真昼の夢は深夜の夢より不確かで、頼りなかった。蒼穹は色を塗ったベニヤ板のように奥行きがなく、地平も子供の落書きじみた線に過ぎず、頬にあたるはずの空気さえ、まるで存在感が感じられない。 蝙蝠の翼持つ少年は、眠れる脳が描き出した幻の街の上を燕のように真直ぐ渡っていった。 桔梗の双眸は、ボール紙細工じみたちゃちな建物を一つ一つ注意深く観察し、いつもとはどこか違った様子に戸惑い、不安に瞬きながら、少しでも早く親しい人の姿を見出そうとする。 だが幾ら目を凝らしても、彼女の所在を知る手掛かりさえ得られないままで、やがて下方低くを漂う雲が量を増し始め、灰色の絨毯のように家並の上を覆い尽してしまった。 幼い夢魔は仕方なく高度を落とし、ふわふわと表面だけは綿のような、しかしいささかも信用ならない蒸気の塊の内部へと潜り込む。するといきなり、目も眩むような光が広がって、見覚えのない影像が頭に流れ込んで来た。 本棚でいっぱいの細長い部屋に、気難しい顔の中年婦人が立ち、大袈裟な身振りと共に、声を荒らげ何か喋っている。音は聞こえない。樫材の机には、真っ白なテスト用紙が広げられている。どぎついパールピンクのマニキュアで塗られた爪が、空のままの解答欄を神経質に叩くと、視界は突然涙に曇った。どうやら、夢の主が目覚めている間に体験した記憶の断片のようだ。 分厚い濃霧の層を潜り抜けた途端、全ては消え去り、代わって新たな雲が眼前に迫ると、今度は別の場面が、映画のワンシーンのように再生された。 明るい日の光に包まれたバス停。火照った耳に、街路樹にとまった油蝉の合唱が、単調な繰り返しとなって響き、日差しに温められたベンチの熱が、ズボン越しに太腿へ伝わる。濃い緑の土手を眺めながら、車を待ち続ける苛立たしさと不快。べっとりと背にはりつく汗。だが世界は不意に再び昏くなって斜めにかしぎ、漆黒の帳に覆われてしまう。 しばらくして辺りが明るさを取り戻すと、生々しいが己のものではない記憶は、薄らいで消え、眼下の大地には先程と同じ、安っぽい玩具めいた住宅群が現れた。 翼を傾け、落下による加速を利用して逆に急上昇する。引き裂かれた大気が、痛みを訴えるが如く耳元で唸りを上げ、前髪は尖った針のように額を叩いた。 歯を食い縛り、己が身を大地へ叩き付けんとする力に逆らって、一定の高度を確保すると、今度は小刻みに羽搏いて、なめし革のような皮膜の下へ風を孕み、浮揚しながら周囲に注意を配る。前みたいに夢の中で迷子になるなんて、夢魔らしくもないどじは踏めない。兎にも角にも早く英子さんとバイスを探さなくては。 両の掌を耳にあてる。現実と異なり、風の唸りも、小鳥のお喋りも、車の排気音も、空気を叩くヘリコプターのローター音もない。まったくの静寂。 雑にクレヨンを塗ったような木々の葉はそよぎもせず、灰色の舗装路は、ぐねぐねと道幅も定まらぬまま、ふやけた格子模様のテーブルクロスよろしく、でたらめな網目状を成して幻の市街の涯まで広がっている。まるで完成する前に放棄されたジオラマのようだ。当然ながら、交差点にも、横断歩道にも、鉄橋にも、ひとっこひとり居ない。 どうしよう。 ルークスは髪の毛をくしゃくしゃにして頭を抱え、はっと面を上げた。雲の中で見た景色。夢魔の学校で先生が言っていた。人間は、起きている時一番印象に残った所から夢を見始めるのだと。 だとしたらバス停か、あの部屋だろう。英子さんは朝出かける時、普段通っているのとは別のキャンパスへ行って、テストの話で大学の教授に会わなきゃいけないって話をしていた。真っ白なテスト用紙、なんだか偉そうな態度からすると、さっきのパールピンクの爪をしたおばさんが、教授なのかもしれない。 心を決めると、一番近くのバス停へ舞い降りる。乗り口側に建てられた柱に、路線案内が載っていた。駅の名前はほとんど意味不明な点と線に省略されてしまっているが、一つだけ"〜大学教育学部前"という名前が、丸文字で手書きされている。 少年は、指でルートをなぞって確認すると、小さく頷いた。助走をつけてガードレールを躍り越えるや、車の通らない道に大きく翼を開いて、路面すれすれを滑空する。頭を擡げ、羽搏くと、痩躯はまた風に乗って浮かび、沈黙した町の中を矢の如く駆けた。 道路の両脇には、不自然なほど均等な間隔を空けて、形の良く似た家やマンションが登場する。通り過ぎるバス停も何故か皆、片側だけしかなく、佇まいも同じ鋳型から打ち出したようにそっくりだった。まるで堂々巡りをしているようだ。 だが、やがて前方に、雲の影像と瓜二つの緑の土手が現れ、次いでスポットライトを当てられたように、そこだけ光に満たされた停留所が見えて来る。草の艶や、屋根の下の陰影など、他とは比べようもないほど細部がはっきりしていた。間違いない。 「あったー!」 さっそく大切な人の姿を探し求める。だが庇の下に置かれたベンチを覗いても、すぐ隣に植わったハナミズキの幹をぐるりと巡っても、人影すら見当らない。ここじゃないんだろうか。 