君については、ケイからよく頼まれている。十分に手当せねば医者として吾輩の立場がない」

だが患者はかまわず、部屋のすみの、床がせりあがった部分に近づき、内部のくぼみに指をのばすと、たたんであった衣服をとって手際よく着けてゆく。上着に袖を通し、ボタンをとめる段になってやっと、関心もなさそうに問い返した。

「あっちはどうなんだ」

すると異形の医者は七色にきらめきながら同意する。

「ケイは問題ない。あの程度は怪我のうちに入らないさ。以前いけにえの身代わりに、吸血蝙蝠の餌食になりかけたときなんかに比べれば」

すらりとした肢体が、肉食動物の敏捷さでふりかえり、探るようなまなざしをぶつけた。

「身代わり?」

なおも尋ねようとするが、しゃべる皿は冷静に脱線を修正した。

「それより今は君だ。まず目と腕だが、本当に修復しなくてよいかね。主観時間で四十日ほどで完全再生できる。機能は今より低下するかもしれないが」

「このままでいい」

ぼそりと答えた剣士は、紺と銀の瞳をまたたかせると、血の通わぬ腕をもたげ、なめらかな表面をながめた。

空飛ぶ円盤の方は了解の印に点滅すると、またあっさりと話を切り替える。

「では次は神経系と内分泌系だ。ちょっとやっかいだよ。吾輩には解析できない力が干渉して、君をたえず興奮させておこうとしている。よく意識を保っていられたね」

せんだってまで悪魔の奴隷だった女は、問いかけには答えぬまま、てきぱきと身だしなみをととのえ終えると、肘を抱いて、かたえをむいた。

発光する物体が、まるで衛星のようにまわりをめぐりながら、説明を続けていく。

「ひとまず君の体があまり反応しないよう、薬で干渉を遮断しておいた」

「礼を言う」

まぶたを伏せたハニッサが小声で告げると、医者は先があるというようにひらべったい縁をふってみせた。

「ただ君の体はもはや干渉を当たり前として受け入れているから、遮断しつづけると、ゆりもどしが大きくなる。対処として、時間をおいて遮断と解放を交互にやる方法を提案する」

剣士がだまりこくっていると、円盤は距離をつめて告げた。

「手を出して」

銀のてのひらをさしのべると、ただよい寄ってきた伏せた皿から、錠剤がふたつ落ちてきた。片方は緑の四面体、もう片方は紫の六面体だ。どちらもかすかに脈打っている。

「ふだんは四面体の薬を飲んで干渉を遮断し、安全に閉じこもれる場所についたら、六面体の薬で解放し、興奮をやりすごす」

青い肌の女はじっと錠剤を観察してから、しずかにたずねた。

「解放したあとの興奮は、どれくらいでおさまる」

「おおよそだが、もし丸一日遮断すれば、その六分の一ぐらいの時間だろう」

助言に耳を傾けつつ、海よりも深い青の肢体と、それにつらなる金属の手足とは、湾曲した壁にぐったりともたれた。

「分かった。かさねて礼を言う」

「どういたしまして。なにかあったらまた来てくれ」

空飛ぶ円盤が、無数の球を彩豊かに輝かせるさまを、ハニッサはむっつりと見上げ、やおら語句を接いだ。

「次に来たら、吸血蝙蝠の話、詳しく教えてくれないか」

「いいとも。ケイが話したがらないことまで、じっくり語ってあげよう」

あいかわらず上機嫌な医者の態度に、とうとう剣士はわずかに相好を崩した。


施療所の待合室で、少年はおとなしくしていた。宙に浮かぶ透明な球状の椅子に足をそろえて腰かけ、ひざに拳を置いて。ハーフパンツにワイシャツ、上着、ポシェットというそっけのない服装。来院前に巻いていた包帯ははずれ、もうやけどのあとはないが、まだはりつめた様相をしていた。

