幸福論改訂 +++++ 3 | |
目を開けるとベットに横になったまま、天井をぼうーっと眺める。白くて綺麗な天井。頭が痛いのは夢見が悪かった所為。何度も繰り返した問答を夢でまで見るなんて勘弁して欲しい。多分、昨日の従兄とのやりとりがいけなかったんだろう。 『−−それから、何か連絡が入ったりした?』 『ないわよ。うん。携帯もメールも受け取り拒否にしているし、姿もちらりとも見てないし』 『じゃあ、あとはちゃんの心次第かな』 『大丈夫。決めたことだからね』 『うん、頑張れ。ちゃんが挫けない為に僕が居るんだから、いつだって頼るんだよ』 『有難う、お兄ちゃん……』 ワインを口に運びながら、そんな会話をしたのだから、変に酔って、頭に残ってしまったのだ。 思い出した会話に見え隠れしている強がりの気持ちも、気が付かないことにして、目を瞑った。それでも前に進むしかないのだから。 ……起きよう。目覚ましはまだ鳴らないけれど、こんな時は起きてしまうに限る。身体を起こして、さて今は何時なのかと時計を見ると、七時半。−−七時半?! 「やだっ」 早起きどころじゃない、寝坊だ。慌ててベットから飛び出ると洗面所に駆け込む。朝食は勿論抜きで、急いで洗顔類を済ますと手抜きメイクに掛かる。余分なことは全て省いて、いかに支度の時間を短縮するかを頭の中でフルスピードで段取る。 玄関に立った時には全身手抜きの姿だったが、朝一の会議以外は特別な仕事はなかったはずなので、良しとする。今なら早足と駆け足を混ぜれば、何とか始業ぎりぎりに間に合う電車に乗れる。気合いを入れて、ベランダから持ってきたビンカン類を片手に家を出ると、階段を駆け下りた。 マンションの横手をちょっと入ったゴミ置き場に持っていたカンを捨てようとして、顔から血の気が引いた。ビンカンを入れるカゴがない。そして置いてあるのは新聞や雑誌の山。 呆然とする頭の中に、昨日の冴木くんの言葉が蘇る。 『第三週目だけはリサイクル品なんです』 確かに、そう聞いた。そう頭にもインプットした。でも、持ってきてしまったのは不燃物、カン。 どうしよう。戻っている暇はないし、でも、このゴミをここに置いていく訳にはいかないし。ああ。焦れば焦る程、何の考えも浮かばない。もう、遅刻するしか……。 「−−さん。そこ置いておいて良いですよ。俺が引き取っておきますから」 頭上から名前を呼ばれて、マンションを見上げると、少し先のベランダに冴木くんの顔が見えた。 「冴木くん……」 「急いでるんでしょ?大丈夫ですよ。すぐに引き取っておきますから」 再度、繰り返して貰って、ようやく頭の中に言葉が入ってきた。迷う暇もない私は、すぐさまその申し出に乗らせて貰った。 「ごめん。有難う、冴木くん。申し訳ないけれど、お願いします。帰ってきたら引き取りに行きます」 ペコリと二階の冴木くんに頭を下げると、とりあえず脇の方にゴミの袋を置いて、駅に向かって走った。目の端で、ひらひらと手を振る冴木くんが見えたような気がした。 『有難う。ごめんなさい。帰ったらすぐに引き取りに行くから』 心の中で呟きながら、とにかく駅まで走った。 † 通りを勢いよく走っていくさんの後ろ姿を見送ってから部屋に戻ると、約束したとおり、すぐにゴミ置き場に向かった。 二階の窓越しでも判る程、顔色を変えたさんの顔を思い出して、笑みが零れる。あれは正しく『しまった』という表情で、彼女の頭の中を巡る言葉まで判る気がした。寝坊でもしたのか、元々かなり急いでいたんだろう。朝、普段は聞こえない部屋を駆けるような足音が上から響いてきたから、どうしたんだろうとは思っていたのだ。 ゴミ置き場の脇に残された袋の中身はカン類らしく、カラカラとした音を立てた。そんなに量がある訳でもないし、どうしても今日捨てなければいけないものでもなさそうなのに、捨てようとしたのは律儀なのか、思いこみなのか。 彼女らしい気がして、口許が緩んだ。 夕刻、七時過ぎに、玄関のチャイムが鳴った。魚眼レンズを覗くと思った通りさんで、そのまま扉を開けた。 「−−お帰りなさい」 「あ、ただいま。えー、今朝は本当にお世話を掛けました。ゴミを引き取りにきました」 さんは頬を赤らめながら、深々と俺に向かって頭を下げる。 「これ、良ければ食べて下さい」 差し出されたのは名の知れたお菓子の店の袋。 「そんなに気を遣わなくて良いですよ。お隣……じゃなくて上下なんですから」 「上下だからこそ、こういうことはきちんとしなくちゃ。というか、本当に今日は助かったので、これはその気持ち。冴木くん、甘いもの大丈夫だよね」 「大丈夫ですけど……。では今回は有難く頂きます」 さんの手から袋を受け取って頭を下げ、改めて彼女に笑いかけた。 「で、よければ中でお茶でもどうですか?」 「え……」 「美味しいの、入れますよ」 このまま帰す気にならず、誘いの言葉を掛けると、少し考えるように首を傾げると悪戯っぽく笑った。 