DayDream Cha-Cha-Cha

 「お前は罰を受けねばならない」

 と、砂の男が言った。

 風が山肌を吹き抜け、薄紫の土埃を巻き上げて、四つの月が浮ぶ空に霞をたなびかせる。錆色の雪を頂いた連峰は、現世ならぬ永久の黄昏に朧と浮んで、濃い三角形の影を斜面に投掛けていた。未だ生ある人の訪れを知らぬ、夢魔の世界の景色。

 刃毀れした剣のようにぎざついた尾根と尾根の間、数百年の此の方水の流れたろう痕跡もない狭隘な渓谷を、餌に飢えた大蝙蝠が群なして飛んでいた。真下の絶壁には、巨竜の卵の如き一枚岩が鎮座し、螺旋のきはざしを刻んだ側面に、あまたの翼影を映じて、上空から聞こえる羽搏きの音に合せ、妖しい舞踊を繰り広げている。

 巌のてっぺんでは、蜻蛉の羽のように薄い胴衣をまとった童児が独り、あたかも彫像のように立ち尽し、此の世のものとは思われぬ、七色に透ける膚を、天から降り注ぐ青い光に晒して、身中で千もの色彩に屈折させ、四方に散らしていた。

 口笛に似た音を立てて過ぎるはやてに、髪をなぶらせつつ、両目をかっと開いた様は、外見の幼さとは裏腹に、どす黒く重たい憤怒を抱え込んだ老人のような、禍々しい印象を与える。固く結ばれた唇は、寒さかあるいは昂ぶりのためか、微かな震えを帯び、沈黙に耐えかねたようにやがて、短い答えを吐き捨てた。

 「やだ」

 細かな塵の粒が硝子細工のような頬を汚し、唇の動きに合わせて伸縮する筋肉の、おぼろな輪郭を明らかにする。後に続く台詞は、幾らか拗ねたような響きを含んでいた。

 「俺、悪いことしてねぇもん」

 「したのだ」

 砂の男は、しわんだ指を縒れた長衣の懐へ入れ、中から小さなふくさを取り出した。何が入れてあるのか、布地は夜の神の鬘で編んだように黒く、濡羽玉の如き艶を帯びて、およそ持ち主のみすぼらしい身なりには不釣合いな品だ。

 虹の彩りを宿した少年は、ふくさの放つ冷ややかな霊気に当てられでもしたかのように、微かに首を竦めたが、すぐに勇気を振り起すと、きっと鋭い目付きになって、相手の干からびた容貌を睨みつけた。

 「あいつがしたいって言ったんだよ」

 「お前はしてはいけなかった、バイス」

 石と石とがこすれ合うような声。

 水晶の肌は、濃い藍に染まって薄闇に溶け込み、殆ど見えなくなる。

 「なんでだよ。うれしがってたぞ」

 「だが死んだ。結果は同族殺しだ」

 断罪者はしかし、じっと揺らがぬ眼差しで、暗がりに沈み込んだ痩身を眺め、最前と些かの変わりもない冷たい調子で宣告した。

 すると、蒼黒い帳に隠れた少年の両肩と、背骨の交わるあたりから、突如燃え立つような茜が広がって、燦然たる姿を浮び上がらせる。

 「死んでねーよ!」

 「死んだ」

 「ちげぇよ!あいつ、俺になったの!俺とあいつが同じになったの!」

 「喰らったのだろう。彼女の精気が尽きるまで吸い尽した。夢魔が互いに集めた精気を受け渡す力を悪用してな」

 「あいつが、そうなりたいって言った!俺とそうなりたいっていったんだ!」

 輝く肢体はあたかも松明の如く翳ろい、爆ぜては燃え立って男に迫ったが、しかしただの一歩たりとも相手を後退らせることができなかった。

 「それでも、してはいけなかった。夢魔は生命を奪わぬ存在だ。人間の悦びを食べ、誰も傷つけず、誰も悲しませぬ。だがお前の行為は、夢魔の生きる理から外れた。他の存在を喰らい、消化し、自らの血肉とするのは人間世界の領分だ」

 語勢に押されてか、幻の焔は次第に弱まり、しぼんで、不安な少年の姿を露にする。

 「るっせぇな!だからなんだつーの!?関係ねーだろ!俺とあいつの…」

 「いいや。事は夢魔全体に関わる。ここではあらゆる者がお前を恐れ、次は己の番ではないかと不安に駆られている。裁きを求めているのだ」

 淡々と喋りながら、男はふくさから一つまみの砂を取って、そっと前へと差し出した。年若い夢魔は、歯軋りし、首を振りながら、一歩、二歩と不気味な呪具から遠ざかろうとする。