諦めず、高度を上げて周囲を俯瞰すると、大学のキャンパスらしき敷地と、背の高いコンクリート建築が目に入った。やはり立体の一つ一つが、しっかりした質感を持ち、ぼやけた街の景色から際立っている。 丈高い棟の間に設けられた広場、瀟洒な噴水が、氷で造られた造花の如く透明な蕾を開かせるすぐ側で、何かが煌いた。眺め降ろせば、ジーンズにTシャツを着た年若い女性が独り、力無く横たわっているではないか。英子さんだ。二つの瞼は固く閉じられ、つつましやかな胸が、呼吸に合わせ微かに上下している。眠りの中の眠り。まだ夢が始まる前の、深い昏睡の中に居るらしい。 傍らには七色に輝く半液状の塊、即ち、同族殺しのバイスホップと名乗った謎の生物が、水底の泡のように妖しく蟠っている。 幼い夢魔は、獲物を捉えた鷹の如く急降下した。 「英子さん!」 嬉しさのあまりの呼びかけに、しかし先に反応したのはバイスの方だった。即座に透明な触手が跳ね上がり、接近してくるルークスの頬桁を情け容赦なく張り倒す。 「きゃうっ」 軽い身体は錐揉み旋回しながら広場の隅へと弾き飛ばされた。原形質の妖怪は、滑らかな肌を無色から菫、そして紺、竜胆から石楠花へと変幻させながら、細長い器官をちっちっちっと指のように振って、全身を振動させる。笑っているらしい。 "弱ぇくせに、来んじゃねぇよ。そんなんで何する気?バカじゃねぇの?" 「ぅ…あぅ〜っ…って、な、なに言ってるんですか。あなたこそ、英子さんをどうするつもりなんですか!!」 少年が慌てて跳ね起き、問い返すのと、虹色の塊がゆっくりと縦方向に成長し始めるのはほぼ同時だった。不定形だった輪郭が、まずおおまかな人型を取り、徐々に目鼻立ちや指先といった箇所をはっきりとかたち作っていく。 ルークスより幾らか背の高い男児の姿が、僅かに胸や腹を波打たせ、肩を揺らがせながら立ち上がった。 "おめぇにゃかんけーねー" 威すような声に、蝙蝠の翼は震え、白蝋の肌にはさっと朱が差した。 「か、関係なくないです。あ、あの、英子さんを…は、放してください」 "あ?なに命令してんの?やんの?勝負すんの?" 細い首がびくびくっと竦んで、アメジストの瞳が涙で潤む。 「しょ…しょうぶ…とかじゃなくて…もし、あなたが、その、英子さんの、からだに悪いこと…とか…」 "だからなに?だからなに?すんだな勝負?いいぜ。おら、来いよ" バイスの背中あたりから無数の触手が伸び、ファイティングポーズをとった。ルークスがまごついていると、一本が空を滑ってタンクトップの肩紐を捉え、凄い勢いで引き寄せる。 にやっとガラスの相貌に笑みが浮び、唇と唇とが触れんばかりに近付く。怯えた少年が、顔を背けようとすると、頬にぴたぴたと冷たい触手の先端が押し付けられた。 "それともチビがセッキョウするきかよ?" 「ぅうーっ…チビじゃなくてルークスです…じゃなくて、英子さんを放して…くださ…」 "るっせーな!このチンクシャ!" ビビビビっと、触手が柔らかな頬っぺに往復ビンタをかまし、とどめとばかり尖った顎へアッパーカットを決める。 「きゃうううううううっ!!!」 ルークスの華奢な体躯は錐揉み旋回し、かなりの距離を舞ってから、どてっと地面に落ちた。バイスは身を捩って嗤うと、つかつかと倒れた敵に歩み寄り、躊躇なく腹を踏みつける。 "超弱ぇ。よくそんなんで人間界に居るよな?" 「ぅっ…」 "久し振りにあった同族がこんなんで、まじがっくりだし。つか自分の餌も守れないんじゃ、やってけねーぞ" 顔中に紅葉腫れを作ってグルグルと目を回していたルークスは、からかいを耳にするや、鋭い怒りの表情を浮かべて相手を睨み返した。 「えさって…英子さんは餌なんかじゃありません!」 ぐっと腹を押す足に力が入り、ソプラノの悲鳴があがる。 "あ゛っ…餌は餌だろ!?何かっこつけてんの?人間なんかさぁ、ぶっ壊れるまで脳刺激して快楽作らせる工場じゃん?知らねーのお前?" 同族殺しの夢魔は目を細め、頭を巡らすと、触手をたゆたわせて噴水の側に横たわる女体へと触れた。透明な先端が服の上から胸や唇を撫ぜ、ピアノでも演奏するかのように素早く繊細に動き回る。 「やめてくださいっ!」 "いーこと教えてやるよ。人間の脳ってさぁ、夜起きて昼寝るとか無茶やると、変な薬いっぱい出して、ちょーせつすんだよ。そん時刺激してやると、ふつーの何倍もすげぇ快楽作んだぜ?" ルークスが首を捻ると、英子は荒い息をつきながら腰を浮かせ、触手の玩弄にあわせて四肢を痙攣させていた。なすすべもなく眺める内、少年の胸に熱い塊が込上げて、全身がかぁっと火照る。 「だ、だめぇ!」 "ぁ゛っ…?" 「あ、あ…だって…今は夢を見ないで眠る時なのに…」 "ふん?って教わったんだろ?俺らが食事できるチャンスって、ほんのちょっとだけ。一回の夢の長さなんて、人間の時間でゆー五分か十分しかないし…あとはこうやって、夢の世界でも眠ってる…ノ…ノ…ノム…" 「ノンレム睡眠?」 バイスはぶるっと震えると、生意気な小僧の頬っぺを引っ張った。 "今そう言おうとしたんだよ!" 