幸福論改訂 +++++ 10 | |
† 「俺はさんが好きです。付き合って貰えませんか?」 その言葉が耳に入った瞬間、頭の中は驚きと狼狽で占められた。冴木くんがそんな風に思ってるなんて想像をしたこともなく、ただ驚いて、そして自分の中に返せるだけの答えがなくて焦るだけだった。どうやったらこの場を切り抜けられるか考えようとしているのに、動揺で頭は空回りする。 走り出した車の中は沈黙が続いてラジオから流れてくる聞き取れない洋楽が耳に痛み、何か言わなくてはととにかく言葉を引っ張り出した。 「あ、えーと、あの、冴木くん……」 それでもすぐに言葉は費えて、再び訪れるかと思われた沈黙は彼によって払われた。 「無理にいますぐ答えなくて良いですよ。急に言われてもさんが答えられないの分かっていますから」 「冴木くん……」 柔らかい声は優しい言葉を紡ぎ、私は狡いことに心の底から安堵した。 「一月後、答えを下さい。その前に答えが出ても、一月経つまでそのまま仕舞っておいて下さい」 視界の端で、前を向いたままの彼を見る。穏やかな表情を浮かべる横顔は私の心情のままに知らない人のもののように目に映った。 「着きましたよ、さん」 気が付くとマンションの駐車場に入っていくところだった。いつのまに、と思う心と一緒に、気不味さを拭い去れない空間から解放されることにほっとする。 ゆっくりと車が止まると、彼へと向かい、有難うと伝える。冴木くんは少し困ったような表情を浮かべて笑った。 「どういたしまして。ねえ、さん。一月後までは今まで通りにしていて下さいね」 一月後の答えがどうであろうと、その日まではこのまま。その言葉は酷く優しいものに聞こえて、私は一も二もなく同意した。 「冴木くん……。うん、そうね、そうする」 軽く目を閉じて彼の想いを頭の隅に追いやると、彼の優しい言葉に甘える謝罪を込めて、彼に笑いかけた。 「今日も部屋の前まで送って貰える?」 「勿論、そのつもりですよ」 熱いお風呂の中に身体を沈めて、大きく息を吐いた。熱い湯がじんわりと皮膚に染みこんでくるのが気持ち良い。足のつま先まで思い切り伸ばして一気に力を抜くと、軽く浮く身体の伸びた筋を感じながら、湯気の中、浴室の壁を見上げた。 冴木くんは大事な友人だ。従兄の弟弟子ということではなく、今はもう従兄の介在無しの関係になっている。優しくて気が利いて、人の機微に聡くて、居心地を良くしてくれて、友人としては最高の人だ。 私の持論、きちんとしたタラシな人、そのまま、いや、それ以上で、だから好きになるつもりなんてなく、そういった括りにも入れなかった。それよりももっと大切な、一生ものの友人にしたかった。 でも、彼の中では私は違ったらしい。 それは女としては嬉しいけれど、全てをひっくるめたとしては嬉しいのかどうか、分からない。 いつからだろう。私は彼の言葉を聞くまで少しもそのことに気が付かなかった。 あの人と別れた時に慰めてくれた時には、そんな感情はなかったように思う。あの時の彼のキスには存在の意味合いだけで、恋情は欠片もなくて、ただ優しくて、私はそれに涙を拭う切っ掛けを得られるほど慰められた。 それならいつから?どうして? お湯の中に右腕を落とすと、浴室に水音が響いた。ずるりと右に身体を向けて浴槽の縁に腕と顎を乗せると、目を瞑った。 そんな風に彼の心情を想像するのは、今の関係を壊そうとする彼に対する私の身勝手な憤りからだ。そして、先程から凍結させている自分の感情を見ないようにする為。 多分、彼に求めている答えは返せない。そんな気がする。そうしたら、きっと、もう今のままではいられない。答えるまでの一月が最後、かもしれない。 そう行き着くと、無性に悔しくて、冴木君が憎らしく思えた。どうして彼は変わってしまったんだろう。 