秘密のお茶会

 「結局お前、帝北来んの?」

 そういって、大嫌いな奴が笑ったから、少年は左右に首を振ったのだ。

 「行かねえよ別に。兄ちゃんだけだし。へっ、バカだよな、寮とか入ったらテレビとか見られないし、ゲームとかもできないのによ!?」

 余裕綽々で切り返したつもりだったのに、出て来たのは、ひどく擦れた金切り声。あいつは、くっと喉に詰ったような咳をしてから、拳で口元を抑えた。

 「ああ…まぁ良かったよな、お前が寮に入ったらイジメられそうだし…流石にそこまで面倒見られないからさ」

 「はぁ!?ならねぇよ!…ふっざけんな!兄ちゃんなんか、兄ちゃんなんか…」

 「…あー、何泣いてんの、もしかしてサミシー訳?はっ、解ったから、もうあっちいってろって。忙しいんだよ、俺も」

 神経を逆撫でする年上ぶった喋り方。鬱陶しげな色と、面白がっているようを色を、ないまぜに踊らせる瞳。決して真直ぐ弟を見ようとしない、二つ年の離れた兄。

 いつも先回りをして、何もかも奪ってしまう卑怯な敵。だから、居なくなると聞いて清々したと、そう言いに来た筈なのに。

 「…いつまでもメソメソしてないでよ…ねぇ。そこに居られるとうざいんだけど」

 興奮のあまり舌を縺れさせ、口を噤んだまま俯く彼の長身を、兄は肘で邪険に押し退け、部屋から去っていった。振り返りさえしなかった。

 たった二ヶ月前のことだった。










 「っていうか成二はブラコンなんだよ」

 青空へ向かってシュートフォームをとりながら、D組24番の矢崎は宣告した。

 「…うん、俺らにまで兄ちゃん兄ちゃん言われてもショウジキうざいかな」

 試験前とあって、鉄柵に寄りかかってノートを見直していたD組3番の植木が、顔を上げずに相槌を打つ。その隣に並んで、柵の上にお尻を乗せたD組14番の鳴海は、今更、と欠伸を漏らすと、北の空低い所で起こりつつある雨雲へ掌を翳し、目を眇めた。

 「なんか羽深ってホモっぽいしね」

 C組17番にして、新入生組では唯一のスタメンである羽深成二は、部活仲間の流れるような会話にたじろぎ、少しの間口をぱくつかせてから、声を張り上げて反論した。

 「違うって!何言ってんだよ。俺はただ、準決勝でぶつかる敵がどんなにひどい野郎かを…」

 「そんなのホケツのボクラには関係ないよ」

 「そうそう」

 頭を寄せ合って、ノートを覗き込みながら植木と鳴海が揃って頷く。がん、とフープの縁を弾いて矢崎のシュートが反れ、植え込みに入って、青々とした紫陽花の叢を揺すらせる。

 眼鏡の一年生は軽く肩を落すと、公園を外側を仕切る煉瓦の囲いへ飛び乗り、枝を掻き分け、小さなかたつむりを避けながら、腕と頭を奥へと突っ込んだ。

 「だいたいさぁ…成二は身長あるし…んしょ…部長のお気に入りだからいいけどー。僕等なんか…っと…ずっと走ってばっかだよー。自主練したくても先輩達がコート使っちゃうしさー」

 成二の歯が食い縛られる。身長か。バスケが下手でも、身長があれば使ってもらえる。特にセンターなら、技術や体力は後からついてくるから。だったっけ。

 "先物買いっていうんだよ。帝北行けばゴロゴロしてるんじゃない。身長だけの奴"

 「別に…俺だって成りたくてセンターになったんじゃ…」

 「それがゼータクなんだよー」

 やっとボールを見つけた矢崎は、表面についた黒土を払うと、くるりと向き直り、大柄な友人に歩み寄った。同い年の気安さで、無警戒に近付くと、目線の高さにある第二ボタンの辺りに、抱いていたものを押し付けた。

 「ほい、投げてみて」

 「…ん…」

 促されるまま取って、ゴールに向かって放る。スポッと音がして、汚れたネットから埃が散り、砂利だらけの地面に一度、二度と、球が弾む。

 「さすがミニバス経験者」

 「よっ、スタメン」

 柵の傍らの二人が冷やかす。といっても鼻面は、相変らずテスト内容をまとめた紙面に埋めんばかり。恐らく音だけを聞いて、シュートが決まったことを察したのだろう。かなり気の無い観客である。益々むすっとした表情になる成二を置いて、矢崎はまた律儀にボールを拾いに行くと、軽くドリブルしながら、戻って来た。

