街角。 ああ。 あんた、あれか。あいつら捕まえに来たのか。警察か、そーゆー風じゃないな。ボランディアとか社会福祉士とか、そーゆーのだろ? 学校関係者? 止めな。最近はそういうの流行ってて、先生も箔つけたいのかもしれないけどね。ほっといた方がいいよ。大人キライだよ。あいつら。 それからグループとかね、作ってて危ないんだよ。西新宿のウィザーズとか、大久保のホーネッツとかね、ヤクザも絡んでるしね。ウィズとか合法ドラッグキメてるのが多いから、すぐ人刺すよ。ぐさって。 なに?どうしたの?NBA?アメリカのプロ・バスケット・リーグだろ?知ってるよ。 はぐれてるやつ?あー。そういうのも居るね。オレだってそうさ。御苑の側で毎晩寝る場所を変えてるのも、他の人から嫌われたせいだからな。寒いよ。ほんとに。 ああ知ってんのか。あいつね。まだ小学生だ。でかいね。いや、どうかな。中一?まー色々聞いてはいるよ。そうねー。代々木公園の方で、チンピラ三人、石で殴って半殺しにしたとかね。本当かどうか良く知らんけど。あったね。借り返す気も起きないほどぐしゃぐしゃだってね。 多分キれてるよ。ここが。 はぁ?あんたの学区?入学式に顔を出さなかったって?身長?知らないよそんなこと。いや、でかいよ。そうか悪いね兄さん。気を付けてな。洒落た帽子が、ペシャンコにならないようにな。 路地。 黎明。血臭の混じる大気が都心の裏通りを包んでいた。少年の姿持てる化物は、小さく欠伸して、軽く手首を動かし、眼前に散らばる敵の群れへ合図した。 「おら来いよ」 決着は、闇の中に居る内に、付ける方がいい。みなまで告げずとも伝わるし、誰が応じずとも、無数の荒らいだ呼吸が、兇暴な戦意が充分な答となっていた。 夜半の活況が過ぎ、客引きのネオン灯も消え、暁が訪れるまでほんの僅かの間、浅い睡みに沈む繁華街。饐えた吐瀉物と茶色く汚れたビニール袋で飾られた横丁では、塒を忘れた獣の群が、争闘の濁酒に酔いつ溺れ、狂った舞踏に興じていた。 薬に冒された絶叫が迸ると、スタンバトンが静電気の爆ぜ音と共に空を切り、模造煉瓦の壁へ当って火花を散らす。バタフライ・ナイフが膝めがけて切り込み、同時に、チェーンがしなって肩口を狙う。 鈍い肉の軋み。鼻の軟骨が拉げる音。眼窩が陥没し、歯が砕ける響き。半ば痛覚の麻痺したジャンキーが零す、くぐもった呻き。だがステンレスの刃は染み一つなく、チェーンは乾いたまま、ひび割れたコンクリートの路上に落ちる。 赤い生命の水を吸ったのは、スニーカーの靴底。長い四肢を持った影は、野兎のような素早さで跳び退り、全ての攻撃を躱すと、背後に建つブロック塀を蹴って跳躍し、最も側まで踏み込んでいた男の顔面に着地したのだ。四十キロを越える体重が加速の乗ったまま急所に圧し掛かり、脆い器官を潰すと、踵を捻って方向を変え、ひらりと地に降り立った。 「かかっ…」 仄暗がりに、狼の嗤いが浮かぶ。若く、いや幼く、情けを知らず、ただ狩りの歓びに耽る荒々しい嗤いが。仲間が倒れるのを見たちんぴら共は、僅かにたじろぐと、己の恐怖を押し潰すような、甲高い鬨を上げ、一斉に襲い掛かる。 「ろっそ、っらぁっ!!」 ぶっ殺すぞおらという、陳腐な台詞の音節を縮め、憎悪と共にたわめて、弾けさせる。捕食者の咆哮に等しく、獲物の動きを鈍らせる為の威嚇だ。少年は無言のまま冷笑を閃かせ、右に左にステップを踏むと、力任せに振るわれる得物の間を掻い潜って、鋭利な刃を手にした一人を撰び、脇腹に肘打ちする。 傍から眺めれば、軽くぶつかっただけのようだったが、固く握りしめられていた五本の指は、たちまち力無く柄を離し、興奮に火照っていた相貌は蒼褪め、両膝は震えながら跪いた。密やかな破壊。