 「やめろ!しねぇよ!バカじゃねぇの。あいつが好きだからしたんだよ。あいつが俺のこと好きっていったからしたんだ!他なんか知らねーよ!」

 「信じまい。解るまい。お前は異端だ。お前の愛の形はお前だけのもの。他の大勢にとっては禍に過ぎぬのだ」

 「汚ぇぞ!そっちが勝手に恐がってんじゃねぇか。そんで始末すんのかよ。ふざけんな!!」

 激しい抗議に心を動かされたのかの如く、砂の男はしばし手を止めると、灰と炭の交じり合ったような瞳を瞬かせた。

 「ではもう一度誰かを愛したらどうするのだバイス?」

 「あ゛っ?」

 「また同じように、同族を愛して、彼女を食い尽したくなったら」

 「はぁっ?…別に、そいつが、嫌がんならやんねぇし」

 「だが彼女もお前を愛するようになれば、恋人の望みのため命を失うのも厭わなくなるやもしれぬ。なにより、お前はそういった愛し方しかすまい。繰り返しは避けられんぞ」

 問詰められたバイスは切れ長の双眸を伏せ、はぁっと重い息を吐いた。滑らかな瑠璃の膚を破って溢れんとする憤怒を、なんとか身の内に留め置こうとするかのように。

 「いい加減にしろ。まじうぜぇよ。いいだろ、それも俺とそいつの問題じゃん」

 「そうだな」

 断罪者は微笑むと、指を開いて砂を風に解き放った。

 「呪われよ同族殺しのバイスホップ。これよりお前は、愛と死と、怒りと悲しみの支配する人間の世界に生きるのだ」

 「なんっ…!?」

 「私は、お前が、かの地で力を増し、こちらへ戻らぬよう、夜に精気を吸うのを禁じるとしよう。お前が餌を探し、夢を渉猟できるのは、大地が太陽に顔を向けている間、多くの人間が目覚め、働いている時間に限られる」

 「おい!」

 高台の四方で唸っていた風がやみ、地鳴りが千年もの間眠りに就いていた巌を激しく揺さぶり始める。

 「急ぎ急ぐこと、律し令されしが如くにせよ。さらばだ」

 固い岩盤に亀裂が走り、鰐のあぎと宜しく真二つに割れると、七色の肌持つ夢魔を飲み込み濛々たる粉煙を上げながら、土石流と共に谷底へ降り落ちていった。

 砂の男が宙に向かって腕を伸べると、大蝙蝠が数匹、低い円弧を描いて滑空し、側を掠めすぎ様、彼を安全な天の高みへと攫い取る。

 同族殺しの少年の憤りの咆哮は地の轟きに掻き消され、誰の耳にも届かなかった。










 その日、人間の世界は暑かった。もちろん北半球の話である。バンコックも、カルカッタもニューデリーも、イスラマバードもギルギットもフンザも、イスタンブールもチャナッカレも、緯度が低ければ低いだけ暑かったし、近くなくてもそこそこに暑かった。

 夏だったのである。

 さて北半球では、さほど赤道には近くない方である日本の、とある地方都市。の、とある大学、から少し歩いた辺りにある停留所なんかも、カルカッタ周辺に比べると気温こそ低かったが、やたら蒸したのでやっぱり暑かった。

 夏だったのである。

 ミンミン蝉とジージー蝉が合唱する停留所は、陽射しの強さで肉眼でもハレーションを起しそうなデスメタルな状況下にあり、日除けの屋根も殆ど頼りにならない有様で、テストでへとへとになったうら若い乙女にとっては、かなりやばめのロケーションと化していた。

 「暑いよぉ…」

 花も恥らう女子大生の藤咲英子嬢は、言わずもがなの感想を口にして、眼鏡を外すと、額の汗をハンカチで拭う。ほとんど化粧をしてないので、眉を消しちゃうとか、でろでろに溶けたアレソレが目に入る心配だけはしないですむ。今日ばかりは色気なしで得をした訳だ。

 ただし。

 「うー、うー、追加レポートなんてもーやー」

 大切な学課試験に寝過ごしさえしなければ、教授の研究棟がある他学部のキャンパスまで呼ばれたりもせず、炎天下に苦労する必要はそもそもなかったのだが。前の晩、雀が鳴く頃までかけてテスト準備をしていたのが裏目に出たのだから、笑うに笑えない。

