アズ・タイム・ゴーズ・バイ

 「…その合計は29チームであり、東部連盟は更に大西洋地区と中央地区に、西部連盟は太平洋地区と中西部地区に分けられる。現在公式戦は11月に始まり…」

 古いページをめくると、かわいた音がした。安物の紙は黄ばみ、印刷された字もかすれている。一発で合成と解るような、チャチな黒人選手の写真をカバーに使ったその本は、ところどころしわが寄り、シミがついて、ただでさえ、こむずかしい文体や、流行おくれの内容を、よけい読みづらくしていた。

 「…分けても、セルティックスは輝かしい優勝を飾り、今日でも合衆国において、伝説のプレーヤーとして語られる幾多の名選手を…」

 この本は例えば、有名なマイケル・ジョーダンについては全然触れていない。出版されたのは、彼がブルズのスーパー・ルーキーとして活躍を始める前なのかもしれない。当時としては、最新情報を集めたようだが、もうバスケット・ボールのビギナーさえ何の興味も持たないようなゴミクズだ。まぁ、後十年もすれば、ジョーダンという魔法の名マジカル・ネームだって、マイナーな単語になってしまうだろうだけれど。

 少年は表紙をとじて棚へもどすと、ひとさし指と中指をそろえ、銃を撃つようなしぐさで突き出した。おおげさな動作に合わせて、胸ポケットからたれた携帯電話のストラップが、じゃらっと金属質の響きを立てる。すぐとなりで立読みをしていた客が、うっとうしそうな顔で睨んだ。

 軽く肩をすくめた彼は、そさくさと人のひしめく店内をかき分け、出口へむかった。闊達な身ごなしだが、少しだけ右足を引きずるクセがある。ジッパーをかたどったイヤリングが、ぎこちないリズムで揺れる。波と星を描くよう刈り込まれた髪型に、どこのブランドだかも良く解らない輸入品のパーカー。なんとなくパチモノくさいロゴの入ったジーンズ。奇妙なファッションだが、左程チンピラめいた印象を与えないのは、セントバーナード犬のような眠たげな目付きの為だろうか。

 場所柄もあってか、因縁を付ける相手もいない。駅前からやや奥まった所に建つ新古書店は、長時間中に居ると、それだけで酸欠を起こしかねないほどの盛況ぶりだが、従業員のあいさつと店内放送のほかは、殆ど会話らしい会話はない。訪れる人々の目的は、老いも若きひとしく漫画やCDの物色である。

 何も買わなかったのに、ありがとうございました、と声を掛けられる。自動ドアをくぐると、外の街並は昼と夜との狭間の、危うい静けさで満ちていた。

 「5時ファイブね」

 どうするかなと、雲の千切れ飛ぶ青空を仰ぐ。ビルの向うで、烏が素早く旋回し、雀の群れを追って消える。自家用車の排気筒がもらす溜息、咳き込むようなディーゼル・トラックの呼吸、バイクのマフラーが残していく絞め殺されたブタのような悲鳴。

 耳慣れた音楽と同じで、わずらわしさはない。あらゆる国の都会で、道路が刻むビートだ。イヤリングが揺れ、ジャンパーの裾がジーンズを掠ると、スニーカーは気の向くまま、交互のステップを刻む。靴底のラバーがアスファルトを擦り、固い感触が土踏まずへ跳ね返る。

 「〜♪」

 大昔のR&Bを鼻で歌いながら、繁華街の方へと歩みを進める。だが、踊るような足取りは、十数歩先で、いきなり乱れた。ふらついた少年は、ガードレールへ寄りかかって、しばらく瞼を閉じる。額とうなじが冷汗を掻いてたのは、痛みというより、怖れの為か。

 「マイガッ…」

 別段、神を信じてもいないのだが、舌打ちがわりのつぶやきは、祈るような調子を含んでいた。ごくんと唾をのみこむと、冷たい鉄柵の上へ腰かけ、袖で眉間をこすってから、取り乱したのを恥じるように頭を振った。

 しばらく座っていると、やがて辺りを、夕方のざわめきが満たし始めた。買い物袋をさげた主婦や、塾へ急ぐ小学生、友達と何か言い合いながら歩いていく女子高生、次々と登場しては、途切れ途切れの台詞を残して消えて行く。

 少年は心持ち背を丸め、長く伸びた己の影を眺めてから、携帯電話を取り出し、素早く短縮アドレスを打つ。四度目のコールで、回線が繋がった。

 "はい?"