好きなのに。彼と一緒に居たいのに。失くしたくないのに、どうして手を離さないといけないんだろう。男と女と、それぞれの友情に対する定義が違うから異性間に友情は成り立たないけれど、恋情になることの出来ない情愛は存在すると思う。どうして、私と彼の間の想いは、それに止まれなかったのだろう。 思うようにならない感情を恨めしく思いながら、それ以上を考えたくなくて、勢いよく湯船から上がると、私は猛然と髪の毛を洗い始めた。 友人と飲んで微酔い気分で駅からの道を辿る。こんな時でも考えるのは冴木くんのことだった。 ここ十日程、冴木くんと顔を合わせていない。避けてるつもりは、多分無い。冴木くんのことだから、私に言ったように何事も無かったかの顔をして生活しているはずだから、彼が避ける訳もなく、ただ単に会わないだけなんだと思う。今までも偶然会うことなどは少なくて、電話をしたり来たりしない限りは、十日や二週間、会わないことだってあった。だから何も気にする必要はないのに、毎日、偶然会えるよう、会えないよう祈ってしまう。 そんな自分が嫌で鬱憤晴らしをしようと友人を誘って飲みに行った。飲んでいる時は忘れられたけど、こうして一人で歩いていると、どうしても考えてしまう。冴木くんが傍にいた時のことを。一日一日近付いてくる彼を失くすだろう未来を。 マンションの傍まで辿り着くと通りから建物を見上げる。僅かに見える彼の部屋は暗いままのようだった。まだ帰っていないのか、それとももう寝ているのか。帰ってくる度に確認する私は何なんだろう。答えるつもりのない問い掛けを自らに投げると、頭をふるりと振ってエントランスへ足を踏み入れた。 会いませんように、会えますように。 どうしようもない二律背反にいらいらして唇を噛み締めた。 誰にも会わずに部屋まで辿り着いて、溜息と一緒にドアを開ける。鍵を閉め、冴木くんに何度も注意されたようにすぐにチェーンをすると、玄関の電気のスイッチを入れた。 「……あ」 電気を点けた筈なのに、辺りは暗いままなのに嫌な予感がする。二三度、スイッチを入れても明るくならない。やはり電球が切れてしまったらしい。予兆も何もなく切れる電球を恨めしく思いながら、暗闇の中で、靴を脱いでリビングに向かう。また冴木くんにお願いしなくてはと何の気なしに思って、そのことに気が付いた。 −−もう、冴木くんには頼めない。 ようやく『関係が変わる』意味を理解して、私は呆然と立ち尽くした。 今まで何の気なしに冴木くんにお願いしていたことは、してはいけないことになってしまうのだ。電球の付け替えも、買い物の分け合いや、お茶の誘いや夕飯の招待や、あれだけ女性の自己防衛を頭に入れている彼だから、部屋に二人きりになるようなことはきっと受けてくれない。その前に、私が誘ってはいけないことになるのだ。 ちょっと困った表情で口許に笑みを浮かべながら断る冴木くんの顔が頭に浮かぶ。 ただの同じマンションの住人。顔を合わせたら挨拶して、時々はどうでもいい立ち話をする、それだけの関係。従兄に会いに研究会の日に行って、一緒に食事をしても従兄の弟弟子というだけの関係。 そんな関係になってしまうなんて、口惜しくて歯痒くて、胸の中が不穏なもので混ぜ返る。 彼と顔見知りの仲に戻るだけなのに、どうしてこんなに苦しい気持ちにならなきゃいけないんだろう。どうしてこんな喪失感に怯えなきゃいけないんだろう。どうして目の前が歪んで見えるんだろう。 どうして……。 ずるずると壁伝いに暗い廊下に座り込むと、膝を抱え込むように蹲って目を強く、瞑った。 |
この度はお騒がせしました(深々)。無事、10話のUPです。 ヒロイン悩み中です。友情なのか愛情なのか、逃げずにきちんと見極めて欲しいなぁと思うのですが。 20040528 |