「悪趣味ね」 薄くルージュを引いた唇が開き、紫煙を巻いて低めのアルトが空気を震わす。少年は、本棚に寄りかかって、室内へ拡がる余韻にじっと耳を傾けた。肘掛椅子に脚を組んだ女が、片眉を上げて彼を見遣り、ふっと疲れた吐息を漏らす。 今日で三度目だ、相当参っているなと、杉森達也は胸の内で呟いた。眼鏡を直すと、穏やかな様相を保ったまま教務机に歩み寄り、陽炎のように怒気を揺らがせる顧問の肩越しに、広げられたポスターを覗き込む。 「中々いいセンスじゃないですか?ウチの本質を上手く掴んでる」 厚めの光沢紙に映っているのは、制服制帽姿の女性が、人差指を宙に上げて気を付けをした全身像だ。釦や胸章などは買えられているが、構図といい、題字といい、自衛隊や警察の新卒募集を彷彿とさせる。但し、被写体は官公庁が使うには些かマニアックな美女だ。優艶というには鋭さが勝ち、怜悧というには柔らかみのある。私立帝北学院大学付属中等学校バスケットボール部の顧問にして、都下学生スポーツ界に彗星の如く登場した才媛福原成美を、態々官公庁の貼紙に採用するとは、人事は余程の英断か、さもなくば無謀と謗りを受けかねない。 「でもアイコラなら、もっとスタイルの良い女性を選ぶべきですね。コーチの魅力が半減ですよ」 「杉森…軽はずみな言動は内申に響くわ」 花も綻ぶばかりの微笑で、釘を差す。マニキュアを塗った爪が、机についた手の甲を抓ると、舌の回る生徒は低く呻き、いびつな愛想を返した。額と額を寄せあい、師弟には相応しからぬ距離で応酬する二人は、事情を知らぬ者の目には恋仲にも見えたかもしれない。喧嘩中の、だが。 「この光沢紙は学内の売店で?」 「はい、恐らく…いてて」 「このプリンタを持ってるのは」 「文科系でしょうね。トナーは、レックスマークのレーザーだから、写真部だな。去年卒業した副部長が置いてったのを、部室に隠してるはずです」 「証拠を抑えられる?」 「そうですね、二日あれば」 教師は机上灯の側に転がる万年筆をとって、玩ぶように指で回すと、軽く頷いた。 「いいわ。穏便に済ませましょう。ものを抑えたらメールで部長を呼び出して、注意するから」 「へぇ、センセにしては…」 「あそこは以前の顧問がとても熱心で、機材も揃っているもの。役に立つわ」 衿から薫る幽かな香水。白皙の主務はこっそり胸に吸い込むと、硝子の奥で瞼を降ろした。側で咲くのは大輪の蘭。触れればかぶれる、有毒の品種。だからこそ、鑑賞に値する名株なのだけれど。 「では、その間、一軍の練習はコーチが?」 「いいえ、武村に任せるわ。あの子も少しは使えるようになって貰わないとね。私は二軍」 「まぁ、バカの世話が焼けるのは高文だけですからね」 「そうね。スケジュール表二日分、武村が使えるように整理して渡しておいて」 「はいはい」 「それから」 「はい?」 「今日は渚の誕生日よ。後で一声掛けておきなさい」 「ぇっ…!」 虚を突かれて、杉森はぽかんと口を開けた。福原女史は肩で生徒を押し退けると、ポスターを仕舞い込んでノートPCを開いた。電子音と共に白銀の林檎が液晶に浮び、円盤が業務の開始を告げる。 「ほら、ぼさっとしてないで行って。私は貴方達の面倒だけ見てる訳にはいかないの」 「あ、はい、失礼します」 やっぱり叶わないな、と苦笑して、少年は歩み去った。やがて、男子中学生一人分だけ広くなった教員準備室に、キィボードを叩く乾いた響きだけが、忙しく鳴り始めた。 「僕ねぇ、この前の中間で、また英語が35点だって。一生懸命勉強したんだけどなぁ。ねぇ久尚くん。どうしてだと思う?」 「いや…先輩練習中ですから…あの、もしかしたら、山が外れたのと違いますか」 「私語を慎め、久尚も構うな!渚は真面目にやれ!」 掛け声が天井高くに届く。線を刻んだボールが、次々とフープに吸い込まれ、バッシュが床を擦る小気味良いリズムが、あたかもドラムの振動の如く、汗の篭った体育館に谺する。真新しい設備を専有し、ユニフォームに包まれた四肢が躍動する。