肋がへし折れるのを聞いたのは、哀れなナイフ使い本人と、嘲るように頬を歪めた、小さな怪物だけだった。 奇術のような一幕に気を呑まれ、先程より大きな不安の漣が、或いは恐怖と呼ぶべき感情のうねりとなって、群に広がる。 「ぢぃっ…」 けれど、若い狼の面差しに刷かれたのは、勝利の歓びではなく、激しい苛立ちの色だった。まるで、夢中で遊んでいる内に、友達が次々家へと帰ってしまい、たった独り取り残されたガキ大将のよう。年頃にふさわしい、不貞腐れた表情だった。 「つまんねぇんだよっ!!!てめぇらっ」 声変わりの始まった喉を震わせ、劈くように吠えると、大蜘蛛のような指を伸ばし、近くに立ち尽くす男の両こめかみを挟み込む。少年らしい二の腕は、いきなり細い鋼索を縒ったような筋肉で膨らむや、凄まじい怪力を発揮して、人体をまるごと掴み上げ、足元の瀝青へ投棄てた。 「ひっ…」 六つも七つも下の子供に、いまや彼等が抱いているのは怯えだけだった。少年は歯を食い縛って、脚を開き、凸凹した樹脂のソールを擦らせ、上半身を傾けると、拳で風を切って、避けるという行為さえ忘れたでくの坊の顎を真直ぐ捉えた。 「がぁっ」 甲へ触れる肉の感触。鼓膜を打つ惨めたらしい咽び。だが、胸の奥で沸々と滾る怒りは尚も治まるを知らず、肌に染み入る寒さに抗って四肢を動かし、内部の熱を掻き立てて、遁れ惑う獲物を狩り立てんと強いる。冷たいビルの外壁に、酷くひょろりとした影絵が踊った。 曙の初兆が射し込む頃、狼の痩躯は肩を上下させ、血塗れの拳を握り締めたまま、虚ろな双眸を東に向け、じっと立ち尽くしていた。しばらくの間、白い息が塊を作っては、灰青の空へと昇っていく。鴉の嗄れ声が朝の訪れを告げると、少年は暇潰しの役にも立たなかったちんぴらの背に唾を吐いて、ふらふらと何処かへ去っていった。 公園。 薄靄の中を盲歩きする内辿り付いついたのは、個人の住宅が相続税を厭うて都に寄付され、辛うじて遊具や砂場で体裁を整えただけの広場だった。どのような気紛れか、そこそこ面積のある空地にバスケット・ボール用のゴールが据えられている。一昔前の緑化政策とやらのせいか、せせこましく作られた躑躅と沈丁花の植え込みの向こうには、在りし日屋敷の庭であったよすがを忍ばせるが如く、銀杏の大樹が、黄緑の葉のついた枝を広げていた。 花壇を囲む煉瓦の切れ目には、申し訳ばかりの鉄柵がある。塗装の鮮やかさからして、さほど古いものでもなさそうだが、犬が小便をするためか、根元の一箇所がひどく錆びていた。 無論、少年は、辺りの様子に殆ど目を留めず、或いは視界に入る一切に何の関心も持たず、ただ必要なものだけを探した。隅に設けられた手洗い場を見つけると足を早め、返り血の飛んだデニム地に荒い衣擦れをさせながら側へ近付く。碌に櫛も通してない短髪を揺すり、頭を蛇口の下に突っ込むと、巨きな掌で栓を開いて、貪るように水を飲んだ。 「ぢぃっ…」 渇きを癒すと、唇を震わせて気を吐く。首を引き、立ち上がると、今度は腰掛けられる処を求めて視線を巡らす。黒く湿った砂場を挟んで公園の反対側に、所々青いペンキの禿げかかったベンチが横たわっていた。露に濡れ、座るのに余り気乗りはしないが、とても贅沢は云えない。身体は休憩を欲していた。 其方へ向かおうとした矢先、背後で、ダンと、耳慣れない音がした。振り返った途端、胸元に褐色の塊が飛び込んでくる。反射的に右の掌で掴み取ると、道の方から、感心したような口笛が響いた。 「安藤正人」 名の響きを愉しむような、ゆったりした呼びかけ。少年の眉に皺が寄って、顎の筋肉が強張る。だが唇は噤まれたままだ。 鉄柵を越えてすぐの所に、酷く丈の高い男が立っている。黒いテンガロンハット、革の上着。革のズボン。何のコスプレだかしらないが、いかれた格好だった。