羽深くんのカノジョ

 鷹鳥第一中学二年生、羽深真君には、決まったカノジョが居る。噂は、バスケットボール部の練習を見学にきていた、多くのファンを震撼させた。目撃者が居るのだ。連休の日曜日、都心のデパートで確かに、年下らしき女の子と仲睦まじくデートしていたそうな。

 相手はちょっと幼い感じの、おどおどした所のある子で、傍からすると、えー、羽深君ってロリコンなの、と不満の声が上がりそうなタイプ。しかも、彼が優しくエスコートしているのに、デートの間中ずっと泣き出しそうな表情のまま、不届きにも腕にしがみついては、駄々をこねていたらしい。

 許すまじ、と一人が吠えた。数人がただちに唱和する。 ガッデム!ホーリー・シッ! ビッチ!

 イエス、イエス、アイシー、アイシー、テイクイージ、イージー。お怒りはご尤もだ、しかしね。と、ある男子生徒は彼女達に取り成した。

 曰く、恋の権利は誰にでも平等、そのガールが君等のアイドルを捕えたのなら、ラッキーなカノジョを祝福したらどうだい?背が小さい?結構じゃないか。抱き締め易いってことさ。子供っぽい?守ってあげたくなるね。泣き虫?感情豊かだってのは素敵じゃないか。要は、好みは人それぞれって話だ。釣り合うとか釣り合わないなんてフーリッシュな言葉さ。アンダスタン?

 だがインチキ臭い英語を混ぜた駄弁には誰も納得出来る訳がない。ってゆーか誰よこいつ?部の人じゃないでしょ?なんでバスケ部といっしょに居るの?つか何様?変な髪型して、三年生?嘘ー、気持悪い。

 嗚呼、乙女の集団に向けて要らぬ口を利くのは地雷を踏むのと同じだ。 オーケーオーケー、男子生徒は苦笑しながら引き退った。お調子者には良くある光景だ。

 しかし、話を羽深君に戻そう。彼はバスケットボール部の未来のエースだ。現在の地位は"元B"という曖昧なものだが、兎に角、そのカノジョともなれば、名門一中バスケ部の未来を左右するのである。多分。

 で、当の本人は問詰められるや否や、きっぱりと否定した。あはは、見間違いじゃない?日曜はトモダチと出かけてたけど。うん、男だけど?え、いやキヨじゃないよ。そう、東野。

 うん、最近仲良いんだ。ね?

 笑顔の王子様。何て爽やかなんだろう。眩しさによろめいたクラスメートは、もう半分丸め込まれている。ところが影では、話を振られた方の少年が、びくっと小動物のように震えていた。遠目に見れば、どうも仲良し、というよりは、いじめっ子といじめられっ子の関係のようだが。

 でも幾らなんでも、いじめ、というのは当るまい。この東野君も羽深君と並ぶバスケトボール部のスーパーヒーローなのだから。同じ二年生で、そうは見えないが、チーム一の俊足のドリブラーかつ、ムードメーカー。通称"校庭三百周"の東野。

 練習で疲れているのか、元気の無い様子だが、普段は天真爛漫で明るく、花に喩えるなら向日葵、には丈が足りないが、蒲公英くらいはいけてる。しかも愛くるしい顔に似合わず、昔のスポ根漫画を地で行くような頑張り屋で、校庭三百周の名も伊達ではない。部内の人気も上々で、特に下級生の信望が厚い。

 とはいえ、二人が仲良しと言うのも、俄かには信じ難い。東野君の現在形は"元F"なのだ。そう、一中生徒には名高いバスケ部内部抗争の立役者、残留を賭けてBと試合を行った、落ち零れ集団Failure Teamのリーダーである。今は和解したとはいえ、元Bの代表選手の一人である羽深君としっくりいっているというのは言い過ぎではないだろうか。

 東野? と微笑んだまま、羽深君が繰り返す。

「うん」

 消え入りそうな声で答えて、小さく肯く蒲公英の少年。

 アリバイがあるのでは仕方ない。皆は渋々引下る。さぁ休憩は終わり、練習だ。邪魔は出来ない。ボールを手にした下級生が三人、焦れた様子で、羽深君と東野君を見ていた。一人は何か喚いている。

