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幸福論改訂  +++++ 4
  †

 引っ越して二ヶ月弱。もうゴミの日も間違えないし、生活のリズムも掴めてすっかり落ち着いてきた。何事も起きないし、週に一度の報告もそろそろ止めても大丈夫じゃないかと従兄に話そうかと思う。いまは二回に一回は、元気な和谷くん達とご飯を食べて帰るだけだから。
 冴木くんと同じマンションなのは早々にみんなの知るところとなり、冴木くんの予想通り、彼は和谷くんから『ズルイ』との抗議を受けたそうだ。和谷くんみたいな弟がいれば楽しいと思う。正義感が強くて、姉の間違ったことをきちんと間違っていると指摘してくれて、そして正しい道を教えてくれる。そんな弟がいたら良かったと思う。まあ、無いもの強請りをしてもしょうがないけれど。



「−−それじゃあ、また来週。冴木くん、ちゃんをお願いしますね」
「はい。ちゃんと送り届けますから」
 みんなでご飯を食べた後、お店の外で二手に分かれる。車派と電車派。一緒に食事をした時は同じマンションに帰るのだからと、私は冴木くんの車に乗せて貰うようになっていた。
「ご馳走様、お兄ちゃん。和谷くん、進藤くんも気を付けて帰ってね」
さんもねー」
「バイバーイ」
 駅への道を辿る三人に手を振ると、私と冴木くんも駐車場へと向かった。彼の車は旧型ビートルで、今の普通の車しか乗ったことがなかった私には目新しかった。彼に言わせると、手間が掛かって仕方がないそうだが、そう言いながらも表情は楽しそうで、車が好きなんだとすぐに分かった。手の掛かる彼女を困った奴だと口では言いつつ、実はそんなところが可愛くて仕方がない彼氏のようだと、一度、従兄と笑いながら話したことがある。
そんな愛車に乗せて貰うのは楽しい。色々と発見がある。
 冴木くんは助手席の鍵を開けると、ドアを開いて私を先に乗せてくれる。
「どうぞ」
「有難う」
 注意深くドアが閉められ、反対側から冴木くんが乗り込んでくる。
「では、出発しますね」
「うん。お願いします」
 カーラジオから流れてくるのはいつも洋楽で、エンジン音と相まってBGMにしかならないからだと最初に聞いた。疲れている訳でもないのに、今日は何故か口数が減って先程から会話が途切れ、そのBGMが心地良かった。
 窓越しの、沢山のテールランプと聞こえない夜の喧噪が透明な膜になって、現実感が薄れていく。冴木くんも口を噤んだまま、丁寧な運転で慣れてるだろう帰途を辿る。始終動く右手は何かの機械を見ているようで、所作が綺麗なんだと今更ながらに気が付いた。
「−−眠かったら寝てて下さい。着いたら起こしますから」
 冴木くんのいつもよりトーンを落とした声がBGMに溶け込みながら、耳に届く。
「有難う」
 前を向いたままの冴木くんに見えないのは判っているけれど、小さく口許に笑みを掃いて答えた。そしてそのまま、また会話は途絶える。それでも車内の空気は穏やかで沈黙は心地よく、私は何も考えず、ただ目の前を過ぎていく光の映像を見ていた。
「−−眠くないですか?」
「うん。眠くはないわ」
 少しも眠る気配のない私を見て取ってか、笑いを含んだ声で冴木くんが訊いてきた。私は柔らかい気持ちのまま答える。
「じゃあ、催眠術に掛かる一歩手前の心持ちでしょう」
 催眠術を掛けて貰ったことはないけれど、言っていることはよく分かった。
「ああ、そんな感じ」
 内部はふわふわとしているのに表層は醒めているような、柔らかく心が安定している状態。
「どうして分かるの?」
「ん、俺も同じような状態ですから」
「冴木くんも……」
 この状態を二人で共有していると思うと不思議な気持ちになる。
「でも危ないんですよ」
 ぽつりぽつりと交わされる言葉。
「何が?」
「運転中のこんな状態を“白昼夢”って言うんですよ。
何か考えているんではなくて、頭の中をとりとめのないイメージに支配されていて、事故を起こしやすい状態」
 言わてみれば、このどこか現実感の乏しい感じは運転してると危ないかもしれない。ゆっくりと話しながら正面を向いて車を操る冴木くんの横顔を見る。
「漫然運転とも言われますけどね」
 小さく笑ってから、ちらりと私の方を見た。
「じゃあ、いま危ない状況にいるんだ、私」
 くすりと笑って確認すると、冴木くんも笑いながら訊いてきた。
「そうですね。どうしますか?」
 事故を起こしそうな車に乗っている。でも、まあ、その時はその時。人間誰しもいつかは死ぬんだし、出来るなら、苦しまずに死にたいから。
「うーん、でも今は気分が良いから、良いわ」
「気分良いからですか?」
「でも、事故起こす時は即死の事故にしてね」
「判りました。出来るだけ人の迷惑にならないようにして、派手に事故ります」
「うん。お願い」
 くすくす笑いながら、私も冴木くんが見ているだろう光景に目を向ける。いつの間にか車の中の空気は変わっていて、前と同じようにカーラジオが占拠しているけれど、穏やかな沈黙はゆりかごの心地よい波ではなく、楽しい気分を伴っていた。
 あんなことを言っても、冴木くんは助手席に女の子が乗っていたら99%、事故を起こさないだろう。ここぞという時は信頼して大丈夫な人。そういう人だと感覚が、無意識が知っている。いつものように安心して私は助手席に身体を埋めた。

 駐車場に車を止めると、二人揃ってマンションのエントランスを入っていった。みんなで食べて帰るといつも夜遅くなり、たった一階だから大丈夫だと言っても、冴木くんは従兄にも言われているし、たった一階なのだからと、必ず家の前まで送ってくれる。今日もエレベータのボタンは三階を押されただけだった。
「送ってくれて有難う。お休みなさい」
 玄関の扉を開けて、冴木くんに言う。
「お休みなさい、さん」
 冴木くんは私が扉を閉めて鍵を掛ける音がするまで、見守っていてくれる。だから私は申し訳なく思いつつも、冴木くんを見送ったことがない。扉を閉めて鍵とチェーンを掛けると、魚眼レンズを覗いて彼の姿が消えるのを見る。踵を返した冴木くんに、届かない部屋の中からもう一度、お休みなさいと声を掛けた。





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もう一話、軽い話を入れてみました。次こそは話が動く予定です。
今回は冴木くん良い男ぶりを目指してみましたが、どんなものだったでしょうか…。                                 20040201

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