鍔の奥から覗く瞳が、相手の顔から、返事を読み取ったように煌くと、手が柵にかかり、長身はひらりと宙を舞う。 園内の土を踏んだブーツは、砂利を軋ませて、つかつかとスニーカーの方へ近付く。互いの息が聞こえる程距離を詰めると、男は帽子を上げて、静かに相手を見下ろした。バイクの品定めでもするような、無遠慮な目付きに、安藤と名指された少年は怒りの発作に襲われる。 「…んだてめぇ…」 「里見一。鷹鳥一中バス…」 言い終えるより早く、スニーカーの爪先が、革ズボンの向う脛を狙って蹴りつけた。だが機先を制してブーツの爪先がジーンズの裾、踝辺りをつつき、攻撃を止める。予想外の痛みに呼吸を止めて、安藤はぎっと里見をねめつけた。 「案外のろくさい奴だな」 青年はにこりともせず呟くと、いきなり手を伸ばしてボールを奪い取る。瞬きする内の神業で、してやられたと悟った時にはまだ、指にはまだざらついた感触が残っていた。むかつく。 「殺すぞ」 「ああ、やってみろよ」 答え代りに、小さな怪物は無表情に拳を振るい、きざったらしい髭の生えた顎を殴りつけようとした。刹那、脹脛の内側に痺れを感じ、天地が逆転する。肩甲骨に石粒が食い込み、背骨に不快な振動が伝わって、やっと足払いを掛けられたと分った。 「ざっ…」 頬のすれすれに何か丸いものが落ち、また昇っていく。視線を上げると、里見が鞠つきしながら、皮肉っぽい嗤いを浮かべて見降ろしていた。 「今の、本気か?」 なんだこいつは。 「っろすっ」 跳ね起きようとして額にドリブルをぶつけられ、また地面へと叩きつけられる。 「でかいだけか?俺がお前からボールを取った時、ぼおっと眺めてたな」 ぽんと再び胸元へパスが放られた。怒りに任せて払いのけようとする寸前、男はさっとまたボールを掴みとって引き戻すと、両掌の間でいったりきたりさせながら、しゃがみ、此方を覗き込んでくる。 「…ほら…今みたいにな」 ぶつんと頭の奥で糸が切れる。少年は、突き出された鼻先へ拳を振るい、相手が慌てて退くのと同時に跳ね起きた。また額をボールに打たれるが、今度はよろめきはすれ倒れない。 「てめぇの玩具はそれかよ…」 警棒、ナイフ、ボウガン、チェーン、ブラックジャック。何だって同じだ。 腰を低くし、蹴り足を下げて、突進する。左右、どちらかに避けても、肘で脇を抉ってやる。 だがテンガロンハットの青年は、動かないまま、おかしな球を一際強く弾ませ、地を這うように低く飛ばした。少年は顎を撲たれ、目から火花を飛び散らせ、バランスを失ってたたらを踏む安藤を脇目に、里見は丸みを帯びた合成皮革の面を掴み直すと、くるりと向きを変え、ゴールへシュートを決めた。バックボードの揺れる音に快さそうに耳を澄ませてから、頭を巡らして、ぶざまな敵へと語りかける。 「楽しい玩具だろ?」 「…はっ…それなしでやれんのか…」 「お前相手に奪られる心配はないな」 「っぜぇ!!」 蹴りや拳を、風に舞う木葉のような身ごなしでいなしながら、いつのまにかフープの真下に退き、転がったボールを掬い上げ、また”武装”した。 安藤は立ち止まると、じっと奇怪な得物の動きを目で追った。 「怖いか?」 「…」 やる気が失せたというように踵を返し、去ろうとする。 「…逃げる時もかっこつけるのか安藤」 嘲りと共に後頭部を襲ったボールを、少年は迅雷の速さで掴み取り、骨をも砕けよとばかり投げ返した。普通バスケットのボールは、力任せに放っても、たいした勢いにならない。だが男は、受けた掌から伝わった衝撃の強さに、思わず震えそうになった。案山子みたいな体格のどこに、羚鹿のようなバネが隠されているのか。 「ナイスパス」 何とか口調に余裕を残したまま、からかうように指で帽子の鍔を上げる。 「調子に乗んな…」 狼の双眸にひときわ昏い火が点る。