 柔らかな少女の声が聞こえる。

 「ヘイ、マネージャー?俺だけど」

 "塚山!?なんであんたが私の電話番号知ってるの?"

 戸惑いと、怒りを含んだ問い。だが塚山、塚山静心は、やけに嬉しそうな笑みを浮かべた。

 「去年、合宿の準備の時、松波先生から全員分のフォンナンバー教わったっしょ」

 "なな、そういえば…で、でもだからって何でかけてくるのよ?"

 「いや、何っていうか、アー、なんかオゴるからさ、会わねぇ?どうせ……ヒマでしょ?」

 なるたけ気楽そうな喋り方をしようとしながら、いつのまにか息を詰まらせていた。数秒、答えのない沈黙が続いて、少年はちょっと苦しげに喉をさすった。はたして、イエスかノーか。

 と、いきなり甲高い叫びが耳に入り、不安な思いを打ち切った。

 「ホワット?今のは?」

 "なんでも無いわよ。ちょっ、待ってなさい。やば、最強のままだったわ…"

 何やら盛りのついた牝猫みたいな悲鳴がして、すぐ止む。静心は、頭をクエスチョン・マークで一杯にしながら、大人しく待った。また三十秒ばかりあってから、ようやく彼女が通話口へ戻る。

 "で、何の用?"

 「いや、今のは?」

 "何でも無いわよ!!!ちょっとモルモットが暴れただけ!!"

 「オーケイ。どならなくてもいいだろ…」

 少年は言葉を切ると、怪訝そうに首をかしげた。モルモットってあんなファニーな声だすのか?だが取り敢えずつまらない疑問は脇へ置くと、顔を上げて夕陽の残照を眺め、へらっと口元を緩めた。

 「いま、大久保ステーションに居るんだけど、どっかでディナーでも…」

 "っ…要らない、食べ物はもういいわ。それだけ?切るわよ?もう掛けて来ないでね"

 困ったような笑みを浮かべて、静心は頭を掻いた。

 「ウェイト。もしかして、忙しい訳?」

 "そうよ、化学部の片付けよ"

 「ハン?学校?なら、部員の俺も呼んでくれよ…そっち行こうか?」

 "だだだダメ、それはダメ"

 めちゃくちゃ怪しい誤魔化し方だ。どんな鈍い奴でも隠し事のスメルを嗅ぎ取れる。

 「誰かいっしょなのか?」

 "あ…うん…っじゃぁね。"

 「ちょっ…」

 通話が死んだ。急な疲労を覚えて、静心は低く呻いた。ちょっとだけ、ハートが痛い。やれやれ、またふられたか。去年の夏くらいまでは、結構いい線行ってたんだけど。後一歩が乗越えられないな。

 肌寒さを覚えて、ジャンパーの前を閉めると、再びゆっくりと、爪先から踵へ、感触を確かめつつ踏み出す。もう膝の違和感は消えている。さっきのは錯覚だったのかもしれない。

 そういう後遺症があると、病院で注意された。プロ選手でも、一端故障が再発するという妄想に囚われると、真当なプレイが続けられなくなる。たとえ、本人がどれだけ気にしないふりをしても、不安が膨らんでいき、最後はいきなり爆発して、幻の痛みでのた打ち回ると。

 やめよう、深く考えるな。

 ひまが空くと、くよくよ、シリーなことばかり浮んできて、嫌になる。最低でも春まで、バスケをしてはいけないとなると、あり余った時間はせめてデートとか、そういう有意義な方法で費やしたかったのに。

 時間。

 あり余った時間。

 だが、あっという間に過ぎていく時間。

 彼は、中学三年生、十五歳という時間を、同い年の他人より、ずっとはっきり意識していた。砂の如く掴んだ指の隙間から零れ落ちていく秒や分。試合中、通常の何倍もの密度で流れるそれ、或いは丁度今日のような、受験が終った後の穏かな午後、白昼夢のように霞んでいくそれ。

 この瞬間さえ年を取っていくという、微かな苛つき。大人になるのが嫌だとか、そういう話ではない。自分が、自分でいられる期限が、どんどん短く切り詰められていくというリアルが厭わしかった。骨格は二十代前半に完成し、どれだけ鍛えた筋肉も、三十代までには衰え始める。経験を積み重ねても、選手としての全盛期は十年とちょっと。それを過ぎればあらゆる栄光も、名誉も影となってしまう。チャンスを逸すれば、NBAなど、虚しい戯言だ。

