さようならのそのあとで

 十二月の乾いた空気が、学生服の布地を通して肌を撫ぜる。高架下の舗道は、常夜灯の白々とした明りに照らされて尚暗く沈み、あたかも凍てつく死者の国のようだった。

 イエス・キリストの誕生日まで後一週間。紅葉もすっかり散り尽くし、木枯しが僅かに残った枯葉に渦を舞わせる初冬の夜。

 髪を派手な金に染めた少年が独り、闇の中を歩いていた。スニーカーがざらついたアスファルトを擦る単調な音だけが、静寂のしじまに在る唯一生きた人間の気配。寒さに青褪めた唇の下で、彼は歯を固く食い縛り、時折ふっふと蒸気機関車のように白い息を吐き出した。

 飼い慣らされていない虎か、豹を思わせる、近寄り難い背中。規則的な足の運びは、些かの弛みもない。訓練によって培われた筋肉が持つ、野の獣のようなしなやかさ。十五歳と八ヶ月、人が最も動物に近付く時期。欠け往く月に照らされた少年は、異教の半神のようにも見えた。

 城戸清春。元鷹鳥第一中学校バスケットボール部員。彼の試合を目にした人々にとっては、正しく半神とも英雄とも言うべき崇拝の対象だ。全国中学体育大会バスケットボール大会を制した、紛うことなきヒーロー。コートを駆け抜ける稲妻、ゴールポストを揺らす疾風。どんな状況からでもチームを勝利へ導く最強のフォワード。今やミニバスから高校バスケットボールまで、知らぬ者は無い。

 しかし、そんな功名は、一度狭い世界を離れれば何の意味も持たなかった。バスケットボールというアクセサリーを外した彼は、同年代の仲間と変わらず、何の地位も力も持たない未成年に過ぎない。受験生としてスポーツ推薦を受けられるのが精々の所だ。

 だから、不安に苛まれながら、視界の利かぬ黒い街並を、一歩一歩進んでいくしかない。たまさか、無情に荒れ狂う風が、大切な温もりをもぎ取っていく。抗議の叫びは掻き消されるか、はたまた空しい谺を返すのみ。

 さようなら、またねと、あかるいえがおでつげられたら、やっぱりじぶんもわらわなきゃいけないだろうか。またかならずあえるのだからと。

「解ってる」

 震える口がそっと言葉を紡ぐ。まるで、まだ傍らに親しい人が寄添っているように。

 解っている。

 ただ少し、神経質になっているだけだ。小さい頃からの友達が、親の都合で引っ越すからといって、悲観する必要はない。受験が近付いて、色々な出来事を、過敏に捉えがちになっているだけだ。

 まいにちでんわをすれば、そばにいるかわりになるのだろうか。

 いきなり路面の罅割れに爪先を引っ掛け、前のめりに転びかける。どうにか電信柱に手をついて立ち止まると、剥き出しの掌へ、信じられない程冷え切ったコンクリートの感触が伝わった。頭の芯まで痺れてしまい、覚えずくしゃみをしそうになる。

 みらいをしんじている。ふたりのために、おたがいが、おたがいをこえられるように。でもいま、いま、さびしさがむねをくいあらす。おまえをもとめてひめいをあげる。

「…またか」

 また。

 清春は月を仰いだ。下弦は東の方に傾き、朧に夜道を照らしている。ボールが欲しいと、つい独りごちた。いつものように動いていればどんな悩みも追いつけないのに。だが今夜は相手が居ない。少年は壁の花だ。

 暫く風に髪をなぶらせながら佇んでいると、胸ポケットの中が震えた。悴んだ指で携帯電話を引っ張り出すと、少し迷ってから、通話ボタンを押す。

"キヨちゃん?"

「んだよ、暁か」

"今どこに居るの?お父さん達心配してるよ?"

「散歩だよ散歩。月が出てっしよ」

"あー、ほんとだ♪待ってね。僕もそっち行くね"

「いーよ。そろそろ戻るからさ。そっちにいろって」

"う、うん、解った"

「あ、それとよ」

"なに、キヨちゃん?"

「あー…」

"なになに?"