挑戦に応え、再び獲物に向かって駆け出した姿は、最前とは異なり、疲労や眠気の影響を、微塵も感じさせなかった。 里見は背筋を疾る寒気に、我知らず口元を綻ばせる。期待以上だ。 少年は急激に変化していた。敵の所作を模倣し、無駄を省き、まるで実像に対する鏡像のように、ぴったりと張り付いて、しつこく食い下がる。次第に、隙を生みやすい直接的な攻撃の数は減り、純粋にボールだけを狙って、四肢はより素早く動き、黒い旋風と化した。 やがて男の方も、わざとドリブルをぶつけるような悪ふざけは控えざるを得なくなる。相手の機敏さは秒刻みで増していき、荒削りだが、絶え間ないスティールを外して、ボールをキープし続けるという行為そのものが、かなり難しい段階に達しつつあった。ほんの僅かな油断さえ、命取りになりかねない。 汗みずくとなって踊る内、辺りは徐々に明るい日の光に満たされ、終に通りの角から自転車の走りが聴こえた。安藤の渦巻く両瞳が、ふと焦点を失い、かたえへ逸らされる。里見が、ついそちらに視線を泳がせた刹那、正面に居たはずの少年の姿は、ボールと共に消え失せた。 フェイク。 慌てて注意を戻すと、若い狼はいつのまにかニ、三歩距離を空けて、分厚い唇を三日月に歪ませながら、中々様になるドリブルをしている。息を殺して窺っていると、釣りあがった口元が更に広がり、長い腕がいきなり横へ振られ、球を砂場の方へ放り捨てた。 両者はしばらくぎこちない笑みを浮かべたまま、見詰め合った。テンガロンハットの男が、ブーツを軋ませ、徐々に横へいざらせていく。あわせて、大柄な少年も肢から肢へ体重を移した。 革ジャンの裾が翻り、長身は稲妻の如くボールへと走る。ようやく剥ぎ取った武器を取り戻されまいと、ジーンズにセーターを纏った痩躯が後を追う。競り合いの挙句、何とか年嵩の貫禄で得物を掴んだ青年は、やけくそになって掴み掛かる相手に足払いを掛け、砂場に埋めた。黒い衿に隠された喉が、荒い息と共に、台詞を吐き出す。 「…悪いが時間だ」 湿った土を吐きながら、安藤が唸る。 「逃げる時もかっこつけんのか、おっさん」 「バスケ部の練習があるからな」 青年は、ひらひらと掌を振って応える。汚れた相貌は、意味を判じかねて引き攣った。 「…あ゛っ?」 「いっただろ。俺は鷹鳥一中のバスケ部監督でな」 「……うぜぇ…」 「じゃあな」 あっさり別れの挨拶をして、帰途に就こうとする敵に、少年は歯を食い縛って声を掛ける。 「逃げんなつってんだろうが」 「夜はもう終わりだ」 男は肩を竦めただけで、そう切って捨てる。 「…っ。関係ねぇ…殺す!」 「放課後、学校の体育館に居る」 「ざけんなっ」 「ああ、お前登校拒否か?悪かったな」 薄く笑って振向いた里見の目は、真底楽しそうだった。 「それなら帰って布団被ってテレビでも観てるんだな。安心しろ。お前の家まで行ったりしないさ」 すたすたと遠ざかっていくジャケットの背に、安藤は黙したまま、屈辱と憤怒と、未だ嘗て抱いた覚えの無い、おかしな感情の入り混じった眼差しを注いでいた。 学校。 好きじゃない。授業も先公も、クラスのうざいバカも。だからといって箱の外のほうがましともいえないが。兎に角無闇とめんどくさいことが多すぎる。 とはいえ、やり方さえ心得ていれば、街と同じ遊びができなくもない。 長身の少年は、悪趣味なピンクで塗られた女子トイレの壁に凭れ、窓の向こう、真昼の住宅地へ視線を遊ばせていた。眺めは悪くない。此処は校舎の最上階、家庭科室の隣、非常階段隅にある、いわゆるそういう場所だ。男子トイレだったら間違いなくヤニがぷんぷんしてるだろう。芳香剤のほかは、匂いがあまり気にならないのは、女子は煙草の吸い方が上品なのか、よほど掃除のおばさんが熱心なのか。