 「恵まれてんだからさー、成二は。色々言ってるけど、勉強とかも結構兄貴に見てもらってたでしょ」

 「んだよ、楽してんじゃん。俺ん家なんて独りっ子だったから、六年間ずーっと誰にも教えて貰えなかったしさ…あ、鳴海ここ分母の25って割んなくていーの?」

 「もう割ってあるっしょほら…てか、ホモのくせにオンナもいるしなー羽深は…」

 「そうそう、こいつカノジョつきだしなー。まじゼータクもんだよ」

 唐突に穏かでない揶揄をされ、成二は真赤になった。中学一年生でカノジョがどうたらというのは、大抵の場合、フケツな趣味の持主という程度の非難でしかない。

 「成二はひまちゃんと昔から仲良いもんねー」

 デリカシーの欠片もなく、その背にフケツな男という烙印を捺す友人。体格だけは高校生並だが、まだ十ニ歳の心には、殆ど拷問に近い集中攻撃だった。

 「カンケー無えよひまわりは!何なんだよさっきから。なんで俺ばっか言うんだよ」

 「呼び捨てだしな」

 「ヒュー、アツアツー」

 「ぅうっ…せーよ!」

 睫の端に大粒の雫が溜まる。あ、逆ギレだ、と漸く植木、鳴海、矢崎の三人が一斉に成二の顔を見上げる。其処まで注目されては、却って涙を堪えるしかない。他の子供達が、さぁ泣くぞ、泣くぞと、ダムの決壊を待つような気持で見守る中、鷹鳥一中バスケ部期待の新人はよろよろっと後退りをして、いきなりブランコの支柱に項をぶつけた。

 「痛っー!!」

 しゃがみ込む成二。涙を我慢しなくて済む公明正大な理由ができた訳だ。植木と鳴海はまたつまらなそうにノートへ視線を戻す。矢崎は大丈夫か、とぎこちなく肩を叩いて、形ばかりの慰めを示した。

 「うう…」

 だからバスケ部なんて入るんじゃなかった。こいつら、先輩の前では大人しくしてる癖に、学年が変らないと途端に意地悪くなる。

 "お前が寮に入ったらイジメられそうだし"

 「関係ねーよ!!」

 思わず握り拳で立ち上がり、叫ぶ。勢いの凄まじさに、矢崎がぎょっとして尻餅をつき、植木はノートを取り落とした。

 「な、どうしたの羽深」

 「頭?頭が悪いの?」

 「あ……べ、つ…に…」

 おいおい大丈夫か、という不安そうな気配が、小さな公園に満ち満ちる。成二はさっきとはまた別の理由で泣きたくなった。あいつの性で、あいつの性で、俺の中学生活はめちゃめちゃだ。何となく八つ当たりめいた恨みを胸で膨らませながら、右手親指の爪を噛む。その仕草が、兄そっくりだとは気付かずに。

 「せーいーじー」

 不意に車道の向うから、間延びした声が届く。頭をめぐらすと、白地にスポーツメーカーのロゴをプリントしたTシャツと、スパッツという、如何にも体育会系らしい格好をした女子が、両腕を手旗信号のように振って、元気良く跳ねている。

 「…お迎えだね」

 「いいなー今日も牧野さんと…」

 「なに鳴海、牧野さん好きなの?」

 もう付き合ってられるか。滑り台に預けておいた鞄を拾うと、逃げるような大股になって、出口の横断歩道へ走り出した。下手糞な口笛が幾つも追いかけてくるのを、首を竦めていなしながら、白い線を踏んで、真新しいコンクリートの舗装路を渡る。

 幼馴染の隣へ並ぶと、漸くほっと肺に溜まった空気を吐き出した。視線を落すと、少女は普段通り、此方を励ますように、にこやかな微笑を浮かべている。

 「何話してたの?」

 「別に、何でもない」

 「イジメられたりとかしてない?」

 「してないよ!」

 「だよね。良かった良かった」

 むふーと鼻息を吐く横顔に、刹那、見入ってから前方へ向き直る。慣れたもので、歩幅は自然彼女のそれに合わせて、小刻みになった。

 「成二あのねっ」

 「何だよ?」

 「今年のバースデープレゼント、凄いの思いついたんだけど!」

 「ばーすでー?誰の?」

 「成二の!次の月曜でしょ?練習の後で渡すね!」

 ああ、という様に、少年の顎が小さく引かれた。そういえば十三歳になるんだ。結構年を取ったな俺もと、幼稚な感慨に浸ってから、いきなりギッと視線を隣に戻す。

 「プレゼント!?ひまわりが?」

 「そうだよ」

 「一昨年で、ちゃんと止めた筈だろ!?」

 「えーでも、中学生になったんだし。同じバスケ部に入ったんだし。やっぱりこういう節目はマネージャーとしてきちんと祝ってかないと!もちろん部員全員をチェック済みだよ!森君は来月の七日でー」

 喜々として部員の名前と誕生日を数え上げながら指折りを始める少女。成二は、額が隠れるまで伸ばした前髪の下で、さっと顔を青褪めさせると、急に幼馴染の細い肩を掴んだ。

 「わ、忘れた訳じゃないよな、お前のお母さんが出した、"ひまわりバースデープレゼント禁止令"を」

 「大丈夫だよ!今の私は、ミニバスの時の私じゃないから!」

 見詰め合う二人の背景で、真紅の炎柱が立ち上がる、ような気がした。鷹鳥一中のセンターは喉を鳴らして唾を飲み込むと、マネージャーの真摯な瞳を覗き込み、ゆっくり単語を区切りながら、語りかける。