 もし傷を負って一年を潰したら、取り返しがつかない。だからずっと、中学生らしいケンカも、危険な悪戯もしなかった。部活だろうと、ゲームをすればラフプレイは避けられなかったから、独りで練習をした。だが…

 「バスケは一人じゃできない、か」

 チームメイトの居るコートから遠ざかれば、遠ざかる程、別の懸念が高まった。故障の再発を恐れ、小さく縮こまって、むしろそれこそが、貴重な時間を浪費しているのではないか。本当に、これが正しい道なのかと、絶えず己の胸へ尋ねた。

 そうだ。ある日突然、ひどくシンプルな答が、笑顔と共にもたらされた。誘われるまま参加した、F対Bのゲームで、払った代償は大きかったが、後悔はしていない。

 へらっと笑って、思い切り地面を蹴る。まだ、いける。また、いけるさ。時間を無駄になんてしていられない。ふられた時は、やっぱり、バスケがいい。

 静心の呟きに答えるように、最初の街灯が点り、遥かな先へと道を示した。暗闇が喧騒を伴って路上を覆う。どこまでも連なる輝きの向うで、彼独りだけのホーム・コートが、主の帰還を待ちわびていた。










 吉田若菜は、メール着信の有無を確認すると、携帯を鞄に戻した。ダンボールに詰めた実験器具を見回し、ぐっと背伸びをする。目の下に隈が出来ているのは、受験が終った反動で、つい趣味の実験で徹夜したせいだ。

 鷹鳥一中の部活動は、文科系も体育会系も三年は二学期で引退なのだが、化学部は、彼女の卒業後に廃部が決まっているので、後整理は最後の部長が責任を負わなければいけない。

 とはいえ作業は、いくら忙しく働いても、はかどらなかった。入学してからずっと親しんできた理科室や、器具を片付けるのが、億劫というのではない。ただ、机や、秤、顕微鏡、アルコール・ランプといった備品に触れる度、記憶が甦って、立ち往生してしまうのだ。

 過ぎ去った時が、長かったのか、短かったのか、解らない。余りにも思い出の数が多すぎ、丁度ぎっしり解説を書き込んだノートを開いて、後から授業内容を復習しようとする時のように、すっかり没頭してしまい、気付くと自分が、何年生なのか、入学したばかりなのか、もうすぐ卒業するのかさえ、解らなくなりそうだった。

 記憶とは不思議なものだ。液体のように流れながら、ある時期、ある環境に限って、あたかも結晶のように成長し、どれだけ後になっても劣化せず、千もの煌きを放つ固体として、脳の内部へ残る。結晶の時期に味わった恥や、犯した罪は決して忘れられないし、当時の喜びや、怒りや、悲しみは、幾つになってもつい昨日のことのように呼び起こして、噛み締めることができる。

 尤も、若干十五歳の少女にはまだ、その恩恵や重荷が解っている訳ではなかったが。ただ、得難いものとして、何かを感じ取っていた。記憶を呼び起こす触媒の一つ一つが貴重であるようで、この全てが、受け継がれず失われていくのが、忍びなかった。

 「先輩、これで全部ですか?」

 背後で無邪気に問い掛ける後輩に、小さく頷いてから、彼女は重い溜息を吐いた。

 「あんた達があのまま入部してれば、化学部続いたのにね…」

 「あはは、ごめんなさい。でも、きっと四月になれば、新しく化学をやりたいって人が入って来ますよ」

 背丈の低い、二年の男子が、ビーカーを戸棚の奥へ仕舞いながら、屈託のない返事をする。東野暁。華奢な外見とそぐわないが、全中準優勝の実績を持ったバスケ部のレギュラーである。やや疲れた風なのは、放課後、臨時の助手として、慣れない仕事に付き合わされたせいか。普段の溌剌とした姿と比べると、幾分足元があやしく、ちょっと動くたび、呼吸を乱している。

 若菜は、それでもまめまめしく動き回る下級生を見守りつつ、椅子へ座ると、だるそうな表情のまま、机へ突っ伏した。すぐ心が揺れるのは、直さなければいけない弱点だ。そうは思いつつ、ついいつも他人に脆さを曝け出してしまう。