「ふぃえぇぇっ…ひゃひぇへぇ」 "…とにかく、んなの嘘だから。人間の頭なんてちょろいんだよ。徹夜とかだけで、寝ないで起きてられるようにって変な薬だしまくって。俺は手伝うだけ。こいつらが、そうしたがんの" ルークスの双眸が見開かれる。 「ひゃぁ…ひゃっぱり、あなひゃが突然死の原因らったんでひゅね!?」 波璃の面差しが強張り、緑がかった茶に染まると、ぷいと背けられた。英子を愛撫していた触手が止まる。 "ちげーよ。ちょっと弄っただけだよ。あいつらが、勝手にどんどん…おめぇなんかにわかんねーよ。俺は…" 「知ってます!昼の間しか精を吸えない呪いをかけられたって、五百年前に…でも…」 くっと、苦渋とも歓喜ともつかぬ歪みが、赤と紫に瞬く表情を通り過ぎた。 "へっ、 幾世紀もの間独りぼっちで生きてきた流刑囚の横顔を眺める内、夢魔の少年は、急に胸を締め付けられた。電気やガスがない昔、人間は皆、日が暮れたら寝、夜が明けたら起きる生活を送っていたと、社会科の教科書に書いてあったのを覚えている。だとしたら当時、昼しか精を吸えないという呪いは、なんて恐ろしいものだったろうか。 ひょっとすると十年も二十年も、空っぽのお腹を抱えて、這い回らねばならなかったかもしれない。それは地獄のような苦しみだ。自分はたった三日食べないのでも、辛くて、どうしようもなくて、英子さんに助けて貰った時、気が遠くなるほど嬉しかった。 バイスが、もっとずっと酷い目にあって来たんだとしたら、追放された頃より更にひねくれ、性悪になってしまってもしかたないじゃないか。 "勘違いすんな?昔だから、餌がぜんぜんないとか、そんなんじゃねー" 「ぇっ?」 "俺が最初に居た、ヨーロッパってとこの、真中へん。しゅーどー院ってのがいっぱいあって、そこのやつら夜でも油とかガンガン燃しながら、働かねーで歌ったりぶつぶつ変なお経唱えてんの。んで昼間に本とか書いてんだけど、居眠りとかするから" 「あっ…修道院…それって…」 "だけどさ、あいつら、記憶力上げるためとかいって、頭の中にすげぇ変な部屋とか作って、そこに覚えたこと本みたくして、入れてて。きもちよくしてやってたら、なんか、その部屋に俺のこと閉じ込めようとしたりとか…やべぇ奴等がでてきて…そいつら、こっちの気配が分るらしくって、きょーこー庁とかいう所の命令で追っかけてくるしな…" ふと言葉を切ると、同族殺しは頭を振り、額に手を当てて首を傾げた。ぼうっと全身が橙に染まり、くもりガラスのように向こう側が見えなくなる。 「今でも居るぜ…あいつら…お前はラッキーだよな…そういうのにも捕まらなくて…つか、なんで俺こんな話してんだ?」 眉をしかめる様子がやけに子供っぽい。ルークスは息を呑んだ。そうか。夢魔が邪悪な存在と見なされる様になったのは、バイスみたいな流刑囚が、飢えに負けて無茶をしたせいかもしれない。ならば、人間世界に彼等を追放した側にも責任はあるのではないだろうか。 学校で習った歴史とは少しづつ、違う。なんだか、凶悪犯であるはずの彼がちょっとかわいそうにさえ思える。 「あの…」 "んだよ?" 「ぼ、ぼくの…精気…分けますから…」 "はぁっ?" 「英子さんに…触らないでくれたら…僕が、あなたのご飯…を集めます!」 水晶の身体がいきなり橙から真紅へ肌の色を変えると、触手の群をざわめかせ、踏みつけていた年下の少年から離れた。 "な、なにいってんの?ふざけんなよ。がきでもインキュバスなんかに精もらいたくねーよ!!き、きもちわりーこと言うなチビ!" ルークスはふらつきながら立ち上がり、翼を畳むと、咳き込み咳き込み、言葉を紡ぐ。 「だって…バイスさんが、直接精を吸ったら、みんな死んじゃうし…それに…」 "それになんだよ?" 「と、とにかく、英子さんに、触るのは…だ、だめです!!」 "知るかよ!ちっ、やっぱ…" 「待って!バイスさんだって、ほんとに、相手死んじゃってもいいんですか?自分が好きで、精をもらいたくなった人が死んじゃうなんて…ほんとにほんとに、そんなの…ほんとうは…楽しくなんかないんじゃないですか…?」 流刑囚は殴られでもしたように後退ると、めまぐるしく膚の彩りを変えつつ、だらりと触手を垂らし、うなだれた。 "…るせぇよ…おめぇに関係ねぇだろ…" 「か、関係あります!僕、あの、学校の成績悪くて、家出されちゃって、それで、英子さんが居なかったら、バイスさんと同じで…だから…」 "そうかよ。じゃぁ試してやる…" 「ぇっ?」 触手の群が力を取り戻し、ルークスの周囲へ打ち込まれる。素焼き煉瓦の舗装が、パンケーキのように膨らみ、溶けると、バイスと同じ透明な人型が、無数に立ち上がった。 茫然としている少年の四肢を触手が掴み、宙に吊り上げて、展翅板に置いた蝶の如く広げ、固定する。その間にも人型の群は、胴を優美な砂時計状に絞り、肩や腰に丸みを帯びさせ、ふっくらした唇や長い髪といったディティールを作り上げると、とうとう美しい女の像を成して、幼い夢魔に密着した。 「わわっ、こ、これぇ…」 "ほんとオチコボレな。