「誕生日…」

"あ、うん、ありがとう!あのさ…"

「…っ、じゃぁな。ちょっと寒いからきるぜ」

 通話を切ると携帯を握り締めたまま瞼を閉じる。クリスマスの一週間前になってようやく、二人は同い年になる。けれど、四ヶ月と続かない。そしてもう一度年の差がつくより前に、向うは遠くへ行くのだ。

「解ってる」 

 近過ぎたから、離れなくてはいけない。自分が自分を得るために。一人で戦えるように。お互いが本当の意味で対等になって、もう一度会う為に。

「解ってる」

 それに、止められる訳が無い。彼には何も出来ない。まだ何も無い。どれほど想っても、髪の毛一本残して置けない。バスケットボールの全中No.1なんて肩書では、親達の会社が決めた人事を変えられないし、幼馴染一人を東京に留めるだけの力さえない。

「くそっ…」

 解っている。気持の整理だってつけられる。わかっているわかっているわかっている。いつだってわかっている。すべてただしい。むねのなかでぐるぐるまわる。わかっているのに。

「…だっせぇ」

 頭を振ると、少年はゆっくり足の向きを変え、家路を辿り始めた。見守る月は家々の軒に隠れかつ現れ、後をついてゆく。耳元に残るのはついさっき切った電話の声。次第に腿は高く上がり、前に傾いた背は風を切って、いつしか四肢は動きの幅を増し、飛ぶように駆け出す。

 やがて高層マンションが林立し、その下でコンビニエンスストアが光を溢れさせる、馴染み深い夜景が目に映る。息を吸い込み、吐き出して、さらに速度を早めた。もう少し。交差点を踏み越えると、硝子を混ぜ込んだアスファルトが街灯に煌く。肩に当る風の寒さも、徐々に気にならなくなってきた。

 血の流れが手足の端々まで熱を運び、冷気を払う。肌は、風がひりつくほど研ぎ澄まされ、目を瞑っていても走り続けられた。肺は鞴の如く膨らみ、もどかしさは咳となって零れ出そうになる。

 道路の行き着く先に、誰かが通せん坊をしていた。清春のコートを抱いて佇む、ほっそりとした影。いつもの笑顔には、けれど頬を濡らした跡があるようだ。結局彼を迎えるため、家を出てきたのか。

 ぶつかるように側へ寄ると、相手の腰を捉えて、高々と抱き上げた。

「わわっ、キヨちゃん?」

「何やってんだ、誕生日だろ」

「あはっ、じっとしてられなくて…そういえば、やっとキヨちゃんと同い年になれたね!」

 暁の答えに、清春は顔を伏せ、表情を隠して笑った。

「ばーか、そんなの毎年じゃねぇか。来年にはまた離れんだから」

「うん」

 手を離して、二三歩後退ると、差し出されたコートを取って肩に掛ける。

「暁」

「ん?」

「これからだって、それは変わんねーだろ」

「そうだね…ずっと…変わらないね…」

 金髪の少年は頷くと、つと顔を背け、幼馴染の涙を見まいとした。華奢な肩、細い首、火照った頬と潤んだ瞳。小さい頃から身長差は変わらないので、側に寄ると、いつも全てがすっぽりと視界の下へ収まる。

 気付くと、また抱き締めている。自分の大胆さが信じられない。大きくなって、男同士がべたべたするのは変だと気付いてから、抑えるようにしていたのに。腕の中で、暁が居心地悪げに身動ぎする。

「キヨちゃん…あの…」

「ちょっと、動くなよ」

 指で頬を拭ってやる。涙は嫌いだった。人前で泣いた経験など無かったし、ものごとが上手く行かないからといってすぐ泣き出す奴は軽蔑していた。

 手についた涙を舐める。想ったより塩辛くない。両頬を掌で包んで支え、そっと顔と顔を寄せる。舌を伸ばして、頬の輪郭をなぞる。柔らかい。よく大人達から「お餅みたい」と笑われていたっけ。

「ぁっ…だ…な…!…キヨちゃ…」

 暁が首を捻って逃れようとするので、清春はすと身を引き、ごしごしと口元を擦った。

「その泣き虫、オレと居る時だけ直んねーな…学校じゃ絶対泣かないのに」

「えっ、ごめん…」

「すぐ謝んなよ。泣くなっつってるだけだろ」

 幼稚園時代の暁は、何かといえばごめんと謝ってばかり居て、清春が手を引いてやらないと、友達へ遊ぼうとすら言えない性格をしていた。笑顔も、最初は二人きりの時以外見せなかったし、どこへ行くにも清春と一緒でなければならず、内気で、泣き虫で、臆病で、今とはまるで正反対だった。

 けれど、あの頃は、幼馴染の全てを独占できた。二人だけで作るあの小さな世界では、彼こそが神で、その世界に好きな命令を下し、従わせられた。誰も、どんな力も付け入る余地は無かった。