 「そうかなぁ…」

 「そうですよ、ほら…フラスコだって、試験管だって、こんなにピカピカだから。きっと触ったり、使ってみたくみたくなりますよ♪」

 「あんたみたいにお気楽なコなら、そうかもしれないけど…はぁ〜不安…」

 暗い色を払えないでいる先輩へ、少年はまた明るい微笑を注ぐと、きちんとガラス戸を閉じて、錠をかけた。本当にボールが掴めるのかと疑いたくなるような小さな掌に鍵を乗せて、ゆっくり差し出す。

 「終ったんで、お返ししますね?」

 「うん、ありがと」

 「そういえば、さっきの電話、塚山さんからですか?」

 「うそ、よく聞こえてたわね。うー、番号変えようかなぁ…いきなりかかってくるから…なんだか解んない内に切っちゃった…ね…」

 「…っ…あ、はい…」

 「何の用だったんだろ」

 「たぶん、誕生日のお祝いじゃないかなぁ?」

 のんびりした口調で謎を解かれ、若菜はぽかんと口を開いた。

 「なんで?わたしの?」

 「はい」

 「っ…えっ…でも、いや、塚山だし…」

 そういえば前に、九日空いてるかどうかしつこく訊かれたっけ。面倒くさいから、適当にはぐらかしてたけど、あれってそういう意味だったのか。頭を抱えて、考え込んでしまう。

 傍らに控えていた年下の男子が、ちょっと心配顔になって覗き込んだ。

 「先輩?」

 「あー、やっぱちょっと、悪いことしちゃったかな…」

 「かけなおしてみたら?」

 先輩の困り顔に気付くと、東野は、にこにことそう提案する。

 「う゛ぇっ…ぇっ…そうね…うん…まぁ」

 「僕、ゴミ捨ててきますね」

 「い、いいよ別に。そういうんじゃないんだから!」

 立ち去ろうとする彼の手首をむずと掴んで、若菜はそう叫んだ。赤くなったまま、片手の指だけでボタンを押し、折り返し呼び出しをかける。だがすぐ冷たい録音音声が、おかけになった番号の携帯電話は、電波の圏外に居るか、または電源を切っている可能性がありますと告げた。

 「なにそれ…」

 怒ってるのかとか、本当はこっちが気にする義理は無いけど。メールを打とうとして、やめる。

 「ねぇ」

 「はい?」

 「塚山って、あんた達の他に友達いないわよね」

 「うーん。どうなんだろ?僕が最初に会った時は独りでしたけど…吉田先輩のほうが詳しいんじゃ」

 「なんでよ!…塚山って、転入してきてからも、ずっと学年から浮いてて。掴み所無かったし…あんなバカとは想わなかったけど…えと、だからね。あいつが溜り場にしてるとことか…解る、かなぁ?」

 「はい!」

 元気良く答えてから、東野がふわっと優しい微笑を浮かべる。人をからかったりするような、嫌な奴でなくて、良かったと、若菜は安堵する共に、何故か少し腹が立った。そう、そうよね。勿論、あんたは、ああ、面倒くさい…

 「じゃ、教えて」











 三月九日の夜は、まだ冷える。若菜は、制服の上から肘を抱くようにして、道を急ぎ、時々手元の紙片を確かめては、やるせない不平を漏らした。

 「うう、考えてみたらなんで私、自分の誕生日にあいつを…家でお母さんも春菜も待ってるのに…」

 罫線入りのルーズリーフに描かれた拙い地図。子供っぽいが、読みやすい丸文字で、説明が付されており、小さく「ファイト」と付け加えられている。

 「何がファイトなのよ、東野…」

 げっそりした顔で俯くと、低く溜息をついてから眼鏡の位置を直す。

 「部長として、たとえ三年だろうと部員の面倒は見ないといけないのよ。そう、それだけなんだから」

 何を釈明しているのか、壁へ向かって話し掛けると、パントマイムのように手足をばたつかせて、すぐ我に返った。夜道でセーラー服の少女が一人芝居というのは、傍からすれば相当おかしい光景だ。咳払いして、何事もなかったかのように歩き出す。風は少しも暖かくないのに、頬だけが熱かった。

 程なく、前方で弧を描く道路の下に、煌々と光を蓄えた空間が現れる。小さなフープが打ちっぱなしのコンクリート壁へ据え付けられ、周囲ではスプレーやペンキの落書きが踊っていた。幽かなドリブルの谺が、彼女の所まで届く。ここだ。