 意訳すると、東野先輩を独占するな、といった所。人気者は大変だね、と笑ってから、羽深君は、連れの耳元に囁いた。

「じゃ、また日曜日にね、東野」






 夏の全国大会が終わると、新人大会に用のない部の三年生はぼちぼち引退を準備する。一、二年生も他校との練習試合を除けば、週末はフリーになる方が多くなる。土曜が終わって、次の朝になれば、部員達は球技とは別な、個々の趣味に耽る。中華鍋を振るって日がな料理の腕を振るうポイントガードもいれば、猫の毛玉取りで午前中を潰すパワーフォワードあり、もっと平凡に、家族と出かけたり、兄弟と遊んだり、友達とだべったりする子も居る。

 しかしデートとなると話は別だ。

 世間ではどうか知らないが、東京も外れの一中界隈では、中学生がデートなどというのは、大っぴらに出来ない。保守的といわばそうだが、矢張り地域の目があった。昨今、少子化の影響で子供の数が減ったためか、少年少女が仲良く連れ立っていれば特に注意を惹き易い。せめてその、グループ交際とか、そういうのにせんか、うん。別にお父さんはお前の人間関係に干渉したい訳ではないが、しかしだな、学生というのは本来勉強が...etc。いや結構。思春期に、親や教師の訓戒など、常に、永遠に、ただの御託だ。

 要は、ばれなければいい訳で。

 左様、若き男女は何のかんのと理由をつけて家を出る。町を出る。木の葉を隠すには森だ。都心に行きさえすれば、高齢化などどこ吹く風、同世代であふれ返っているのだから。PTAも生活指導の教員も、あの人の海から自校の生徒を釣り上げる訳にはいかない。新旧入り混じった雑居ビルが軒を連ね、地下通路が縦横に走り、土地面積に比して数倍の広さを持つ空間の迷路は、いつも危険と引換えの自由という、馴染み深い音楽が鳴り響いている。

 例えば、某駅東口アルタ前、午前九時半、訪れたティーンエイジャーの数は既に千を越える。うち一人にスポットを当ててみよう。BULLSのロゴ入り帽子のつばを降ろし、耳にはイヤフォン。薄茶色のパーカーに懐手して、HDプレイヤーから流れ込む洋楽に合わせ、スニーカーの爪先が短くリズムを取っている。ジーズは少し灰がかった青。全体の印象は、ただ、没個性。

 もし下から顔を覗き込んだなら、"何も映っていない鏡"のような、虚ろな表情を見出すだろう。気怠い陽気と、解放された時間の中、彼が纏っているのは色彩を欠いた孤独。

 羽深真。

 普段、学校で騒いでいる様子からは想像もつかないが、友人が傍に居ない時の彼は、王子様でも、爽やかなスポーツマンでもない。魂の抜殻のようだった。

 監督が傍にいる時は、システムに従う切れ者プレイヤー。
 不良じみた先輩の前では、笑顔に刺を隠した策士。
 まじめな後輩を一緒なら、茶目っ気と余裕に溢れる上級生。
 つっけんどんな同級生に対しては、人懐っこいチームメイト。

 だが群集に埋れた少年は、どんな仮面も被っていない。
 独りは彼を抜け殻にする。

 足が旋律を刻むのも、機械的な反応に過ぎなかった。音楽は実の所、寄るべない刻を過す役には立たない。これが映画なら、少しはましなのだが。俳優が銀幕から「泣け」「笑え」「手に汗握れ」と、あれこれ命じてくれる間は、観客としての役割を演じられる。

 今日のデートは、コマ劇場で。上映開始予定は十時。大分待ち惚けしている。ありきたりな退屈と苛つき。けれど会話する相手を欠いた真空の中で、伝わらない叫びと共に、不安の闇が、徐々に広がっていく。短い蹴音は、SOSのモールス信号のように続く。無意識に右手の親指の爪を噛む。