 もし許されるなら、時を巻き戻したいと、一度はこの手で触れた未来も、チームメイトやライヴァルに囲まれた現実も捨て、過去へ戻りたいと、願わなかったろうか。

 すべてがゆめで、はやくめがさめて、ふたりでまた、あのたいいくかんにもどりたいと。おもってはいけない。たちどまってはないけない。わかっている、わかっている。

「あーあ。腹減ったな。そういや暁の母ちゃんの雑煮も、来年の正月で食い収めかー」

「あはは、お母さん、向うのお雑煮勉強するって張り切ってるよ」

「広島のってどんなんだ?味噌とか入ってんだっけ?」

「解んない。お母さんに頼めば、お正月に作ってくれるかも…」

「へー。面白そうだな」

 ねぇ、いいたいのはそんなことじゃない。わかっている。わかっている?ほんとうにわかっている?ほんとうにこのまま、きれいにさよならできる?

 どちらが声をかけるでもなく、二人は肩を並べて歩き出す。

「この前の模試どうだった?」

「んー、数学があんま…鵜飼に呼び出し喰らったろ?なんかごちゃごちゃ言われた」

「あはは僕、理科がだめだった。松波先生に呼ばれちゃった」

「はー、松波ならましだろ。穂村とか推薦で仙之台らしいな」

「キヨちゃんの所にも、帝北の人が来てたでしょ?」

 足が止まる。高架線下の暗がりに、ブランコや滑り台といった遊具が錆び付いている。昔、良く遊んだ所だ。今は子供の数が減って、夏場にダンボールとビニールシートを張ったホームレスの仮宿が建つだけの淋しい場所だ。冬ともなれば、猫一匹よりつかない。

 清春は道を逸れ、車止めを飛び越すと、赤茶けたジャングルジムの骸骨に向っていった。慌てて暁が追う。先へ立った少年は、振り返りもせず言い捨てた。

「お前が公立行くのに、オレだけ私立行けっかよ」

「でも、海老原くんも羽深くんも居るし。渚くんとかもきっと喜ぶよ」

 渚、という名前にぴくっと、少年の顔が引き攣る。

「そういえばね、この前の土曜渚くんが、ハンカチ返しに来たよ。キヨちゃんが特別講座に行ってる時。先生から住所を聞いたんだって。それで広島に引っ越すっていったら、携帯電話の番号教えてって…でも渚くん、ちゃんと覚えてくれたかなぁ…」

 気の合う友達のこととなると、嬉しくてたまらないのか、はたまた沈んだ空気を振り払いたい気持も手伝ってか、暁は清春の表情に気付かず朗らかなお喋りを続けた。

「渚くんたらね、ゲームしてる間に僕の肩に乗っかって寝ちゃって…練習で凄く疲れてたみたい…でもやっぱり覚えてるかも。帝北は広島に合宿所あるって言ってたから、毎年向うで会えるかもって」

 そこまで話してから、相手の目付きの険しさに気付いて、急に口篭もる。

「キヨちゃん?」

「…っ、んだよ!それで?続きは!?」

「あ、え?」

 語気に押されて、後退る少年。一回り大きな身体が圧し掛かるよう迫ってくる。塗装が剥げた鉄骨が背に当り、ぎくっと肩が強張った。

「なんで逃げんだよ…」

「解んな…ちょっキヨちゃん…」

 金髪の少年は小柄な連れの胸倉を掴むと、歯軋りしながら囁いた。

「暁のほうがよっぽと解んねーよ。泣いたと想ったらすぐ笑うし…そんな風に。くそっ」

「キヨちゃ…ごめ…」

 だから、あやまんなよ。

 解っている。勝手なのはオレなんだから。

「するぞ…」

「ぇ…ええっ!?ちょっ、だっ…そとだよ!」

 ズボンのベルトに手を掛ける。感覚を失った指を無理矢理動かし、金属のぶつかり合う喧しい音と共に、留め金を外した。力無く止めようとする手を払うと、そのままズボンのヘリに親指を捻じ込んで、引き摺り下ろす。

 寒さに粟をふく白い太腿が目の隅に入ると、すぐ股間が熱くなった。即物的な反応。十五歳と八ヶ月の身体は、人というより獣に近い。

「風邪引いちゃ…」

「そんな…嫌かよ…」

「違う、けど…」

 母に縋る幼児のような目。城戸清春が他の誰にも見せない、弱さの片鱗。暁は顔を茹蛸のようにしつつも、そろそろと抑えていた手をどける。

「解った…する…ね」

 多分、自分も同じ位赤くなっているだろう。八ヶ月だけ年長の少年は、ジッパーを降ろし、疼く若茎をつかみ出す。

「足っ…抜けよ…」

 暁が言われるがまま、ズボンから片脚を抜くと、清春の手がそれを持ち上げる。剥き出しになった窄まりに指が入り、形ばかり寛げると、もどかしげに退いた。だがそれだけで、小振りな性器は立ち上がり、内なる悦びを顕すかの如く震える。