半面では、機械工場のような精密さで基礎練習が繰り返され、もう半面では黒と緑のゼッケンが入り混じって、激しい舞踏の場を彩る。三対三に別れプレイヤーは、互いのゴールポストを狙いながら、マンツーマンの敵に誘惑のステップを踏み、パスされたボールを招待状代りに、刹那の駆引きを演じる。 だが、重要なのは部分ではなく全体である。後ろ髪を結った少年が、ボールを右から左へ流すと、長身の相棒が素早く3Pエリアの内側へ切り込み、同じく長身のディフェンスを弾き飛ばしてレイアップを決める。Lサイズの緑ゼッケンが臍に足りないような体格に似合わぬ、鮮やかなドリブルに、しかし誰も驚きの表情を浮かべない。 黒チームにとっても、既に慣れきった展開、予想範囲の失点という訳だ。私語を注意された二人のうち、鼻にテープを張った小柄な方が、そさくさと転がる球へ駆け寄り、拾い様無造作に宙へ放ると、のんびりした喋り方の片割れが素早く後を追って、大きな掌で受け止める。 「わ、わーい、行くよっ」 「海老原、当たれ!」 鋭い指示と共に、ドライブしようとする黒いゼッケンの前に、緑のゼッケンが立ち塞がる。両者の目が合うと、どちらともなく短い言葉を交す。 「渚、調子良さそうだね…?でも抜かせないよ」 「い、いいよ、じゃぁ真くん、どっちだ?」 「右だろ?」 「だから喋るな羽深!渚を利用するな!練習でも試合は試合だぞ!」 海老原と呼ばれた緑ゼッケンと、最前より声を張り上げてばかりいる黒ゼッケンが、同時に対峙する仲間へ到達する。羽深は片目を瞑ると、皮肉っぽく唇の端を歪めた 「タカフミ、実際の試合でも、渚の世話を焼くのかい?」 「なっ…」 「僕が、敵のPGなら、君達って、つけ込みやすい、フォワードコンビ、だけどね」 「羽深っ」 多弁なPGが挑発をかける隙に、にこにこしたまま、フォワードの姿は、流影となって脇をすり抜ける。羽深が舌打ちするより先に、渚はゴール下を守る二年生の背後に回りこむと、羚鹿も顔負けの跳躍力でダンクした。 「や、やったぁ!」 策士策に溺れるといった所だ。点を取って無邪気に喜ぶ相手を尻目に、結った髪が激しく揺すれ、行き場の無い憤りが、緑のセンターにぶつけられる。 「海老原、当たれよ」 「無茶を言うな」 「久尚と渚の間に入ろうとするから遅れるんだ。お前はパスの判断なんかしなくていい、僕の指示に従わなきゃ勝てないと教えだたろ」 「今のはどう考えてもお前のお喋りが原因だ。テクニカル・ファウルだぞ」 「どこに審判がいるのさ。これは練習の3オン3だろ。それに合わせたやり方でやれよ」 「実際の試合では通用しない。お前のやり方は」 大上段から作戦の否を断じられ、流石にむっと来たのか、羽深はつかつかと大柄なチームメイトに歩み寄ると、広い胸板に指を突きつけ、顎を突き出して息巻いた。 「いつまで鷹鳥のFでいる気だ。ガキ」 「なんだと!そんなことは今の試合運びと関係無いだろう」 「ガキはガキだろ。お行儀の良いだけのオトモダチばすけなら他でやれよ」 咳払いがして、間にごつい肩が割って入る。 「いい加減にしろ二人とも!羽深、いつになったらその態度を改めるんだ。俺達だって高等部に行ったら補欠からやり直しなんだぞ。上級生に…」 「ふん、二人してお説教かい?渚は僕のやり方どう思う?」 いきなり話を振られて、帝北のエースは戸惑ったように俯く。 「あ…あう〜、し、試合続けようよ〜」 「そうです先輩。折角の練習時間無駄になっちゃいますし」 慌てて補う下級生に、じろっと武村から視線が注がれる。やたらと厳しい三年生の迫力に圧され、猫目に浮んだ作り笑いが凍りつく。だが纏め役を任された少年は憤懣を抑え、太い溜息を吐くと、手を振って皆に散るように合図し、争いになりかけた状況を収めた。 「もういい、久尚達は他の二年と合流しろ。済まなかったな。俺達は今日は仕舞いにする」 「えっ、え〜…っ」 「試合もないのに、だれた雰囲気でやっても無駄だ。