「羽深くん…」

 名前を呼ばれた途端、少年は暗い瞑想から醒めた。視線が焦点を結び、姿勢もしゃんとする。電源の入ったロボットのように、映すべき主を得た鏡のように。

 正面に立つのは背の低い女の子。薄手の上着、膝に届かないプリーツスカートと、随分派手な装いなのに、ふとすると小学生にも見える幼げな雰囲気。

「ん?あ、おはよーアキ」

 答えは興奮を隠し、わざとらしく間延びする。けれど微笑みは牙を剥く蛇めいて、意地の悪さと優しさと、激しい飢えを潜ませている。これもまた別の仮面だろうか。返事を聞こうと、彼はもぎ取るようにイヤフォンを外した。

「っ…ぅ、うん、おはよ羽深くん」

 肯きながら身を引く少女の肘を掴み、力任せに引き寄せる。肩口に掛かる熱い吐息に、震えるのは窪んだ鎖骨と、肌理細かな白い項。

「ちょっと、遅かったよね?」

「あ、の…服が…」

「うん?」

「服、着てたから…」

「ふーん、ねぇ、そんな緊張しないで、いつもみたいに笑ってなよ?」

 背へ手を回し、うなじの下に指を滑らせながら、やや陰険に囁く少年。相手は言葉を失い、風邪を引いたみたいに瞳を潤ませ、頬を紅潮させて、パーカーの胸にしがみついたまま、俯くだけ。羽深の唇が不服そうに尖る。

「もしかして気に入らなかったのかな、その服」

「…だっ……」

 少年の皓い歯が、抗議しようとするカノジョの耳朶を強く噛む。加減はしない。抱き締められたまま、痛みに固まる細い身体。周囲からは、不快そうな視線が注がれる。朝っぱらからよくやるよ、と。

「ふっ…ぅっ…っく…」

「あれ、また泣くんだ?」

 言われて、必死で涙を堪えるあどけない顔。子供らしく丸まっこい指が、無意識に掴んでいた羽深の胸元を放す。

「折角のデートなんだからさ、最後まで付き合ってよ」

 ひらっと二枚のチケットを差し出す彼。鼻先に突き付けられた紙に、少女は吃驚して瞬いた。

「え…?」

「映画、観ようよ」

「ふぇ…あの…」

「駄目?」

「う、ううん。でもお金っ、この服だって…」

「アキは僕のカノジョなんだから、遠慮しないでよ。それにどうせ、競馬で当てたお金じゃない」

 さらりと言ってのける。中学生で馬券を購入するとは、些か由々しき事態だが、JRAの名誉の為に言っておくと、WINSで買ったのではない。正規の場外券売場以外にも、手蔓は色々ある。

 羽深はデートの度にアキを連れ回し、おかしな店で、おかしな遊びをしたがった。先週は、ノミ屋で4-10の番号であてずっぽうに複勝を狙い、ゼロの四個ついたお札を注込んだ挙句、たった一レースで大勝ちしたのだ。不純異性交友どころか賭博となれば、カノジョがびくびくするのも当然だ。

「ほら、行こう」

 手を繋いで歩き出す。少女は周囲の視線が痛い。ロリコン野郎ロリコン野郎、小学生にあんな格好させて、べたべたしやがって。補導されちめー。

「ふん、同い年なのにさ…」

 鼻息一つ、にぱっと笑う王子様。 つい吊られて笑うお姫様。鏡のように良く似た表情の二人。だが少年の笑顔は、恋人に比べて僅かにぎこちない。映らないはずの影がある。鏡面の歪み、罅割れ。

「アキは、誰とでも笑えるんだね」

「あは…なんか、羽深くんにつられたみたい」

「そう」

 違う。君の笑顔は誰にでも惜しみなく降り注ぐ太陽。決して変わらない光の源。消せない炎。"F"の、Fightの象徴。僕の作る偽物とは違う。どんなに好きになるまいとしても、抗い得ない磁力を帯びる。

「…あ、ね、今日観るのホラー映画なんだ」

「ぇ?」

「題名は"アナコンダ3"」

「!?」

 凍り付く笑顔。そんな姿まで人を和ませる。眩しさに涙が出そうになって、少年はすっと視線を逸らした。嘲りに口元を歪めながら、指と指をしっかりと絡ませ、足取りを早める。

 やがて辿り着いたのは、劇場附設の映画館。跳ぶような大股で、階段を駆け上がる。引き摺られるカノジョのスカートが風に捲れ、ピンクと白のストライプが、ちらっと露になる。構うものか、誰も見やしない。いつだって午前の映画館はがら空きなのだ。