 「居た…」

 フードを被ったまま、コートを駆け回る影。若菜は気の進まぬ様子で、更に距離を詰めると、金網を通して話し掛ける。

 「こらー、また膝が悪くなるわよ」

 ボールが止まり、フードが外れて、珍妙な髪型が覗いた。相変らず悩みのなさそうな間抜け面が、犬みたいな嬉しそうな笑みを浮かべ、力一杯手を振る。

 「マネージャー!!!?ホワイ?よくここが解ったな?」

 「東野が教えてくれたの。それより、そんなことして大丈夫なの?」

 「ドンウォーリィ、大丈夫に決まってるっしょ。もしかして、気にかけてくれた訳?」

 少女は、可愛らしい地団駄を響かせ、ぺらぺらと良く回る舌を遮る。メタルフレームの眼鏡が蒸気で曇り、小さな鼻がつんと上向いた。

 「バカなこと言わないでよ。ただ、ちょっとさっきは…その、せっかく電話してくれたから…」

 「ガッチャ。ついにこの瞬間が来たぜ!」

 ぐっと両腕を撓めてガッツポーズを作る。

 「こっちの考え過ぎだったみたいね…帰るっ」

 「ヘイ、ウェイト!」

 慌てた静心は、試合の時のドライブインを凌ぐ瞬発力で、コートの外へ回り込んだ。

 「せ、折角なんだから、ゆっくりしていけば?」

 「ここで、私がすることなんてないでしょ」

 「いや、カンバセーションとか?」

 「悪いけど、お母さんと妹が家で待ってるの。合格祝いと誕生日兼ねてるんだけど…って、そんなことどうでもいいのよ。あんたももう帰ったら?膝、大事にしっ…」

 不意に金網が軋み、少女は、少年の腕に押さえつけられた。垂れがちな瞼の奥で火が瞬いて、燃えるような視線が、眼鏡の中へ注ぎ込まれる。若菜はぞくっと震えると、顎を引いて肩を捩った。

 「やめなさいよ」

 「ノー…、来てくれたのはオーケイってことでしょ?」

 静心は、腕の間に閉じ込めた小さな身体を抱すくめると、相手がもがくのも構わず、キスをした。額、頬、首筋、眼鏡の上まで、雨のように勢いだけで唇をつけ、荒い息と共に、喉へ降りていく。

 動きが止まったのは、丁度鎖骨の辺りまで達してからだった。

 長身がくの字に折れ、痛恨の呻きを漏らすと、股を抑えたまま崩れ落ちる。急所目掛けて鋭い膝蹴りを浴びせた後、若菜は野良猫のような敏捷さで跳び退った。とても理系のインドア少女とは想えない反射神経である。危機を迎えた人間の、本能の為せる業であろうか。

 「さいっ、てぇ…」

 「…ぐふっ…おぐっ…あぐっ…」

 白眼を剥いて痙攣する同級生の惨状に、些か憐れみを覚えて、しゃがみ込む。

 「ありゃ?ちょっと、ちょっと、死なないでよ!?ねぇ」

 スカートを整え、頭を腿へ乗せて位置を高くすると、震える手を握り締める。少年はショックで、しばし硬直していたが、やがて肺の上下が安定してくると、えづきと共に震えた答えを返した。

 「ヘブンへ…行きそうだった…グランマが、花畑で笑ってて…」

 「し、しっかりしなさいよ」

 「あ、ああ、もうオーライだ。サンキュー」

 青褪めた顔が頷く。若菜は胸を撫で下ろすと、いきなり耳まで朱で染まって、膝枕を解いて立ち上がった。いきなりコンクリートの地面へ投げ出され、こめかみをぶつけた少年は、新たな苦鳴と共に、半身を起こすと、金網へ寄りかかる。少女は警戒しながらも、尚も異常がないかを確かめるよう向かい合った。

 「言っとくけど、またやったら…」

 「アイシー、アイシー。解ったよ」

 「もう…何考えてんだか…」

 「…マネージャーはさ…」

 「え?」

 「今しかヤレないこと、ヤリたいとか想わない?」

 懲りてないのか、と眼鏡をずり落としそうになる。だが、取り敢えずは行動に移すつもりはないようなので、堪えた。捨て置いて去っても良かったのだが、一応、知り合いだし、化学部員なのだ。