夢の世界の操作なんて淫技の基本じゃん…" しなやかな指がタンクトップの裾を捲り上げると、また別の掌が伸びて薄い胸板をさすり、肋を掻き鳴らして、か細い喘ぎを導き出す。キュロットパンツにも手がかかり、ボタンをはずしてジッパーを降ろすと、無毛の秘所を露にした。 ズボンとパンツをまとめて降ろされた少年は、とうとう羞恥に耐え切れなくなって、拘束をふりほどこうとする。すると、人型の一つが耳へ息を吹き込みながら、嘲るように囁いた。 "結局口だけかよ、いい子ちゃん" 「…や、やります…だからちょっと待っ…」 "るせーな。やるならやれよチビ、おら" ぞんざいな台詞を合図に、太い触手が一本鎌首を擡げるや、懇願を続けようと開いた紅い唇めがけて襲い掛かって、強引に喉まで入り込む。ルークスの痩躯は、生き身のまま串を通された若魚そっくりにもがいた。 ねじれのたうつ兇器は、些かも勢いを止めず食道を押し進んで、胃に到達すると、透明な幹はこぽこぽと泡立せながら、犠牲者の体内にバイス自身である液体を注ぎ込む。 「ふぐぅっ!!?」 ”なか、ぐちゃぐちゃにしてやる。もう遅ぇかんな” 凹んでいた腹部がぼこんと触手の形に盛上ると、竜胆の虹彩がおぞましさに広がり、声にならない声が漏れた。若柳の枝を思わせるような、ほっそりした手足が、溺れる者の如く激しくもがくのを、赤や青に色づく触手や、女の姿をした人型が絡み付いて、しっかりと抑える。 二体の人型がそれぞれ、捕えた左右の腕を西瓜そっくりのたわわな乳房で挟み、からかうように長い指を伸ばすと、少年の尖った顎を擡げさせ、触手に貫かれた唇の周りを透明な舌で舐め回した。 M字に開脚させた両腿の間へは、別の人型が屈み込んで、やはり規格外に大きな胸で幼茎をサンドイッチすると、淫靡なマッサージを始める。 びくっびくっと背筋を弓なりに反らせる獲物の側に、捕食者は悠然と歩み寄った。目鼻立ちは先程よりさらにはっきりしており、もう四肢の輪郭にも揺らぎはなかった。波璃造りの喉が震えると、艶めいた声が、夢の街の大気を震わせる。 「…いいぜ…けっこういける…じゃ、ガンガン行くから」 触手がくねり、ルークスの小さな胴がねじれ、肺が華奢な肋を圧して激しく上下する。人型の一つが嫣然と唇の端を釣上げると、むっちりした肢を広げ、勃起させられた少年の肉具に跨った。薄桃の尖端を濡れそぼった肉襞で擦り、焦らしては、時折指で弾いて、メトロノームのように揺らす。 雲雀の囀りよりなお高き夢魔の嬌声は、しかし、透明な栓に塞がれたまま、意味を成さないままやきと化した。バイスの指先が汗ばんだ眉間を押し、からかうようにつつく。 「声、出してぇの?」 「んくっ…んむぅっ…」 「じゃぁ、ほら」 硝子の紐が喉を擦りながら凄まじい速さで巻き取られ、抜かれると共に、偽物の秘裂が未熟な性器を咥え込む。激しい騎乗に合わせ、手や足にからみついていた触手がざわめき、細かな組織に浸透して、皮膚の下を犯し始める。 「ひゃぅうううっ!!ぁあっ!ぎぃいいっ!」 「いいぜ!もっと泣けよ!」 バイスは、同族の奏でる悦楽の調べに恍惚としながら、指揮者がタクトを振るように両腕を振り回し、あまたの分身に命令を送り続けた。 少年にのしかかった人型が楽しげに腰を揺すり、密壷を収縮させる度、無色の下腹部を通して、可憐な幼茎が妖しく捏ねまわされ、切なげに脈打つのがはっきり見える。青みがかった黒髪が振り乱され、真珠のような大粒の涙と共に、精気から生じた汗の雫を飛ばした。 と、細い絹糸のような毛の筋を、バイスの指が梳って、興奮に赤らんだ双の耳を露にする。 「つぎ、頭の中な…」 新たな人型が二つ、獲物に近寄ると、片方づつ耳穴へ舌を伸ばし、ナメクジのようにずるずると奥へ捻じ込んだ。外耳を抜け、鼓膜に染み込み、人間の三半規管にあたる場所を経て、神経絡へ接触すると、官能を司る中枢へ洪水のようにパルスを送り、絶え間なく刺激する。 「ぁあっ!あっ!ぐひぅっ…ひぁああっ!!」 ルークスの瞳孔が開ききり、脂汗と共に、洟や涎が堰を切って溢れた。勿論実際には、全て淫技によって搾り出された精気に過ぎない。触手の群はそれらを余さず飲干し、糧として吸収する。 また数本が、うなじやつむじ、こめかみへ突き刺さり、華奢な四肢に狂ったような痙攣を呼び起こしながら、夢魔の命を喰らい尽していった。 「チビ、おめぇがしたいっつったんだからな…」 バイスが黒い歓びを宿した眼差しで、じっと年下の少年の虚ろな双眸を覗き込む。すると、蒼褪めた唇は、震えながら、途切れ途切れに、語句の欠片を吐き出した。 「…ぁっ…ひっ…ま…だ…だい…じょ…だか、ら………え…いこ…さ…」 「はぁっ!?んな…あの女が大事かっつの!?あんな…どこにでも居んじゃん!あんなの!…死ぬからな…これ以上やったら…」 触手に巻きつかれた細腕が擡げられ、まるまっこい指が、眠ったままの英子の姿をそっとなぞるように動いた。 「えい…こ…さ…」 「っだから!死んでもいーのかっつの!訊いてんだろ!?」 紫眼が焦点を結び、真直ぐに相手を見つめ返す。