 「一昨年の、"1/1、頑張れ成二、お兄ちゃんも応援してるぞ人形"を覚えてるか」

 「うん。大好評だったでしょ!チームの皆に!」

 「…忘れたのかよ、兄ちゃんにぜんぜん似てないデザインはともかく、お前がワタの代わりにオガクズをつめたせいで、夏になってからあの中からムシが…うぷっ…発生して、皮を食い破って…」

 「あははー。失敗だったねあれわー」

 「じゃーその前の年の"NBA養成ギプス"はどうなんだよ?俺はアレのせいで、動けないまま兄ちゃんにラクガキされて、くすぐられて…」

 「むふー。傑作だと思ったんだけど」

 キラキラ輝く両目に、もはや何を述べても無駄だと知らされた成二は、がっくりと項垂れて、華奢な鎖骨に食い込ませていた指を外した。

 「うわー、成二握力強くなったねー。アトついちゃったかなー」

 ずるっとシャツの衿をずらそうとするひまわりを慌てて止めながら、冷汗を掻く。一体何をするつもりなんだろう。保育園の頃の泥団子ひまわりスペシャル(水風船内蔵モデル)から、年々進化を遂げるバースデープレゼントの攻勢に、彼は常々戦慄を禁じえないでいた。今回はそれを悪用する奴が居ないのがせめてもの救いだ。

 身振りで乱暴したのを謝ってから、また二人並んで歩き出す。成二はふと、自分が初めて真の不在を、心から喜んでいるのに気付いて、情けなさそうに、自嘲の笑いを浮かべた。










 羽深成二にだって言い分はある。

 兄弟仲が悪いだけで、別にブラコンじゃない、と思う。尊敬する人なら他にもいるんだし。穂村くんとか。ちょっと怖いけど城戸先輩とか。ちょっと変ってるけど赤坂先輩とか。

 「おら成二、のろのろすんなー!」

 この人も。

 「島ちゃん、よしなよーっ」

 この人も、まぁ一応。

 「小僧、遊んでるんだったら腰揉みな」

 あの婆さんは、何なんだってって感じだけど。

 成二には成二なりの、部活の目標とか、クラスの友達とか、何のかんのひっくるめた中学校生活があるのであって。気紛れに此方を無視したり、面白半分で突付き回すような、碌でもない身内が居なくたって、普通に暮らしていける。別にバスケ部に入ったのも、あいつをぶっ倒すのが全て、という訳でもない。

 つまり…。

 「成二くん、パス」

 スマイル。呼びかけより先に感じる、微笑の気配。振り返ると、頭に白タオルを巻いた三年生の、少しも険のない丸顔が視界に広がる。指の間で、人工皮革のざらついた感触が甦って、磁石に惹かれるみたいに、ボールは手を離れた。こいつも、あの人の胸へ飛び込んで行きたがっているみたいだ。

 「成二!」

 「このバカ!」

 反対側のハーフコートから、叱咤の二重唱がぶつけられる。と、すぐ側を、気持の良い速さで疾風が駆け抜けて往った。影がゴールポストへ躍る。

 世界で一番キレイな鳥が、ちょっとフープに舞い降りて留った。まぁ、そんな風に見えた。完璧なダンク。力強さより、優雅さを感じる。永遠に続くような一拍の後で、体育館の床が軋み、軽やかな肢体を地上へと受け止める。

 「敵にパスしてんじゃねー!」

 金髪のパワー・フォワードが怒りの叫びを迸らせる。胸の動悸を速めながら盗み見ると、シュートを決めたばかりの小さな先輩は、ちろりと舌を出していた。相手と自分のビブスを比べてから、随分と間抜けな失敗を犯したのを悟る。

 「な…東野、先輩…」

 「あはは、成二くんぼーっとしてるんだもん」

 鷹鳥一中の不動のエースは時々、突拍子もない悪戯をする。あまりに突拍子もなさ過ぎて、警戒できない。普段は、日向の仔猫みたいな、可愛らしい、穏かな人なのに。

 いやだからこそ、こんな悪戯も成功するんだろう。きっと真がやったら、憎たらしいだけで、どんなに心此処に在らずだったとしても、誰もパスなんて渡さない。逆に、東野先輩が敵だったら、公式試合の最中でさえつい、手が滑ってしまいそうだ。

 「てめぇ聞いてんのか!」

 「よせ城戸、もう無駄だ。牧野、成二を東野から遠ざけろ....