診察室から出てきた女は、片眉を上げてから、短く声をかけた。

「終わったぞ」

あどけない容貌が、ばねじかけのように前をむいて、喜色を浮かべようとし、またこわばる。

「…あれ、なんか…」

「このままでいい」

剣士が断言しても、童児は納得したようすはなく、数秒考えこんでから、自信なさげに訴えた。

「手術。痛くないよ。僕、前やってもらった」

「…あんたは、これが嫌いか」

だしぬけにハニッサが手袋でおおった義手をもたげて問うた。ケイは口をへの字にむすび、座っていた場所から飛び降り、猫のようにやわらかく床に着地すると、上目遣いに応えた。

「嫌いじゃないです」

「ならいいだろ」

急いで長躯が背をそむける。ちっぽけな連れは首をすくめ、そばへ半歩だけ近づいて、止まった。

「次は」

女がふりかえずつぶやくと、少年は飛びあがってから、あいまいに腕をひろげ、返事を述べようとする。

「買い物。服とか、あと、ごはんとか」

「そうか」

抑揚を欠いた調子で相槌を打つハニッサに、ケイは大きく息を吸って吐くと、つばをのんでからまた話しかける。

「手、にぎっていい?」

広い肩をかすかにす上下させた剣士が、長いかいなをさしだすと、童児は壊れものをあつかうようにそっとふれる。とたん、すらりとした金属の指が、まるまっこい生身の指をとらえ、獣罠を閉ざすように強引につかんだ。

目を見張った少年は、しかし何も言わず、すっかり丈の高くなった幼馴染をみちびいて、帰路をたどった。

生き物の体内のごとく曲がりくねる通路の先に、扉があった。虹の光沢を帯びたおもてには、巻貝を裏返しにしてたいらにのばしたような、螺旋の模様が描いてある。鍵束をさぐって、珊瑚でできた一本をとりだし、渦の中央にある穴にさしこむと、たちまち円形の穴が広がって、人が通れるだけの大きさになる。

二人が戸口をまたぐと、かすかに静電気がはじけるような錯覚があり、次の瞬間には電灯が照らす、ひんやりした屋敷の廊下に立っていた。正面と左右には無数の扉が続いている。

「もう、はなしてだいじょうぶ」

ささやくように告げる。だが義手の力はゆるまなかった。

「あの、じゃあ。えっと、次はバスに乗ります」

「ああ」

赤髪の女との黒髪の少年。大小の組み合わせは、手をにぎったまま階段をのぼり、玄関へ達すると、鍵束からぎざついた真鍮製の一本をとって開く。また頬やうなじがひりつくような感触のあとで、外に出る。

春の終わりの太陽が斜めに傾きつつあり、午後のそよ風が吹くと、草のにおいがした。省みると、何の変哲もない一軒家が建っている。きちんと閉じた車庫の鎧戸の前にハトが二羽、遅いひなたぼっこをしていた。

二人は車止めをたどって小径こみちに出た。路面は瀝青で舗装してあったが、ところどころひびわれ、たくましく緑が萌えいでている。とはいえ悪魔の都市をとりまく荒野に生える剣のような草に比べれば、ずっとやさしげなかたちをしていたが。

左右には似たような作りの家々がならんでいるが、どれも人が住まなくなって久しいのか、いささかすさんでいた。伸び放題になった生垣がきく枝を伸ばしていて、中で小鳥がはばたく音がする。

道がくだり坂になりだしたところで、背の低い方が、ポシェットから携帯電話をとりだして、バスの時刻を確かめる。

「それが携帯か」

まっすぐ前を見やっていた剣士がじろりと一瞥すると、童児はいきおいよくうなずく。

「うん。今日ハニッサのも買う。どういうのがいい?」

「同じのでいい」

「あ、クマックマのもあるよ」

真剣な面持ちで幼い案内役が告げると、青い肌の連れは銀の指をあごにあて、首をかたむけて画面をのぞきこみ、ややあって答えた。

「では…クマックマのだな」

「わかった」

話しながらおりてゆくと、下方には大きな道が見えてくる。そばに停留所がぽつんと立っており、ソーラーパネルが鈍く照り返す屋根の下には、ほかに誰もいなかった。たどりついてから、しばらく一緒にベンチに座って、携帯電話の使い方を説明しているうち、バスが音もなく到着する。