無言の答えを受け取って、流刑囚はぐっと喉を詰まらせ、書き割のような夢の世界の空へと、視線をさまよわせた。 「そうかよチビ…好きだから…だろ…好きだったら、ほかなんか関係ねー…だろ…やっぱな…俺だって、あいつが好きだから…あいつがしたいって…でも俺、くそ…チビ…おめぇ…うぜぇ」 虹の耀う胸元から、輝く砂の粒が零れ、透明な掌へと落ちる。バイスはそれを、ルークスの額に注ぐと、低く歌うような調子で、詠唱を始めた。 「幼き夢魔ルークス、これよりお前は同族殺しバイスホップのしもべ、俺に従い、俺と共に在る時、俺だけを愛するサッキュバスとなる。他の者への愛を忘れ、想いのすべてを俺に捧げ、永遠の刻を過す…」 「ぁ…やっ…だっ…やだぁ!!…」 「急ぎ急ぐこと律し令されしが如くにせよ!」 ほの白い輝きが、少年の肌を包むと、平らだった胸が僅かに膨らみ、幼茎が消えて、股間には細い筋が残る。真直ぐだった体の線は円かになり、髪が腰まで伸びて、ふわりと裸身を包み込んだ。 二体の夢魔の周りで人型は溶け、触手だけが少女と化したルークスを縦横に串刺したまま、万華の煌きを放つ。 「やだぁ!やだぁ!僕は…あの人を…」 「誰だよ?」 「ぇっ…ぁっ…」 「おめぇが好きなのは…俺だろ?」 波打つ長髪の奥に差し込んだ触手を操って、快感を送り込みながら、インキュバスが囁く。サッキュバスの少女はぼんやりしながらかぶりを振り、否定し様として、きつく抱き寄せられた。 「ひっ…違う…違います…僕は…あれ…」 「ルークスは、俺が好きなんだ…忘れんな…俺の、バイスホップだけの恋人になったんだ…俺のためなら死んでもいい…だろ?」 煉瓦が盛り上がって塀を作り、英子の姿を覆い隠す。遅れて、少女がすがるようにそちらを向いた時にはもう、そうこには花のない花壇があるようにしか見えなかった。 「キス、しよーぜ」 「いやだっ!!」 だが唇は奪われる。七色の肌の少年は、弱々しく殴りかかって来るルークスの拳を掴み、無理矢理指を開かせて己の指に絡めた。舌で口腔を貪り、精気を吸いながら、触手の巻きつけた両腿を降ろさせ、堅く尖った逸物を小さな秘貝にあてがう。すぐに、細い紐状に枝分かれした器官が細い割目の縁へ刺さると、解剖手術のように襞を広げ、挿入の準備を整えた。 唇を放し、脳幹の辺りへ潜り込ませた一本に命令を送ると、年下の夢魔の小さな門は容易く愛液で緩んだ。 「してほしーだろ」 「ぁ゛っ…ん…やだ…うぅ…」 「してほしーっていえよチビ!」 そこだけ脂肪のついた双臀を、平手打ちが襲う。少女の姿のルークスは衝撃に泣きじゃくり、望みもせぬまま憎むべき少年の肩に抱きついた。 バイスは苛立った唸りを残すと、腰を動して狭い秘所を貫き、仮初の恋人の純潔を散らせて、あえかな哭き声を導き出す。触手による快感操作の力を借りて、きつい膣を抉じ開けながら、根元まで押し込むと、柔からな肢体を前後に揺すって、白磁の膚に浮んだ珠のような汗を飛び散らせ、快く身に浴びた。 「なっさけねーの。この調子でだらっだら垂れ流してたら、あっという間にひからびちゃうぜ」 「ひぃぁああっ!やああっ!!?」 「まぁいいや。チビの精気、シャワーみたくして浴びるの気持いいからさ。自律機能ぶっ壊してやっから、自分で動いて、死ぬまで俺の上で踊ってろよ?」 硝子の指が象牙色の尻朶を抓ると、細い嬌声が尾を引いて響き、悪夢の舞が始まる。輝く触手の群は、肋下や脇腹、背骨に沿う谷間などへ次々に接続し、快楽と引換えに、ルークスをルークスたらしめている何かを奪い取っていった。 「この身体だとさぁ、こっからも出せるよな?」 まだかたちばりといった胸の双丘へも、チューブ状の兇器が伸びると、獲得した精気を逆流させ、水風船宜しく膨らませる。みるみるハンドボール位になった肉鞠を、ボンレスハムのように縛り上げ、搾乳器代わりの触手を乳首といわず乳輪といわず取り付けてから、凄まじい勢いで再び吸引し出した。 「あひぃぃぃいっ!あぐっ、あがぁあぁぁぁっ!!!」 「はっ…ん…すっげぇ締ま…、くっ…おめ、サッキュバスのが…向いて…かも」 「ふぅっ…ふわぁっ!んぁ、ひぎぃっ!!」 「ほら、あーんしな。ほきゅーしてやるよ」 おとがいの落とさせ、丁度親鳥が雛に餌をくれてやるように、触手から精氣を注ぐ。だが顎を閉じる力もないルークスは、唯だらだらと貴重な命の素を唇の端から溢し、胸や腹を汚すだけだった。 滑った音を立てて結合部を泡立たせながら、バイスは駅弁にした少女の姿勢を直すと、零れた液状の精気を舐めとって、触手をどかす。掌に余る両胸を寄せ、絞るようにしながら、噛み千切らんばかりの勢いで朱鷺色に尖った先端へ歯を立てると、ごくごくと喉を鳴らして五百年ぶりの美酒を啜り飲んだ。 