 プラスチックの庇が作る薄い影の中には、他に待ち人の姿はなかった。もう殆どの学生は長期休暇に入っているのだ。

 「はぁージュース飲みたい…」

 熱中症のもっとも代表的な徴候は、独りの時に口数が増える、いわゆるうわごとである。

 「るーくん助けてー」

 側に居ない彼氏の名前なんかを呼び出したらもう間違いないと見て良い。

 「ふぇーっ…」

 バスはもう、定刻から十分くらい遅れてるんじゃないだろうか。徹夜続きの英子さんのパワーは、もう限界に達しようとしていた。指から抜け落ちた眼鏡がベンチにぶつかり、空になったペットボトルが軽い音を立ててアスファルトの路面を転がる。

 「きゅぅっ…」

 ばたっと、細身が倒れこむ。こういう時、人気のない場所で意識を失うのは大ピンチだ。急いで身体を冷すか水分を補給しないと最悪命に関わりかねない。だが生憎と、右にも左にも道路の向こう側にも、通りがかる者はな居なかった。まさに都会(?)のエアーポケット。

 「んっ…」

 唇が苦しげに動く。Tシャツに膝下までのタイトジーンズ、サンダルという地味な格好ではあるが、丸まった背中から透けるブラジャーの紐などは、男の煩悩をかきたてずにはおかない無防備さがある。

 不意にバス停の裏手、キャンパスの外縁へと続く草生した斜面で何かが動いた。

 大きさは猫くらいだろうか、育ちすぎたハルジオンの茎を掻き分けて、気絶した彼女の方へと進み、茂みと道路とを分ける金網まで到達すると、鞭のようにしなる器官を繰り出して、錆びた金属を軋ませながらよじ登り始める。

 やがて陽光の下に、素早く伸び縮みする透明な塊が現れた。一時も一つの形に留まらっておらず、絶えず変化し続け、澄んだ液性の材質に日照を通す度、真下の地面に淡い虹の輪を投げ掛けながら、網を降り、焼け付く舗装路を滑るように渡って、信じ難いスピードでベンチの側へ辿り着く。

 影へ入る一瞬、また七色の輝きが波打つ表面を覆った。

 投げ出された英子の脚の片方に触手をからみつけると、梯子代わりに背中と這い登り、Tシャツの布地にしわを寄せながら、脇腹、肩を這い回り、とうとう横向けになった顔へ張り付いた。

 「んっ…」

 開いた口の中へ、透明なひも状の先端が潜り込むと、ぐったりしていた身体が痙攣し、熱に赤らんだ喉がゆっくり上下する。同時に生き物の内部が泡立ち、体積が減り始めた。

 「ふぁっ…るー…くんっ…?…」

 元の半分程まで小さくなると、触手は唇から離れる。睫が震え、閉ざされていた瞼が上がると、ダークブラウンの瞳が救い主の姿を捉える。

 「きゃっ!」

 汗ばんだ上半身が跳び起きると、手探りで眼鏡を探し当ててかける。相手はぷよぷよと揺れながら、彼女が己を取り戻すのを待つ風情だった。

 「な、なに?…きみ…」

 答え代わりに触手が伸びて、筆記用具の入ったプラスチック鞄を開け、シャーペンとルーズリーフを抜き取って、文字を書き付けた。あっという間の出来事で、英子はものも言えない。

 "BIS HOP"

 「ビス ホップ?」

 透明な雫から別の触手が生えると、彼女の鼻先まで伸びてから横に振れ、宙に赤や橙、黄緑、青の残像を描いた。一方で最初の触手は、紙面に記された文字列に打ち消し線を引いて、新しい単語を加える。

 "NO"

 「?」

 また黒鉛の芯が紙を走る音。暑さも忘れて、動きを見守っていると、b、小文字のaとeがくっ付いた発音記号、i、sが順に、幅や高さ、間隔をきちんと揃えて並べられていく。

 「バイス?」

 "YES"

 「すごい…も、もしかして…えーと、な、なんだろう??」

 バイスと名乗った塊は、再びシャーペンを操って言葉を書いた。

 "INCUBUS"

 「インキュバスって…ぇえっ!!?む、夢魔なの?え、あ、わ、私の友だちにも一人居るんだよ、わー、すごい偶ぜ…はっ」

 英子は慌てて周囲を見渡す。人に見られたら頭が変だと思われるかもしれない。昔から滅多なことで驚かなくて、クラスメートなんかにちょっと鈍いとか笑われてたけど、最近とてつもない経験をしたせいで余計に世間とずれてしまっている気がするのだ。

 とりあえず大丈夫。誰も居ない。そのせいで命が危うい所だったとは知らずに、彼女は人通りの少なさにほっと胸を撫で下ろした。ちらとルーズリーフに視線を戻すと、もう次の行が増えている。

 "I know"

 「知ってるの?」

 触手が頷きのジェスチャーをすると、文はたちまち流れるような筆記体に変わった。

 "You smell of him. And I want to see him. Would you make me that?"