生成色とあずき色で塗りわけた長方形。あまり整備に熱心ではないのか、薄汚れている。横腹についた画面には文字が映り、無人運転で、ショッピングセンターと住宅地を循環していると説明がある。戸口で携帯電話をかざして乗りこむと、内部はかなりすいていて、老女の三人組と、若者が二人組がはなれて座っり、それぞれ違う言葉で話していた。年寄りのいくたりかは、よそものをけげんそうに盗み見たが、すぐまた雑談にもどった。

最後尾の席につくと同時に、外の景色がうしろへ流れはじめる。ハニッサは車内をすばやく観察したあと、外に注意を向けた。灰色の電柱のあいだを、青々とした田園がつづいていく。ところどころ薄暗い防風林や、朽ちかかった家屋、昆虫じみた車、耕作を放棄したらしい野草におおわれた区画があり、白い水鳥がゆきかっている。

「しずかだな」

ハニッサがつぶやくと、ケイは首をひねる。ほかの客の声はそれなりに大きく響いた。だがやはり悪魔の都市の喧騒にくらべればおとなしいかもしれなかった。

「お店はにぎやかだと思う」

「そうか」

窓をのぞいたままあいづちをうつ剣士に、童児はちょっと口を切ってから、またおごそかに述べた。

「クマックマのお店もある」

「なんだそれは」

頭をめぐらせて尋ねる女に、少年はいきおいこんで説明する。

「あのね。クマックマのぬいぐるみとか、鉛筆とか筆箱とか、あとハンカチとかあるよ」

銀と紺の双眸にともる光が、するどさを増し、黒い瞳をのぞきこんだ。

「ぬいぐるみもあるのか」

「あるよ。僕よりおっきいやつ。あのね…こういうの」

ケイは携帯をいじって検索すると、目的の商品を見つけて映しだす。子供が巨大なクマのぬいぐるみにしがみついている写真だ。ハニッサは一瞥するや、瑠璃の横顔をひきしめ、義手をもたげ、手袋をはめた指で画面に触れる。

「あがなえるのか」

「うん」

剣士は数秒のあいだ呼吸をとめてから、ゆっくりと台詞をつむいだ。

「ほかはなにもなくとも、クマックマの品がほしい」

めずらしく首を横に振った童児は、やせた胸をそらせて断言した。

「ううん。両方買う。いるものと、あとハニッサが欲しいもの、全部」


ショッピングセンターには確かに、クマックマの専門店があった。広さは一般の衣類や雑貨の区画に比べても遜色はなく、倉庫を模したような棚には天井に達するまでかわいらしいクマや仲間の動物をかたどった品がところせましと陳列してあり、子供から老人までさまざまな層がいれかわりたちかわり出入りしていた。

店員は数人で、はためには少なすぎるようだったが、誰もが完璧に売りものを心得ているらしく、質問や要望には間髪を入れずに答え、まったくためらったり、待たせたりしないのだった。

二人に応対したのは、ぽっちゃりした色白の女性で神村カミムラと名札をつけていた。眼鏡をかけて、はじめ英語で、次いで日本語で早口に話しかけてきた。

どちらの言葉にもまだ、ものなれぬハニッサだったが、そばについたケイがところどころ悪魔の都市の言葉になおして耳打ちして教えたので、あれこれと細かく尋ねることができた。相手は知識の塊で、クマックマの物語から歴史までをいくらでも語ってくれたので、てんてこまいの幼い通訳をあいだにはさんで、かなり話しこむ結果になった。

買ったのはぬいぐるみを七つと、ボールペンと便箋を含む文房具を十五種類、柄の異なる手巾が四枚とシール六組、さらには小物入れ、歯ブラシ、石鹸、櫛、枕、毛布そのほか。携帯電話も。欲しいと声にした訳ではないのに、剣士がただ足をとめて手にとっているだけで、めざとく童児が注文する。資金が足りなくなると、離れた場所にある機械に走っていって、ひきだそうとした。