「あいつも、最期にこうやって飲ませてくれたんだ…俺、超うれしかった…」 「あっ…かっ…ぁっ…」 「チビ…かーい…よ…俺、おめぇのことずっと覚えてっから…その、トロンってしてる紫の目、いー匂いのする、青くて、黒い髪…きれーな肌…だからさぁ、俺になれよ…俺といっしょに…ずっといっしょに…」 「ぁっ…ひぐぅっ…ぐぁ…」 「ああ、お前のあたまの中な、きもちーでいっぱいじゃん…はらも、アレのなかも…どろどろしてて…うまいよ…さいっこーうまい…あいつよりうまい…」 陶酔しきり、囁きながら、咎負いの夢魔は最期の仕上げに入ろうと、新たな触手を身内から生やした。今の倍の触手で犯したら、こいつはどんな風になるだろうか。きっとむちゃくちゃ可愛い、食欲をそそられる痴態を曝してくれるに違いなかった。 「じゃぁな、チ…」 別れの挨拶を終えようとしたバイスの首筋が、いきなり鷲掴みにされ、かたえへとねじ向けられる。驚愕のあまり表情を失った少年の口を、寝起きで不機嫌そうな女の唇が塞いだ。 人間から吸い取れる精は快感の量に比例する。従って、当然限度があり、夢魔が受け止めきれない精気の奔流など、若者の軽挙を誡める言い伝えや噂の類で、それこそ夢物語に過ぎない。 五百年の遍歴生活の中でバイスホップはそう学んでいた。だが、この女の口付けは、目から火花が飛び散り、精神の糸が灼き切れ、骨がばらばらになって、体内を巡る精気が爆発しそうなエネルギーを含んでいた。 絶対許容範囲を越えた精は流刑囚の痩躯を内部から突き破ると、垂直な円柱状の虹となって立ち昇り、ゼリー質の肉をどろどろに溶かし崩した。 短い接吻を終え、ぺろりと上唇を舐めた英子は、まだ朦朧とした様子でルークスの前にしゃがみ込むと、間延びした声で釈明を述べた。 「今の…うわきじゃないからね…でも、起きたら…るーくんとバイスくんが…だって…やっぱり夢魔同士ってそういうの普通かもしれないけど…ずるいよ…」 ジーンズの尻がビショビショになっている。撒き散らされた精気の幾許かがかかり、官能を呼び覚ましたのだろうか。少女の姿をした少年は霞む目で、大切な人の寝惚けた容貌を眺め、淡く微笑んだ。 「えいこ…さん…」 「るーくん、なんかめちゃくちゃ…かわいい…どうしちゃったの…」 きゅーんとオノマトペが出そうな様子で胸を抑えた英子は、ルークスのおでこに自分のおでこを寄せ、熱を測るようにしてくっつけあったが、やがて我慢できないというようにキスを交した。 温かい精の流れが、枯死寸前だった幼い身体に流れ込み、冷え切った四肢に力を与える。どちらともなく、腕が互い背に回って、二人は固く抱き合った。 「んっ…んっ!?…ぷはっ!?…るーくん、む、むねが…」 「ぇっ、あっ…あれ?!ほんとです…あわわ」 「し、しかも私よりおっきいよ…うな…ってちょっと待ってこっちは…」 がさごそっと物音がして、ひっという悲鳴が上がる。 「だ、だめです英子さっ…さわらなひでぇ、くださ…きゃぅぅっ」 「な、なくなっちゃってる!?あわわわわわ、ど、どーしよ。こ、これ、えとバイスくんがやったの?すぐ戻るの?あの、これも夢魔だと、普通なの?」 「ぁうっ…わかりませ…さわ、さわら…ひぁあっ」 ずるずるとスライム状の塊が、飛び散った欠片を寄せ集めながら、恋人達の側を離れると、ゆっくり触手を振り上げて、尖端を眩い黄と黒に点滅させた。 "チビ…ちっ、思い出しちまったんか…けど諦めねぇからな、お前なんか、もう俺の…" 「ぁっ…英子さん危ない!」 「へ?」 触手が、螺旋を描いて二人の襲い掛かろうとする。だが英子の顔の前まで来ると、ききっと静止して、後は宙をぐるぐる迂回し、様子を伺うように一巻き二巻きと輪を作るばかりだった。 "くそ、この女、なんなんだ…なんでさっきはあんな…もしかして、すっげぇエロ女なのか?だけど、別にバス停じゃそんなに…いやわかんねぇぞ…" 「ねぇるーくん。バイス君ってなにやってるの?」 「はわわ…えーとえーと…」 "おい、チビ、こいつから離れろ。こっち来い" 威しつけられると、獲物はますます怯えて英子の胸の下に頭を隠してしまう。保護者は欠伸をすると、掌を広げ、ルークスの丸出しのお尻を庇うようにして、見ちゃだめ、っとでもいうようにバイスを睨んだ。 「バイスくーん。るーくん、元に戻してあげて?」 "っせえよ。そいつはもう俺の…" 「バイスには戻し方が分らんだろうな」 どこからともなく石と石を擦れあわせたような声がして、触手の動きを凍てつかせた。 " 答えるように、広場の一角が粉々に砕け、砂山となると、むくむくと盛り上がって、長衣をまとった壮年の男の姿を形作る。 「校長先生!」 「え?るーくんの知合い?先生?って、私夢見てるんだよね…うひゃー。今日はこんなにたくさんお客さんが…えと、はじめまして」 「申し訳ない。本来ならば、勝手に他人の夢に潜り込んだりはしないのだが、偶々、誰かが私の砂を使って、勝手に呪いをかけた気配を感じてね」 砂の男は、軽く頭を上げると、小刻みに波紋を広げる虹色の水溜りへ注意を向けた。 「久し振りだなバイス。元気すぎるほど元気そうでなによりだ」 "自分のしくじりの後始末って訳かよ。くそヤロー" バイスは怯えながらも、戦意を喪わずに罵りを叩きつけた。だが相手は余裕綽々と肩を竦めると、片眉を瞑って頷いた。