 にしても、どうしてこの人は、こんなにも自然に、凄いプレイができるんだろう。笑顔だって偽物じゃない。才能だってつくりものじゃない。まるであいつを裏返しにしたような…

 のっぽの一年生センターは、暫くの間ぼんやり突っ立ったままでいたが、やがて甘い蜂蜜の匂いに惹かれた熊宜しく、二才年上のスモールフォワードの方へにじり寄って行った。だが、もう五センチで、不思議な先輩の、実体ある肌触りを確かめられるという所で、がしっと脇に腕を入れられ、ずるずるとコートから退場させられる。

 「成二ー。しっかりー、鼻血出てるよ」

 キャプテンがリストバンドの嵌めた右手を挙げて、タイムを取った。すぐに三年と二年がセンターラインへ集まって、代替要員を選ぶ為の短いミーティングを開く。

 「東野のダンクシュートを見て欲情するとは、流石に問題だな」

 「???」

 「っ…穂村…頼むから欲情とか言うな…」

 「ったく何考えてんだあのバカは、俺のパスを無駄にしやがって」

 「島ちゃんたら、スティールし損ねただけのこぼれ球でしょ」

 「…お前は人のフリみて我がフリ直せ」

 ざわめきの中、一つの咳払いが、静寂を導く。

 「成二も若い。欲求不満が募るのは致し方ないだろう。処置は後で考える事にして、とりあえず三上以外にもセンターに回れる人員が必要だな…」

 「だから欲求不満とかな……」

 「??だったら植木くんがいいんじゃないかな?ジャンプ力あるし」

 ああだこうだと意見が交される間、試合を途切らせた張本人はというと、コートの隅で鞄を枕に仰向けになっていた。ビブスは着けたまま、冷たい木床にぺったりと汗ばんだ背を押し付け、濡れたハンカチで両瞼を覆って、鼻には丸めたティッシュを詰めてある。

 少年達の激しい運動の所為で、体育館は既に気温より蒸し暑くなっており、この時間帯になると逆上せてひっくり返る者も珍しくない。マネージャーの対応も慣れたものである。

 「大丈夫?」

 「んー、んー」

 「練習終ったらバースデープレゼント上げるから、それまで辛抱してね!」

 「いや…それはいいから…」

 命の危険を察したのか、いきなり冷静になって断りを入れる成二。勿論、ひまわりは僅かも意に介さない様子である。額に掌を当て、熱を出しては居ないと確かめてから、他の一年生の求めに答えて立ち上がる。幾ら幼馴染が逆上せたといっても、一人で男子数十人の世話を焼くという職務柄、ずっと面倒は見られないのだ。

 「監督、成二のことお願いしまーす」

 「っておい…」

 独りになる心細さより、得体の知れない老監督の横に放置される不安から、少年は弱々しく呻いた。だが無情にも足音は遠ざかっていく。

 「…懐く相手が居なくなったからって、マネージャーを独占しちゃいけないねぇ…ズズッ…チームに私情を持ち込むんじゃないよ…」

 ぼそっと釘を刺されて、案山子のような上背が、発条仕掛け宜しく飛び起きた。ちょっと目を回してから、座布団に腰掛けた年輩の婦人を睨み据える。

 「してませんよ」

 「ふん、どうだかねぇ。あんたもちったぁ先輩を見習いな」

 彼女の方は、教え子の腹立ちなどどこ吹く風とばかり、まずは悠々一服すると、おもむろに湯飲みを口元から離して、軽く顎をしゃくった。指し示す先には、金髪のパワーフォワードの姿がある。成二はじっとそちらを見つめてから首をかしげ、老婆へとけげんそうな眼差しを返した。

 「解らないのかい…まだまだ青いねぇ…そんなんじゃいつまで経っても兄貴を越えられないよ」

 「な、なんなんですか」

 何でこんな婆さんにまで兄と比べられなきゃいけないんだ。つい唇を尖らせる少年をよそに、監督はまたひとしきり熱い茶をすすると、黙って目を伏せる。頬に浮かぶほのかな笑窪は、或いは羽深成二の言い分など、口にする前からお見通しであるような、中々はかり難い思慮の深さを窺わせていた。










 午後四時を回っても、太陽はまだ天球の西半分程で雲に引っ掛かり、大気に真昼の熱を留めていた。少年達は水道の栓を一杯まで捻って下に頭を突っ込み、髪の毛をびしょ濡れにすると、犬のように身震いをして、雫を撒き散らす。

 寝そべったまま大口を開いて、荒く呼吸する者、止め処なく噴出す汗を、大儀そうにシャツの端で拭う者、もっと大胆に上半身を肌蹴、肋の浮いた胸で生温い風を受ける者。入部当初と比べれば皆、へたばり具合も、かなりましになったろうか。

 メニューはちっとも楽でないのだが、鷹鳥のバスケ部は他の運動部より脱落が少なかった。九割近くが一月と保たず去っていた昨年とは百八十度の変り様だ。主な原因は、先輩の振舞いかもしれない。新入生にとって練習の辛さというのは、心の在りように大きく影響される。部活の間、絶えず上級生から悪意に晒され、慰みものにされるといった状態でなければ、次の日行くのが嫌になる子供も、存外減るのだ。

 尤も、ミニバスの頃からたっぷりと鬱陶しい上下関係に慣れて来た成二にしてみれば、些か柔な環境ではある。通常のノルマの他に、スタメンとしてニ、三年生主体の特訓に参加する以上、消耗は激しくなるのだが、何となくまだ動き足りない。