「あぅ、あ、アナコンダってヘビでしょ?」

「いや、トカゲじゃない?」

「本当?」

 嘘だよ、馬鹿だな。動物図鑑も観たことがないのか。アマゾンに住む長虫。枝々を渡る樹林の王。アキみたいなチビなら一飲みだよ。勿論、胸の奥で呟くだけで、おくびにも出さない。

 もろに大蛇が映ったポスターを隠すようにしながら受付に歩み寄り、もぎりにチケットを渡す。向こうは若すぎる男女を見ても何も言わない。閑古鳥が鳴いているし、客に選り好みは出来ない。

「10時5分からだから、まだ時間在るね。どうしようか?」

「え?えーと」

「待ってて」

 アキをロビーのソファに座らせておいて、羽深は自動販売機に近付いた。硬貨を二枚入れる。カノジョが好きなのは、ココアかな。ボタンを押すと、ランプが点灯し、紙コップに茶色い液体が満たされていく。熱い容器を慎重に掴み、縁をティッシュで拭うと、片手で持ったまま、自分のコーヒーを買う。零さないようにゆっくり側に戻り、甘く香りのする方を、そっと差し出した。

「はい」

「ありがとう」

 泣いた烏がもう笑った。無邪気さが、羽深のペースを崩す。胸がオカシなざわめき方をする。そんなことは望んでいない。だから、

「キヨ、今ごろやきもきしてるよね」

 何気ない調子で、残酷な台詞を口にする。ココアを啜っていた少女が、さっと青褪めた。彼は面白がるように、追撃ちを掛ける。

「…どうしたの?帰りたくなった?」

「ううん…っ…っ…」

「約束したよね。途中で帰るのは無しって。あの写真、ヒミツにしておきたかったら、ってさ?」

「……」

 辛そうにカップを覗き込むアキ。羽深は鼻歌交じりに隣りへ座る。心地よい雰囲気、お互いだけのヒミツ、お互いだけの記憶が、太い鎖となって心を繋いでくれる。これで良い。自分の役割はこれでいい。

 壁時計は、十時五分前を指していた。映画が始まるまで後少し。相変らず、ロビーの人影はまばらだ。少年はカノジョを抱き寄せ、肩に顎を載せると、満ち足りた様子で瞼を閉じた。






 シーンの挿入。過去へのフラッシュバック。晩夏の黄昏と、薄朱に彩られた校舎、前庭では死損ない蜩が鳴いている。パン。ズームイン。体育館の側、男子トイレの奥。壁に押し付けられた裸の背。うなじに刻まれたキスマーク。シャツで縛られ、あかぎれを起こした手首。生々しい幻像。押し殺した喘ぎと、掠れた悲鳴が聞えそうる。

 はは、中まで奇麗に撮れたじゃない。ほら、ピンク色だよ。

 羽深くん、どうして…。

 東野が可愛いから、かな。さ、笑って?

 啜り泣く声。白い閃光と、携帯のシャッター音。

 ねえ、辞めなよバスケ部。もうキヨに近付かなければ、写真も消してあげる。

 首を横に振る少年。フォーカス。汗で額に貼り付い前髪から、涙に濡れた強い瞳が見上げる。柔らかさに剛さが同居する、気高い心。けれど陵辱者にとっては、屈服しない獲物など、腹立たしいだけ。誰かの手が、頭の天辺の髪房を掴んで引きずり上げ、小便器に押し附ける。

 音声のみ。言っとくけど、この写真ばら撒いたら、どうなるかな。きっとどっちにしろ、キヨと一緒にバスケなんて出来ないよ。

 初めて揺れる視線、怯えに震える肩。折れない心の、たった一つの弱点。キヨちゃんという単語が小さな背を打ちのめす。

 苦しげな沈黙。

 頑固だな。いいの?

 首を振るだけの否定。

 そう、そんなにキヨと一緒に居たいんだ。じゃあさ仕方ないな、いいよ。

 …ほ…んと…?