 清春は、いきり勃った彼自身で、幼馴染の菊座をつつき、前戯もそこそこの性急さで捻じ込んだ。無茶な行為にも小さな肢体は良く耐え、続いて始まった激しい突き上げに、あえかな悲鳴で応えた。

「ひぁっ…ひんっ…んっ…キヨちゃ…っ、はぅっ」

「後ろ、掴んでろよ…」

 反対側の脚も同じように上げ、両方とも肩へ乗せる。支えを失った少年は辛うじてジャングルジムの横棒を握り締めた。腰を空中に抱え込まれ、衝撃を逃がすことも出来ず、奥まで深々と貫かれてしまう。両手が塞がれているから、愛しい人にしがみつくのさえ叶わない。

 ひどく残酷な姿勢だった。だがそれでも、声には甘いものが混じり、少女と見紛う柔らかな面差しに、歓喜の色が広がっていく。清春は蕩然と目を曇らせながら、しかしより一層強引に腰を使った。二人の吐く白い息がお互いの顔を包む。

「あかっ…つきっ…」

「ひゃぅっ、あぅうっ!かはっ…あっ、キヨちゃん…好きぃ…ひぐっ、大好き…」

「…っ、んっ、んっ…」

 唇が重なると、舌と舌が求め合い、互いの口腔に割って入る。ジャングルジムを掴んでいた手が離れ、相手の首に絡みついた。金髪の少年は崩れそうになる恋人の姿勢を素早く抱え直すと、鉄骨に押し付けて、じっと動きを止めた。

 長い接吻が続く間、清春の若茎は、暁の内側で脈打っていた。二つの心拍が、そこを通して重なり、一つに溶け合うと、次第に高鳴っていく。幾楽章に跨る交響曲のように、音律は留まることを知らず、再び動き出すと、胸の中で早鐘となって爆発する。

 繋ぎ目から漏れる粘音を伴奏に、淫らな喘ぎの輪唱が起る。両腕と両脚と、黒髪の少年は、小さな後孔全部で自分の一番大切なものを締め付け、離すまいとした。酸素を求め、清春の唇が銀の糸を引いて離れる。暁は焦点を失った瞳に情欲と不満を湛え、喃語に近い請願を口にする。

「ぁっ…もっ…と…」

「んっ、ぁっ、ふっ…」

 絶頂を堪えようと、清春は暁の耳に歯を立てる。痛みに新しい涙を零しながら、暁の背が仰け反る。先走りと混じった腸液が鉄パイプを濡らし、稚い秘具が腹を打つ度、僅かな雫が飛び散る。

 やがて清春は痙攣すると、暁の耳を強く噛んだまま達した。しっかりと抱えたままの恋人の中に欲望を解き放ちながら、荒く息をつく。

「ぁひっ、キヨちゃっ、ぁ…っぅぃ…のっ…お腹にぃっ」

 何をままやいているのかも解らないまま、暁は両目を一杯に開いて、相手の肩に凭れる。清春は血の滲んでしまった耳から歯を離すと、黒髪に指を絡ませながら、ゆっくり残りの射精を終える。

「…っ、あかつきっ…」

 わかっている。なんにもならない。すきなだけではたりないから、つながっているだけでは。だけど。

「離れたくないよ…キヨちゃんと離れたくないよ。ずっと一緒に居たい…」

 ぼろぼろ泣きながら、幼馴染が何かを叫んでいる。少年は返す言葉を見出せなかった。

「一緒じゃなきゃ…嫌だよ…」

 鷹鳥一中バスケ部のエース、東野暁は、決してそんなことは言わない。いつだって進むべき道を知っていて、ものごとが上手く行かないからといって泣いたりはしない。これではまるで、幼い頃に戻ってしまったようだ。

「オレだって…おまえと離れたくなんかねーよ…」

 BとFの試合の時とは違う。今度は自分達の気持で決めた。ライヴァルとして戦うために、違う道を選ぶ。そんなようなことを、言おうとして、舌が動かない。代りにコートの裾で素足を包んでやり、寒さを感じなくても済むよう、すっぽりと覆う。抱き寄せる腕に力を篭めると、二人の視線が結ばれ、どちらともなく目を逸らした。

 その気持は嘘じゃない。離れ離れになる言い訳なんかじゃない。

 だけど。

 さようならのそのあとで、じぶんはすこしなくだろう。

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