やはり春休みの合同練習まで、基礎だけで充分だな」 「僕はいいよ。勘を失わないために、って持ちかけたのはそっちだしね?」 「羽深、いちいち高文に突っ掛かるな」 「あ、あぅ〜…試合〜っ」 そさくさと二年が抜け出ると、三年生の元レギュラー四人は、険悪な雰囲気のまま後片付けを済ませ、シャワー室へ向かった。ポイントガードは相変らず棘のある嫌味をちくちくと投げ、寡黙なセンターは眉を顰めつつ堪え、リーダー各のフォワードは眉間に拳を当てながら、飛び跳ねる相棒の饒舌に耳を傾ける。とても、都大会準優の成績を残した陣営とは思えない。 「それで、それでねぇ。暁くんたら、いい匂いがするなぁと思ったらクッキー運んでたんだって。エプロンこうやって広げて、中に入れるんだって。僕にもやってっていったけど、料金が高くて出来なかった」 「…また鷹鳥一中の文化祭の話か。渚も十五歳になったんだぞ。そういう子供みたいな喜び方をするようだと、高校入ってからバ…あいによっては変に思われるぞ」 「???ぼ、僕じゅう…よんでしょ?」 「今日で十五だろう」 震え声で思い出させる高文の横合から、羽深が嘴を挟んだ。 「へぇ!渚って十日が誕生日なの?言えばプレゼント用意したのに」 「…うむ…とにかくめでたいな」 海老原が年寄り臭い相槌を打つ。さっきまで喧々諤々していた元鷹鳥一中コンビの、嘘のように息の合った台詞に、高文は拍子抜けして背を丸めた。もしかして、この夫婦にまともな神経で接したのが愚かだったと、胸裡で呪詛を唱える。 「そ、そうだっけ、うん。そうだった!高文って物知り〜」 「いや渚、それは物知りとは違うぞ。」 がっしりした肩を竦め、センターは静かにエースの誤りを糺した。四人の中では割に小柄なポイントガードが、漫才めいた遣り取りに微笑みつつ手を項に回し、髪を解く。冷たい風に黒い焔が靡くと同時に、若々しい笑いが幾重にも碧空に跳ね返った。 「取り敢えず…プレゼントだけは…どうにかしないとねぇ♪」 髪を降ろすとどこか少女のような少年の、艶めいた口元がにんまりと三日月を作る。他の者よりは彼と付き合いの長いのっぽの同級生は、不安そうに表情を曇らせ、無駄とは知りつつ忠告する。 「羽深、滅多なことは考えるなよ…」 「何が?さ、シャワーでも浴びないと、ね」 羽深は高文と渚の背に手を回すと、驚いた二人を促して、駆け足に校庭を横断する。残された海老原も、仕方なく歩みを速めながら、ふと西の方へ振向いた。天際に沸き起こる雨雲の気配に、軽く目を細め、額に掌の庇を作ると、誰かに話し掛けるように口を開いた。 「東野、俺達は元気だぞ…」 だが言葉は喉の途中で止まり、ただ白い蒸気となって昇った。やがて大きな影が、先を行く三つの影に近付き、一つに溶け合う。気付くと、風には仄かな梅花の香が混じっていた。 「裏切り者め!お前も初等部の頃は文化部の一員だっただろうが…それを」 「うるさいな、少し黙ってろよ。デブやバカと話すのは嫌いなんだ」 眼鏡の少年は、薄暗い部屋の隅に屈み込んだまま、背後の喚きを制した。手袋を嵌めた指が、ずんぐりした機械の表面から透明なセロハンを剥がしとると、窓から差し込む午後の陽射しにかざす。指紋を採り終えたのを確認すると、小さく頷いて立ち上がり、漸く最初に声を掛けられた方角に向き直る。 その乙にすました秀才風の容貌を、小太りの同級生が睨みつける。此方はデブと呼ばれるだけあって、ハムのような脚が地団駄踏むと、頬肉や腹肉が震えるのがブレザーの上からでも解る程だった。 「協力者に随分じゃないか」 「共犯者だろ。どうでもいいからその脂くさい身体を近づけないでくれないか」 「なっ…なんだと杉森!今からでも他の部員に突き出すぞ。お前のやったことを知れば、文化部全体を敵に回すんだぞ」 「ごちゃごちゃ煩いな。お前の出会い系サイトのチャット記録をばらまくぞ」 「うぐっ…ぐっ」 「外部進学志望崩れのストレスも解るけど、パケ代20万てのはやり過ぎだな。僕に泣きついて正解だよ。