 並外れた膂力と、優れた持久性や俊敏性。彼の成長期は、始まりを迎えたばかりで、天より与えられた恩恵の真価を、把握するには至っていなかったが、ただ内なる本能という名の賢い主人はもう、他との"限界のずれ"を嗅ぎ取っていた。

 「部長に呼ばれてるので…遅くなります…先に…家庭科準備室へ…」

 休憩をとるでもなくさっさと学生服を纏ってから、やや時間を持余した少年は、鞄に挟んであったメモを読んで、軽く頭を掻いた。帰宅したところで、中間の勉強をしろと親からせっつかれるのがおちだ。運動が齎した昂揚と、刺激に対する餓えが、幼馴染の胡乱な思いつきに付き合ってもいい気分にさせていた。よし、鳴海か矢崎当りにからかわれるより前に、さっさと移動しよう。都合よく全員ばてているし。

 「あれー。羽深着替え早いなー。もう帰んのー」

 「おう。ちょっと用事あるから…穂村くんに呼ばれてて」

 すらすらっと嘘が出る。まるで真みたいだなと、ちょっと自分が嫌になった。

 「んぉ、スタメンは大変だねぇ」

 お約束の台詞。やっかみすら混じっていない。成二だけの特別扱いは、皆慣れっこなのだ。

 やかましい金属の反響を奏でながら、校舎端の非常階段を一段飛ばしに登って、ステンレス・スチールの薄っぺらいドアを押す。窓も空いていないのに、蒸すのは中も余り変らない。家庭科準備室は三階の突き当たりにあって、放課後は手芸部が使っている。が、中学の文科系部活のご多分に漏れず、活動は週に二回なので、残りの曜日は大抵鍵が掛かっていて入れない。

 ところが、今日に限っては違うらしく、半開きの戸に、ピンクのボール紙にマーカーで"本日バスケ部様貸切 PM6:20まで!先生公認!"とひまわりらしい、勢いだけの文字が記されていた。

 「あいつって、昔からこういうのだけ上手いな…」

 どじばかりする癖に、誕生日やら歓迎会やらお祭りの段取りはしくじらない。どうやって先生のお目こぽしを貰ったんだろうか。前に穂村くんが話していた、"バスケ部の特権"のお陰かもしれない。ともかく大してプレゼントの内容には期待もせず、ただ帝北戦に備えて怪我だけはすまいと構えながら、がらっと戸を引いた。

 一歩踏み込んで、目を点にする。

 「ほぇ…」

 成二を絶句させたのは、机の上のポテトチップスでも、ポッキーでも、午後の紅茶1000mlペットボトルでも、黒板に四色のチョークで大書された"成二限定秘密のお茶会"なる謎の題でも、駄菓子の群の真中に広げられた"ひまわりノート特別編集版 東野先輩に訊きたい20の質問"といったさっぱり企図の読めぬ怪文書でもなく、

 「えーと、成二くん、お疲れ様?」

 黄色いリボンでぐるぐる巻きにされ、Birthday Presentのプラカードを首から提げた、鷹鳥第一中学校バスケットボール部のエースであった。

 「はい?」










 「あはは、練習が終わってすぐ、牧野さんに呼ばれて…やられちゃった」

 菜花色の帯が、細い手首から、剥き出しの太腿、踝へと複雑な模様を描いて覆っていた。デパートなんかで店員さんが贈り物の箱を飾る、洒落た結び方だ。ひまわりは、本で読んだか、友達から教わるかして早速勇んで試したのだろう。

 だけど人間にリボンを結ぶというか、縛るのは、特に、先輩みたいな人にやると、何と言うか…。

 「そうだ、お誕生日おめでと成二くん♪」

 心臓が口から飛び出しそうに成る。ふらふらと、体操着の胸で揺れるプラカード。揃えた膝をちょっと右に崩して、縛られた両腕は、祈るように差し出している。本人が、至って普通のつもりでいるだけに、余計危険な格好だった。

 「あの、せせせ先輩これって…ひ、ひまわりが…」

 「うん。牧野さんてすごいね…ノートも読ませて貰ったよ。何でも訊いて、僕頑張って答えるから!」

 ノート?

 成二が机上に視線を落とすと、幼馴染の手になる怪文書が、紙面のあちこちに赤インクの線を引いて、派手派手しく注目を促していた。

 "お茶会で盗め、エースのテク!"、"エースに聞け、シュートのこつ"、"エースから読め!オフェンスがブレイクするタイミング"etc,,,。

 「お茶しながら話をすればいいのかな、あ、でもこのままだとお菓子が食べられないなぁ」

 のんびりと呟いてから、蓑虫のように伸びあがったり縮んだりして、机に近付く先輩。成二は慌てて鞄を置き、後ろへ回ると、椅子ごと運んでやった。

 「わっ…力あるねー」

 「あ、はい、それよりこれ解きますよ…ひまわりの奴…な何考えてんだよ…」

 震える指を、蝶々の結ばれた白いうなじへ伸ばしたが、巧く結び目を緩められず、却って拘束を強くしてしまう。喉が締まったのか、暁は軽く噎せながら背を丸める。

 「ぜいじぐっん…ゆっぐりでいいよ…けほけほ…」

 「あわっ、す、すいません。今、み、水、水を」

 慌てふためいてペットを鷲掴むと、キャップを捻って、何杯か重ねてあった紙コップの、一番上に注いだ。縁近くまで、並々と琥珀の液体を満たしてから、押し戴くように捧げ持つと、薄桃の唇へと勢い任せに差し出す。