 代りに、僕の言う事、何でも聞けるよね。

 …っ…ぅ…ん…

 じゃあさ、カノジョになってよ。日曜だけ。

 …え?…

 目の届かない所で、キヨに近付かれるのって、むかつくからさ。だって不公平じゃない?だから、日曜の東野は、僕のカノジョになって側に居てよ。キヨに余計な真似しない様にさ。いいね。

 …そんなの…

 嫌なんだ?東野が可愛いから、凄く良い条件にしてあげたんだけど。

 …あ、…言う通りにしたら、…皆と…バスケしても……

 いいよ。

 …じゃ、僕、がんばる…

 トーンダウン。カノジョってことは、名前が要るよね。まさか、東野って呼べないから、そうだな、暁子、アキっていうのはどう?

 …ふぇっ…っ…

 決まり。じゃ、キスしようよ。約束のキス。きちんと僕の言う通りデートして、途中で逃げたりしないって。体で誓ってよ。

 …ゃぁっ…んっ…ふっ……

 うん。ご馳走様。よろしくね、アキ。これから、楽しみだね。

 …っ…はっ…羽深く…ひぁっ…

 ブラックアウト。






 映画館内のスピーカーから短くベルの音が鳴る。思い出は鮮明さを失って、再び背景へ退いた。

 あれをしたのは、本当に羽深真自身だったのか。それとも東野暁という明るい光が投げ掛けた、仄昏い影に過ぎなかったのか。良く解らなかった。彼は鏡だったから。小さい頃よりずっと、相手に合わせた仮面を付け替える道化だったから。

 昔から、どんな環境にも違和感なく溶け込めた。良い子になるのも悪い子になるのも簡単だった。カメレオンのように周りの色を読み取って、素早く偽装するだけでいい。バスケも同じ。ポイントガード、シューティングガード、フォワード、チームが求めればどのポジションでもこなしたし、里見監督の"システム"にも難なく順応した。

 けれど、いつしか疲れ始めていたのかも知れない。羽深真という鏡が、あまりに多くの像を映しすぎて、歪み、傷み、像を投掛ける主を、傷つけてしまうほどに。

 だからなのか、城戸清春に出会ってからは、もう他の像を映したくなかった。彼の、彼だけの鏡でいたくなったのだ。キヨが求めるような、安定した一つの人格、一つの像だけで充分だった。それはとても暖かくて、日向の匂いがして、本当にそういう人間になりたいと、憧憬さえ抱かせた。

 なのに、キヨにはもう、東野暁が居た。欲しいと望む全てを持って、しかも人に気に入られる為の演技などせず、自由に生きる少年が。城戸清春が求める理想像が誰なのか解ってしまった時、鏡は横に罅割れた。

 不公平、だった。此の世に羽深という人間が居て、東野という人間が居るという、そのこと事体が許せなかった。だからあの日、無防備な背を襲って、犯した。無邪気さなど残らないように、徹底的に傷つけてやった。

 その筈なのに、東野は彼を憎まなかった。それどころか却って此方を気遣うようにさえ見えた。お陰で強姦を終えた後の気分は、余裕たっぷりな素振りとは裏腹に、ひどく惨めだった。

 あれをしたのは、やはり羽深自身だったのか。定かではない。どちらにせよ、もう仮面を剥がされるのはご免だった。その為にもう少し、もう少しだけ、"アキ"を側に置いて、理解する必要があった。新たな仮面を作るために、鏡の罅割れを繕うために。

 もう一度ベルが鳴る。そろそろ時間だ。

「もう、中に座れるみたいだよ」

「うん…」

 ぴったりとくっついたまま、最前列のシートに導く。やがてアナウンスがあって、照明が落ちる。しかし観客は十人も入っていない。まぁ"アナコンダ3"じゃね。

 幕が開くと、映写機が銀幕を明るく輝かせる。まずやたらと長い予告編、全然無関係な作品に関するお定まりのPRがあってから、やっと本編が始まる。 

 アキは予想通り、すぐにしがみついて来た。

「羽深くん、ヘ、ヘビ…ヘビが」 

「ほんとだ。凄い大きいねぇ。アキ、ダメだよ目閉じちゃ、折角のチケットが無駄になっちゃうよ」

 くすくす笑いながら囁くと、相手は殆ど半狂乱になりながら、懸命に画面を観続ける。

「噛まれたら痛そうだよね。あ、噛まれた。うわっ血…」

「ひぃああ!!」 

「大袈裟だなぁ、耳塞がなくてもいいじゃない。そんなに怖いなら、こっちおいでよ」

 アキは猫のように此方の膝へ飛びついて、ぎゅぅっと胸に頭を埋めて来た。なんか、ヘビにトラウマがあるんだろうか。仇名の一つがハブ、という羽深には、妙にこそばゆい。ぴょんと立った房毛の周りを、あやすように撫でながら、映画を眺める。