考えたところで異性の事情までは分らないけれど。 「あの…あたし…教室移動だから…」 「すんません先輩、もうちょっと待って」 己の肩を抱いて縮こまる、三年生の少女に、仲間がへらへらと笑いかける。気楽そうに構えているが、巧に出入口を遮るように立ち、遁れさせるつもりは些かもない。 「あんた達、こんなことして、見付かったら…退学だから」 「あーオッケーオッケー。大丈夫ー。その辺ばっちりっすから」 実際には、何がばっちりなのか、本人達も判然としないまま、唯リーダーに従っているだけなのだが。安藤は阿呆らしいほど穏かな四月の空から、室内に注意を戻し、唇を鳴らした。何気ない癖の中に隠された不機嫌のしるしを、良く承知している同級生の独り、眼鏡の少年が、そわそわと戸口に一瞥を呉れてから、独り言のように呟いた。 「ねぇ。来ないんじゃない」 別の男子が首を傾げて、すと脅え切った上級生を睨む。 「ちゃーんと、呼び出したっ?」 「した。したよ」 咳込むようにして答える少女。良く手入れされた睫は涙で崩れそうになっている。 「そかー。おかしいなぁ」 三番目の少年がだるそうに呟いて、安藤の方を窺う。リーダーの返事は、無い。つまり、黙って待て。もう昼休みの半分が終わろうとしていた。じりじりと時間が過ぎていく。やがて廊下から、上履きが床を擦るかすかな気配が伝わる。やがてキュっと立ち止まる音が響いてから、肌を濃く焼いた少女が、緊張した面持ちで入って来た。 「ちょっとー、何ー?こんな…」 下級生の男子がぞろっと四人、知り合いを囲んでいるのを認めて、愕然と立ち尽くす。眼鏡の少年は即座に後ろへ回って、掃除中と掛かれた柵をトイレの前に置く。 「行けよ」 安藤が、年に似合わぬ落ち着いた声で告げると、最初の少女は逃げるように出て行った。セーラー服の背に、ちくるなよ、と、笑い混じりの念押しが届く。 「ちょっ…」 罠に嵌められたのを悟って、浅黒い肌の三年生は、友人を呼び止めようとした。だが、長身の一年が近づいてくるのを見ると、表情を引き攣らせ、後の語句を切る。 「やっ…」 「でかい声出すなよ。ウリのことバラすぞ」 脇から、いかにも慣れない感じの、不良ぶった台詞がかけられる。安藤は口を噤んだまま、華奢な肩を押して、個室に入れと促した。催眠術にでも罹ったように、少女は大人しく従い、壁と同じ不気味なピンク色の扉を開けた。 息を呑む音。 個室の内側は、べったりステッカーに覆い尽くされていた。WIZARDSと七つのアルファベットを組み合わせた意匠が、寿命の近い蛍光灯の瞬きにあわせて鈍い輝きを放つ。 柏葉のような掌が、軽く脱色した髪の毛を掴み、薄く化粧ののった顔を洋便器に押し付けた。 「ひっ…」 「あんただろ。これウったの」 黄色い錠剤の入った硝子ビン瓶が、戦慄く三年生の頬に押し付けられる。ラベルはありふれたビタミン剤のものだが、中味を見た少女は、明らかに顔色を変えた。 「知らな…」 「遅ぇよ」 短い宣告を、後ろから眼鏡の少年と思しき上擦った声が補う。 「さっきのヒトー、あんたから買ったっていってましたよ。そんで写真と留守電とったから」 携帯が音質のひどい証言を再生した。蓋が捻られ、錠剤が便器に溜まった水に落ちて、溶けていく。少年の手が、更に強く上級生の後頭部を抑え、鼻先を便器の中へ押し込んだ。 「飲んで見るか?気持ち良くなれるだろ?」 「やめて、やめて下さいっ」 少女は真青になりながら、ほんの数ヶ月前まで小学生だった相手に懇願した。 「あたし…だけじゃないから…あたし…あんた達殺されるよ。ウィズの上のヒトに」 それは本人にとって、咄嗟に出た危険を斥けるための魔法の呪文、だったのだろう。だが結果はあまり芳しくなかった。