「もういい。見るだけで」

青い肌の女がたまりかねて制すると、矮躯の連れはおっかなびっくり紙幣を数えていた手を止め、伏せていたおもてをあげると、意地になったようすで答えた。

「全部買う」

本当に、消しゴムひとつからクマックマの大型テントまで、並んでいるすべてを購入しかねない勢いだったが、最後にはついてきた店員が売るのを拒んだ。

「あせらないで。どちらにせよクマックマのグッズで、ここにあるのは全体のごく一部です」

説明によると、クマックマのグッズは海のむこうでも、それぞれ異なる意匠で作っており、種類は何千何万にも及ぶ。熱心な愛好家は行脚して買いあさるが、しかしすべてを所有しているのは、発祥の場所にある博物館と、さる南の国の大富豪だけだという。

「自分のペースで、欲しいものを少しずつそろえるのが一番。でも、この話はまた、ひまがあるときにしましょう」

カミムラは、私用の連絡先が載った名刺を渡した。

「クマックマについて語り合える人は歓迎します。商売抜きで」

ふくぶくしい容貌はおだやかだったが、眼鏡の奧にきらめく双眸は、獲物を狙う猛禽を思わせた。ハニッサは武者震いをして受け取ると、ひたと見つめ返した。

「よろしく頼む」

あとは、ほかの売り場で、店員の説明にしたがって化粧品だとか必需品だとかを急ぎ足でそろえ、使い方を聞くと、すっかり遅くなってしまった。

夕餉は、最上階にある大食堂でとった。一面が見晴らしのよいガラス張りの窓になっており、さまざまな出店で頼んだ料理を持ち寄って、好きな席につく方式で、悪魔の都市の市場に似ていた。二人でサンドイッチとサラダとコーヒーをたいらげ、フルーツパフェをつついていると、童児は紙くずをまとめ、ウェットティッシュで唇のまわりをきちんとぬぐってから、ぐったりと樹脂の背もたれに身をあずけた。

「全部、買えなかった」

すると女は臙脂の髪を指ですきながら、短く答えた。

「別にいい」

「ぜんぜん知らなかった…クマックマのこと…」

すっかりしょげかえる幼馴染に、剣士はかすかに唇のはしをひくつかせ、義手で口元を隠して、窓のむこうの宵闇を見やった。はるかに駐車場と道路を照らす街灯が、まばらな星のように透かして見える。

「本当に」

「え?」

「妖精の国に来たんだな」

ハニッサの独白に、ケイは瞳をしばたいてから、どう答えてよいか分からず、椅子の上で小さくなった。


ハニッサの私室は、本人の願いでケイの寝所から離れた一室になった。おもいのほか持ちこむ荷物が多くなり、ひとまずの支度がととのうころには、夜半も近かった。

調度は天蓋つきの寝台と、衣装をしまう押し入れとたんす。書架とひとつづきになった机と椅子、武具を置けるようにした戸棚。化粧台。よく掃除はしてあったが、時代がかった雰囲気はいなめない。けれど買ってきたクマックマグッズでかざりつけると、多少ははなやいだ。

「かべがみもクマックマにする?」

「そうだな」

寝巻き姿の少年が、腰に手をあてて、やや前かがみになって尋ねる。女は寝台のうえで、特大のぬいぐるみのあいだにうずもれながら、のんびり答える。入浴と歯磨きを済ませて、買ったばかりの寝巻きをまとって、化粧水と乳液を試した瑠璃の肌は艶めいている。切れ長の瞳が細まって、眠たげだった。

「じゃあ来週ね?今何かほしいものある?」

幼馴染が、あどけなさ残る容貌をほころばせる。剣士は落ちかけていたまぶたをかすかに開いた。見おぼえのある表情だったからだ。赤ん坊のころ、夢と現の境を超える間際に、視界の隅にあった。重い口を苦労して開き、ゆっくりと願いをつむぐ。