ちゃんと親にも学校にもばれないように処理してやっただろ」 「ぐぅっ…うぐっ」 「もう一回向こうのDBサーバに侵入してデータを書き換えてやろうか。1000万円位に増やしてやる方がいいか?それともお前の内申書に偽ID使って学外と通信してたのを書いとくか」 「やめてくれぇ…」 饅頭のような姿が項垂れる。ちょっと薬が効きすぎたと、杉森は口調を和らげた。 「まぁ、冗談だよ。トモダチだろ。だからこうして、見張りを頼んでるんじゃないか」 「ぅ…ぁあ」 USBメモリを繋いで、プリンタのHDDから印刷記録を吸い出す。全部で10GB程か。やれやれ。画像データが壊れないように5GBでメモリを付け替え、2本に全てを収めると、小さく頷き、今度は携帯電話につなぎなおして、自作のJavaアプリでコピーしたという記録そのものを改竄する。 「HDD付のプリンタ使うなら、セキュリティソフト位まともなものを入れるんだね」 「鬼め…おまえは鬼だ…福原みたいな年増ババァの色気に…」 「気をつけろよ。この携帯、お前の声だけ拾って録音してるから。教職員会議で不利な証拠として使われたくないよな」 「…っ…」 「何もかも全部入ってたよ。動かぬ証拠だな。いざとなったら、お前が証人になってくれるだろうし」 「…」 仕事を終えると、顔面蒼白になるでぶの肩を叩いて(勿論手袋を嵌めたまま)、少年は悠々と写真部の部室を後にし、ふと思い出したように頭を巡らせた。 「ああそうそう、お前の所、一年に腕の良いのが居るんだって?OBの権限で来年、バスケ部の偵察用に貸してよ。僕は春から高等部だろ?人手が足りなくてさ」 「なっ…」 「ん?」 「解った…」 良い子だ、という風に微笑んで、部室棟の鉄製螺旋階段を駆け降りる。ハンカチで鼻を抑え、血の出る程擦りながら、鬱陶しそうにブレザーについた臭気を振り払う。 嗚呼嫌だ嫌だ。これだから文芸部だの写真部だの、コン研だのといった文化部は嫌いなんだ。天文や地学ならまだしも、女子がいないともう豚小屋同然だな。先刻のUSBメモリを携帯に接続し、画像ファイルを表示する。PDFか。仮にも写真部の癖に。 「おいおい…」 いきなり飛び込んできたアイコラに仰け反る。渚の顔を、ロリ体型の水着少女にくっつけてある。こんなもの印刷して貼ったらまず停学は確実だぞ。次を表示する。 「…っ、あいつら…」 お次は裸の福原女史。但し首から下は男のボディビルダー。多少は助平心もあって、気に入ったのは何枚か残して置こうかと企んでいたが、意外や、敏感な部分を傷つけられて杉森の眉がぴくぴく上下した。 「くそ…なんであの人をこう…」 次は、自分だった。割烹着を着て、おいでやすと笑っている。去年の文化祭の奴か。別にどうでもいい。歩きながら更に残りを送る。また自分だ。半脱ぎのメイド服。ふざけやがって。次も自分。徐々に肌が露になってくる。 「はっはっは………ぶっ殺してやる!」 ざりっと砂を軋ませて向き直ろうとした瞬間、いきなり携帯を奪われ、少年は慌てふためいた。 「…期待外れだったようね杉森」 聞き慣れたアルトがからかいを含んで尋ねる。息を詰らせた杉森は、すぐマネージャーの顔になって、姿勢をまっすぐにした。 「ええまぁ…」 「元気ね、写真部も。あらあら、貴方一番人気じゃない。やっぱり眼鏡のせい?」 「バカの考えることにしても最低の趣味ですね」 「さっきまでセンスがいいと誉めてたのは誰だったかしら」 ボタンを押しながら、教師がおかしそうに呟くと、手首を利かせて機械を宙へ放り、持主が慌てて掴み取るに任せた。貴重な財産を痛めまいと冷汗を掻く生徒に、付いて来いと促して歩き出す。 「ところで、私も春から高等部に上れそうよ」 「高校教諭の資格も持ってたんですか?」 「勿論、小学校のも持ってるわ」 「いずれは大学教授ですね」 「大学の教授になってどうやってバスケ部のコーチをするの?つまらないことを言わないで」 全くだ。我ながら結構動揺してるらしい。たかがアイコラで。