 「ど、どうぞ!」

 「あぷっ、あはっ、成二くんったら、待っ…」

 すぽっと上になっていたコップが外れて宙を舞い、中味を納めたまま回転すると、褐色の飛沫を撒き散らして、リボンの巻かれた短パンを汚す。

 「わーっ!わーっ!すいません今綺麗にします!!」

 混乱の極みに達しながら、成二は暁の腰のゴムに指をかけ、引き降ろそうとする。

 「ちょちょっと成二くーん!!?」

 「あっ!?いやあれ…えと、あれ、リボンがー」

 すったもんだの間、椅子は四本脚のタップを踊って、次々と重心を移動させたが、とうとう少年二人の揉み合う力に耐えかねてか、均衡を失って倒れた。家庭科準備室の外まで漏れそうな、喧しい音がして、学生服と体操着、黒と白、大と小の影はもつれあいつつ床へ伏した。

 「…………痛たたた…」

 額と額が擦れ合わんばかりの距離で、年下の少年の瞼を開くと、丁度、覗き込むような位置に、先輩のつぶらな瞳があった。

 「…っ…」

 急に澄んだ双眸が、あるかなきかの曇りを帯びて、かたえへ逸らされる。衝撃から庇おうと、抱えるように回した両腕の中で、華奢な肢体が強張った。

 「離れて…羽深くん…」

 やけに、冷たい声。口の奥に、苦い味を滲ませているような響き。部活の間、一度も聞いた覚えがない。だけど、吐息だけはとても甘くて、もの欲しげだった。どうしていきなり、別人みたいによそよそしくしい顔をして、そして、こんな馴れ馴れしい言葉遣いをするんだろう。

 「…はぶ…?」

 そうだ。今までは一度だって、苗字で呼ばれたりはしなかったのだ。脅えた仔鹿のように、小さくなって震える先輩からは、さっきまでの朗らかさは蜃気楼の如く掻き消え、ただ自分の眼差しから逃れるよう、すぐ横に転がった椅子を懸命に睨んでいる。

 「先輩…兄ちゃ…真と…?」

 尋ねさせたのは、直観、だったろうか。

 リボンを振り乱しながら、ほっそりした首が激しく否定の合図をする。

 「違うよ…違う…」

 「なんで…そんなの…」

 嘘だ。嘘に決まってる。東野先輩に、あいつが触れられる筈はない。あいつが、彼の、彼だけの学校生活に、部活に、入ってこられる訳がない。

 "いつも先回りをして、何もかも奪ってしまう…"

 「先輩…兄ちゃんの、何?」

 「違う…何でもないから…お願い…服、大丈夫だから、ね?」

 辛うじて作られた、弱々しい微笑。

 嘘吐き。

 そうなんだ。

 あんなに、明るくて、優しくて、元気で。少しだってあいつの影なんか、感じさせなかったのに。

 「…」

 立ち上がって、背を反らせると、机の端に凭れた。眼下では、彼より何十センチもちっぽけな少年が肩を戦かせながら、身を起こそうともがいている。

 「あは…ちょっと待ってね…」

 笑うな。

 成二は憑かれたように、ペットボトルを取ると、暁の無防備な額目掛けて、紅茶香料入りの飲料をぶちまけた。相手が驚きの悲鳴を漏らして、縛られた両手を翳す様子は、昏い愉悦を誘った。

 「…ぬ…れちゃいましたね…」

 「やっ…成二く…」

 「羽深、でいいですよ…真は、先輩のこと、なんて?」

 大好きだった先輩の,、限界まで見開かれた瞳に映るのは、大嫌いだったあいつの顔。

 「…ぁっ…ぁっ…」

 「…いえない…んですか…」

 膝を就き、頭で揺れる房毛を掴んで、目を細めながら語りかける。ずっと憎んで来た血族から、知らぬ間に学んでいた仕草。全てをなぞり、あいつと同じ魔法を掛け、過去の扉を抉じ開ける。