指は胸襟へ伸び、黒いふくさを取り出そうとしている。 「まぁそうなるな」 "俺が、おめぇの砂使えるようになるって思わなかったろ。あとちょいしたら、おめぇにもヤってやんよ" 「生憎だな。私は強敵が育つのを待つ程おひとよしではない」 会話の内容に戦慄したルークスは、ぱっと立ち上がろうとして、胸の重さによろけ、英子に抱き支えられ、赤面して縮こまった。だが、頭だけはまっすぐ砂の男に向けて、言葉を放つ。 「待って下さい校長先生!」 「ルークスくん。酷い目にあったのだから、静かにしていたほうがいい」 「嫌です!だって、あの、先生、バイスさんは、バイスさんが…悪いのは分りますけど…でも」 「情が移ったのかね…」 真青になって口篭もるルークスを見て、英子がきゅっと眉をしかめた。 「あのぉ…」 「今度はあなたか?すまないが今は取り込んでいてね…」 長衣の男がとりつくしまもない調子で答えると、女子大生は少しもたじろがず、穏かな微笑さえ浮かべて言葉を接いだ。 「ここ、私の夢なんで…」 「それは分るが、あなたの夢を掻き乱す者を取り締まるのが私の役目なのだよ」 「じゃぁその、えーと、言い難いんですけど、出て行ってもらえますか?なんていうか、ええと、失礼なんですけど、あなたが一番、いやな感じっていうか…」 「なに…っ?」 "ばっ…なにいって…" 「英子さん…?」 幼い恋人に向かって安心させるように微笑みかけながら、台詞を取り消す気配はまったくない彼女に、砂の男はたじろいだ様子で黙り込んでから、ややあって口を開いた。 「失礼した。礼儀は守ろう。彼との決着をつけるまでの短い間、ここに居させてもらいたい」 「るーくんに謝って下さい」 相変らずの微笑。 間。 「すまなかった、ルークス」 「あ、あう…校長先生…」 「ねぇるーくん、言いたい事の途中じゃなかったけ?」 英子がつついて促すと、小さな夢魔ははっとして、再び教師の顔を見上げた。 「あ、そうだ。あの先生。バイスさんは、その、悪いことは悪いけど、でもそれには、その先生の方にも原因はあるっていうか。こんな風に、昼しかご飯食べられないようにしたら、すごく苦しくて、それで、だから…もし、人を、こ、殺しちゃったとしても…ちょっとは…」 "うっせぇよチビ!いい子ぶってんじゃねぇ!おめぇには関係ねぇだろ!" 「か、関係あります。だって、あの…」 「違うな」 砂の男は薄くなった頭を振って、ふくさのひもを緩めた。同族殺しは覚悟を決めたように、ゼリー質の身体をいざらせて、ルークスや英子と距離を置く。 「バイスは人間を殺していない。私が来たのはその為ではない」 「ぇっ…」 "なっ…?" 「やれやれ、勉強嫌いのバイスはまだ分るが、ルークスくんにまでそんな顔をされるとはな。忘れたのかね?夢魔は人間を殺さない。殺せないのだ」 "嘘だ、俺は確かに…" 「バイス、君がとり憑いた人間は皆、元々死にかかっていたんだよ。コンピュータゲームのやりすぎでね。脳がおかしくなっていたのは本当だ。だが君は暴走した快楽中枢に惹かれただけで彼らの死の引金を引いた訳ではまったくない」 "そんな…そんなの信じねぇぞ!おめぇの責任逃れだろ!?" 「医学的に説明できるが、君には無駄だろうな。はっきり言っておく。私は責任逃れなどしない、というよりする必要が無い。君がルークスを食い殺そうとした時点で、もう処分が決まったのでね」 "ぁっ?" 「五百年前、夢魔の会議は君の消滅を定めた。その時処罰を託された私は勝手な判断で、消滅と同等の措置として、呪いと追放に刑を取り替えたのだ」 "…っ…" 「二度と同じ悲劇は繰り返さないという条件でな。だがそれは起きた。未遂ではあるが。私は断罪者として重大な背任をした…従って、君の処分を済ませた後、私自身が消滅する」 まるで書類でも読み上げるように、無感動に破滅を告白する男に、ルークス達は度肝を抜かれるばかりだった。 「校長先生!」 「って、それってどういうこと、るーくん?」 "いい気味じゃねぇか…なら、俺の勝ちだよな?" ようやくとバイスが、ふれなば切れんというような、鋭い応えを返す。砂の男は心なしか楽しげに頷くと、ふくさの中味を残らず虚空に振り撒いた。 「だな。だが、お前と私の相討ちで決着というだけでは、話がつまらないだろう?背任のついでだ。もう少し悪さをさせてもらうとしよう」 "っぉい!" 「同族殺しのバイスホップ、これよりお前は夜となく昼となく精を吸うことを許される。しかし、お前が恋した相手を、殺すことはできぬようになる。お前は愛する者を失い難く想い、いつも、ためらいと共に手を止める」 "ふざ…" 「去れ!疾くこの女の夢より去りて、世界の隅で生きよ。狩人を恐れよ!私の後に来る者は私ほど甘くはないぞ!急ぎ急ぐこと律し令されるが如くにせよ!さらばだ」 七色の砂嵐がバイスを掬い上げ、絶叫の後を引かせながら、書き割の空を貫いて、いずこかへと彼を運び去っていった。 砂の男は疲れきったように肩を落とすと、英子とルークス、二人の方を振向いて嗤った。 「ルークスくん。