少年は年上の女性に遅れまいと急ぎながら、不様を晒すのを覚悟して尚も尋ねる。 「そんなに簡単に中学から高校に移れるんですか?採用も別なのに」 「いいえ、始めから理事長とはそういう約束をしていたの。二月になって漸く最終的な確認が取れただけ。去年の頭に全国優勝するって風呂敷を広げたから、夏から畳むのが大変だったわ」 「すいません…」 「杉森が謝ってもしょうがないでしょう?…私の力不足だったわ…渚に期待をかけすぎて、東野暁の力を見誤った…」 「いえ、僕がもうちょっときちんと分析していれば」 突如足が止まり、僅かに翻っていたスカートの裾が治まる。逆鱗に触れたと察した時にはもう遅い。あの笑みがゆっくりと此方を向いた。 「勘違いしないで。貴方はただのマネージャーで、生徒なの。監督じゃないわ。貴方には責任を感じるだけの権限も力はないし、そんなものを預けた覚えは無いわ」 「…はいコーチ…」 「私は貴方が役立たないと思えば、代りを見つけるだけよ。他の部員と同じだわ。特別扱いはしない」 「はい」 「そのことを弁えてくれるなら、春からまた一緒にやっていけるのは嬉しいわ。今日はご苦労様。画像の中身は明日確認するからもう上がって良いわよ」 氷の微笑。 参ったな。泣けるよ。 生徒は爪先で固く罅割れた土を叩き、沈黙を保ったまま礼をして走っていった。教師は風に戦ぐ鬢を抑え、中天に掛かる暗雲を見上げながら、凍えた呼吸をする。 「頑張りなさい達也。私が居なくなっても、帝北を引っ張っていける位、ね…」 例えば水の筋などが伝うと、筋肉の付き方というのは、立体として良く解る。格闘家とアスリートではまるで異なるし、同じ球技でもバスケットとバレーではまた別だ。高文は良く違うジャンルのスポーツ誌に目を通す方だったので、自分でも結構詳しいつもりだった。 「やはり…海老原の方があるな…」 「何がだ?」 スポンジから石鹸の泡を吹かしながら、大柄なチームメイトが訊き返す。ポジションは違うが、丈も幅も似通った二人が並ぶと、カーテンで区切られた個室はかなり狭かった。 「上腕筋だ。俺も鍛えているつもりだが…お前はどうしてるんだ」 「いや、うむ…普通にバーベルとか…杉森に言われた通りやっているだけだが」 「だとすると骨の太さか?」 高文が興味津々で肘の辺に指を伸ばすと、凝として海老原は後退った。身体は高校生といっても遜色ない少年達は、お互い相手の挙動に吃驚した態で、暫し固まる。 「済まん…」 「あ、触られるのに慣れていなくてな…帝北では…普通なのかもかもしれんが」 「な、そんなことはないっ。バカなことを言うな」 「うむ、そうか。鷹鳥一中には…シャワー室なんか無かったから…ちょっとな…」 また鷹鳥一中か。普通引き抜き組でも、此処まで元の学校に拘らないのだが。其に海老原は上級生と揉めて退部同然で、部内対抗試合以来復帰してからもずっと補欠扱いだった筈だが。何故か随分愛着があるらしい。細かな湯の流れに打たれながら、悄然と佇む姿は、巨躯に不釣合いな幼い淋しさを湛えてた。 とはいえ、昔から帝北に馴染んできた高文には、転入した側の心情など本当には汲み取り様がないのだ。言葉で架け橋を作るのも苦手な柄だったし、海老原もそうだろう。達也や渚に対するような気軽さで接した迂闊さに臍を噛む。 「気にするな。センターとフォワードではまた違うだろう。俺のは、リバウンド練習が多い性かもしれん」 「ああ、そうだな」 海老原は、悪い奴ではない。というか、時々素直すぎて此方がどきっとさせられるような面がある。同じ鷹鳥一中出でも天邪鬼で不可解な性格の羽深とは好対照だ。 「ははは、ここ意外に小さいねぇ渚」 「あ、あぅ〜、やめ…真くん…くすぐったいよぉ…」 隣のシャワーがやたらと複雑な音を立てる。またあいつか。矢鱈と渚に構うのは何だというのだ。物思いから覚めた高文は青筋を立ててカーテンを捲り上げた。 タイルの壁に裸の渚が張り付いて、後ろから羽深が絡んでいる。