「んー、それじゃあ御馳走になっちゃおうかな」 「どうぞ」 リビングダイニングに案内すると、間取りは変わらないだろうに、珍しそうにさんは周りを見回した。 「私の部屋と全然、雰囲気が違うのね」 「部屋はインテリアで変わりますからね」 キッチンでお湯を沸かしながら声を掛ける。 「適当に座ってて下さい」 「あ、うん。有難う」 貰ったパイ菓子を開けて菓子盆に盛ると、先に持っていった。 「頂いたものですが」 「ごめん。気を遣わないで、ってお邪魔してて言う台詞じゃないわよね」 ダイニングテーブルに着いていたさんの前にお菓子を置いて向かいに座る。 「会社は間に合ったんですか?」 「お陰様で、間に合いました。うっかり寝過ごしちゃって焦ってたから、昨日わざわざ冴木くんに注意して貰ったのに、もう頭からすっ飛んじゃって、カンを持って行っちゃったのよね。冴木くんに声を掛けて貰わなかったら、どうなっていたことか」 目を瞑って溜息を漏らすさんに軽く返した。 「お役に立てたようで良かったです」 「昨日、お兄ちゃんに、近所だからって迷惑を掛けないように言われたばかりなのにね。あ、もう全くお兄ちゃん、冴木くんの家、覚えていなかったみたい同じマンションだって言ったら驚いてた」 くるくる変わる表情が煩くないのは、付随する声が柔らかく、落ち着いているからか。肩を竦める仕草に違和感がなく、白川さんとの関係が推測できて可笑しかった。 「まあ、普通は驚きますよね。和谷あたりに言ったら“ズルイ”とか言われそうだけど」 「あはは」 キッチンからお湯が沸いた気配がして、断って席を立った。 「さん、珈琲と紅茶どちらが良いですか?」 「どちらでも。冴木くんの好きな方で」 さんから選択を任され、ちょっと値の張る珈琲を一昨日開けたばかりだったから、そちらを選んだ。 「ん、じゃあ、珈琲にしますね」 ドリップで珈琲を落とす。部屋に独特の香りが広がっていくのに、さんの良い香りと呟く声が聞こえた。 「−−少し待って貰えますか」 「うん。お願いします」 珈琲が抽出されていくのを見守っていると、ダイニングから声が掛かった。 「冴木くんは今日はお出掛けはなかったの?」 「ええ、今日は仕事は入っていなかったので、一日、部屋の掃除をしていました」 「あら。冴木くんなら、そんな一日掛けてするほど、部屋を汚したりしないんじゃない?」 「まあ、そんな汚くはしないですよ。でも、洗濯ものとか溜まったり、ふだん出来ないところをしたりとかあるでしょう」 「そうなのよね。普段ちゃんとやってても、すぐに埃が溜まるとことかあるのよね」 二人分プラスαの珈琲がサーバーに落ちると客用のカップに注いで、お盆にミルクと砂糖と乗せてダイニングに戻った。 「お待たせしました」 「御馳走になります」 そう言って口にカップを運ぶさんを見るともなしに見守った。 「美味しい」 にっこり笑って俺を見た彼女に、笑みを返す。 「良かったです。美味しいお茶を御馳走すると言った手前、ちょっと不安だったんですよ」 「ふふ。手間隙掛けてくれたものが美味しくない訳ないから」 打てば響くように返ってくる会話はたわいなく、一緒に居ても楽だった。一時間ほど経った頃に、壁の時計を見たさんは慌てて、退去を口にした。 「−−ごめんなさい。こんな長居しちゃって。ちょっとのつもりだったのに、持ってきたパイもぱくぱく食べちゃうし。今日は一日、本当にお世話になりっぱなしで」 「気にしないで下さい。美味しい珈琲用意していますので、また寄って下さい」 「有難う、冴木くん。今度、うちにも来てね」 玄関に向かうと、置いておいたカンの袋をさんは持ち上げた。 「きっと二度と忘れないと思う。第三週目がリサイクルの日だってことを」 「また今日みたいなことがあった時は、大声で呼んでくれれば、引き取りに行きますから」 「うー、それってみっともなくない?」 「少し」 眉を顰めて上目遣いに訊いてくるのにそう答えると、さんは拗ねたように、二度としない、と宣言した。その様子に堪えきれず、ついつい声を出して笑ってしまった。 「冴木くんて、笑い上戸なのね」 「あはは、よくそう言われます」 「まあ、泣き上戸よりか良いけど」 ふくれっ面をして靴を履いたさんを、まあまあと送りだす。 「お休みなさい。階段一個分だけど、気を付けて」 「有難う。冴木くんも明日の手合い、頑張ってね」 歩き出す前に、柔らかい笑みを浮かべて言った彼女の言葉に虚を突かれ、何も返せずにさんの後ろ姿を見送ってしまった。 『手合い』という言葉を知っていたこともだが、明日が手合いだと言った覚えもないのにそう言った彼女に驚いた。白川さんの従妹だから、知っていても不思議ではないけれど、何とはなしに彼女の人となりが、気になった。 |
一応、予定通りに進んではいるんですけれど、長く間が開いてしまった所為か、なんとなく雰囲気が違ってしまったような…(汗)。気の所為、だといいのですが…。 20040128 |