 「…ア…キ…」

 「アキ」

 あいつの玩具が、ぞくっと首を竦め、俯いた。惨めで、不様で、愛しい玩具が。

 「アキ…ね…」

 息が乱れる。ズボンに上履きの爪先をかけてずらしてやると、もう小さな欲望の印が、ブリーフを突いて勃ちあがっていた。名前が、鍵なのか。

 「呼ば…ないで…」

 「アキ…へぇ…」

 真なら好きそうだな。胸裡で呟いて、成二はわざと気乗り薄な表情のまま、テーブルのポッキーの箱を取上げ、袋を破って、一本を取り出した。

 「アキ…は、ポッキーとか、好きだったんですか」

 「んっ…ぁっ…ぇっ…?」

 同じ単語を繰り返される度、頬を紅潮させながら悶える暁。紅茶以外の染みが、固く尖った秘具の先端から下着を濡らし始めているのが解った。

 「好き…ですよね…?」

 口に咥えて、差し出す。逡巡があってから、小さな唇がおずおずとチョコレートに覆われた細い棒を啄む。長身の一年生はゆっくり菓子を噛み砕いて顔を前へと進ませ、やがて、砂糖より美味な獲物へ辿り着く。

 「ぅっ…くっ…」

 「んっ、んっ」

 嫌がる先輩の後頭部を抑えて、離れられないようにする。勿論どれだけ気負っても所詮、十三歳の子供に能う限りの残酷さしか篭められない。

 だが、それで充分だった。もっとずっと経験豊かな舌が、以前の主人に教えられた通り、年若い主人のそれを迎え入れ、丁寧に導く。隷属を証するように、唾液が口腔から口腔へと移り、開発し尽くされた肢体は、心を裏切って、新たな蹂躙の為に股を開く。

 従順さという媚態に誘われるまま、中学生離れした怪力が、彼のバースデープレゼントを包むリボンを引き千切った。持ち前の性急さで半ズボンとブリーフを引き降ろすと、自分のジッパーを下げて、巨きな陰茎を引き出す。

 成二の頭には、ませたクラスメートなら備えているような性に関する知識も無く、精々兄によって、からかい交じりに歪め伝えられた奇妙な断片が頭の隅に引っ掛かっているだけだった。

 だが、したい、やりたいという気持だけは、いつだって有り余る程抱えていた。酸素の為に接吻を解いて、ついさっきまで触れられもしなかった憧れの人の、乱れた姿を堪能する。もう我慢が利かない。確か、ここに、そう。

 「んっ…待っ、準備し…ぃっ…ぃああっ!んぐっ!」

 溶けたチョコレートと涎のカクテルを零して喚く、浅ましい唇を再び塞いで、舌を捻じ込み、悲鳴を殺す。きついけど、多分入る。滑る液体が沢山溢れている。まるで最初から入れて貰うのを待ってたみたいだった。切先を宛がい、拒もうとする遺志をたどたどしい口淫で散らしながら、突き上げる。

 喉奥から直に脳へ伝わる裏返った喘ぎと、性器全体が熱い液状の炎に包まれるような心地よさ。先輩の身体は気持ち良い。小さくて、細いけど、身が詰っていて、淫らで、簡単に扱える。成二は、溺れた犬が、水面を目指してもがくように、何とか根元まで怒張を収めようと滅茶苦茶に腰を揺すり、掌にゴム鞠のような感触を伝えて呉れる双臀を、必死で引き降ろした。

 「…っ!!!!…っ!!!っ…ぅっ!!!」

 愛撫も何もなく、ひたすら自分の都合だけで動かれては、彼の兄から大抵の行為に慣らされた暁も唯、塞がれた口に咽びをのぼせるしかなかった。

 「ぷはっ…ひぁっ…ぅんっ…せんぱっ…俺、出る…」

 早い。止める間もなく射精が訪れ、肛腔を満たしてゆく。暁は情けなさと恥かしさと、熱で内側を満たされる歓びに吐息して、無意識の内、後輩の胸に頬を寄せた。

 「…ふぁっ…ぅっ…あれ?」

 「ひゃぁんっ!」

 間を置かず、固さを取り戻した剛直に直腸粘膜を抉られ、年上の少年は、つい、あられもない嬌声を漏らす。

 「…ぇ…ぁっ、嘘…せんぱいこれ…どうすれ…ば…」

 「だめ、成二くん…もう終り…ぃっ!ふぐぅっ!」

 「だっ、止まらな…んっ!」

 暁を膝に乗せたままの姿勢で、成二は再び動き始めた。兄そっくりの不遜な態度は、初めて体験した快感の量に圧倒され、あっさりと崩れてしまっている。

 「ひぅっ、ひゃぅっ…」

 「はっ、はっ、はっ、せんぱ…せんぱぃ…ぁうっ」

 ぎゅっと相手を抱いて二度目の射精を迎える。潤んだ上目遣いが、窘めるように投げ掛けられるが、成二ももう制御を離れた身体をどうして良いのか解らず、同じような仔犬の眼差しを返しながら、只管抽送し続ける。

 「うあ…あんっ…ひぐ…せんぱぃ、ぃ!」

 「だめ、おおきいこえだしちゃ…だ、きゃぅっ!…んっ」

 今度は暁の方からキスで唇を塞ぐ。他に仕様が無いのだ。学生服の胸を、汗ばんだ指で掴み、縛られた両腕を曲げて、ぶら提がるようにしながら、絶え間なく腰を砕かんばかりの衝撃を、少しでも和らげようとする。だが、紅茶を吸った体操着は、ぐしゅぐしゅと淫靡な擦れ方をして、拙い工夫を嘲った。