手は上下とも、実に微妙な位置を占め、男女であれば間違いなく、間違いなくその…。 「何覗いてんだよ、スケベ」 前髪をべっとり頬に垂らした少年が、ぞくっと濡れた首筋を総毛立たせるような口調で非難する。後ろで海老原がシャワーの栓を止め、猛烈な勢いで更衣室へ逃げていった。自分に向けられたものとでも思ったのか。しかし、高文として望むらくは、まともな理性の有る奴に残っていて欲しかったのだが。渚が怯えた犬のような瞳を瞬かせ、縋るような視線を彼に注ぐ。 「た、高文ぃ…やめてって言って…」 「お、い、は、ぶ、か…」 「赤くなったり青くなったり、やらしいねタカフミくん。ふつーのスキンシップでしょ?」 「どこがスキンシップだ!渚、お前もだぞ、このバカ!されるがままになっていないで少しは抵抗しろ。そんなんだから犬に…」 「ば、バカっていった…高文が僕をバカって…」 「あっはっはっは…おーい海老原ぁ、タカフミくんが渚泣かしたー」 細身をカーテンの間に舞わせ、長髪の少年はシャワー室を抜け出す。更衣室でなにやらどたばた逃げ回る音がするが、最早どうでも良かった。床に尻餅をついて、裸のまま体育座りする渚を、どうにか立ち直らせる方が先だ。 「済まん、今のは、何て言うか、言葉の綾だ」 「僕バカじゃない…バカじゃないのに…」 「解った、バカじゃない…だからその格好は」 「またバカって言った。二度も言った…高文嫌い、大嫌い」 挙句に、ぐすぐす泣き始める。色々危険極まりない態勢だと、どうやって注意したらいいものか。肩に手を回して抱くようにして起そうとする。 「いいから立て、な」 「…バカじゃないのに…いつも…」 「頼む。あと一時間もしない内に二年が来るんだぞ」 「ふぇぇ…ぅう」 「くそっ」 零れる涙を指で拭ってやりながら、己を罵る。この状態までなったら、引っ張り出すには奥の手しかない。強く抱き締めて、赤ん坊にするように揺さぶってやる。肌と肌が触れ合って、渚の吸い付くような柔らかい皮膚と、下にあるしなやかな力が感じられる。量でいえば海老原などの方が上かもしれないが、質でいうなら、帝北の泣虫のエースこそが最も優れた筋肉をしていると、高文は信じていた。 其が今、腕の内にある。 何とも息苦しい瞬間だった。 「大丈夫だ渚」 「やだぁっ、先生も…も僕をバカだって…怒る…し…うっぐ…しゃべるの…へただと…たたかれる…」 「俺は叩かないし、福原コーチもだろう?此処には他に誰も居ない…なっ…」 「うん…」 脇腹から背に手が這って、ぎゅうと締め付ける。御守役の少年は肺を圧され、いかつい顎を引いて、相手の肩に乗せると、瞼を閉じて懸命に耐えた。駄目だ駄目だ。海老原と、羽深がすぐ向うにいるんだぞ。洒落にならない。 「お前は、俺達のエースだ…渚…頼りにしてるんだ…」 「うん…」 「バスケは好きだろう?」 「ま、前の学校でも…バスケの先生は叩かなかった…」 「っそうか…」 「う、うん」 赤く腫らした目尻が安堵の笑みに崩れる瞬間、ぐらり、と色々なものが武村高文の頭から転げ落ちた。キス、キスとか、キスとかは、絶対女の子としようと決めていた。全寮制で女に縁がないと兄から嘲られても、男に走るような阿呆な真似はするまいと。 特に渚が転入してからは気をつけていた、のだが。 唇を塞ぐと、甘い味がした。確か、更衣室で飴玉を頬張っていたのか。注意したら、止めたように見えたのに、シャワーを浴びながら意地汚く舐めていたのか。嫌、そうではなくて。そういう問題ではなくて。 「んむっ…」 もがく。本気で暴れられたら抑え込むのは不可能だ。だから、先手を打たねばならない。指で陽茎を摘んで、能う限りそっと快楽を送り込む。背に回した腕を、脊椎に沿って滑り降ろし、柔らかな尻朶を割り裂いて、固く閉じた蕾に触れる。 渚は激しく仰け反ったが、抵抗の徴候は霧散した。初めて味わう感覚に、混乱しているのだ。いや高文だって他人にするのは初めてなのだが。とにかく、男同士も男女と余り違わない筈だ。