「ヘビ、まだ居る?」

「うん。3匹に増えた」

「ぁううう…」 

 震えるアキ。視線を落すと、さっき飛びついた刻にスカートが捲れあがって、下着が剥き出しになっていた。

「はは、なんか、凄い格好」 

「あ、わっ…」 

 急いでスカートを整えようとする手を抑えて、抱き竦める。相手は力なくもがいてから、やがて諦めたように脱力した。それでも映画の中で悲鳴が上がる度に、びくびくと緊張してしまう。そのまま開始50分が過ぎる頃には、細い首はびっしょり汗を掻いていた。

「ね…」

「なに?蛇は今5匹だけど」

「そうじゃなくて…」

「なに?」

「トイレ…」

「終ってからにしなよ」

「だっ…あの…ちょっと…」 

 羞恥で消入りそうな囁きが零れる。

「はぁ?ちょっと漏らしたぁっ?」 

 真赤になって俯くアキ。羽深は溜息を吐いて、膝からどかす。

「どこ?」 

「ちょっとだけ…だから…」

「でも漏らしたんでしょ?しょうがないから…行くよ」

 手をつないで、緑のランプの非常灯が点った出口から外へ出る。男子トイレの場所は廊下の突き当たりだった。内にも外にも人気が無いのを確かめてから、急いで引っ張り込む。

 すぐに狭い個室に押し込めて、後手に鍵を締めた。

「ほら、脱ぎなよ」

「うん…あの、後ろ向いてて…」 

「なんで?まさか、そんな格好してて、本当に女の子みたいな気分になった訳?東野はさ」

 敢えて、普段通りの呼び方をする。アキ、いや、暁は、かぁっと赤い顔を余計蕪のようにしながら、両手をスカートに入れて、下着を降ろした。片足づつ引き抜いて、残った小さな布地を握り締める。

「見せなよ」 

 躊躇があってから、スカートの前が持ち上げられる。中心で小さな茎が、つんと勃ちあがっていた。

「お漏らしただけで、どうして、そんな風になるわけ?」 

 意地悪く尋ねたつもりの声の方も、少し上擦っている。

「解んな…」

「インランなんじゃない」

 勝手な宣言をされて、大粒の瞳から涙が零れる。羽深は肩を竦めた。

「で、それ、どうすんの?」

「え?…あっ…」

「まいいや、戻ろっか。下着、洗ってから来なよ」

「…待っ…」

「何?」 

「っ…」

「お願いの仕方なら、教えたけどな」 

 暁はすんなり伸びた両脚を開いた。形は細いが良く引き締まり、しなやかな筋肉がついている。羽深の胸に、微かな痛みが走った。それはキヨや自分と同じ、ただバスケが好きな中学生の身体だった。

 指がたどたどしく、尻朶の柔肉を開く。

「ここ…羽深くんの…はぁっ…ぁっ…お願い…僕…だめ…」

「後ろ向いて、壁に手ついて」

 大人しく命令に従う、女装の少年。高く上がった双臀と、その下で固くなっている肉芽が、羽深の理性を飛ばす。いや、理性なんて最初から無い。ジッパーを降ろし、もたつく手付きで自分も用意を済ませると、目の前の蕾へ、軽く指を差し入れる。

「ひゃんっ…ぁっ」

「柔らかいね。こっちは、固いのに。ホラー映画で、興奮できるんだ?」

「…そんな、違っ…」 

「じゃあ、なんでこうなってるの?」 

「…っ、だって、羽深くんに、ずっと手、繋がれてた…からっ…」 

 急に、慎重に被った筈の仮面が剥れ落ちそうになる。羽深は辛うじて虚ろなせせら笑いを浮かべた。

「なにいってんの…馬鹿じゃない…」

 前戯もなしに貫いてやる。あれから幾度も使い込まれた場所は、結構簡単に侵入を受け入れる。絡みつく肉の感触。だが予想外にきつく締め上げられて、つい呼吸が乱れた。気取られまいと、後から圧し掛かって、耳を噛む。腰を動かしただけで、暁は舌足らずな喘ぎを上げた。