嘲るような口笛と共に、ぐいと首を起され、壁と向き合わさる。年若い尋問者は、虜囚の耳元に掛かった細髪を掻き揚げると、掠れた囁きを吹き込む。 「良く見ろ」 ステッカーには、血がついていた。チーマーから、金を払って買ったものじゃない。力で奪い取ったものだ。 「…うそ…なんで…」 「売ったろ?」 「…ひっ…あ…たしだけじゃないし…どこの中学でもやってんの…」 「ウチは、今日からなしにしろよ…」 「む…むり…」 言葉で拒むより早く、再び便器に押し付けられる。 「…便器に顔突っ込んでラリってるとこ…先公に見付かりてぇの?」 「や、やめて…お願いやめて痛い…あんた一年でしょ?まじこんなことしたらあたしの彼氏とか…」 背後の方でくすっと笑いが漏れた。 「安藤くんのことしんねぇの?」 少女の瞳が見開かれる。 「安藤って…」 「うぜぇ」 クスリの溶けた水面に、氷のような双眸が映った、気がした。セーラー服の背はじっとりと汗ばみ、ブラジャーが透け始める。圧し掛かる少年は、異性を虐げる行為に、欠片ほども良心の呵責を覚えては居ないようだった。 「…これ買ったバカ、ビビってネコに試した。ミルクに混ぜて、何匹も飲ませた。またやったら、あんたも、カレシも、ほかのバカも、全員便器に頭突っ込むからな」 「だから…あたしだけじゃ」 「分ったか?」 「…分った…」 栓が引かれ、水が渦を巻いて消えて行く。トイレットペーパー置きの上に、空になった硝子瓶が載せられ、陽気な笑いと共に、足音は重なりあい遠ざかっていった。 「ステッカー剥がすのに、カレシ呼んだ方がいいっすよ先輩ー。どれかがカレシのだしー」 眼鏡の少年の、さして出来のよくない皮肉に、ぎゃははと仲間が湧く。気配が完全に消えても、少女は瘧に罹ったように震えたまま、いつまでも、いつまでも、便器の中を睨んでいた。 渡り廊下。 「バスケ部に知ってる奴居ねぇか?」 放課後、何事も無かったかのように集まったメンバーに、安藤はそう尋ねた。 「あーわかんない。うちの小学校から誰が行ってたっけ」 「石倉とかいってない?」 「あ、行ってるかも」 丈高い少年は、ぼんやり情報に耳を傾けながら、遅咲きの桜の花が散る、黄緑色の屋根の下を歩いていた。何のつもりか、いつもは鞄さえ持って来ないというのに、体育館履きを脇に挟んでいる。 「何で?」 「…どっかとつるんでんのとかは…」 「バスケ部マジメらしーよ」 獅子鼻の少年が首を振って否定する。少し髪の色を抜いたもう一人が、勢い込んで相槌を打った。 「顧問ウガイだろ?やっべー、ぎゃはは」 眼鏡が、声を潜めて応じる。 「それより監督ってのがすげぇ厳しいらしい」 するとまた獅子鼻が、訳知り顔で続きを引き取った。 「ああそうそう里見?とかいうの今週部員募集とかあるじゃん。うちの姉ちゃんがいってたけど、そしたらやばいらしい」 「それとさーなんか親戚に小学校で全国優勝したのが居るって」 「うそ、小学校で全国とかあるの?」 面白く無さそうに首を振って、安藤は立ち止まり、しばし宙を睨んでから、振り返る。 「わりぃ、先に帰ってくれ」 仲間は急にふてくされた顔になって、互いを見、一斉に前へ直って、囀り始めた。 「またかよー」 「…」 リーダーにむっつり黙り込まれると、詰問攻勢も形無しで、三人は仕方なしにあさっての方を向くと、んじゃ、とか、あーあ、とか、ぶつくさ文句を垂れながら、駆け足で去っていった。 お荷物のいなくなった少年は、肩を回すと、小走りに体育館を目指した。もしかしたら自分は、仲間に、心臓の高鳴りを聞かれたくなかったのかもしれないと、おかしなことを考えながら。 体育館。 喧騒が高い天井に谺する。テンガロンハットの青年は、下駄箱に寄りかかって、床の軋みにあわせて拍子をとりながら、何かを待ち構える風だった。