 口を噤んで不愉快そうな態度を表わす想い人に、静心は弱々しく微笑み、照れたように頭を掻いた。

 「ソーリー。フォゲットしてくれ…ちょっと嬉しすぎてさ。そうだ、これ、バースデープレゼント」

 ポケットから、ちっぽけなリボンを巻いた紙袋を取り出して渡す。受け取った若菜が包装を解くと、銀色のイヤリングが転がり出た。細鎖につなげられたミニチュアサイズのバスケット・ボールが二つ、ぶつかりあって涼やかな音色を立てる。

 「うそ…ちょ、こんな、高いもの…いや、高くなくても…困るよ」

 「気に入らない?」

 そうね、バスケットボールっていうのが、何とも。でも。男子から、プレゼントされるなんて、初めてに近いし。巧く、は言えないけど。

 「ありがと…」

 「マイプレジャー」

 まだなにか口にし掛けて、静心は押し黙った。だが、贈り物がきちんと元の紙袋に仕舞われそうするのを見て、つい唸る。

 「なに?」

 「つけないの?」

 「…やりかた、解らないし…」

 「簡単だよ、貸してみ」 

 へらへらした笑顔に、また不穏なものを覚えた若菜は、数歩か後退りかけが、大仰なポーズでねだられて、つい、イヤリングを渡してしまう。我ながらどうかしてしまったのか、変な気分だった。

 バスケットボールプレーヤーのしなやかな指が、左右の耳へ順番に触れ、小さな留め金のバネを嵌める。ちょっとだけ痛みがあって、ぎくりとしたが、すぐ収まった。

 「…いいっしょ」

 「鏡ないし。見えないわよ」

 「ほら」

 少年が自分の瞳を指す。覗き込むと、虹彩の奥に、耳元で銀の星を二つ瞬かせた少女が映っていた。なんだか自分とは別人のようで、気味が悪かった。

 「見えたろ?」

 「う、うん…」

 「じゃ、改めて、ハッピーバースデー、マネージャー」

 「あのさ、もうマネージャーっていうのは、止めてよ…」

 「いいけど、なんて呼べば?」

 「え…よ、吉田とか…普通のがあるでしょ」

 「オッケー、ハッピーバースデー、吉田さん」

 警戒してた筈なのに、次の瞬間、あっさり唇を許してしまったのは、やっぱり、慣れない呼ばれ方の所為だったかもしれない。

 怒鳴ろうとして、声が出なかった。

 頬を挟まれ、まっすぐ見詰められると、頭の芯が痺れて、せっかちなキスを押し退けるだけの力が出ない。顎を舌で舐られて、荒い息を吐くと、長い腕が伸びて彼女の肩を捉え、強く抱き締めた。

 「…っ…」

 突如、静心の動きが止まって、呪縛は解ける。

 「ば、バカ!調子に乗らないでよ!」

 若菜は、圧し掛かってくる胸を突き放そうとしてから、ふと相手の身体の強張りに気付いた。さっきの蹴りがまだ利いているんだろうか。だが歪んだ口元や、皺の寄った眉間は、単なる痛みというより、苦い絶望の影を窺わせた。

 「膝…なの?」

 隙を突かれ、少年は凍りついた。一瞬、幼い子供めいた、今にも泣き出しそうな表情が、顔をかすめてから、すぐ間の抜けた笑みが戻ってくる。

 「ノー、ハハ、さっきのキックが…さ…」

 「膝なんでしょ?なんで無茶するのよ。野方行ってバスケできなくなっても、知らないわよ」

 「サンキュ、なさけねぇ…これからなのに…」

 付き合いきれない。若菜はするっと腕の囲いから抜け出して、ずれた眼鏡を直すと、すたすたと早足で歩み去った。後から、焦った静心が追いかける。

 「マネージャー?」

 「マネージャーじゃないっての。なによ、最低の誕生日だわ」

 「オー、そりゃないって…せっかくいいムードだったんだしさ…」

 おどけた台詞の末尾は、振り返った眼鏡越しに、きっと睨みつけられて、霧散してしまった。

 「なにがいいムードよ。私が来なければ、一人でバスケしてたんでしょ?」

 「いや、だってさ」

 「だってじゃないわよ!ベタベタベタベタ、うっとうしい!誕生日にものあげれば、何してもいいと想ってる訳!ものには順序ってものが…」

 「それって脈ありってこと?」

 まぜっかえしているのか、真剣なのか、どっちともつかないウィンク。少女の肩が怒り、すぐ落ちた。

 「とにかく、もうちょっと大人しくしてなさいよ…」

 「ノー」

 「は?」

 静心は笑うと、あえて挑むような大股で、彼女へ追いついた。

 「待つのは、タイアードさ。時間はどんどんロストしちまうしな。怪我の心配だの、後先だの考えてる間に、ジイサンになっちまう…マネージャーだってそうだろ?…今日でフィフティーンだぜ。ファイブイヤーズでトゥウェンティ。あっという間さ…」