「ああ…頼みがある」

「うん?」

「義手と義足を外す。片づけてくれるか」

「わ、かった」

緊張したようすでケイが近づくと、ハニッサはまぶたを閉じた。関節の部分に銀の光が走り、悪魔の細工が敷布に落ちて、清潔な白い布をくぼませる。あとには、つるりと丸まった切り株だけが残る。

すると、ケイはうやうやしいとさえ言っていい慎重さで、それらを戸棚にかけた水晶の柄の剣のそばに運んだ。布巾でひとつひとつを磨いてから、きちんと並べ、持ち主にむきなおる。

「目は?」

「…ああ」

眼窩の周りにまた閃きが輪となってほとばしると、銀の瞳がせりだし、こぼれ落ちた。小さな両手がつつみこむようにして受け取ると、透明な液体で満たした樹脂の箱におさめてふたを閉じ、作りものの四肢のあいだにそっと置いた。

小さな看護役は、くぼんだまぶたに布の眼帯をかけると、相変わらず神妙な顔つきで問いかける。

「これでいい?ほかには?」

女はかすかに言葉につまってから、またおさえた声音で応じる。

「薬をくれ。化粧台にある。紫のやつ」

「飲むの?まって」

妖精のように小さな影が消えると、クマックマの柄つき茶碗に水を注いで帰ってきた。化粧台をさぐって、小袋から脈打つ小さな六面体をつまみだし、うすきみ悪そうににらんでから、枕元までもどる。

「これ、だよね」

「ああ」

青い唇が開いて、錠剤を口に含むと、幼い五本の指がのびて、炎のような髪の生えたうなじのあたりにすべり入り、首を起こさせると、もう片手が茶碗を近づける。

ハニッサはかすかにわなないて、隻眼を閉じると、水とともに薬を飲みこんだ。

「だいじょうぶ?」

首をもどし肩まで掛布をかけてやりながら、のぞきこむ少年を、ただ一つ燃える蒼の瞳がねめつけた。

「ああ。それよりあんた。もう離れろ。朝まで部屋に近づくな」

あわてて乗りかかっていた寝台から降りた童児は、机のあたりまでしりぞき、ややあって、そばに置いてあるクマ柄の携帯電話をとりあげて、説き聞かせる。

「なんかあったら、携帯にとどくぐらい大声だして。そしたら通知出るから。僕起きるから」

「よけいなまねを」

柳眉を寄せた剣士がうめくように答えると、童児は顔から血の気を引かせつつ、機械をもとの場所において、つっかえがちに挨拶をする。

「お、おやすみなさい」

「おい…」

呼び止める前に屋敷の主は脱兎のごとく去っていった。部屋を出るとき、律儀に明かりだけは暗くして。

だるまになった女は舌打ちすると、首をねじり、ぬいぐるみのつぶらな瞳と視線を合わせ、溜息をつく。

「つくづく、いやな女だな…」

ひとりごちるとともに、額を軽くクマにぶつける。いもむしのように身をくねらせて、布団にふかくもぐりこんだところで、ふいに微熱と、悪寒をおぼえる。もう薬が効きはじめたらしかった。

「安全に閉じこもれる場所についたら解放し、興奮をやりすごす、か」

うすく笑うと、まぶたをとざす。ひとりでまた、逃れようもない夢にむきあうために。


ハニッサは異世界が好きだった。

かなたから、妖精の王子がやってきたから。

雨季のオアシスに育つ灌木のようにほっそりした姿態で、乾季のはじまりに飛ぶ風花のごとく軽やかに踊り、美しい曲を奏で、千頭の山羊を持つ砂漠の首長より気前よく贈りものをくれた。軽くて色鮮やかな筆箱、数字と図形でいっぱいの謎解きの本。大好きなクマのぬいぐるみに囲まれた避難所。

けれど、なお、現実は追いすがった。剣と魔法、血と肉の呪いに満ちた記憶となって。

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