脇にはスポルディングのバッグが置かれている。 少年は帽子の鍔を凝視しながら、迷う素振りなく傍らへ歩み寄り、声を掛けた。 「逃げてねーな」 「お前もな」 髭が動く。笑いを浮かべているのが分る。安藤は、かっと顔が火照るのを感じた。珍しい体験だった。小馬鹿にされるというのは。 「ここでやんのか?」 「中でやる気だったんだろ」 里見が、足元へ顎をしゃくってみせた。体育館履きに履き替えた、二十七センチの大足が、板敷きを踏んでいる。苛立ちが喉を震わせ、舌を縺れさせ、漸く形作った答えを不要なまでに刺々しくした。 「…どこでもいいぜ。今日は玩具なしか」 「中にある…その格好でやる気か?」 「悪ぃかよ」 「それじゃ勝てないな」 「あ゛ぁっ!??」 早くも喧嘩腰になる生徒へ、派手な身なりをした監督はバッグを投げ付ける。 「着替えろ。お前のウェアだ」 ジッパーを空け、薄っぺらいタンクトップと半ズボンが入っているのを確認すると、少年は全てを床へ放り捨てた。 「っざけんな。球遊びやりにきたんじゃねー」 「…勝てないからか?」 唇が乾く。頭蓋の中で焔が逆巻き、髪の毛の先まで焦げ付きそうな錯覚が襲う。つまらない挑発。乗ってやる気はなかった。 「それが?」 「別に。制服でやったら万に一つの勝ち目もないからな。体育館履きに履き替えるだけの頭があれば分ると思っただけだ」 「そっちの格好はどうなんだよ」 「もう着替えてる」 真直ぐ立てた親指が奥を差す。春休み前にワックスを刷き直したばかりで、ピカピカした木目床の上に、揃って軽装の部員が散らばり、ストレッチをしながら、奇声を発したり、姦しいお喋りに興じている。安藤は、しかし、里見が示した一人をはっきり見分けた。 女子みたいな顔付きの、余り背の高くない、細っこい、多分同学年。周りに集まった人数の多さからして一年のリーダーという所だろう。とめどなく交される他愛ない冗談に、屈託無く笑っては、いちいち頷いている。 里見に良く似ていた。 「何のつもりだ」 「俺の代役だ」 「てめぇは…」 脳の芯が灼けつきそうになる。舐めるな。昨夜のお前と俺にそこまで差があったか。あわせた顎の間から漏れそうになる唸りを、深呼吸に変えて、肺腑へ戻す。 「てめぇの子供ぶっ壊されてもいいってのか」 青年は初めて顔を上げ、傷ついたような色を浮かべた。 「弟だ。いっとくが俺はそんな年じゃないぞ」 「んなことどうでもいいんだよ。あんな女みたいの潰しても、治まんねーから…」 「アイツは俺より上手…強い」 神聖な秘密を知る者の、自らにだけ通じる諧謔。少年は表情を固くすると、肩の辺りに殺意を漲らせながら、屈み込んでウェアを拾い集めた。 「…いかれてんのか」 「お前ほどじゃない」 「…弟壊してぇなら、回りくどいやり方してんじゃねーよ。夜の街うろうろしたりよ」 はっと身を強張らせる里見に、安藤は大人びた嗤いを返す。 「いいぜ。あいつを潰したら、次はてめぇだ。その後バスケ部全員ぶっ壊してやる」 「…お前が勝ったら好きにしろ」 「バスケはしねーからな」 「ああ、殴ろうが蹴ろうがご自由に。ただし」 テンガロンハットの鍔が、ゆっくりと下ろされる。明るい蛍光灯の照射に照らされたコートでは、顧問らしき眼鏡の若者が、良く通る声で号令を掛け、新入生を整列させようとしていた。鬱陶しい体育会系のノリだ。 「ぢぃっ…負けたらバスケやれってんだろ」 「あいつを壊せるようになるまで、俺の言う事を聞け。まともな足と腕の使い方も、教えてやるよ。お前を使える”壊し屋”に育ててやる」 少年は、微笑を絶やさぬまま、肩をすくめた。 それが始まりだった。 |
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