 熱に浮かされたような饒舌ぶり。マイペースな塚山らしくないなと、若菜はひとりごちた。それとも、これが塚山なの?こちらへ掴みかからんばかりの態度で、でも辛うじて衝動を抑えて、まるで檻へ閉じ込められた野生の熊みたいだ。

 「あいつが、オレを誘った時、だからオーケーしたのさ。試合のブランクなんか、本当はどうでも良かった。俺たちが…俺たちで居られる時間は、どんどんなくなってく、年を取っちまったら、何もない…だったら…チキンになって、ムダに過すなんてフーリッシュだ」

 怯えている。そうだ。塚山は怯えている。喋る事で、それを誤魔化そうとしてる。信じられない。F対Bの試合では、劣勢で挫けそうなFの一年生を励まして、自分は安藤みたいな大きな相手へ、少しも怖れず向かっていくような奴なのに。

 「マネージャーだって、化学部で、何もしないまま終わるより、あいつらと一緒に居るのをセレクトしただろ…この時間が…過ぎてくままなんて…デム…」

 少年は掌で額を抑えて、顔を背けた。失言を悟ったらしい。若菜は唇を噛むと、罵りを投げ付けようとして、代りに溜息を吐いた。

 「違うわよ」

 「ホワット?」

 「私が、あんた達と一緒に居たのは…そうね、バスケは面白かったけど、でも化学部に独り残されるのが嫌だったからじゃない。あそこで無駄なことなんてしてないもの。実験も、観察も、研究も、みんな…」

 「…ソーリー」

 「ノーベル化学賞なんて、七十歳過ぎたって取れるのよ。死ぬ直前だってすごい発見した人だっていっぱい居るんだから。NBAだって同じでしょ。選手で終わる訳じゃない。監督だってトレーナーだって、良く知らないけど、なろうと思えばなんにだってなれるわよ」

 「マ…いや、吉田さん…」

 「時間はいっぱいあるんだから、一年待つのだって、何でもないでしょ。無駄な時間なんて、それとも私といっしょに、化学部に居たのがムダだって、そういうつもり?」

 「いや、なんつーか」

 「だったら、もうこんなことしないでよ!こんなことしなくたって…」

 頬を濡らしているのに気付いて、口篭もり、俯く。感情が昂ぶるとすぐ涙腺がゆるむ。情けない。これじゃヒステリーを起こしているみたいだ。ちらっと目を上げると、相手歯度肝を抜かれた様子で、でも愉快そうに目を煌かせている。

 本当、訳の解らない奴。迷惑な奴。

 「とにかく…そういうことだから。お母さん心配してるし、帰るわね」

 「あっと、送るよ」

 「何もしないでね」

 「オブコース」

 我ながら甘い。人懐っこい笑顔をされると、何をされても、強く出られない。まさか、いやそんな。おぞましい不安にとりつかれて、すぐ危険な妄想を追い払う。向うがボールをバッグへしまっている隙に、なるたけ距離を稼ごうと、足取りは自然早まった。

 けれど、すっかり痛みが引いたらしい静心は、若菜の側へとすぐ追いついてしまった。長い脚が、軽やかなステップを踏む。いつもの能天気な性格を取り戻した彼は、傍らの少女が目を合わせまいと靴の先を睨んでいるのを、しげしげ眺め、にやけた口元から、ひとりごとめいた呟きを零した。

 「だからさ、やっぱマネージャーなんだよな」

 「なにが?」

 「いや、無駄じゃなかったなって、それだけ」

 ふん、と若菜が顔を背けた拍子に、耳元で小さな銀のバスケット・ボールが揺れる。短い沈黙があってから、二人はどちらともなく、また果てしない言葉のやりとりを始めた。

 いつか十五歳という結晶の刻は、そんな他愛ない戯れさえ、決して褪せない輝きとして、記憶の宝石へと閉じ込めてしまうだろう。尤も、彼等がその真の価値を悟るのは、まだずっと先の話だが。

 時間はまだ、少年と少女の周りを、想っているよりずっと優しく、ゆっくり流れていた。

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