杉森が貸してくれた本には、兎に角慎重に、丁寧に、最後の緊張が解けるまで触り続けろと書いてあった。 「ふぁっ…たかふ…むぅっ!?」 声を出すな。更衣室の二人に気付かれる。だが言葉にして告げれば逆効果だし、口にするだけの度胸もなかった。校則とか法律とか様々な禁忌を破り捲っている自覚位はあったし、既に充分後ろめたかったので、しつこく接吻を繰り返して口封じをする。 何だったか。舌を、舌を絡ませる。絡ませるといって舌など短いのに、どうすればいいんだ。 指が、菊座を少しづつほぐすにつれ、逆に前の器官は固くなる。相手を興奮させられたと知って、高文は少し気が楽になった。罪悪感も薄らぐ。卑怯なのには変りないが。 「ふっ…んっ…」 渚の脚が腰に回る。腕を挟まれそうになって、慌てて引き抜くと、肉棒の先端同士が擦れた。濡れた液が当たり、思わず唇を離してしまう。 「た、高文…こ、これ…」 「…くっ…なっ…」 「あ、あぅ、あ、もっと…もっとして…」 ぶつん。 と、はっきり耳の奥で何かが切れる音がした。どうやら、今の今まで理性の片鱗が残っていたようだ。だがそれも失って初めて悟る類の代物だった。 一年以上も押し殺していた衝動が、僅か二呼吸で百倍にも膨らみ、爆発する。狂奔に任せ、指を肛孔に捻じ込み、粘膜を押し広げる。狭い。駄目だ。残る手で床を探り、石鹸を掴むと、指先をシャボンで濡らして、宛がう。冷たく滑った異物感に双臀を痙攣させ、あどけない顔が嫌々をする。しかし、この場で想いを遂げるなら外に道はない。。 「大人しくしてろ」 居丈高に命じてから、高文は死にたくなる。我ながら何をほざいてるのか理解に苦しむ。しかし尚も指を動かすのは止めない。しつこく掻き回すうち、括約筋は広がって、食い締めを緩め、二本まで受け入れるようになった。淫らな行為をされているのは解るのか、茹蛸のようになった顔が、浅く息をしながら、涙に濡れる。首筋を打つシャワーが針のように痛い。湯音が耳元に篭る。 ぐいと奥で捻ると、渚の腰が浮く。 「も、もぅいい…いい…」 「駄目だ」 此処まで来て、もういい、は許さない。いつも甘えられて来たんだ。偶には此方の都合に従ってもらうぞ。直腸を抉るように幾度も指を捻ると、度毎に飛沫を撥ねかして上半身がくねり、薄桃の乳首が天を衝く。高文は欲望の赴くままに歯を立て、澄んだ嬌声を引き出した。 「た、タカフミィっ!ひっ、ひぁっ…」 耐え切れず渚の分身が精を放つ。だが高文にとっては、終りは程遠い。左右の石榴を交互に食み、弱々しい震えしか示さなくなるまで、こなれ始めた秘部を玩弄する。やがて、渚の大きな掌が高文の剛い髪を抑え、授乳を許す母のように、胸への責めを受け入れた。 「はっ、はっ、はっ」 試しに指を増やすと、また胴が弓なりになって、歯列に咥えたままの乳首が引っ張られる。 「ぃぎぃっ!ぃふぅっ…ふぃっ…やっ、やだぁっ、もっ…うぐっ」 後どれだけ我慢すれば解放されるのか。そういう声だった。官能の痺れも限界を越えると、幼い心には単なる拷問になる。高文も同じだった。腰で張り詰める欲望はお預けをさせられたまま、破裂しそうに昂ぶっている。 「渚、脚を、脚を緩めろ」 終了の合図と勘違いをして、引き締まった両脚が開かれ、M字を描く。鷲のような鋭い容貌が紅蓮に染まり、指を後孔から抜くと、代って下半身を前に進め、強引に剛直を突き上げた。 「ひぃああああっ!?」 裏切られた衝撃に、舌を突き出して叫ぶ渚。高文は括約筋の狭さに呻きながら、少しでも入り口を広げようと左肢を掴んで擡げ、右肢を残した姿勢で腰を揺すり上げた。一本脚で立たされ、自重で肉の凶器を飲み込まされながら、少年は陵辱者の首に腕を絡め、逃げたい筈の相手に益々しがみ付かねばならなかった。 「やぅっ、やんっ、はぅっ!ぐっんっ!うぐぅっ!」 十五歳の誕生日を、異常な形で迎える渚。未知の感覚の連続に脳は灼きつき、熱の奔流が腹腔を満たし、腰が砕けそうになる。世間ずれしていない彼からすれば、ずっと信じて来た友達が、怪物に変ってしまったかのようだった。 