 「待って待って!えーと…アイ、ウォント…ダット……。イエースイエース。じゃなかった。いいよ!でもどうやって連れて行けばいいかなぁ?」

 バイスは心配ご無用というようにルーズリーフを四折にすると、シャーペンを持ったままするりとプラスチック鞄に入り込み、内側から蓋を閉めた。

 「な、なるほど!」

 感心する英子の耳に、頃合よくバスのディーゼル音が届いた。急いで立ち上がると、腰をはたき、ずっしり重くなった鞄を抱えて、乗りまーすと腕を振る。大きな車体が溜息を吐いて停まり、扉が開くと、エアコンの利いた空気が顔に快く吹き付ける。

 タンタンタンと、客が軽やかな足音をさせて乗り込むと、電子掲示板を見ながら待っていた運転手はちらと腕時計へ注意を向け、定刻通り・・・・なのを確かめると、アクセルを踏んでまた午後の道を走り始めた。










 とあるマンションのとある一室。外ほど暑くはないが、さりとて涼しくもない空気に、PCの冷却ファンが立てる唸りが響いている。

 大学生の独り暮らしをするとしたら、さほど広くも狭くもないような間取り。壁の一面には、岩波、筑摩、新潮といった出版社名の見えるのハードカバーや文庫本で埋まった本棚と、講談社、早川、創元などが出すSFやファンタジーものがぎっしり詰った本棚がはめ込まれ、間にはパソコンデスクが一つ。小さな液晶ディスプレイの前には、小さな男の子が腰掛けていた。

 画面にはニュースサイトが映っているらしく、ずらっと縦に並んだタイトルを、まるまっこい指が覚束なげにクリックする度、写真入りの記事が切り替わる。キーボードやマウスの操作はひどく怪しいが、社会欄の記事を几帳面に閲覧していく様子は、年に似つかわしくないほど大人びていた。

 「うたたね中の突然死、とうとう日本でも。亡くなったのは…在住の…つ本さん、韓国での死者と同じく昼夜逆転の生活を送って…昼休みの間うたたね中に突然…」

 男の子は、ところどころつっかえながら、単語を区切って記事を朗読し始めた。イントネーションがずれると、やり直し、舌が回らなくなると止まり、時々膝に開いた国語辞典を参照しながら一生懸命言葉を紡いでいく。

 「…知人の話では以前から様子がおかしく…専門家の意見によると…MMORPGと呼ばれるネットゲームのやりすぎ…」

 読み終わると画面を閉じ、国語辞典を本棚に戻して、椅子から降りる。青みがかった黒髪を掌でなでつけながら、考え込んだ風に少しうつむく。

 脳裏にあるのは、徹夜続きで目の下に隈を作っていた、年上の人の顔。まさかと振り払っても、いつのまにかまた不安が甦る。帰りがまだなのは承知で、カーテンを引いたままの窓の所へ行き、隙間から外を眺めると、眩しい陽射しが眼に飛び込んだ。

 きっと暑いだろうな。ガラスを通して熱が伝わる。夏は熱射病、とかも、気をつけなくてはいけないらしい。迎えに行ってみようか。ちょっと迷ったが、言いつけを思い返して、結局我慢する。

 とことことベッドへ戻って、小さなお尻を端っこに載せる。

 肘は膝。頬杖をついて、じっと待つ。待つ。待つ。

 壁掛け時計の秒針が静かに回る。長針はまだ動かない?右手が頬を離れて、枕へ伸びる。昨夜一緒だった柔らかい身体の代わりに、彼女の匂いのする寝具を引き寄せて、抱き締める。

 「……」

 背筋を疼きが疾る。お腹が減っているのだ。いけない。いけない。少年は赤面しながら、すがるように枕へ鼻を押し付ける。

 ほら、長針が動いた。これで一分。あと五十九分で一時間。日が沈むには四時間くらいかかる。だから二百三十九分。二百三十九分は、一万四千と三百四十九秒。いま一秒経ったから一万四千と三百四十八秒。でもおやすみの時間はもう四時間つまり、一万四千四百秒。今また一秒経ったのを引いても、二万八千と七百四十六秒。

 暗算は得意だ。人間の学校でやる勉強ならなんでも抜群の成績を収めただろう。でも彼、ルークスは夢魔で、故郷ではいつも落ちこぼれだった。最大の理由は、ごはんである精気を吸うのが、めちゃくちゃヘタだから。