 やがて小さな三年生の腰は、自ら官能を貪ろうと円を描き出し、己が幼茎を振っては、肉竿を奥へと受け容れ、緊く締め上げるようになる。あの優しくて、意地悪な声に、誉められ、罵られながら、何度も反復させられた、妖しの舞踏。

 静寂の調べに合わせ、リボンに縛られた臍から鳩尾にかけてを捻り、腰をくねらせ、太く長い逸物に内側を掻き回させる。弟が兄と同じように、尻朶を抓って、耳朶を噛んで、乳頭を摘んでくれないのが、もどかしいとでも言うように。

 「ぅあっ!あふぅっ!ふぃわふぅっ!」

 「んっ…っ…は…か…くん…っ」

 下級生の三度目の射精を受け容れながら、鷹鳥一中バスケ部のエースは、ポロっと涙の珠を一粒だけ、頬に零した。










 「遅くなってすいませーん」

 制服姿の牧野ひまわりが足音も高く家庭科準備室に飛び込んできたのは、六時十五分を過ぎた頃であった。お膳立てだけして、全く司会進行のできなかったお茶会が、果たして成功したかどうか、ちょっとどきどきしながら、部屋を見渡す。

 「おかえりー」

 何となく疲れた表情の東野先輩…何故か、サイズの合わない学生服を着てる。成二の?

 「…遅えよ…」

 何となくしょげた表情の成二…何故か、体育着姿で隅っこに向かって正座。ひまわりはこめかみに人差し指を当てて小首を傾げた。

 「えーと?」

 「あはは、ちょっと僕がどじで、紅茶かぶっちゃって。成二くんが服貸してくれたんだ」

 「ええ!?」

 「あ、大丈夫だよ。教室に学生服あるから」

 少女は問い掛けるように幼馴染の方へ向き直った。もしかして、バースデープレゼント、また外しちゃった?視線を注がれているのを察した少年は、いきなり広い肩を聳やかすと、油の切れた歯車細工のように、ぎこちなく頭を巡らせる。泣き腫らしたのか、目の周りが赤く染まっている。

 「だって、兄ちゃんが…」

 「ぇ?」

 「兄ちゃんがー、うううーっ…」

 「ぇ?ぇ?成二どうしたのー????」

 「あ、僕服取ってくるね」

 暁は弾かれたように立ち上がると、ちょっとふらつきながら、廊下へ転げるように出て行った。

 「はっ?えっ?東野せんぱーい?…って成二ほら泣かない泣かない。もう泣き虫なんだからー」 

 よしよしと背中を抱いて慰めてやる。めそーっとしていた少年は、近しい女の子の匂いを嗅ぐと、ちょっとスカーフに顔を寄せてから、くんくんと鼻を蠢かし、じっと見慣れた容貌を観察した。

 「ひまわり…」

 「にゃ、にゃに?」

 「俺、絶対真に勝つから」

 「おっし、その意気!」

 「んっ…」

 「ってちょっと成二こらー、くっつくなー」

 幼馴染の据わった眼に尋常ならざるものを感じて、ひまわりは引き攣った笑いを浮かべつつ、懸命に身をもぎ離そうとする。だが少年は、長い両腕で抵抗を封じ、妙に手際よく彼女を抱き寄せた。

 「成二、成二ったら、ほんとにもーっ」

 いきなり鈍い音がして、彼の頭は、ひまわりの俎板のような胸に沈む。

 「きゃーっ!」

 ショックで大声を出す少女の身体から、しかし、大きなお荷物はすぐ取り除けられた。我に返ると、猫宜しく成二の首根っこを掴んだキャプテンが、申し訳無さそうに見下ろしている。

 「悪かった、応急処置だったが」

 「あ、キャプテン」

 「こいつも年頃だからな。兄貴の方も、一年の時は似たようなものだったが…簡単に解消できると思ったのは、甘かったかな…ふむ…根が深い…」

 ひまわりは、しばらくきょとんとしていたが、失神した成二の姿を眺める内、いたたまれなくなってか、先輩へ向かって上目勝ちに問い掛けた。

 「キャプテン、もしかして東野先輩と成二が喧嘩したとかー…私悪い事しちゃったんでしょーか?」

 「いや俺の計算ミスだ。気にしなくていい。東野のことだし、明日には仲直りするだろう。ただ事務の相談で君に長い時間を取らせたのは悪かったな」

 「あ、それはいいんです、マネージャーの仕事ですから!むふーっ!」

 淡く微笑んだ穂村は、そのまま親友の弟の長躯を抱え起こすと、準備室から引きずり出した。少女の方は早速お菓子の袋を拾って、机のゴミを払うなど、てきぱきと後片付けを始める。

 まめまめしい働き振りに、目を細めていたキャプテンは、ふと、兄ちゃん、という寝惚けた呟きを耳に留め、やれやれという風に片眉を擡げた。

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