精も根も尽き果て、悲鳴も枯れた頃、濃く粘った白濁液が臓腑の奥に流し込まれる。ずるりと勢いを失った陰茎が抜かれると、尻朶はぺたんと床に落ち、僅かに血の混じった中身が溢れ出で、排水溝に流れ込んでいった。渚が茫然としていると、高文が脇に両腕を入れて抱き上げた。力無く肩に顎を載せてもたれていると、またしても指が菊座に入ろうとする。 「やっ!」 「バッ…洗うだけだっ」 「ぃっ!?…っぐ…んっ…ふんっ…」 だったら、されるがままになるしかないと、四肢があっけなく弛緩する。排泄孔には石鹸が沁み、お湯が注がれると矢張りか細い哭き声が出る。高文は念入りに後始末を済ませた跡、渚を抱いたまま壁に押し付け、胸元に口付けし、鬱血した胸飾りを舐った。 「はぅっ…はぁっ…ぅっん…きゅぅっ…」 「…歩けるか…」 「んっ…」 視線を合わせないまま頷く。 栓を締めると、肩を支えたままシャワー室を転げ出、急ぎ着替えを済ませる。もう羽深や海老原の姿はなかった。先に戻ったのだろう。高文は同級生の頭を拭き、万歳をさせて身体の水滴をとると、シャツとパンツ、ズボンを穿くのを手伝って、じっと仕上りを点検した。特に、変な所はない。泣き腫らした跡だけは目立つが、渚が泣虫なのはいつもの話なのでこれは誤魔化せる。 「渚…俺は…その…」 「タカフミ…」 やっと双眸が此方を捉える。大粒の瞳の、深い深い色を覗き込む内、涙の乾いた睫に再び澄んだ雫が溜まり、虹彩が揺らいだ。高文が何か弁じようとするより早く、さっと柏葉のような掌が彼の頬を張った。 相手が少女だったら、悲恋なりに絵になるシーンだったかもしれない。だが現実に組み敷いたのは、腕力で高校生におさおさ引けを取らない帝北バスケ部エースだ。平手は、フォワードを切りきり舞いさせて壁際まで弾いた。 「タカフミなんか、だい、だい、だい、だいっきらい!」 両の瞼をぎゅっと閉じて、そう叫ぶと、渚は持ち前の俊足を発揮して、外の廊下へ走り去っていった。靴も履かずに。残された少年は、火花の乱れ散る世界に、頭を振りながら、辛うじて身を起すと、くしゃみをして、絶望と後悔が齎す寒気に打ち震えた。 「くそっ…あのバカ、歯が…ぐらぐらする…」 「はい、誕生日おめでとう小野寺」 「わぁ、こ、コーチありがとう。ね、ねぇ大太郎君、似合う、かなぁ?」 焦茶と濃紺のストライプのネクタイを、犬のリードのように振って、見せびらかす渚に、海老原は苦笑しつつ頷いた。羽深はベンチに腰掛け、デジカメを構えたまま、にこやかに頼んだ。 「こっち向いて渚、福原先生も、もうちょっと寄って」 「いいわよ、私は」 「そんなのりの悪いこと言わないでください。渚、お礼にキスくらいしてあげなよ」 「う、うん」 「おい渚」 絹を裂くような悲鳴と、デジカメの擬似シャッター音が重なる。 トレーニングルームの隅で膝を抱えていた高文と達也は、思わず腰を浮かしかけたが、頭に瘤を作って蹲る渚と、握り拳で肩を怒らせた福原先生の姿を認めると、また元の位置へ戻った。 「…来年もこれが続くのか…割と辛いもんだね」 「達也がそう云うなんて珍しいな…」 「高文こそ、今日はやけに落ち込んでるけど」 「いや、別に…達也こそ、らしくないぞ」 「はは、まぁ、人生色々だよね」 羽深は、そっくり丸くなった幼馴染同士の背にフォーカスを合わせ、ぷっと吹き出した。 「お二人さん。折角渚の誕生日なんだし、もっと盛り上ろうよ。だろ?海老原」 「…うむ」 だが、元鷹鳥一中コンビの折角のフォローも、顧問とエースのにべもない返事に断ち切られる。 「放っておきなさい」 「そ、そうだよ…」 ますます暗くなる隅の影法師達。カメラの撮影ボタンを押しながら、羽深は言葉の接穂を探した。 「ああもう、僕等の中等部卒業まで、二ヶ月もないんだし。皆で春からも仲良く帝北へ行こう!ね?」 |
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