 いやヘタというのは正しくない。才能はあると担任の先生も言ってくれた。ただ、やらなければならないことを考えるだけで、恥かしくて何もできなくなってしまうのだ。

 でも今は、変な話だけど巧くいっていた。荒療治のために家から出されて、英子さんという人間の元に居候するようになってから、少しづつ、苦手を克服できるようになって来たのだ。

 ベッドの隅っこには自分で木箱を改造した本棚が置いてあり、夢魔の学校から届いた夏休みの宿題がぎっしり詰っている。溜めずにやりましょう、と注意書きされた冊子の中味はというと…やっぱりまだ見るだけで硬直して、頭が湯気がでてしまうのだが。

 とはいえ根がマジメなルークスとしては、やらなければいけない事をほっぽって置く訳にも行かず、仕方なく屈み込んで、そろそろと一番薄いドリルを取り出す。

 "クンニリングス例題集。インキュバスのみなさんが最初に覚えなくてはいけな…"

 「わぁあああっ!」

 超高速で表紙を閉じて、箱の奥に押し込む。だめだ。腰が抜けて、ざーっと体が冷たくなる。顔と掌と足の裏だけが熱くて、肩が震えた。

 やっぱり落ちこぼれは落ちこぼれのまま。

 ベッドに伏せると枕で頭を隠す。恥かしい。でもどうしていいのか解らない。独りっきりだと、元のだめな自分に戻ってしまう。少年が茹蛸みたいになったまま、しばらくじっとしていると、玄関の方でノブに鍵が差し込まれ、回る音がした。

 英子さんだ。

 そう思った途端、タンクトップの背が膨らみ、蝙蝠そっくりの翼が布地を肩甲骨の辺りまで押し上げて、大きく広がると、ニ、三度軽く羽搏いた。ほっそりした肢体がふわっと浮かび上がって、ドアをすり抜け、真直ぐドアの方へ翔んで行く。

 「るーくんだたいまー」

 「おかえりなさいっ」

 靴を抜いでいる彼女を目にすると飛ぶ勢いを殺し、少し距離を置いて床へ舞い降り、抱きつきたい衝動を無意識に抑えて、じっと賢い仔犬のように廊下の脇に控える。でもあどけない面差しは、嬉しさににこにこしている。

 「るーくん!今日はねすっごいおみやげがあるの!」

 「えっ?なんですか?」

 「これ、じゃなくて、この子、なんだけど…」

 何故か朝でかけた時より重そうな様子でプラスチック鞄を開けると、中からぷんと、嗅ぎ慣れた匂いがして、水飴のようなものが床に流れ落ちる。透明なのに、所々が真緑や紫、濃紺、桃色に輝く、ゼリー状の塊で、どうやら生きているらしく、脈打つように膨らんだりしぼんだりしながら、フローリングの目に沿って廊下を這いずり始めた。

 「はわわ、何でしょう…」

 「それがね、るーくんの仲間なんだって!」

 「僕の?」

 "よろしくなチビ"

 「ぇっ!?」

 頭の中に直接話し掛けられて、ルークスはびっくりして水飴のお化けの方を見詰めた。スリッパに履き替えた英子が鞄を小脇に側へ寄る。

 「どうしたの?」

 「いや、なんでも…あれ…?」

 "お前みてーなザコなら楽勝だな"

 「えぇっ!!?」

 「なになに?」

 年上の女性は、ちょっと心配そうな表情で夢魔の男の子を覗き込んだ。足下では生きたゼリーが楽しげに揺れている。

 "夢魔以外聞こえねーよバーカ。トロっそうだなおまえ?"

 「あの…あなたいったい…」

 "名前くらい知ってんだろ?同族殺しのバイスホップってさぁ"

 「ええぇぇぇぇっ!!!!!??」

 勿論、記憶力の良い彼は、学校の社会の時間習った歴史上の名前を全て覚えていた。同族殺しのバイスホップ。五百年前に追放された凶悪犯。茫然としているルークスの横で、英子は尚も何か問いかけようとし、急にふらついて、恋人の肩に崩れ落ちた。

 「英子さんっ!?」

 反射的に両腕を差し上げ、弛緩した身体を支える少年の頭に、嘲りの笑いが鳴り響く。

 "動かさない方がいいって。熱射病っぽかったし"

 「ふぇっ…」

 "ま、俺は別にいいけど。んじゃお先ー"

 虹の煌きを帯びた触手が彼女の額に触れるや、幻のように薄れて、消える。

 「あっ…まさか…」

 うたたね中の突然死。夢魔の犯罪者バイスホップ。そんな奴が英子さんの中に入り込んだら…考えるより先に、ルークスは大切な女性の唇に触れ、白昼夢の世界へと旅立っていた。

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