「声、うるさいから、スカートの端っこ自分で咥えなよ」

 暁が言う通りにすると、スカート丈が短くて随分窮屈な姿勢になる。構わない。細茎を掴んで捻るように扱きながら、同時に内部を穿り返す。歯を食い縛り、布地を噛んで耐える姿が劣情をそそった。

「いつも、いつも…」

 汗のせいか、壁についた暁の手がすべり、激しい衝撃を受け止めきれず、必死でトイレの浄水タンクを抱く。だがそれを見ても、羽深は勢いを緩めなかった。

「はっ、誰だっていいんだろ、キヨ以外は…」

「…ふぐぅっ!…んんっ…」

「解ったようなっ、顔なんて、すんなよ…」 

 喋るのがもどかしい。代りに指を尻朶に食い込ませ、割り裂くように爪を立ててやった。

「んんぅっ!!うっ」

「キヨがっ、いなければっ、おまえだって…」 

「ん…っ、ぷはっ、はぶかく…」

 暁の口からスカートが離れる。もし首を捻って此方をを見たら、きっと自分は動けなくなるだろう。羽深は、恐慌に駆り立てられた雄馬のように、滅茶苦茶に腰を使い、うわ言の様に呟いた。

「ねぇっ、キヨを、キヨを頂戴、そうしたら、僕が東野になれる、から…」

「はぶっ…ぅ、はあああ!」

 本当の答えは聞きたくなかった。手に握った肉棒の先端、鈴口に爪を差し込む。

「じゃなかったら、僕だけの、アキになってよ…」

 どちらでもいい。もう他の誰も映さなくて済むなら。僕が、好きな自分で居られるなら。

「はぶかくんはっ、はぶかくんだよ…ぅあっ…」 

 残酷な言葉。東野の手が、頬を撫でてくる。つい瞳と瞳を向き合わせてしまう。

「羽深くん…」

 繋がったまま、動きを止める。涙が、抑えきれなかった。これは予定の役割じゃない。こんな風に、安っぽく演じるつもりはなかった。これは、僕じゃない。

「僕、羽深くんのこと、好き、だよ…」 

 慰めの言葉には、真心が篭っていた。でも足りない。欲しいのは憐れみや、同情じゃない。相手の全部だから。

「…キヨより好き?」 

 答えの無い問いだった。解っていたことだ。仮面を被ろう。大分傷んでしまったけれど。まずはゆっくり腰を動かして、相手に自分の立場を思い出させてやる。反応は過敏なくらいだった。暁の身体は抱かれる為に出来た人形のように、感じ易かった。

「ひっ…あっ」 

「中で出すよ」 

「ふぁっああっ!…」 

 震える背。欲望の塊を注ぎ込む快楽。ずるりと引き抜くと、黒い孔になったそこから、白濁液が滴り落ちる。羽深は壁に背をもたせて、荒く息を吐いた。

 暁は虚ろな目で、そのまま便器に縋り付いている。少しも、幸せそうじゃない。解っていた筈だ。アキなんて存在しないことは。初めから。東野暁は城戸清春のもので、城戸清春は東野暁のもので、二人の間には、誰も割って入れやしない。

 体は支配できても、心は無理だ。

 東野の側に居るだけで、僕は、演じることも出来なくなる。でも、東野は、僕のものには、決してならない。精々脅迫を通してしか、繋がれない。

「アキ…」

 其処には居ないカノジョ。だったらこの仮面も用済みだ。今までやってきたように、どこか新しい環境に溶け込んで、別な仮面をつければいい。それが自分じゃないか。羽深真は、所詮、羽深真だ。城戸清春や、東野暁なんて、綺麗さっぱり消去してしまおう。

「アキ…」

 抱き起し、キスを奪う。どうせ消えるのだ。遅くとも来年には、僕は僕でなくなるだろう。だから今は、今だけは、こうしていてもいい筈だ。

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