すてきな人をみつけたな。君には最高の先生になるだろう…その人が居る限り、バイスにちょっかいをかけられる心配もあるまい…彼女がそうしてくれるならばだが…」 「え、あの校長先生…」 わたつく少年(というか少女というか)の首を、年上の女性がぎゅっと抱いて宣言する。 「あ、はい大丈夫です。あなたに言われなくても。るーくんと私はばっちり仲良しですから」 「ははは、失礼した…しかし教師として一応言わせて貰おう。夏休みの宿題はさぼらずやるんだぞ」 「ぁ、あ、はぃぃ…」 真赤になってうつむくルークスを、英子が不思議そうに覗き込む。 「るーくん?宿題って…」 「うわわ、あとで言います!あ、あの校長先生…!」 「なんだね?」 「その、大丈夫なんですか?」 砂の男はひょうきんな表情を浮かべて、両腕を大きく広げると、うんとのびをしてみせた。 「自分の心配が先じゃないかな?その身体とか」 「ぇ、あー!!ど、どうすれば…」 「…そうだな。それも夏休みの課題に加えておこう。ほら、参考書だ。上級生用だが、いい機会だから勉強しなさい」 煉瓦敷きの上に"メタルモフォーゼ中級"と夢魔の言葉でタイトルの書かれた冊子が落ちる。長衣をまとった姿は、生徒へ向かって顎をしゃくって、本を取るように促すと、ひどく疲れきった態で蹲り、少しずつ頬や指先から欠片を剥落させながら、崩れ始めた。 「せ、先生!ちょっと待って下さっ…」 "なんでも先生に頼るのはよくないなルークスくん…その点だけはバイスの、負けん気を見習って欲しいものだ…ははは…ははははは…" 二人が見守る内に、砂の男の姿はすっかりぼろぼろになって、どこが顔だかも分らなくなってしまう。だが、あの石と石とを擦れあわせたような声だけは、最後までルークスの耳に残った。 "彼に宜しくと伝えてくれ。二度と見えることもなさそうだからな…だが君は…また彼と会う気がするね…それまでに…身体を戻して置いた方が…安全だろうな…勉強にも身が入るだろう…何よりだ…ははははは" 砂山がゆっくりと元の平らな広場の一部に戻ると、辺りは再び完全な静寂に還った。 幼い夢魔が、手で身を覆うのも忘れ、茫然と立ち尽していると、裸のまま放り出されたふくよかな乳房を、興味津々といった様子の英子が掴んで揉みしだく。喘ぎが漏れ、くすくす笑いが重なると、いつもと同じ、のんびりした夢の時間がゆっくりと流れ出した。 「ちょっ、英子さんだめで…ぁっ、はぅう…」 「だって、ほら、いっぱい勉強しなきゃいけないんでしょ?ね?だからはじめようよ」 「あうう…勉強ってこういうことじゃなくてぇ…」 抗議は途中で嬌声に変わり、秘めやかな息遣いと口付けの音に掻き消される。 るーくんが、新しく抱え込んでしまった厄介の、全貌は分らないけど、とりあえず夏休みの宿題はしっかり見てあげよう。英子は恋人の可愛いおでこにキスをしながら、そう一人心に決めると、小さな肢体をがばと押し倒したのだった。 時のない回廊の、薄暗い広間。中央に置かれたとねりこの円卓の片端に、大鎌と角灯を持った老人が立ち、長い灰色の顎鬚で床を掃きながら、小首を傾げてなにごとかを呟やいていた。 「弟が死んだ。弟が死んだ。誰かが穴を埋めねばならぬ」 円卓の他の端に腰掛けた無数の影が、いっせいに和した。 「誰がやろう?誰がやろう?我等上古の 「私がやりましょう」 灰色の背広を纏った女が立ち上がり、金鎖で吊るした懐中時計を手に、単眼鏡を煌かせた。シリンダーハットとフロックコートがふわふわと周りに浮いて、主人に着てくれるのをせがむように所在無く漂っている。 「いやいや、お前は若い」 「お前は己の欲得のためにしか働かぬ」 「我等は知っているぞ。お前が夜の山脈の地下に造る宮殿を!あそこにはお前の見初めた少年があまた囚われてると聞く」 「だから?」 女が嗤うと、他の影はおののいた。だが円卓を挟んだ真向かいで、札束を数えていたでぶの大男だけは、腹を揺すって哄笑し、ぬっと立ち上がると辺りを睥睨する。 「老い耄れども!管理者を気取る死に損ないめら!彼女にやらせるのだ!もはや時代は変わった!文句があるやつは俺様が相手になるぞ!」 「いいじゃろう。 新たな職能を得た女は、自信ありげに微笑むと、フロックコートとシリンダハットを纏い、虚空からステッキをひねり出して、円卓を去った。 「ええ、承知していますとも。同族殺しのバイスホップ。なんて素晴らしい響。是非私のコレクションに加えなくては!そう、これからは公明正大に夢魔を狩り集められる。ほほほ、もちろんあの子以外にも、かわいい子は全部…」 灰色の影が居なくなるのを潮に、時のない回廊からは、一つまた一つと気配が消え、やがて大鎌を持った老人だけが残される。彼がしなび、節くれだった手で、円卓の傷ついた面をこすると、世界という名の幻燈芝居は、その荒い筋を再び上演しはじめた。 昼と夜のページがめくられ、人々の夢は、また紡がれ出したのである。 |
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